第6話 隠された「国の赤字」と巨大な影
財務局の夜は、昼より静かで、昼より危険だった。
役人たちがようやく帰った廊下には、紙の匂いだけが残る。灯りは落とされ、巡回の靴音が遠くで反響している。私の机の上には、今日“鎮火”できなかった案件の束――その一番上に、あの資料があった。
軍需関連の支出。
金額が大きいだけなら珍しくない。けれど摘要が曖昧で、添付資料欄が空白。しかも、番号の振り方が他と違う。まるで別のルールで動いているみたいに。
(隠したい人は、例外を作る。例外は必ず歪む)
私は魔導板を立て、支出一覧を月別に流し込みはじめた。宰相直属の補佐官、という肩書きが一番役に立つのは、こういうときだ。閲覧権限が増える。つまり、地雷にも近づける。
入力が進むにつれ、数字が輪郭を持つ。
軍需費の中でも、突出して増えているのは「輸送補給費」。兵の数はここ数年、ほぼ横ばい。補給量が急増する合理的理由がない。にもかかわらず、支出だけが倍近くに膨らんでいる。
私は思わず呟いた。
「……兵士が増えてないのに、胃袋だけ増えるわけないでしょ」
次に、支払先の商会名を並べた。すると、見慣れない名前が頻繁に出てくる。しかも住所が全て同じ区画に集中している。王都の外れ、倉庫街――紙上の会社が作られやすい場所だ。
(同じ匂い。クロムウェル領のルミエール商会の時と同じ。違うのは規模だけ)
私は“ある指標”を作った。
月ごとの輸送補給費 ÷ (兵站拠点の稼働数)
拠点の稼働数は、軍の別資料から拾える。これを割ると、突如として跳ねる月が三回あった。
その三回に共通するもの――支払先の一つが、必ず入っている。
『グレイヴ輸送組合』
聞いたことがない。輸送組合なら許認可が必要だ。登録簿にあるはず。
私は椅子を引き、立ち上がった。夜半の財務局で独り歩くのは本当は避けたい。でも、こういう“ズレ”を見つけたら、止まれないのが私の悪い癖だ。
書庫は地下にあった。湿った石の匂い。鍵を開けると、記録の束が眠っている。私は登録簿の棚を探し、輸送組合の一覧をめくった。
――ない。
「ない、か」
その瞬間、背筋に冷たいものが走る。存在しない組合に、国家予算が流れている。
横領。架空請求。あるいは――もっと大きい何か。
私は足早に宰相執務室へ向かった。あの人の灯りは、今日も消えていないはずだ。
扉をノックすると、すぐに低い声が返ってきた。
「入れ」
サイラスは机に向かったまま、視線だけで私を迎えた。相変わらず整いすぎた横顔。だけど、昨日より影が濃い。眠っていない顔だ。
私は資料を差し出した。
「宰相閣下。軍需費に異常があります。輸送補給費が、兵站拠点の稼働数と比例していません。支払先に存在しない輸送組合が混ざっています」
サイラスのペン先が止まる。彼は紙を受け取り、目で走査した。速い。冷たい。迷いがない。
「……“グレイヴ輸送組合”」
「登録簿にありません。許認可もない。つまり幽霊です」
「金額は」
「この三回だけで、金貨にして――」
私は魔導板の計算結果を見せた。桁を読み上げると、部屋の空気が一段重くなる。領地一つの立て直しどころではない。国家の血液が抜かれている量だ。
サイラスが初めて、ほんの僅かに眉を寄せた。
「……国庫の赤字が、帳尻だけ合っている理由はこれか」
「帳尻を合わせるために、別の穴を掘っている。典型です」
サイラスは立ち上がった。
「資料の原本を確認する。来い、レティシア」
「今からですか」
「今だ」
返事は短い。けれど、その声に“緊急”が混じっている。氷の宰相が焦りを見せるときは、本当に危険なときだ。
私たちは地下書庫へ降りた。護衛は付けなかった。付ければ、その護衛が“誰の側か”という問題が発生する。サイラスもそれを分かっている。
書庫で原本を引っ張り出し、支払伝票の束を開く。
添付資料は……ある。だが、空白だったはずの欄に、後から貼り足した紙がある。筆跡が違う。紙質も違う。封蝋の押印位置も不自然だ。
(偽造。しかも慣れてる)
私は伝票番号の並びを追った。すると、ある規則が浮かび上がる。
通常の支払伝票は、年度と月で連番管理されている。ところが問題の伝票だけ、別の連番体系――“第七補給廠”というコードを冠している。
「……第七補給廠?」
私が呟くと、サイラスの目が細くなった。
「存在しない。軍の補給廠は第一から第五までだ」
「じゃあ、このコードは――偽の部署を装って、財務局の審査をすり抜けるための鍵です」
私は一枚の伝票を指で叩いた。
「ここ、承認印が二つあります。財務局の印と、軍務省の印。でも……軍務省の印影が僅かに浅い。押す力が弱い。つまり、正規の印章じゃない。模造です」
サイラスの手が止まる。
「……君は、印影まで見るのか」
「前世で何度もやりました。偽造は“完璧”に見せたがる。でも人は、完璧を維持できない」
私は魔導板に、支払先の住所を並べ、地図に落とした。集中している区画がある。そこに関連する別の商会名が浮かぶ。ルミエール――ではない。だが、代表者名が同じ姓だった。
「繋がってます。辺境の商会と、王都の幽霊組合が、同じ線で」
サイラスが低く言った。
「……内通者がいる。しかも高官だ。軍務省の印が使える位置に」
“位置に”。つまり、敵は下っ端じゃない。
その瞬間、書庫の奥で、かすかな金属音がした。
サイラスが私の肩を押して、背後へ回す。灯りが揺れ、棚の影が伸びた。
「動くな」
彼の声が、氷より冷たくなる。
次いで、空気が切れた。
何かが飛んできた。目に見えない速さ。私は反射で身を伏せる。棚の木が裂け、紙が舞った。
「……矢?」
「魔導矢だ」
サイラスの指先がわずかに光った。空気が凍るように冷え、床に薄い霜が広がる。次の矢が、霜の壁にぶつかって弾けた。
闇の中から低い笑い声が聞こえる。姿は見えない。気配だけがある。隠密の魔法だ。
「宰相閣下、後ろ!」
私は叫ぶより早く、棚の隙間から黒い影が滑り込んだ。刃が振り下ろされる――が、その瞬間、サイラスの霜の膜が刃を止め、金属音が響いた。
サイラスは私を庇ったまま、一歩だけ前に出る。
「出てこい」
返答はない。代わりに、灯りの魔石が一つ、ぱん、と弾けて消えた。暗闇が濃くなる。
(狙いは私? サイラス? どっちでも詰む)
私は視線を走らせ、足元に落ちたインク壺を見つけた。棚の上から転げ落ちたらしい。私は迷わずそれを掴み、闇へ向かって投げた。
ぱしゃり、と湿った音。
次の瞬間、空中に“輪郭”が浮かび上がった。黒い布にインクが散り、そこだけ闇が歪む。
「そこ!」
サイラスの手が閃く。霜が一気に走り、床から刺のように立ち上がる。影が跳ね退くが、足元が滑った。霜とインクの混ざった床は、逃げ道を奪う。
私は棚の側面に刻まれた小さな魔法陣――警報用の刻印に気づいた。書庫の安全機構だ。普段は使われていない。
(あってよかった。ブラック職場でも、最低限の安全管理はある)
私は指先で刻印を強く押した。魔力を流す必要があるなら? 知らない。でも、魔導板と同じで“反応する仕組み”なら押せば動く。
刻印が赤く光り、次の瞬間、書庫全体に鈍い鐘の音が鳴り響いた。
「ちっ」
影が舌打ちする。輪郭が棚の間を滑り、出口へ向かう。
サイラスが追おうとするのを、私は掴んで止めた。
「追わないで。罠です。今の目的は生存と証拠保全」
サイラスの瞳が、私を射抜いた。怒りではない。判断を受け入れるか、拒むかの一瞬の計測。
そして彼は、静かに頷いた。
「……正しい」
護衛の足音が上から降りてくる。灯りが戻り、書庫の惨状が露わになった。裂けた棚、散った紙、凍った床。インクの跡。
サイラスは深く息を吐く。その息が、かすかに震えている。ほんの一瞬だけ、氷の鎧が薄くなる。
「……君がいなければ、今ここで終わっていた」
言葉が低い。重い。仕事の評価としては最高だ。でも、その声には別のものが混じっている。
私は散らばった伝票を拾い集め、破れていないものを胸に抱えた。
「終わらせません。ここまで来たんです。国の赤字の穴、必ず塞ぎます」
サイラスが私の手元――伝票の束を見る。
「証拠は」
「あります。幽霊組合、偽の補給廠コード、模造印影。さらに支払先住所の集中。これだけ揃えば、公開監査に持ち込める」
「公開監査……」
サイラスが短く呟いた。夜会で貴族たちの前に叩きつける、あの手段。彼の瞳の奥で、計画が組み上がっていくのが分かる。
そのとき、私は気づいた。
逃げた影の足跡が、霜の上に薄く残っている。靴底の模様。軍靴――ではない。貴族用の、滑り止めの浅い意匠。しかも、片足だけわずかに外側が削れている。
(癖がある。歩き方に癖がある人間……この宮廷にいる)
私はその形を魔導板に記録した。数字だけでなく、こういう“ズレ”もまた、いつか犯人を縛る。
サイラスが私の肩へ手を置く。指先が冷たいのに、圧は確かだった。
「レティシア。今夜は私の執務室に来い。単独行動は禁止だ」
「それ、婚約者命令ですか。上司命令ですか」
「両方だ」
即答。ずるい。
私は小さく息を吐き、うなずいた。
「分かりました。――ただし条件。今夜は最低三時間は寝てください。倒れたら、私が困ります」
サイラスの視線が、わずかに揺れる。
「……交渉が上手くなったな」
「生存のために進化します」
鐘の余韻が残る書庫で、私たちは拾い集めた証拠を抱えたまま、互いの背中を確かめるように歩き出した。
国の赤字の穴は、想像より深い。
そしてその闇は、もう私たちを“殺しに来た”。
なら、次は――こちらが、数字で追い詰める番だ。




