第4話 不本意なヘッドハント
サイラスが去ってから三日後。
クロムウェル領主館に、王都の封蝋が届いた。財務局の黒印。しかも二重封。侍女が震える手で銀盆に載せて運んできたのを見て、私は先に溜息を吐いた。
「……来たわね。次の締切」
グレアムが喉を鳴らす。「お嬢様、もしや差押えの――」
「違う。これは“呼び出し”の匂いがする」
封を切る。中から出てきたのは、逮捕状でも差押え命令でもなく――分厚い、条項だらけの書類束だった。
表紙の文字を読んだ瞬間、私は固まった。
『雇用契約書(特別補佐官任用)』
『付帯条項:婚姻に関する合意書(政治的保全措置)』
……合意書? 婚姻?
「は?」
声がひっくり返りかけた。慌てて読み進めると、簡潔で冷たい文章が淡々と並んでいる。
・レティシア・ヴァン・クロムウェルを、宰相直属の特別補佐官として任用する
・財務局改革業務に従事させる
・契約期間は一年、更新あり
・報酬、住居、身分保障、護衛の付与
・クロムウェル領の差押えは停止、ただし改善計画の継続を条件とする
ここまでは理解できる。理解できるが。
付帯条項の最初の一行が、理解を拒否していた。
『当該任用に伴う政治的摩擦を回避するため、宰相サイラス・アールハルトとレティシア・ヴァン・クロムウェルは婚約関係を結ぶものとする』
「待って。待って待って待って」
私は紙束を机に叩きつけた。インク壺が揺れて、侍女が悲鳴を上げる。
「誰が婚約するって? なんで雇用契約に婚約が付いてくるの? 福利厚生が狂ってない?」
グレアムが恐る恐る口を挟む。
「お、お嬢様……宰相閣下と婚約とは……恐れ多いというか……」
「恐れ多いとか以前の問題よ。労働条件に私生活混ぜないで」
前世でも、職場で色恋沙汰が絡むとだいたいロクなことにならなかった。まして相手は国家の宰相。ブラックの化身みたいな男だ。私が求めているのは破滅回避であって、政略結婚イベントではない。
そのとき、玄関のほうで騒ぎが起きた。
重い足音。甲冑の擦れる音。空気が一段冷える感覚。
「レティシア・ヴァン・クロムウェル」
聞き覚えのある低い声。
扉が開き、サイラス本人が入ってきた。護衛を二名だけ従え、礼も省略して一直線に私の机へ視線を落とす。そこに広げられた契約書を見て、彼は当然のように言った。
「読んだか」
「読みました。……そして今、常識を探しています」
サイラスは椅子を引かずに立ったまま、淡々と告げる。
「逮捕状ではない。雇用契約だ」
「それは分かります。問題は“付帯条項”です」
私は合意書を指で叩いた。
「婚約って何ですか。ヘッドハントのついでに求婚までセットは聞いてません」
サイラスの眉が、ほんの僅かに動く。感情が動いたというより、計算が一つ増えた顔。
「必要だ」
「何に?」
「君の保護に」
即答だった。
「君は王都で断罪され、追放された。つまり貴族社会の敵を作っている。さらに今、君は財務局と商会の不正に踏み込んだ。敵は増える。君を宰相直属に置けば、反発が起きる。婚約関係にすれば、“私の管轄物”だと示せる」
管轄物。言い方。反射的に額が痛くなる。
「物じゃありません。人です。しかも私は自分の領地を立て直す途中で――」
「立て直しは続けられる」
彼は紙束を取り上げ、条項を一枚めくって指差した。
「ここだ。領地運営の継続を認める。代行者を立て、君は月次で監督する。必要な予算は、財務局が立替える。返済条件は領地の歳入から、無理のない範囲で」
私は目を細めた。条文は確かに合理的だ。合理的すぎて嫌な予感がする。
(契約書は、魔法より危険)
私は紙束を引き寄せ、黙って読み込んだ。サイラスの視線が刺さる。けれど、ここで目を逸らしたら終わりだ。私は前世で何度も学んだ。都合のいい契約は、必ずどこかに刃が隠れている。
そして見つけた。
「……ここ」
私は条項の一つを指でなぞった。
『機密保持義務は契約終了後も無期限に存続する』
「無期限はダメです」
サイラスが瞬きをする。「何が問題だ」
「無期限だと、私が領地に戻って改善策を共有するのも“機密”扱いにされかねない。実務上の縛りが過剰です。範囲と期間を明記してください」
護衛が目を丸くする。グレアムが息を呑む。宰相の契約書に、真正面から赤ペンを入れる女は珍しいだろう。私は続けた。
「あと、報酬。『宰相の裁量による』って何ですか。前世なら炎上案件です。固定給と成果給の基準を定義してください」
サイラスはしばらく沈黙し、次いで、ほんの僅かに口角を上げた。笑みというより、感心の角度だ。
「……君は、交渉ができるのか」
「できないと死ぬので」
私はさらりと言い返し、別の箇所に指を置く。
「それから、婚約条項。これも“政治的保全措置”なら、期間と解除条件が必要です。契約終了と同時に自動解除。双方の同意がなければ更新なし。ここは絶対」
サイラスの瞳が細くなる。冷たさの奥に、わずかな圧が混じった。
「更新なし、か」
「労働契約と同じです。自動更新は争いのもと」
少し間が空いた。
サイラスは、私の手元――インクで汚れた指先を見た。そこで不意に言う。
「君を、この田舎に腐らせておくのは国家の損失だ」
「国家の損失って言い方、やめてください。私の心が削れます」
「事実だ」
彼は契約書を取り返さず、私の修正を黙って受け入れた。むしろ、こちらへ筆を差し出してくる。
「書け。修正案を。私が承認する」
……承認するって、普通は法務がやるのよ。と喉まで出かかったが、相手が宰相なので飲み込んだ。
私は魔導板に条文の修正を打ち込み、紙に転写して付箋を付ける。範囲の定義、期間、解除条件、報酬の算定。作業を進めるほど、空気が“会議”から“レビュー”に変わっていった。
気づけば私は、契約書を“整えながら”受け入れる形を作っていた。
(……うわ。これがヘッドハントの手口)
サイラスが、静かに言う。
「君は王都へ来い。拒否権はある。だが、拒否すればクロムウェル領の契約問題は君一人で背負うことになる。商会はさらに手を伸ばすだろう」
脅しではない。事実の提示だ。仕事人間の冷酷な優しさほど厄介なものはない。
私はペンを置き、息を吐いた。
「……分かりました。条件付きで」
サイラスが頷く。「言え」
「第一に、領地の運営権を奪わない。第二に、私が作った内部統制の仕組みを壊さない。第三に、睡眠時間を最低――」
「却下」
即答。
「そこは交渉以前の人権でしょう!」
サイラスは表情ひとつ変えずに言った。
「王都の財務局は、今、燃えている」
最悪の単語が出た。燃えている。炎上。火消し。夜勤。修羅場。
「……不夜城って噂、本当なんですね」
「君なら鎮火できる」
「買いかぶりです」
「見積もりだ」
サイラスは私の修正案に署名し、封蝋を押した。その手つきは迷いがない。契約という枠で、人を動かすことに慣れすぎている。
「準備は一刻で済ませろ。王都へ戻る」
「一刻って、二時間ですよね。引っ越しを二時間で?」
「必要最低限でいい」
必要最低限。その言葉が、前世の上司の声で脳内再生された。私は頭を抱えたくなるのを堪え、グレアムを呼ぶ。
「グレアム。緊急の引き継ぎ。代行体制を組む。倉庫、徴税、霜蜜の流通。全部、手順書を今夜までにまとめて」
「かしこまりました……!」
使用人たちが走り出す。屋敷が、久しぶりに“動いている”音を立てた。
その夜。
私は最小限の荷をまとめ、魔導板と帳簿の控えを鞄に詰め、玄関に立った。外にはサイラスの馬車が待っている。黒い車体に、財務局の紋章。
グレアムが深々と頭を下げた。
「お嬢様……どうかご無事で」
「無事に帰る。ここは頼んだわ。月次の報告は、この形式で。数字が揃ってなかったら叱る」
「……はい!」
馬車の扉が開き、私は乗り込む。向かいに座るサイラスは、既に書類を読んでいた。夜道でも読めるよう、魔石灯が淡く光っている。
馬車が動き出す。
しばらく沈黙が続いたあと、私はぽつりと言った。
「……婚約、本当に必要ですか」
サイラスは紙から目を上げない。
「必要だと言った」
「形式だけですか」
「形式だ」
即答。なのに、次の一言が余計だった。
「ただし、他に渡すつもりはない」
私は思わず固まった。
「……それ、形式の言い方じゃないですよね」
サイラスは何も答えず、再び書類に視線を落とした。耳の先だけが、ほんの僅かに赤い気がしたが、暗がりのせいかもしれない。
王都の門が見えたのは、夜明け前だった。
高い城壁。無数の灯り。眠らない街。馬車が進む先にそびえるのは、宮殿ではなく――巨大な石造りの建物。財務局。
扉が開いた瞬間、紙とインクの匂いが押し寄せた。
廊下の両側に、積み上がる書類箱。机に突っ伏す役人。目の下に隈を作ったまま走り回る補佐官たち。どこかで誰かが呻き、どこかで誰かが怒鳴っている。
(……ここ、地獄の支店だ)
サイラスは私を振り返り、淡々と言った。
「ここが君の職場だ。――レティシア、火を消せ」
私は笑うしかなかった。
「はいはい。まずは現状把握と棚卸しからですね。……で、どこに“帳簿”がありますか」
こうして私は、領地の命運と引き換えに、王都財務局という不夜城へ“連行”された。
破滅フラグを折るための戦場は、辺境から国家へ拡大する。しかも、氷の宰相付きで。




