第3話 氷の宰相は「数字」に恋をする
報告書を王都へ送ってから、八日。
クロムウェル領主館の廊下は、久しぶりに“仕事の匂い”がしていた。倉庫では入出庫の印章が二重化され、徴税担当は二人体制に改まった。霜蜜の樽は規格が揃い始め、荷車の積み込みも明らかに速くなった。
――だからこそ、今朝の不穏な気配が余計に刺さる。
「レティシア様。王都より……監査の使節が到着いたしました」
グレアムの声が固い。背後の侍女たちは顔面蒼白だ。
監査。つまり、国が“差し押さえるかどうか”を決めに来たということ。
「何人?」
「護衛込みで二十名ほど。……それと、先頭の馬車に、財務局の黒印が」
黒印。噂だけは知っている。財務局直属の監査班――そして、その頂点に立つ男の印。
(来るわけないでしょ。こんな辺境に)
そう思ったのに、玄関の扉が開いた瞬間、その希望は綺麗に折れた。
黒と銀の礼服。無駄のない所作。冷たい空気をまとった若い男が、護衛を従えて入ってくる。髪は黒に近い紺、瞳は氷のような灰青。視線が刺さるだけで、背筋が正される。
「クロムウェル領主代理、レティシア・ヴァン・クロムウェルだな」
名乗りはない。けれど、使用人たちが一斉に息を呑んだ。
――氷の宰相。若き天才宰相、サイラス。
私は深く礼をした。貴族式のそれを、必要最低限、正確に。
「お越しくださり光栄です、宰相閣下。監査の件、承っております」
サイラスは感情のない目で私を一瞥し、言い放つ。
「光栄は要らない。帳簿と契約書、そして現金の残高。すべて提示しろ。虚偽があれば、その場で差押えを執行する」
空気が凍った。侍女が小さく震え、グレアムが前に出かける。
だが私は、内心で小さく頷いていた。
(よし。話が早い。曖昧な社交より監査のほうが好き)
「承知しました。こちらへ。作業部屋を用意しています」
「作業部屋?」
「監査対応用です。長丁場になりますから」
ほんの一瞬、サイラスの眉が動いた。“辺境の浪費令嬢”の口から出る単語ではない、と言いたげに。
私は彼を私室の隣に設えた部屋へ案内した。机を二台並べ、台帳を年度別に揃え、契約書は取引先ごとに束ねてある。魔導板は予備を含め三枚。照明用の魔石も用意済み。
前世なら「監査室」だ。
サイラスは無言で席に着き、私が差し出した一冊目の台帳を開いた。ページをめくる速度が速い。読みながら、同時に疑っている人間の目だ。
しばらくして、彼の手が止まる。
「……改善報告書。これは、君が作成したと聞いたが」
「はい。第一次の止血策と、三か月の資金繰り、流通コスト削減案、それから内部統制案まで入れました」
「内部統制……?」
その単語に、監査班の数名が顔を見合わせる。サイラスだけは、報告書の紙面をじっと見つめ、何も言わない。
沈黙が長い。胃が痛くなる沈黙だ。
(大丈夫。数字は裏切らない。裏切るのは人間だけ)
サイラスは報告書を閉じ、私を見た。
「この形式は、財務局の標準に近い。だが、君の領地にその様式があるはずがない」
「ないので作りました。必要だったので」
「……なぜ」
私は息を吸って、淡々と言った。
「国が見る数字と、領地が回す数字が違っていたら、意思決定が遅れます。遅れれば倒れます。倒れたら、私は死にます」
サイラスの視線が一段、鋭くなる。だが怒りではない。むしろ、刃物を光にかざして材質を確かめるような、静かな興味。
「死にたくないから帳簿を作った、と?」
「ええ。あと、領民も死なせたくないので」
一瞬、監査班の誰かが息を止めた気配がした。貴族が口にしない種類の言葉だからだろう。
サイラスは再び報告書を開き、ある箇所で指を止めた。
「……税率計算」
その声の温度が、さらに下がる。
「今年から施行された新税制は、作物別、加工別、輸送距離別に補正が入る。財務局の役人でも、正確な算定に数日を要する」
彼はページを指先で叩いた。
「ここには、村ごとの見込み税額が、誤差なく記載されている。しかも、例外条項の適用まで含めてだ」
私は微笑んだ。ここが、この男の“刺さるポイント”なのは分かっている。
「確認しますか?」
サイラスが初めて、わずかに目を細めた。
「……やってみせろ。今ここで」
監査班がざわつく。だが私は立ち上がり、魔導板を彼の前に置いた。
「霜蜜。加工品扱い。輸送距離は王都まで四百二十キロ。免税枠は村ごとの自家消費分。例外条項は“冬季輸送困難地域の補正”が適用」
私は板に項目を並べ、数値を流し込む。作物コード、加工コード、距離補正、季節補正。最後に、免税枠を引いて課税対象を確定する。
監査班の一人が小声で囁いた。
「……数秘術か?」
私は内心で訂正する。
(数式です。関数です。テーブル参照です)
板の上で、光る文字が自動的に並び替わり、合計が出る。私はその結果を、紙の報告書の数値と照合した。
ぴたりと一致。
「以上です。計算過程も保存してあります。村長にも説明済み。徴税担当は二重チェックします」
サイラスは、しばらく結果を見つめていた。次いで、彼は監査班に短く命じる。
「任意の村を三つ選べ。税率計算を、別手段で再算定。誤差を確認しろ」
監査班が慌てて動く。彼らの手元の計算は遅い。紙と珠算、魔術補助の算盤。私はその横で、契約書の束を開いた。
(次は担保条項。ここが本丸)
ルミエール商会との契約書。前払金。担保。遅延損害金。小さな文字で仕込まれた“複利”の条項。
私は、そこに指を置いた。
「宰相閣下。ここ、見てください」
サイラスが視線を落とす。私が指したのは、遅延損害金の算定方式。表向きは年利、実態は月次の複利。返済が一日遅れるだけで、雪だるま式に膨らむ。
「この条項のままだと、返済しても元本が減りません。領地を担保に取るための設計です」
サイラスの目が、さらに冷たく光った。
「……誰がこれを結んだ」
「前の代官です。今は権限停止、身柄も確保済み。ですが問題は“契約が生きている”こと」
私は続けた。
「財務局の通告の“担保条項”は、この契約を前提にしていますよね。つまり、領地没収は“こちらの怠慢”じゃなく、“相手の仕込み”で加速する」
サイラスは契約書を掴み、読み込む。その指先に迷いがない。怒りを燃やすのではなく、冷静に刃を研ぐ人間の動き。
「……この商会は、王都でも手広い」
「ええ。だから、ここから先は領地だけの問題じゃありません」
私は言葉を選ばない。選んでいる時間が惜しい。
「私は領地を立て直したい。でも、国が腐った契約を放置したままだと、同じ罠に落ちる領地が増える。税収も落ちる。治安も悪化する。結果、国が損します」
サイラスの視線が、私の顔に戻る。氷のように冷たいはずなのに、その奥に火種が見える。
「君は、国家の損益で話すのか」
「仕事だからです」
言い切った瞬間、自分でも少し可笑しかった。前世の私は会社の損益で生き、死んだ。今は国の損益で生き延びようとしている。
サイラスは、私の袖口に視線を落とした。インクで少し汚れている。貴族令嬢の手元としては、最悪だろう。
だが彼は、不快そうにもしない。ただ、静かに言った。
「……君の手は、よく働いている」
その一言が妙に胸に落ちた。褒め言葉に慣れていない。前世では、働いた手は“当然”として扱われたから。
監査班が戻ってきた。
「宰相閣下。三村分、再算定しました。誤差……なし。完全一致です」
ざわめきが部屋を満たす。誰かが信じられないという顔をする。サイラスだけが、淡々と頷いた。
彼は報告書を閉じ、机に置いた。その音が、やけに重い。
「クロムウェル領の差押えは、当面保留する」
使用人たちの肩から、一気に力が抜ける気配がした。私は息を吐きそうになって、飲み込む。まだ終わっていない。
サイラスは続けた。
「だが、これは君が作った“仕組み”が機能し続けることが前提だ。止血はできている。しかし、国にとっての問題は、君の領地だけではない」
彼の視線が、契約書の条項へ落ちる。
「ルミエール商会の件、財務局が動く。正式な監査権限で調べる。――そして君には、追加の資料提出を命じる」
「もちろん」
即答すると、サイラスの口角が、ほんの僅かに動いた。笑みと呼ぶには薄すぎる。けれど確かに、無機質な氷が一瞬だけ、光を反射した気がした。
立ち上がった彼は、出口へ向かう前に振り返る。
「レティシア・ヴァン・クロムウェル」
「はい」
「君のような人材を、私は見過ごせない」
その声は冷たいままだった。なのに、言葉の意味だけが妙に熱い。
私は心の中で、仕事のアラートが鳴るのを感じた。
(来た。面倒な上司ムーブ。しかも国家規模)
サイラスは扉の前で立ち止まり、最後に言う。
「近いうちに、王都から正式な文書が届く。――逃げるな」
命令口調。けれど、その裏側に、確かな“確保”の意思がある。
扉が閉まったあと、ようやく私は肩の力を抜いた。グレアムが震える声で言う。
「……お嬢様。差押えが、保留に……」
「保留は猶予じゃない。次の締切が来ただけ」
私は机に残った報告書の控えを撫で、魔導板を抱え直す。
破滅フラグは、一本折れた。
でも、今度は別のフラグが立った気がする。
――氷の宰相が、こちらを見つけてしまった、というフラグが。




