第1話 過労死の次は、処刑フラグですか?
「……あ、これ、心臓止まったわ」
それが、前世での最後の記憶だった。
連日八十時間を超える残業。机に積み上がる請求書。鳴り止まない内線。上司の「今日中に、なるべく早く」。なるべく早くって何だ、今この瞬間か。そう思いながら、私は半分ちぎれた集中力で数字を追いかけていた。
意識が遠のく中、最後に視界へ刺さったのは、バグだらけのExcelシート。参照先のセルが狂って、どこを直しても合計が合わない。まるで今の人生そのものみたいで、笑う気力すら湧かなかった。
そして次の瞬間。
ふわり、と柔らかな香りに包まれて、私は目を開けた。
見上げるのは、白い天蓋。刺繍の施されたカーテン。頭の下は羽毛の枕で、体は信じられないほど軽い。いつもなら起きた瞬間に襲ってくる腰の痛みも、肩の鉄板もない。
(……え、勝った? 社畜卒業?)
そう思ったのも束の間、視界の端に“人影”が立っているのが見えた。
背筋がすっと伸びる。仕事の修羅場で鍛えた危機察知が、死んでなお現役だった。
ベッドの横に立つ男は、息を呑むほど整った顔立ちをしていた。銀の髪、冷たい青い瞳。高価そうな礼服。隣に控えるのは、顔色を失った文官たちと、武装した騎士。
……これ、どう見ても病院じゃない。
男は、私を見下ろして言い放った。
「レティシア・ヴァン・クロムウェル。お前との婚約を破棄する!」
胸の奥がひやりと冷えた。
(あ、これ知ってる。乙女ゲームの……断罪イベント)
脳内で、攻略本のページが勝手にめくられていく。悪役令嬢。婚約破棄。社交界の晒し者。断罪。追放。最後は――処刑。
(待って。私、死んだのに、また死ぬの?)
「聞いているのか、この毒婦め!」
第一王子は、怒りを煽るように声を荒げる。周囲の貴族たちが、私を見て囁き合っている。けれど、その罵倒よりも、私の視線を釘付けにしたものがあった。
王子の背後で、震えながら分厚い紙束を抱えている文官――その腕にある表紙の文字。
『クロムウェル領 財政報告書』
(……財政報告書? しかも、持ってる手が震えてる。いや、手じゃなくて数字が震えてるのか)
私は反射的に、文官の抱えている紙束に視線を落とした。表紙の次に見えたのは、見慣れすぎて胃が痛くなる単語。
貸借対照表。
(……待って。その貸借対照表、左右の数字が合ってないじゃない)
目の錯覚ではない。資産の合計と、負債+純資産の合計がズレている。しかも誤差じゃない。桁が違う。帳尻合わせを諦めたレベルで崩壊している。
「お前のような浪費家は、即刻この王都を去れ! 赤字まみれのド田舎、クロムウェル領で野垂れ死ぬがいい!」
王子が指を突きつける。周囲が拍手のようなざわめきに包まれる。誰もが“悪役令嬢が断罪される見世物”に酔っていた。
でも私は、別の意味で血の気が引いていた。
(野垂れ死ぬって、わりと具体的な死因を提示してきた……! しかも赤字まみれって今言った……!)
赤字。負債。領地没収。没収されたら、貴族としての立場も護衛も屋敷も消える。そこで、追放済みの悪役令嬢がどうなるか。
攻略本は、容赦なく答えを知っている。
「……まあいい。連れて行け」
私は弁明する間もなく、腕を取られ、荷造りも許されず馬車へ押し込められた。窓の外で、王都の塔が遠ざかっていく。
絶望? ……それもある。けれど、それ以上に胸が高鳴っていた。
(……これ、誰も見てないの?)
馬車の床に投げ込まれたのは、さっきの財政報告書の束だった。たぶん王子は、私に「現実を見ろ」とでも言いたかったのだろう。なら、望むところだ。
私は紙束を引き寄せ、膝の上で開いた。
一枚目。収支報告。二枚目。税収内訳。三枚目。支出項目。
(うわ、フォーマットが年度で揺れてる……。勘定科目の定義が毎年違う。これじゃ比較できない)
ページをめくる。指先が勝手に速くなる。前世で監査対応に追われたときの癖だ。崩れた資料ほど、急いで全体像を掴まないと手遅れになる。
「架空発注に、二重計上、使途不明の交際費……」
思わず声に出た。
交際費が増えているのに、領内の商人への支払いは減っている。代わりに“王都の商会”への前払金が膨れ上がり、しかも入荷記録が薄い。さらに、徴税の「未収金」欄が真っ黒だ。未収金は本来、回収計画がセットになる。放置した未収金は“回収不能”と同義だ。
(これ、前世のクライアントだったら担当者を三時間は問い詰めるレベルなんだけど)
いや、三時間じゃ足りない。私は社畜だったけど、社畜の前に経理だった。数字の嘘は、匂いで分かる。
馬車の揺れの中で、私は震える手でペンを走らせ、余白に“仮説”を書き出した。
・横領(代官・徴税担当)
・商会との不利契約(担保条項で領地を取られる)
・在庫管理崩壊(納品未達/横流し)
・帳簿係不在(チェック機構なし)
(つまり、倒産寸前の零細企業フルコース)
前世では、どれだけ働いても成果は会社のものだった。評価は上司の気分で揺れて、改善案は「前例がない」で潰される。
でも今は違う。
この領地を立て直せば、それは私の“生存権”に直結する。上手くいけば、処刑フラグをへし折れる。失敗すれば、今度こそ本当に死ぬ。
「……死ぬくらいなら、死ぬ気で働く」
口に出して、私は自分の言葉に苦笑した。前世でそれをやって死んだのに。けれど今回は、働く“方向”が違う。自分の命のために働くのだ。
数日後。
辿り着いた領主館は、荒れ果てた庭と、覇気のない使用人たちが待つ「倒産寸前の零細企業」そのものだった。壁の漆喰は剥がれ、噴水は干上がり、玄関前の石畳は雑草に侵食されている。
出迎えた執事は、礼をしながらも声が沈んでいた。
「お帰りなさいませ、レティシア様。……残念ながら、本日の晩餐はスープのみです。予算が底をつきました」
スープのみ。つまり現金がない。つまり支払いが詰んでる。つまり信用が落ちてる。つまり――時間がない。
私は不敵な笑みを浮かべた。怖いから笑うのではない。覚悟を決めたとき、人は案外、笑えてしまう。
ドレスの袖をまくり上げ、鼻梁に“眼鏡”をかける。レティシアの私物らしい、魔力道具。視界がわずかに澄んで、文字が読みやすくなる。ありがたい。異世界の備品、たまに有能だ。
「いいわ、スープで十分よ。その代わり――」
私は執事の目を真っ直ぐ見た。
「領内にある過去三年分の領収書と出納帳、全部私の部屋に持ってきなさい。借入契約書、商会との取引明細、倉庫の入出庫記録も。今夜中に」
「えっ? ですが、お嬢様は数字がお嫌いでは……」
使用人たちの顔に、戸惑いが広がる。そうだろう。レティシアはきっと、帳簿よりドレスの数を数える女だったはずだ。
でも私は、静かに言い切った。
「今日から大好きになったのよ。――死にたくないからね」
執事が息を呑み、次いで深く頭を下げた。
「……承知いたしました。すぐに手配を」
部屋へ向かう廊下で、私は胸の中で“締切”を置いた。
王都からの追放は、ただの恥じゃない。時間稼ぎでもない。領地の負債が回収期限を迎えれば、没収は現実になる。そうなった瞬間、私は守るものを全て失い、断罪の舞台に引き戻される。
だから、ここからが本番だ。
私の第二の人生。
破滅フラグをへし折るための「地獄の決算作業」が、今、幕を開けた。




