月夜に誓う、ただひとつの名前
⸻
私は自分の匂いが嫌いだった。
ほんの少し甘くて、弱くて、獣人たちの鋭い嗅覚にはすぐに「取るに足らない存在」だとばれてしまうような、そんな匂い。
でも彼だけは、その匂いを深く吸い込む。
「……落ち着く」
そう言って、私の髪に顔を埋める。
彼――狼獣人の将軍、アレクシス。
この国で最も強い戦士であり、最も高位の血を持つ存在。
そして……私の番。
私はただの人間で、戦えなくて、魔力もなくて、価値なんて何もないのに。
神様の気まぐれみたいな運命の糸が、どうしてか私と彼を結びつけてしまった。
それだけ。
本当に、それだけなのだ。
彼が私を守るのは、
私を抱きしめるのは、
私の匂いを確かめるのは――
全部、番の本能。
「おはよう、リーナ」
低くて優しい声が耳元で囁く。
背中から腕が回されて、ぎゅっと抱きしめられる。
「……おはよう、アレクシス」
彼の胸板に額を預けながら、私は小さく返す。
私たちはもう三年も一緒に暮らしている。
戦場に行く彼を待ち、帰ってくる彼を迎え、同じベッドで眠る。
外から見れば、誰がどう見ても恋人同士か、夫婦みたいなのに。
私はずっと、線を引いている。
――番だから。
――それ以上じゃない。
「今日は市場に行くんだろう?」
「うん。薬草を買いに」
「俺も行く」
「えっ、将軍が?」
「……君が行くから」
それがどんな意味を持つのか、私は考えない。
考えたら、きっと胸が痛くなるから。
市場には、いろんな種族がいる。
猫獣人、狐獣人、鳥人……そして人間も。
「リーナ」
後ろから呼ばれて振り返ると、若い猫獣人の薬師が手を振っていた。
「この前頼まれた軟膏、できたよ」
「あ、ありがとう!」
私は嬉しくて駆け寄る。
その瞬間――
背後の空気が、ひやりと冷えた。
「……随分、親しそうだな」
アレクシスの声が低くなる。
私は慌てて振り返る。
「え? ただの薬師さんだよ?」
「……そうか」
でも彼の尻尾は、ぴんと張り詰めたままだ。
(あ……これも、番の本能だ)
自分に言い聞かせる。
番は、相手が他の異性と関わると不安定になる。
それだけ。
なのに――
その夜、アレクシスはいつもより強く私を抱きしめてきた。
「……リーナ」
「なに?」
「……いや」
言葉を飲み込むように、彼は私の額に口づける。
「そばにいろ」
「……うん」
彼の腕の中は温かくて、優しくて。
私は、そこにいると心が溶けてしまう。
でも、それは愛じゃない。
そう思わないと、壊れてしまうから。
数日後、城に新しい騎士が来た。
狐獣人で、笑顔が柔らかくて、やたらと私に話しかけてくる人。
「リーナさんって、将軍の番なんですよね?」
「……はい」
「うらやましいなあ。あんな人に守られて」
「……」
アレクシスがこちらを見ている。
目が、怖いくらいに真剣で。
「将軍、すごくリーナさんのこと大事にしてますよね。恋人みたいに」
「……番ですから」
私はそう答えた。
それしか言えなかった。
その夜、アレクシスは帰ってこなかった。
胸がざわつく。
番は離れると不安定になる――それは、彼も同じはずなのに。
深夜、扉が開く音がした。
「アレクシス……?」
「……リーナ」
彼は私の前に膝をついた。
髪は乱れ、呼吸は荒く、まるで何かを必死に耐えているよう。
「……どうしたの?」
「君が……」
彼は、私の手を強く握る。
「他の男と笑うたび、胸が……壊れそうになる」
「それは……番の……」
「違う」
彼の声が震える。
「番の本能だけじゃない」
彼は私の額に、自分の額をそっと重ねた。
「……君が好きなんだ」
私は息を呑む。
「番だからじゃなく……リーナだから」
その言葉が、私の心を揺らした。
「……でも」
「怖かった」
彼は正直に言う。
「君を縛るのが。
君が、俺のそばにいるのが“運命だから”だと思っているのが」
「……」
「それでも」
彼は私を抱きしめた。
「君がいない世界なんて、考えられない」
私は、初めて知る。
彼の腕の強さ。
匂いにこもる執着。
そして、何より――震えるほどの優しさ。
「……私……」
言葉が詰まる。
「私なんて……」
「違う」
彼はすぐに遮った。
「君だから、俺は……」
その続きは、唇に触れるキスで塞がれた。
甘くて、切なくて、確かめるみたいなキス。
私は、その中で初めて思った。
――ああ。
――私、愛されていたんだ。
番だからじゃなく。
彼の、心から。
⸻
彼のキスが離れたあとも、唇の上に熱が残っていた。
まるで「さっきの言葉は夢じゃない」と刻みつけるみたいに。
「……ごめん」
私が小さく言うと、アレクシスは眉をひそめた。
「何がだ」
「私、あなたの気持ちを勝手に……番の本能だって決めつけてた」
「……」
彼は答えず、私の髪を指ですくい、匂いを確かめるみたいに鼻先を寄せた。
狼獣人のしぐさ。番同士が安心するための。
それをされるたび、胸の奥がほどけていくのに、私はいつも「それは本能」と自分に言い聞かせてきた。
「リーナ」
彼が私の名を呼ぶだけで、体の芯が温かくなる。
それが怖い。
私は、自分が誰かにこんなふうに求められることに慣れていない。
「君は、自由だ」
アレクシスは、まるで私の不安を読み取ったみたいに言った。
「君を縛りたいと思ったことは何度もある。……でも、縛りたくない」
その矛盾に、胸が痛む。
「アレクシス……」
「君が俺の番でなくても、俺は君を選ぶ。君が望むなら、何度でも」
その言葉が甘すぎて、私は目を伏せる。
信じたいのに、信じると壊れてしまいそうで。
私はただの人間で、弱くて、彼の隣に立つにはあまりに釣り合わない。
誰もがそう言う世界で、彼の「好き」を受け取ってしまったら――
いつか「やっぱり違った」と言われるのが怖い。
だから、私は逃げ道を残してしまう。
「……ありがとう。でも、あなたが私を守るのは、あなたの優しさで……番だからでもあるんだよね」
言ってしまった。
笑って誤魔化すみたいに。
アレクシスの瞳が、暗く揺れた。
「……そう思っていたいのか?」
責める声ではない。
ただ、痛みを隠した声だった。
私は言葉を失って、黙るしかなかった。
翌朝、私は市場へ行く用事を理由に城を出た。
彼は執務があると言い、私を見送った。
……本当は、ついて来たがっていたのに。
それが匂いで分かってしまう。
狼の番は隠せない。特に、彼ほど強いと。
「気をつけて」
出発前、アレクシスは私の額に触れた。額に触れるのは、狼族の誓いに近い。
「危ないと思ったら、すぐに呼べ。匂いで分かる。……何があっても駆けつける」
「うん。大丈夫だよ」
私は笑った。
自分で言った言葉なのに、胸がちくりとした。
大丈夫じゃない。きっと私は、まだ「愛される価値がない」って思ってる。
市場は賑やかだった。
薬草屋でいつものものを受け取り、乾燥肉を買い、布を見て回る。
「リーナさん」
声をかけてきたのは、例の狐獣人の騎士――ルーカスだった。
彼は人懐っこい笑顔で、私の荷物を軽々と持ち上げる。
「荷物、重いでしょう? 送りますよ」
「え、そんな……いいよ」
「将軍がそばにいないなら、なおさら。番って、離れると不安定になるんでしょう?」
「……」
分かっているくせに、と言いたくなる。
でも、ルーカスは悪気がないように見える。
「ほら、この路地、混みますし。ついていきます」
私は断り切れず、頷いてしまった。
――その瞬間。
空気が変わった。
背筋が凍るような、甘ったるい匂い。
嫌な匂い。
私は足を止めた。
「……?」
路地の影に、数人の獣人がいた。
耳が尖っている。猫……いや、猫に似た盗賊団だ。
目がぎらつき、こちらを見て笑っている。
「おいおい、こりゃいい。人間の女じゃねえか」
「しかも、匂いが……番持ちだな」
「高位の匂いが付いてる。身代金になるぞ」
世界が一瞬で冷える。
ルーカスが私の前に立った。
「下がって。リーナさん」
「ルーカス……!」
彼は剣を抜こうとした。
けれど、盗賊たちは数が多い。
狭い路地で囲まれる。
「狼の将軍の番? へえ、面白い」
盗賊の一人が私に近づき、鼻を鳴らした。
「その匂い……嗅いでるだけで腹が立つ。高位の匂いってのは、嫌味だな」
私は体が震えるのを止められなかった。
喉が乾く。息が浅い。
(呼ばなきゃ)
アレクシスは「呼べ」と言った。
番は、遠く離れていても匂いで繋がる。
でも、どうやって? 私は声も出ない。
盗賊が私の髪に手を伸ばした瞬間――
私の胸の奥から、熱い何かがこみ上げた。
(アレクシス……!)
言葉にならない叫び。
でも、確かに私は「呼んだ」。
彼の名前を心の奥で呼び、匂いの糸を手繰り寄せるみたいに。
次の瞬間。
風が、獣の速度で路地を切り裂いた。
「――触るな」
低く、凍りつく声。
盗賊が振り返る暇もなかった。
一人が壁に叩きつけられ、石が砕ける音がした。
もう一人の腕が、あり得ない角度に折れた。
アレクシスがいた。
銀灰色の耳が立ち、瞳は金色に燃え、背後には巨大な狼の気配が立ち上っている。
人の形をしているのに、獣の本能が溢れ出ている。
……怖い。
でも、それ以上に、安心が胸を満たしてしまう。
「将軍……!」
ルーカスが叫ぶ。
けれどアレクシスは、彼を見もしない。
視線は、私だけに固定されていた。
「……リーナ」
私の名を呼ぶだけで、空気が震えた。
盗賊たちは怯えたように後ずさった。
「狼の将軍だ……!」
「やべぇ、番の匂いで来たのか!」
逃げようとした者が、次の瞬間、地面に伏せさせられた。
アレクシスの動きは速すぎて、目が追いつかない。
「逃がさない」
その言葉は、獣の宣告みたいだった。
私は足がすくんで、動けない。
アレクシスが盗賊の首根っこを掴み上げ、低い声で言う。
「俺の番に触ったな」
「ひっ……!」
「指一本でも、許さない」
彼の目が赤く見えた。
怒りが、抑えきれていない。
私は怖くなって、思わず叫んだ。
「アレクシス!」
彼の動きが止まる。
首を掴まれた盗賊が、息を詰めたまま震える。
アレクシスはゆっくり私を見て、そして――盗賊を地面に放り投げた。
「……衛兵を呼べ」
ルーカスが素早く頷き、走り去る。
その場に残ったのは、私とアレクシスだけだった。
盗賊は呻きながら地面に伏せ、動けない。
アレクシスが私の前に膝をついた。
「怪我は」
「……ない。大丈夫」
震える声で答えると、彼の眉が寄った。
「大丈夫じゃない」
そう言って、彼は私の手を取り、指先に口づけた。
そのキスは、慰めというより祈りみたいに丁寧で。
「呼んだな」
「……うん」
「よくやった」
褒められたことが、なぜか涙を誘った。
私は子どもみたいに泣きたくないのに、喉が詰まる。
アレクシスは私を立たせ、そのまま胸に抱き込んだ。
抱きしめる腕が強い。強すぎて、骨がきしみそう。
でも、私はその腕から逃げられなかった。
逃げたくない。
「……離れるな」
耳元で囁かれる。
「離れたら、俺は……おかしくなる」
「それは……番だから……」
私がそう言いかけた瞬間、アレクシスの腕がさらに強くなった。
「違う」
声が震えている。
「……俺が、お前を失うのが怖いからだ」
私の背中に回された手が微かに震えていて、私は息を飲んだ。
怖いのは私だけじゃない。
彼だって怖かった。
城へ戻る道、アレクシスはずっと私の手を握っていた。
馬車の中でも、離さない。
指を絡め、時折、私の手首に鼻を寄せて匂いを確かめる。
まるで、私がここにいると証明するみたいに。
「……ごめんね」
私が言うと、彼はすぐに首を振った。
「謝るな。悪いのはお前じゃない」
「でも……私、ルーカスに送ってもらって……」
「……」
その沈黙で分かる。
彼は、嫉妬している。
でも怒っているのは盗賊で、私じゃない。
……なのに胸がざわつく。
彼に嫉妬されることが、嬉しいなんて思ってしまう。
私の価値なんてない。
そう思っていたのに。
夜。
寝室に入ると、アレクシスは扉に結界を張った。
結界魔法が使えるのも、彼が高位だからだ。
「……過剰じゃない?」
私が冗談めかして言うと、彼は真剣な顔のまま私を見た。
「過剰でいい」
「……」
「今日みたいなことは、二度と起こさせない」
私はベッドの端に座り、膝の上で指を組んだ。
視線が落ちる。
「私が……弱いから?」
言ってしまった。
自分の中の一番嫌なところが、言葉になって出てきた。
「私、守られるばかりで……足手まといで……」
アレクシスが一歩で距離を詰め、私の前に膝をついた。
視線が同じ高さになる。
「リーナ」
彼は私の頬を両手で包み、逃げられないようにした。
「お前は弱くない」
「でも……」
「弱くてもいい。守られることは、恥じゃない」
彼の目が真剣すぎて、私は息が止まりそうになる。
「俺は、お前を守りたい。……守らせてくれ」
その言い方が、お願いみたいで。
私は胸が苦しくなる。
「私がいなくても……あなたは将軍で、強くて、誰からも尊敬されて……」
「お前がいないなら、意味がない」
遮る声が、鋭い。
普段の優しさの奥に隠していた獣が、顔を出したみたいに。
「俺は、お前のために強い」
私は目を見開く。
「戦場で生き延びたのも、王に忠誠を誓ったのも、全部……お前を守るためだ」
「……私のため?」
「そうだ」
アレクシスは、私の額に自分の額を重ねた。
呼吸が触れる距離。
「番だから、じゃない」
彼の声が、低く甘い。
「番の糸がなくても、俺はお前を追いかける。……見つけて、抱きしめる」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
私は、怖くて首を振った。
「……そんなの、嘘だよ。だって、私は……」
「何だ」
「可愛くないし、強くないし、役に立たないし……」
アレクシスは一瞬呆れた顔をして、それから笑ってしまった。
笑うと、鋭い獣の顔が少し柔らかくなる。
「リーナ」
彼は私の髪を撫で、指先で耳の後ろをなぞった。
そこがくすぐったくて、私は肩をすくめる。
「俺にとって、お前は――」
言いかけて、彼は言葉を飲んだ。
まるで、その言葉を出すのが怖いみたいに。
私はその沈黙に耐えられず、言ってしまう。
「……私がそばにいるのは、番だから、でしょ?」
自分で自分を傷つける言葉。
でも、言わないと、期待してしまうから。
アレクシスの目が、暗く揺れた。
「……お前は、まだそれを言うのか」
「だって、そうじゃないと説明がつかない」
「説明? 理屈か?」
彼の声が低くなる。
私は反射的に肩をすくめた。
次の瞬間、アレクシスが私を抱き上げ、ベッドに押し倒した。
驚いて息が詰まる。
「ア、アレクシス……?」
彼は私の上に覆いかぶさり、金色の瞳で私を見下ろす。
獣の瞳。
でも、そこにあるのは欲望だけじゃない。
切実で、苦しそうで、優しいもの。
「俺は、ずっと我慢してきた」
低い声が、耳の奥を震わせる。
「お前が、俺の気持ちを信じられないなら……」
彼は私の頬にキスを落とし、顎、首筋へと辿った。
熱い。
甘い。
怖いくらいに丁寧で、私の体が反応してしまうのが恥ずかしい。
「匂いで分かる」
彼が囁く。
「お前が、俺に安心してることも、怖がってることも、望んでることも」
私は顔を赤くして目を逸らした。
「……やめて」
「やめない」
きっぱり言われて、胸がきゅっとなる。
独占欲。執着。
それを隠してきた彼の、ほんの一部が漏れている。
「……でも」
彼は動きを止め、私の目を見た。
まるで、私が嫌だと言ったら本当に止まる、と示すように。
「お前の自由を奪うのは、俺が一番怖い」
その言葉に、私は涙が滲んだ。
「……私、あなたに縛られるのが怖いんじゃない」
「……」
「私が、あなたを好きになったら……捨てられたら、って思うのが怖い」
言ってしまった。
心の底を。
アレクシスの瞳が大きく揺れ、次の瞬間、彼は私を抱きしめた。
きつく、逃げ道のない抱擁。
「捨てる?」
彼の声が掠れる。
「俺が?」
その声音が、傷ついていて。
私は慌てて言う。
「違う、あなたが悪いんじゃなくて……私が……」
「リーナ」
彼は私の髪に口づけ、深く息を吸った。
狼の番が、心を落ち着けるための。
「俺は、お前を捨てない」
断言。
迷いのない声。
「俺が死ぬまで、お前を離さない。……離せない」
その言葉は怖いはずなのに、なぜか胸が温かい。
私は、ずっと求めていたのかもしれない。
「いなくならない」と言ってくれる誰かを。
でも同時に、別の不安が首をもたげる。
番は、自由を奪う重い絆――そう言われるのを、私は聞いてきた。
「……重いよ」
私が小さく言うと、アレクシスは苦しそうに笑った。
「そうだ。……俺は、重い」
自分で認めてしまうのが、彼らしい。
「お前のことを考えるだけで、息が詰まるほど欲しい。触れたい。匂いを確かめたい。泣かせたくないのに、泣かせてでも俺を見てほしいと思う」
私は息を呑んだ。
彼が、そんなことを考えていたなんて。
「でも、それを出したら、お前が怖がると思った」
彼の指が、私の頬の涙を拭う。
「だから隠した。……優しくして、甘やかして、番のせいにして」
私は胸が痛くなった。
私が「番だから」と言い続けたせいで、彼は自分の気持ちを押し殺してきたんだ。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
彼はもう一度、私の額に口づける。
「今夜、答えを出せとは言わない。……ただ」
彼の瞳が、熱を帯びる。
「俺は、お前を愛してる」
その言葉が落ちた瞬間、私は心臓が跳ねた。
今まで「番だから」と逃げてきたものが、真正面から突き刺さる。
私は唇を開こうとした。
でも、声が出ない。
そんな私を見て、アレクシスはふっと笑った。
優しい、いつもの笑い方。
「怖がらなくていい」
彼は私を包み込み、子どもを寝かしつけるみたいに背中を撫でる。
「今夜は……ただ眠ろう」
その言葉に、私は泣きながら頷いた。
彼は抱きしめたまま、ずっと匂いを確かめてくる。
まるで私が消えないように。
翌日から、城の空気が変わった。
盗賊団の背後に、別の勢力がいるらしい――そういう噂が広がった。
番を狙うのは、身代金目的だけじゃない。
高位獣人の番は、政治の道具にもなる。
「将軍、しばらくリーナ様を城の外へ出すのは危険です」
重臣がそう進言するのを、私は廊下の陰で聞いてしまった。
「……分かっている」
アレクシスの声が硬い。
「俺がつく」
「将軍が常に城を離れるのは――」
「なら、誰かが代わりに守れと言うのか」
その瞬間、空気が凍った。
重臣が言葉を詰まらせる。
「……失礼しました」
扉が閉まる。
私はそこに立ち尽くし、喉が苦しくなる。
(私のせいで……)
彼の仕事を邪魔している。
将軍としての責務を。
国を守る仕事を。
私なんかのために。
私はその日、何も言わずに荷物をまとめた。
必要最低限。
薬草、衣類、少しのお金。
アレクシスが戻る前に、城を出るつもりだった。
……逃げる。
私がいなくなれば、彼は「番の本能」から解放される。
情緒が不安定になる? それでも、時間が経てば慣れるはず。
高位の獣人は強い。乗り越えられる。
その時、扉が開いた。
「……何をしている」
低い声。
振り返ると、アレクシスが立っていた。
目が、怖いくらいに静かだ。
私は手に持っていた布袋を落とした。
「……出かけるだけ」
「嘘だ」
一歩で距離を詰められる。
狼の速度。
彼は落とした布袋を拾い、私の荷物を見て眉をひそめた。
「どこへ行く」
「……」
答えられない。
アレクシスの匂いが変わる。
焦りと、怒りと、恐怖。
「リーナ」
彼は私の肩を掴んだ。痛くはない、でも逃げられない。
「お前……俺から逃げるつもりか」
「違う」
「じゃあ、何だ」
私は唇を噛んだ。
「……あなたの邪魔になりたくない」
「邪魔?」
「私がいると……あなたが仕事を……」
言い終わらないうちに、アレクシスが私を抱きしめた。
息が止まるほど強い抱擁。
「馬鹿」
掠れた声。
怒っているのに、泣きそうで。
「俺は……お前がいない方が、死ぬほど邪魔だ」
「……」
「お前が消えたら、俺は戦えない。息ができない。……俺の中心が、なくなる」
私は胸がぎゅっと締め付けられた。
(中心……?)
彼にとって私は、そんなに大きい存在なの?
「……でも、番だから……」
私は最後の逃げ道を口にした。
そう言わないと、受け止めきれない。
その瞬間、アレクシスの腕が緩み、彼は私の頬を両手で挟んで目を見た。
「違う」
一語。
強い。
「番だからじゃない。君だから愛した」
私は、息を呑む。
「……君だから、俺は生きてる」
その言葉が、胸の奥に落ちて、波紋みたいに広がっていく。
今までの出来事が、全部繋がる。
彼がいつも私の食事を最初に味見していたこと。
夜中に私がうなされると必ず起きて背中を撫でていたこと。
私が寒いと言う前に毛布をかけていたこと。
私が笑うと、少しだけ目尻が緩むこと。
――番の本能、なんかじゃない。
こんなに、私の小さな変化を見ていられるのは。
「……私……」
声が震える。
「私、ずっと、あなたの優しさを……運命のせいにしてた」
アレクシスの瞳が柔らかく揺れた。
「運命でもいい。番でもいい。……でも、俺はお前を選んだ」
彼は私の額に触れ、続ける。
「お前が自分を軽く扱うたび、俺は腹が立つ。……お前は、俺にとって世界で一番大切だ」
「そんなこと、言われても……」
涙が溢れる。
信じたい。
でも、今まで自分を守るために築いてきた「私は愛されない」という壁が、崩れる音がして怖い。
「……私、怖い」
正直に言った。
「怖いなら、俺が抱いてやる」
アレクシスは私を抱き上げ、ベッドに座らせたまま抱きしめた。
胸に耳を当てると、心臓が強く鳴っている。
将軍の心臓。
戦場で止まらなかった心臓が、私のことで速くなる。
「……聞け」
彼は私の耳元で囁く。
「俺は、お前に恋をした。番の糸が結ばれる前から」
「……え」
「初めて会った日、お前が……兵たちに水を配っていた。怖いはずなのに、笑っていた」
私はその光景を思い出す。
あの日、怪我人に水を配っていた私に、狼獣人の将軍が視線を向けてきた。
あまりにも強い存在に、私は息を呑んだのに、彼の目はなぜか優しかった。
「俺は、強いくせに優しい人間が好きだ」
「私は強くないよ」
「強い」
きっぱり。
「弱いのに、誰かを思って動ける。それは強さだ」
その言葉に、胸が震えた。
私がずっと見ないふりをしてきた部分を、彼はちゃんと見ていた。
「……だから、番だと知った時、嬉しかった」
アレクシスは少しだけ笑った。
でも、すぐに顔が曇る。
「同時に怖かった。お前が、俺のものになるって意味じゃない。……俺が、お前の自由を壊してしまうんじゃないかって」
「……」
「だから、ずっと優しくして、逃げ道を作ってやった。……番だから、って言えるように」
私は涙でぐしゃぐしゃになりながら、笑ってしまった。
「……同じだ」
「何がだ」
「私も、逃げ道を作ってた。……番だから、って言って」
アレクシスが目を見開き、それから深く息を吐いた。
そして、私の髪に顔を埋めた。
「……やっと、同じ場所に来たな」
その言葉が甘くて、胸がいっぱいになる。
でも、まだ最後の一歩が怖い。
私は震える声で言う。
「……私、あなたを好きになっていいの?」
アレクシスの腕が一瞬止まり、次の瞬間、彼は私を離して、真っ直ぐに見た。
その瞳が、あまりに真剣で、私は息を忘れる。
「好きになれ」
命令みたいに言って、彼はすぐに眉をひそめる。
「……いや」
言い直す。
「好きになってくれ。……俺が、そう望む」
その望み方が、あまりに切実で。
私は自分の中の何かがほどけるのを感じた。
「……私も」
喉が痛い。
「私も、あなたが……好き」
言葉にした途端、世界が変わった。
アレクシスの匂いが、爆発みたいに甘くなる。
嬉しさと安堵と、抑えきれない欲が混ざって。
彼は私を抱きしめ、額に、頬に、唇に、何度もキスを落とした。
確かめるみたいに。
壊れないように、でも逃がさないように。
「……やっと言った」
低い声が震える。
「俺のリーナ」
その呼び方に、胸が熱くなる。
「番だから」じゃない。
「俺の」と言うのは、所有じゃなく、選んだ証。
「……逃げるな」
「逃げない」
私が答えると、アレクシスの瞳が少し潤んだ。
「……よし」
それだけ言って、彼は私の指に口づけた。
指輪はないのに、その仕草は誓いだった。
数日後、王宮で正式に「番の保護宣言」が出された。
私が狙われる危険は減る。
でも、私の心はもっと大きく変わっていた。
私は城の庭で、アレクシスの背中を見ていた。
彼は兵たちに指示を出し、厳しく、強く、将軍として立っている。
その背中が、誇らしい。
そして、ふっとこちらを振り返る。
目が合う。
その瞬間だけ、彼の顔が柔らかくなる。
私だけに向ける表情。
胸がじんわり温かくなる。
(……番だからじゃない)
そう思えるようになった自分がいる。
夜、彼は私を抱きしめたまま眠る。
匂いを確かめ、額に触れ、時々、寝言みたいに「好きだ」と囁く。
私はそのたびに思う。
――私は、ずっと大切にされていた。
――最初から。ずっと。
ある夜、私は彼の胸に頬を寄せて言った。
「アレクシス」
「……ん」
眠そうな声。
「……私、幸せだよ」
彼の腕がきゅっと締まる。
「……当然だ」
「当然?」
「俺が、お前を幸せにするから」
その言葉が、当たり前みたいに言われるのが嬉しい。
私は笑って、彼の胸にキスを落とした。
「……ねえ、もう一回言って」
「何を」
「その言葉」
アレクシスは少し沈黙して、私の髪を撫でた。
そして、私の額に自分の額を重ねる。
「番だからじゃない。君だから愛した」
私は目を閉じた。
その言葉が、怖さを全部溶かしていく。
「……うん」
喉が震える。
「私も……あなたを選ぶ」
彼の匂いが甘くなる。
そして、優しく、でも逃げられない強さで抱きしめられる。
「逃がさない」
「逃げない」
私は笑って、彼の腕の中で安心して息をした。
もう「愛される価値がない」と思わなくていい。
私は私のままで、大切にされていたのだから。
窓の外では、異世界の夜が静かに光っていた。
獣人たちの遠吠えが、祝福みたいに響く。
私は彼の胸の中で、世界で一番安全な場所にいる。
そして――
その安全は「運命」ではなく、彼の「選択」だった。
そう思えた瞬間、涙が一滴こぼれた。
でもそれは、悲しみじゃなくて、安心の涙。
アレクシスがそれを舌先で拭い、囁いた。
「泣くな。……俺の大切なもの」
私は頷き、彼の腕に自分から絡みついた。
「大切にされるの、慣れてないだけ」
「慣れろ」
「うん」
「一生かけて慣れさせる」
その言葉に、私は笑って、眠りに落ちた。
彼の心臓の音が、子守歌みたいに優しくて。
匂いが、世界の全部みたいに甘くて。
――番だからじゃない。
――君だから愛した。
その言葉を胸に抱いたまま、私は幸福の中で目を閉じた。
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