潮の騒ぎと恋の骨
うねった大波が、牙を剥いた獣のように崖へ噛みつく。
黒々とした岩肌は幾度も抉られ、海は吠えるような轟音を吐き出した。
波が退くたび、崖下は奈落のような深みを覗かせる。
あたりには、潮の匂いが満ちていた。
この海には、誰も近寄らない。
古くから、そこには“何か”が棲むと語られてきたからだ。
それは深淵を統べるもの──海を裂き、人を呑む。黒き影と噂する者もあれば、月光をまとう鱗と語る者もいる。
だが、誰も真実を知らない。ただ人々は恐れを抱き、波のざわめきを祈りで封じてきた。
しかしその断崖に、吊り下げられた乙女の姿があった。
崖上に打ち込まれた黒鉄の杭から垂れる鎖は、風に震えて軋みを吐きながらも、彼女の両の手首を捕えている。
白い皮膚には縛めの痕が深く刻まれ、指先はとうに冷え感覚を失っていた。
眼下には海が広がるばかりで、足場などどこにもない。削れた岩肌に、かろうじてつま先が引っかかる程度である。
もうすぐ、水平線の向こうに太陽が沈みきる。
そのとき潮は満ち、彼女を容赦なく呑み込むだろう。この鎖が解かれぬ限り、彼女の命は海に引きずり込まれるのだ。
ひときわ強い風が吹き抜け、海に溶け込むような青い髪が宙を泳ぐ。
乙女はゆるやかに顔を上げた。
「──そろそろ、飽きちゃった」
その響きは、海鳴りに紛れて落ちていった。
崖の縁に吊られ、死を待つ身でありながら──乙女の吐息には影ひとつなく、ただ退屈の翳りだけが漂っていた。
*
マリステラがこの国の王子に恋をしたことがすべてのはじまりだった。
もともとこの国に来たのは、気まぐれにすぎない。平凡な日々を逃れた先に、知らない風に頬をさらし、違う光をその目に映してみたかっただけだった。
石畳を踏みしめるとひやりとした硬さが足裏に沁み、広場に群れ咲く花々は息を奪うほどに香り高い。すべてが新しくて、面白かった。
けれどそれらのきらめきを消してしまうほどの輝きに、彼女は出会ってしまった。
焦がれるような赤の髪、陽を閉じ込めた黄金の瞳──その光は炎のごとく、触れた瞬間に心を焼き尽くした。
「……きれい」
思わず、そんなひと言がマリステラの口からこぼれた。
彼が誰かなんて、そのときはどうでもよかった。ただ、あまりに眩しくて、目を離せなかった。
「君は……はじめて見る顔だな」
朗らかな声が彼女の耳に触れる。
それは、波間に響く音楽みたいに耳に心地よかった。
「名前は?」
「マリステラ!」
「そうか……美しい名だ。よく似合っている」
彼は笑って、そして言った。
「マリステラ。君のことを、もっと知りたい」
「まあ! わたしもよ! あなたのことも、この国のことも、なんでも教えてちょうだい!」
それがこの国の王子──ペルシアスとの出会いだった。
恋を知ったマリステラは、彼の隣にいるために多くのことを覚えた。
言葉を覚え、舞踏を学び、食事の作法を身につけ、ほかにもさまざまなことを練習していった。
どれも、マリステラの知らなかったことばかりだった。けれど新しい世界を知ることは、驚きとよろこびで満ちていて──彼女は笑いながら、それを受け止めていった。
「よくできたな、マリステラ」
「ふふん、でしょう? もっと見ててね」
その声が何よりの褒美だった。
ペルシアスが笑えば、一日が光に包まれる気がした。
「君のことが好きだ。君が望むなら、未来を誓おう」
「わたしも! じゃあ、結婚しましょうね!」
約束を疑う理由など、どこにもなかった。海の底でひっそりと光る真珠のように、年月をかけて育んだものではなかったけれど、マリステラにとっては何より大切な宝物だった。
もちろん、すべてが順調というわけではない。
ペルシアスが彼女を婚約者として迎えたとき、城には冷ややかな視線が満ちた。
美しいとはいえ、どこから来たとも知れぬ娘。貴族たちが快く思うはずもなかった。
噂は広まり、陰口はさざ波のように絶えなかったが、マリステラは気にしなかった。
ペルシアスが「好きだ」と言ってくれる、それだけで十分だったからだ。愛を誓う声を、未来を約束する言葉を、彼女は信じていた。
そして、彼はその証として指輪を贈ってくれた。光を抱いた小さな輪は彼の愛そのもののようで、マリステラはとても嬉しかった。
それさえあれば、何も怖くなかった。どんな陰口も、冷たい視線も、潮騒のように遠くで砕けて消えていった。
だが、ある日。隣国から客人がやってきた。
大陸一の美貌を謳われ、その姿は神々にも勝ると称された姫──アンドレイナ。
白磁のような肌は光をはね返し、金糸をほぐしたような髪が肩に流れ、ひとたびその唇に微笑みが花開けば、人々は息を呑んだ。
王城はたちまち、そのまばゆさに飲み込まれた。
やがてペルシアスとアンドレイナは、寄り添って笑うようになった。
二人の親しさは絵のように美しく、そして誰もがそれを当然のこととして受け入れていった。
マリステラはといえば、小首を傾げるだけだった。
どうして皆、二人こそがふさわしいなどと言うのだろう。だって、自分が恋を捧げた相手はペルシアスただひとり。そして、彼も同じように「好きだ」と言ってくれたのだ。
ならばそれを覆す理由なんて、どこにもないはずだった。
ところが、どうだ。
とうとうマリステラは、きらびやかな王城の夜会の只中で、その言葉を突きつけられた。
「マリステラ! 君との婚約は破棄させてもらう!」
王子の指先が、公然の場で彼女を射抜く。
その隣に立つのは、やはりアンドレイナだった。紅を引いた唇には、勝ち誇った色が滲んでいる。
ざわめきが波紋のように広がり、やがて凪いで、納得の色に変わっていく。
美しさなら、マリステラも儚げな妖精のようであった。けれど、アンドレイナには敵わない。そして何より、血筋が違った。
マリステラの身元を、誰も知らない。
名も家もない娘と、隣国の姫。比べるまでもない──視線が、冷酷にもそう告げていた。
マリステラは、ぱちりと瞬きをひとつした。
そうして彼女の唇に宿った声は、あまりにも無垢で、奇妙なほど軽やかだった。
「え? でもペルシアスは、わたしと結婚してくれるって!」
それはまるで、幼子の言葉のようだった。
この期に及んで調子を崩さぬ彼女の様子に、王子の眉がひそみ、声が鋭さを帯びる。
「ええい! だからそんな口約束など無効だと言っているのだ!」
「そんなあ……どうして? なにがだめだった? ……踊りがへたくそだったから?」
唇を尖らせてしょぼくれるマリステラは、冷えきった空気など少しも気にしていない。
その無防備な態度が、広間に渦巻く緊張をいっそう際立たせていた。
アンドレイナの紅い唇が、わずかに怒りによって歪む。
「だから! もうあなたのことなんて、ペルシアス様はなんとも思っていないとおっしゃっているの!」
彼女はその言葉に、もう一度ゆっくりと瞬きをした。
そして、まるで信じられないといった様子で、王子を見上げる。
「そうなの、ペルシアス?」
「ああ……すまないがマリステラ、僕はもう君のことを好きじゃない。君と過ごした日々は、過ちだった」
言葉は重く、マリステラの胸にぽとりと落ちて沈んでいった。
「……あやまち……」
呟いた声は、波間に溶けるほど小さい。
恋を、彼との時間を、何より大切に抱きしめてきたのに──彼はいま、それを丸ごと捨ててしまったのだ。
「ひどい! ひどいわ、そんなこと言うなんて! ペルシアスのうそつき!」
ぱんっと足を鳴らし、マリステラは頬をふくらませる。
その姿は涙にくれるどころかやはり駄々をこねる子どものようで、この空間で異様なほど鮮やかに浮いていた。
ペルシアスは眉をひそめる。けれど、その口端にはかすかな笑み──勝者のゆとりが漂っていた。
やや顎を上げ、王子は高らかに言い放つ。
「沿岸を襲った暴風や、港を荒らした高波……すべて君が来てからだ。神官たちは告げている。海神の怒りを鎮めるためには、君を海に還さねばならないと。この国を守るため、婚約は破棄する──それが決定だ」
「この国のためよ。あなたは海に還るべきだわ。二度と陸に戻らないように!」
王子の言葉に、アンドレイナが冷笑を重ねる。その声音には、隠しもしない露骨な愉悦が滲んでいた。
誰もが次に起こる光景を思い描いた。
今度こそ泣き崩れる女、すすり泣く声、そうした哀れな場面を。
けれど返ってきたのは、明るく無邪気なものだった。
「ふんだ! わかったわよ! 帰るわ、海に! ペルシアスなんてもう知らないっ!」
マリステラはぷいっと拗ねたようにそっぽを向きながら、勢いよく頷いた。
周囲の空気がひととき、完全に止まる。
「……え?」という誰かの声が響いた。奇妙な彼女の様子に、衛兵たちは肩透かしを食らい、互いに顔を見合わせている。
騒動の収束がこのようになるとは、予想されていなかった。
だが、決定は決定だ。こうしてマリステラは崖へと連れて行かれ、鎖に縛られることになったのである。
*
潮風が頬を撫で、崖の根を洗う波が白い舌をのばしては岩を嘗める。また退き、やがて牙を剥く。
その響きは、終幕を告げる序曲のように重く沈み、夕陽の紅を孕んで砕け散った。
アンドレイナは、吊られた女を見下ろしていた。
風に乱れる青い髪。陽の残光をまとった白い腕。影は岩に長く落ち、哀れを誘う。
しかし彼女の胸を満たすのは、もちろん同情などではなかった。
「忌々しい女……でも、これでもう終わりよ」
紅を引いた唇が、ゆるやかに弧を描く。
その笑みには毒があり、艶があり、冷たい快楽が滴っていた。
「もうすぐ潮が満ちるわ。そのとき、あなたは海の藻屑になるの」
マリステラは、またしてもぱちりと瞬きをした。
恐れも嘆きも見えない瞳で、首を傾げてみせる。
「あとどれくらいなの? わたし、もう待ちくたびれちゃって」
あっさりと告げる声に、アンドレイナの胸の奥で苛立ちが弾ける。
どうしてこの女は泣きもせず、悔しさにすら顔を歪めないのか。
わざわざこんな場所にまで足を運んだのは、マリステラのそんな顔をひとつ目にしたいからこそだった。絶望で彩られた表情を、勝利の証として脳裏に刻みつけたかった。
ドレスの裾を翻しながら、アンドレイナは鎖を繋ぎ止めている杭に近づいた。
彼女の頭の中では、マリステラが頬を涙で濡らす光景が何度も反芻されてきた。このいけすかない女にひと泡吹かせてやりたかった。
けれども、どうだろう。いざ命を奪われるという状況になったというのに──いま目の前で鎖に吊られているはずの女の顔には、退屈さとあどけない笑みが浮かんでいる。
ただ遊び疲れて飽きてしまった子どものようにしか見えなかった。
「本当に、何も感じないの?」
声がわずかに震える。
「感じてるわ! ちょっと、肩が凝ってきたなあって」
鎖に吊られた腕を動かそうとして、ぐるりと回らない肩を見上げながら、マリステラは呑気に言った。
ぷつん、と。音を立てて、何かが切れた。溜まっていた何もかもが、一瞬で燃え上がる。
アンドレイナは歯を噛みしめ、叫んだ。
「ああそう! なら、いま楽にしてあげるわ!」
そして彼女は衝動のままに、金具を外した。
その瞬間、マリステラの世界が急速に流れた。
鎖が風を裂いて跳ね、夕陽を切り裂きながら宙に舞う。赤い空を背景に、女の身体が糸の切れた人形のように落ちていく。裾が翻り、風が唸り、轟く潮が白い飛沫を孕んで口を開けた。
アンドレイナは、目を細めてその光景を見届けた。
「アハハ! さようなら!」
勝ち誇った声が、崖に反響する。
唇に満ちる笑みを抑えきれないまま、彼女は踵を返す。背に砕ける波の音を浴びながら、誇らしげに顔を上げ、王城へと戻っていった。
*
マリステラは、海へと落ちていく。
しかし冷たさは刃ではなかった。それは、長く恋い焦がれたやわらかな衣。
鎖の重みがふっと消え、締めつけていた痛みが泡とともに溶けていったとき──マリステラは深く息を吸い込んだ。
(ああ──やっと!)
水は死を告げる墓ではなく、光の在り処だった。爪先が水に溶け、踵の記憶がほどけていく。足首を白い光がかすめ、ひとつの影が生まれる。
銀の鱗──それは稲妻のようにしなり、連なり、尾を描いた。
人ならざる力がその身に戻ったとき、彼女はいとも容易く手枷から逃れ、王子と誓い合った約束の指輪は海底に沈んでいく。
──人魚。
その名を世界が思い出し、水は祝詞のように泡を立て、深い青で乙女を抱きとった。
長い青髪が潮にほどけ、陽光のかけらが尾をなぞる。
マリステラが水を蹴るたびに泡が弾け、光が散り、海が歌う。潮が満ちるたびに、血の底で眠っていた律動が静かに──しかし確かに、目を覚ましていた。
細い腕が水を掻き、鱗がひらめいた。ひときわ大きな弧を描くその姿は、罪深いほどに美しい。
「これでようやく帰れるわっ!」
海を震わせるその声は、もちろん絶望の呻きではなかった。
次いで、軽やかな笑いが泡とともに弾ける。
尾が海を蹴る。水が割れ、無数の光が海中に飛び散り、泡は花弁のように舞い、夕陽は砕けた鏡の破片をまき散らすように、きらめきの粒をそこかしこに投げかけていた。
その美しさは、冷たく、妖しく、そして──人間の理からは、遠すぎるものだった。
*
時を同じくする頃、ひとりの男が断崖を縫う小径を進んでいた。
漆黒の外套に銀の留め金。腰には鞘に収めた長剣。
セイル──その名を知らぬ者は、きっとこの国にはいないだろう。幼子ですら何度も語り聞かされる、英雄の名だ。
彼は国一の騎士であり、数多の戦をくぐり抜けてきた男である。だがあまりに影響力を持ちすぎたがゆえに王家からは快く思われておらず、此度も怪物退治のための遠征という体で僻地に追いやられていた。
そんな任務を数年がかりで終え、馬を駆って王城への帰路を辿るその姿は、騎士としての矜持を一筋も曇らせていなかった。
彼の胸にあるのは、常に護るべきものへの鋭い意識だけだった。
だからこそ──潮騒の底に混じった微かな異音を、彼は聞き逃さなかった。
──ばしゃり。
それは波ではない。海面に偶然落ちる音でもない。
軽く、それでいて必死な──もがく音のように聞こえた。
馬を止める。手綱を握る指に、剣を取るときとは異なる緊張が宿る。
目を上げた先、崖の切れ目から覗く荒海のなかに──白い腕が見えた。
そしてその腕は宙を掻き、細い肢体が深みに呑み込まれていった。
(……溺れている!?)
ここは、人が寄りつかぬ断崖だ。助けを呼ぶ声など、海鳴りに呑まれてしまうだろう。
セイルの胸に、迷いという名の影はひとつもなかった。
彼は馬から身を投げるように降り、剣を鞘ごと掴んで投げ捨てた。甲高い音が風に散る。
次に外套を脱ぎ、鎧の留め具に指をかけ──だが胸の金具を外しきる前に、再び音が耳を打った。
──ばしゃ、ばしゃっ!
焦燥が喉を焼いた。
陽は落ちかけている。潮が満ちれば、もう戻ることはできない。
(……間に合わん!)
セイルはわかっていた。このまま助けに飛び込めば、鎧ごと沈むだろうと。
それでも──。
護るために剣を握ってきた。
けれどもはや王都に彼の居場所はない。王にとって、英雄は過去の飾りにすぎない。
ならばせめて、この一瞬で──人を救って死ねるのなら、本望だ。
セイルは思考を断ち切り、地を蹴った。
冷たい風が頬を削り、海はいとも容易くその深淵へと彼を呑み込んだ。
水の重みに身を締めつけられながら、セイルは目を凝らす。
視界を覆う泡の向こうに、青い髪が踊る。
──見つけた。
けれどその“人”は、沈みゆくはずの生き物では──人間では、なかった。
青い影は、まるで舞っていた。水にほどけ、宙を舞い、闇を縫うその髪が、ひとりの女を形づくる。白い指。ゆらぐ肩。そして──光を帯びて揺れる尾。
海そのものがかたちをとり、優雅に笑っているかのようだった。
(──なんだ、これは……)
彼女はゆっくりと振り返った。
泡を裂いて、まなざしを向ける。その瞳の底で、星が砕けるような光が瞬く。
その瞬間、英雄と呼ばれた男の心臓は、剣を抜いたときよりも大きく跳ねた。
セイルは、世界を忘れた。陸も、名誉も、呼吸の苦しささえも──ただ、彼女の瞳の奥へと吸い込まれそうになる。
「なあに、あなた。溺れているの?」
泡が踊り、光が弾け、沈黙の世界に、ひときわ澄んだ声が響いた。
その声音は祝福のように甘く、呪いのようにやさしい。海底に咲いた微笑がそこにあった。
彼は思わず腕を伸ばす。しかし、逆に彼女に掴まれた。
白い指が彼の手首をとらえ、するりと鎧の隙間をなぞりながら、彼を抱き寄せる。
その指先は氷のように冷たいのに、皮膚の奥までやわらかく染みわたる。
そうして鎧の重みなど存在しないかのように、彼女は尾で水を蹴った。
光の階段を駆け上がるように、ふたりの影は泡ときらめきに包まれ、海面へ舞いあがった。
*
波が弾ける音と、鎧の軋む音が重なった。
崖から離れ、比較的おだやかな場所にある浜辺の上にセイルは転がされる。彼はしばし荒い息を吐き、肺の奥に熱を押し込めた。
その傍らでマリステラは尾を畳み、濡れた髪をくるりと指に巻きながら、にこりと笑った。
「生きてる! よかった!」
声がやけに軽やかだ。安堵というより、ちょっとした遊びの続きをしているような様子だった。
「……あなたは……?」
セイルは、ようやく声を絞り出した。
視界を覆う青い髪に輝く鱗、そしてその微笑み。すべてが現実離れしている。
戦場でも、怪物と対峙したときでも知らなかった種類のざわめきが胸の奥に生まれていた。
「わたし? わたしはマリステラ!」
そう名乗る声が、潮風よりもやわらかく耳に触れる。
「ちょっと退屈しちゃって、陸で暮らしてみようと思ったの」
「退屈……?」
「そう。そうしたらペルシアスが“好きだ”って言ってくれたから、“じゃあ結婚ね!”って」
ぱっと笑うその顔は、妙に素直で、悪意のかけらもない。
「でも、もう好きじゃないんだって! だから、わたしもペルシアスのこと、もう好きじゃない!」
マリステラは頬をふくらませて、子どものように腕を組む。
尾びれが砂をすべり、光を弾いた。
「……それで?」
「それでね、海に帰してくれるっていうから待ってたの。でも、なんか海が満ちるまで待たないといけなくてね。飽きちゃったなーって思ったら、アンドレイナが落としてくれたの! だからきっといい子なのね、あのひと」
軽やかに言い切る笑顔に、セイルのこめかみがぴくりと跳ねた。
「……いい人、だと?」
低く押し殺した声が洩れる。
彼女にとっては取るに足らぬことなのだろう。けれどそれは勝手な理由で命を狙われたということではないのだろうか。どんな訳であっても、それは人として許されぬ所業だ。
マリステラの説明では細部までよく伝わらぬため、断定するのは早計だ。けれども、セイルは彼女が悪意にさらされたのだと思えてならず、またそれを許せないと思ってしまった。
騎士としての規範と、剣を握るより原始的な怒りとがぶつかり合う。
平等であれ。冷静であれ。己を律する声は、潮の轟きに呑まれて遠ざかっていく。
「崖に吊って、溺れさせようとしたんですよ」
「そうなの? でもわたし、溺れないわ」
その無垢な響きに、胸の奥で火花が散る。
──そういう問題ではない。
「それは……あなたなら、そうかもしれませんが。けれどもし普通の人間だったなら──だからこそ、そんなやり方を許していいはずがない」
セイルの声音に込められたそれは、怒りだった。彼女に向けられたものではなく、彼女を踏みにじった者たちに対するものだ。
マリステラは、瞬きをした。
「あなた、わたしのために怒ってくれてるのね?」
「当然です」
ためらいもなく返ってきた声に、マリステラはぱっと笑った。
濡れた頬に、潮風と一緒に熱が差し込んでくる。
「そんなふうに言われたら、わたし──あなたのこと、好きになっちゃいそう!」
セイルは、一瞬言葉を失った。
顔をまっすぐ覗き込んでくる瞳は、深海のように澄んでいて、そして恐ろしいほどまっすぐで──抗えぬ引力が、そこにはあった。
そのとき──潮風を裂いて、砂を踏みしめる乾いた音が近づいてきた。
ペルシアスだ。その腕に寄り添うように、アンドレイナもいた。
彼らはこの浜辺に、どうやら散歩にでも来たらしかった。
しかしそこで目にしたのは葬ったはずの女と、この国の英雄の姿だ。
アンドレイナはまなじりを吊り上げて糾弾しようとし、異形に気づいて息を呑み込んだ。
「な、なによそれ、あなた、その姿……!」
喉が震え、声は軋んだ。
ペルシアスは、声を発することすら忘れていた。
彼の視線を奪ったものは──砂の上に尾を伏せる乙女。
滴をまとった青い髪が潮に濡れ、鱗はきらめいている。頬をかすめる一筋の水滴でさえ、宝石のようだ。
海の魔と語られてきた存在──人魚の姿が、そこにある。
その微笑みは、あまりに愛らしく、罪深いほど艶やかだった。
王子のなかで、はじめてマリステラに目を奪われた日のことがよみがえる。
そしてそのときに燃え上がった熱もまた、戻ってきてしまいそうだった。
「……マリステラ……」
名を呼んだ瞬間、アンドレイナの紅い爪が彼の腕に食い込んだ。
「ペルシアス様! あんな化け物のことなんて見ないで!」
けれどそんな言葉は、マリステラには届かなかった。
彼女はただ、セイルを見つめていたからだ。
「ねえ、あなたのお名前は?」
「……セイルです」
「ふうん、セイル! あのねえ、わたし、いいこと思いついちゃったの!」
その声に、セイルの背筋がわずかに粟立った。
波音をやわらげるようなやさしさと、心臓を握り潰すような力が同居していたからだ。
「わたしと、一緒に来てくれる?」
砂に伏せた尾が、しなる。
水滴がきらめき、陽の残光を千の刃に変えて散らす。
それは水の中でしかありえぬはずのきらめきを陸の上に引きずり出す、禁忌の光景。そんなことが可能ならば、陸の輝きを海へ沈めることも容易いのかもしれなかった。
セイルは──否、と声を出そうとした。これに頷いてしまえば、取り返しのつかないことになると理性が告げている。だがその音は喉を過ぎる前に、潮の匂いにさらわれた。
この魔に抗う術を知ることは、もはや許されなかった。
彼は、ゆっくりと頷いた。
そうすれば、マリステラの顔が輝く。
「うれしい!」
彼女は声を弾ませて、思いきりセイルに抱きついてきた。
海の匂いが濃くなる。彼女が身を寄せ、指先が鎧の隙間をなぞる。
吐息が触れるほどの距離で、唇がやわらかく弧を描く。
「あなたに、海を分けてあげる」
囁きは、風よりも低く、潮よりも甘やかに響いた。
唇が触れる。彼女の吐息は潮の香を孕み、海の味が血の底まで染み渡るようだった。
「なっ……や、やめろっ……!」
ペルシアスの声が、惨めに裏返る。
「マリステラ! やめろ! 僕は……僕は、まだ……!」
「嘘よ! そんなの嘘! ペルシアス様は私を愛してるって言ったもの!」
アンドレイナの叫びが、歯ぎしりにまみれて飛ぶ。
だが、その声もやはりマリステラには届かない。
彼女はもう、海と目の前の男しか見ていなかった。
そして──ごう、と海鳴りが轟いた。
地の奥から響くような低い唸りが砂を這う。
暗い海面を裂き巨影が立ち上がり、水柱が空を穿つ。
泡が弾け、白い死の花を咲かせた。
それはまさに、海に棲む怪物であった。
膨れあがった胴は鯨にも似て、だが皮膚は獣の影を忍ばせている。
艶めく鱗は血を孕んだ鉄のごとく暗紅に光り、混沌を覆っていた。獅子の咆哮を宿した顎と、犬を思わせる尖った口吻。その奥で螺旋を描くかのような牙は、竜の吐息を忘れた古き刃のようだ。鼻孔からは泡と霧が噴き、喉の奥で雷が転がる。
前肢は海驢のようで、海を掻くたび岩盤をも砕くほどの重量感がある。
下半身は魚の影を引きずりながらも、肉厚の尾が二つに割れ、一度振れば波が山となる。
船を呑み、海を割り、潮を逆巻かせるもの──人々が伝承でしか知らなかったものが、いま彼らの目の前に現れていた。
「……っ、な、なに……あれ……」
アンドレイナの声がひび割れ、唇が蒼白に染まる。
ペルシアスは言葉を失い、ただその巨体を凝視していた。
膨れ上がった胴が海を押し分ける。
眼孔がぎらりと光り、吐き出された海水が雨のように降り注ぐ。
その吐息の一撃だけで砂が弾け、髪が乱れる。
「……嘘だ……こんなの……ただの伝承じゃ……」
王子が呟いた、その瞬間だった。
怪物は頭を振りかぶり、突進してきた。
砂浜を裂き、波を連れて押し寄せるその勢いは、まるで大地そのものが崩れ落ちるかのようだ。
巨大なひれが砂を薙ぎ払う。
二人の身体は砂を蹴る暇すらなく宙に浮かび、空を背に回転しながら沖へと飛ばされていった。
「きゃあああああああっ!」
「た、助けっ……ッ!」
だがその声も、次の波の咆哮に呑まれた。
彼らの指先が虚空を掻き、必死に何かを探る──だがそこにあるのは、形を持たぬ冷たい深淵だけだ。
「僕を助けろ! マリステラ! 好きじゃないなんて嘘だ! 君を愛しているから!」
「嘘よ! そんなの嘘! わたしを見て、ペルシアス様! 何があっても守るって言ったじゃない!」
水を吐き、肺が痙攣し、喉が裂ける。
声は濁音になり、命乞いは泡に変わる。
互いにしがみつき、引きずり、爪を立て──自分だけが浮かび上がろうと必死だ。
女の爪は男の頬を裂き、男の指は女の髪を掴み、沈める。
愛の名を踏みにじる手が、なお必死で生だけを奪おうとする。
「僕はっ……王子だぞ! 僕を先に助けろ!」
「いやあっ! 沈む、沈んじゃう……ッ!」
怪物の尾びれが海を叩き、荒波が牙を剥く。
二人の身体は波の渦に絡め取られていった。
「や、やだ……死にたく、ない……!」
「助けて、誰か……だれでも……ッ! まだ、死にたくな──」
最後に浮かんだ悲鳴は誰にも届かぬまま、散っていった。
セイルは、咄嗟に剣を探そうとした形のまま固まっていた。
突進してきた怪物はこちらには──正確にはマリステラには危害を加えなかった。それどころか砂浜に頭を横たえ、従順な子犬のようにじっと彼女を見つめている。
マリステラはその様子を見ながらころころと笑った。
「あら。寂しかったのね。よしよーし」
マリステラはその頭をそっと撫で、微笑んだ。
「ちょっと家出をしただけなのに、こんなに暴れるなんて思わなかったわ!」
彼は呆然とその光景を見ることしかできなかった。
「……彼らを……助けなくては」
声が震えた。それでも、騎士の誇りがセイルの背を押した。
どれほど卑劣な相手でも、命を見捨てていい理由にはならない。人間ならば、人間の法のもとで裁かれるべきだと思った。
「大丈夫よ」
しかし人魚は、やわらかな微笑を浮かべるだけだった。
「海の底にはね、たくさんの骨があるの。鯨の骨、魚の骨、名前も知らないものたちの骨。彼らは死んでも、海を育てるの。だからね、海で死ぬことは、何も悪いことじゃないのよ?」
騎士として積み重ねてきた矜持が叫び出しそうになりながら、セイルは息を呑む。
「ペルシアスとアンドレイナはなんの骨になるのかな。やっぱり恋の骨?」
彼女はころりと笑う。セイルは、本能的に恐怖した。
もうわかっていた。この存在は、美しさの皮をまとった異界だと。
やがてその唇が、呪文のような言葉をこぼす。
「人間ごっこは、もうおしまい。わたしが陸で生きるのではなくて──あなたに、海で生きてもらうの」
*
セイルは抗わなかった。抗えなかった。
その細い腕に抱きしめられ、深く青い海の中へと引きずり込まれていった。
冷たいはずの水は熱を帯び、血潮のように甘美で、死を孕んだ愛の匂いがした。
英雄と呼ばれた男は深海に抱かれながら、ひとつだけ悟った。
海に棲む怪物──それは紛れもなく、この腕、この瞳、この微笑みであると。
そして英雄は、自ら選んだ。
陸を捨て、名誉を捨て、呼吸を捨て──その魔に魅入られ、人ならざる世界へと足を踏み入れたのだ。
この国はその日、王子を失っただけでなく、国一の英雄をも失った。
人々は語るだろう。怪物が現れて、王子と姫を連れ去り、英雄までも飲み込んだ、と。
波が閉じ、潮の騒ぎは過ぎ去って、海は沈黙する。
地上には剣だけが、ひっそりと残されていた。