第九話:白銀の髪と明けの空
ペルセポリス・ネオに、夜明けの光が静かに差し込み始めていた。郊外の寂れた工業地帯の一角、放棄された緊急避難シャフトの出口から、二つの人影がおぼつかない足取りで現れた。ライラ・ザハニとカーヴェ・アシュラフィ。彼らは、地下深くの古代遺跡『アフラマズダの眠る場所』での死闘を生き延び、文字通り、地獄の底から生還したのだ。
昇り始めた朝日は、世界を柔らかいオレンジ色に染め上げ、新しい一日の始まりを告げていた。それは、皮肉なほどに美しく、平和な光景だった。だが、二人が纏う空気は、その穏やかな光景とは対照的に、硝煙と血の匂い、そして極度の疲労感を色濃く漂わせていた。
ライラは、近くにあった油の浮いた水たまりに、ふと自分の姿を映した。そこにいたのは、数日前までの自分とは明らかに違う存在だった。疲れ果て、泥と煤に汚れた顔。だが、それ以上に目を引いたのは、艶やかだった黒髪の中に、一筋、くっきりと浮かび上がった白銀色の髪。そして、右手の甲。そこには、まるで古代の呪印か、あるいは運命の烙印のように、複雑な幾何学模様が黒く焼き付いていた。「刻印」。アジダハーカとの交感と、力の行使が残した、消えることのない代償の証だった。
隣に立つカーヴェもまた、深い傷を負っていた。彼の黒いコートは引き裂かれ、その下には無数の切り傷や打撲痕が見える。先代から受け継いだという守人の護符は、彼の命を救った代償に砕け散り、その欠片すら残っていないだろう。だが、彼の瞳には、疲労の奥に、何かを成し遂げた者の静かな達成感と、守り人としての使命を再確認したかのような、新たな決意の光が宿っていた。
二人は、言葉を交わすことなく、互いの変化と払った犠牲の大きさを確認し合った。あの遺跡で経験したこと、失ったもの、そして得たもの。それらはあまりにも大きく、重く、言葉で表現できるものではなかった。
「…行くぞ」
先に沈黙を破ったのはカーヴェだった。「セーフハウスに戻り、まずは傷を癒やす」
ライラは頷いた。今は、ただ休息が必要だった。
公共交通機関を避け、カーヴェが予め手配していたらしい、目立たない旧式の電動バンに乗り込む。ペルセポリス・ネオの中心部へと向かう道中、車内には重い沈黙が流れていた。だが、それは気まずいものではなく、むしろ互いの存在を静かに確かめ合い、共有した過酷な時間を労うような、不思議な一体感のある沈黙だった。
アルダシールが用意したセーフハウス――古い倉庫を改造した隠れ家――に戻ると、二人はまず、互いの傷の手当てを念入りに行った。幸い、どちらも命に別状のある傷ではなかったが、全治には時間がかかるだろう。特に、ライラの身体は、アジダハーカのエネルギーとの交感によって、目に見える変化以上に、内部から深く消耗しているようだった。
それから数日間、二人は徹底的に休息を取ることに専念した。ライラは、消耗した生命エネルギーを回復させるため、カーヴェが知る守人としての呼吸法や瞑想法を試した。それは、遺跡のエネルギーと調和するための古代の技法でもあり、ライラの「刻印」と僅かに共鳴し、回復を助ける効果があるようだった。しかし、白銀の髪や手の甲の刻印が元に戻ることはなかった。ライラは、それが自分の一部となったことを、静かに受け入れ始めていた。
カーヴェは、自身の傷の手当てもそこそこに、ほとんどの時間をライラの回復のために費やした。食事を用意し、薬を交換し、そして、ライラが悪夢にうなされる夜には、ただ黙って傍に座っていた。彼の行動は、守人としての使命感だけではない、もっと個人的で、深い感情に基づいているようにライラには感じられた。だが、その感情の正体を、ライラはまだ問うことができなかったし、カーヴェもまた、それを言葉にすることはなかった。二人の間には、まだ見えない壁が存在していた。
休息と回復に努める一方で、アルダシールは遺跡から持ち帰ったデータ記憶装置の解析を着実に進めていた。セーフハウスの大型モニターには、彼が解読した情報が、驚くべき事実と共に次々と表示されていく。
『…おい、ライラ、カーヴェ、これはヤバいぞ…! あの詩の完全版だがな、アジダハーカの歴史やジャードゥーの起源だけじゃない。未来に関する、複数の予言が記されている!』
アルダシールの興奮した声が、暗号化通信で届いた。
『ただし、それは確定した未来じゃない。まるで量子論の多世界解釈みたいに、特定の『分岐点』での選択によって、未来が大きく変わる可能性を示唆しているんだ。そして、その分岐点の多くに、『刻印持ち』…つまり、お前の行動が関わってくるらしい。いくつかの未来予測は、かなり暗い…世界規模の破滅とか、新たな支配者の出現とか…警告に満ちている』
ライラは息を飲んだ。自分の選択が、世界の未来を左右するというのか? その重圧に、眩暈すら覚えた。
『それから、ラフマーニ博士の研究記録だ。こいつも掘り出し物だぞ。博士は、お前の他にも『刻印持ち』の素質を持つ可能性のある古代の血脈が、いくつか存在することを示唆している。数は極めて少ないだろうが、ゼロじゃない。イスファンディヤール社が躍起になって探しているのは、その血脈かもしれん』
『さらに、博士は力の制御法についても研究していた。特定の古代遺跡…今回のとは別の場所だ…に残る壁画や、失われたアーティファクトに、刻印の力を安定させ、増幅させるヒントがあると考えていたようだ。具体的な場所もいくつかリストアップされている』
新たな可能性と、新たな目標。ライラの心に、微かな希望の光が差し込んだ。
『最後に、カーヴェ、お前さんの一族に関する記録だ』アルダシールの声が、少しだけ真面目なトーンに変わった。『断片的だが、歴代の守人が、如何にして遺跡を守り、時には刻印持ちと協力し、時には…対立してきたかの記録が残っている。中には、お前さんが知らなかった事実もあるかもしれんぞ。例えば、数世代前の守人が、刻印持ちの暴走を止めるために、非情な決断を下した記録とかな…』
カーヴェは、その言葉に表情を変えなかったが、彼の拳が固く握り締められるのを、ライラは見逃さなかった。守人の歴史もまた、単純な英雄譚ではない、複雑で、時には残酷な真実を孕んでいるのだろう。
アルダシールからの情報は、ライラとカーヴェに、新たな視点と、進むべき道の可能性を与えてくれた。だが同時に、彼らが立ち向かうべき問題の複雑さと、責任の重さを改めて突きつけるものでもあった。
数日後、ペルセポリス・ネオの表の世界では、郊外で発生した「原因不明の大規模地盤沈下とエネルギー異常」に関する報道が、依然として続いていた。公式発表はあくまで「旧インフラの老朽化による事故」とされている。だが、ネットの深層では、目撃情報やリークされた断片的なデータに基づき、「古代遺跡の発見」「未確認飛行物体との戦闘」「巨大企業の陰謀」など、様々な憶測や陰謀論が、真偽不明のまま拡散されていた。
イスファンディヤール社は、公式には事故調査への全面協力を表明しつつ、水面下では巧みな情報操作を行い、自社への疑いを逸らそうとしているように見えた。アルダシールの監視によれば、彼らは遺跡崩壊によって大きな損害を受けたものの、組織の中枢は健在であり、秘密裏に活動を再開しているという。ライラの生存を確認した彼らは、新たな計画――おそらくはラフマーニ博士の研究に基づいた「第二の刻印持ち」の開発、あるいはライラを捕獲するための次なる作戦――を進めている可能性が高い。社内では、今回の失態を巡って権力闘争が激化している兆候も見られるという。混乱は、新たな脅威を生む温床となるかもしれない。
一方、アジ・ダハーカの末裔たちの動向は、全く掴めなかった。リーダーは意識不明のままイスファンディヤール社に回収されたという未確認情報もあるが、残党たちは完全に地下に潜伏してしまったようだ。彼らの狂信的な思想が消え去ったわけではない。新たな指導者の下で、再起を図っている可能性も十分に考えられた。
脅威は去っていない。むしろ、形を変えて、より巧妙に、ライラたちの前に現れるだろう。
身体がある程度回復すると、ライラは自身の新たな力と本格的に向き合い始めた。セーフハウスに併設されていた、元々は倉庫の荷物置き場だったであろう広いスペースを訓練場とし、カーヴェの指導…というよりは、静かな見守りの下で、力の制御訓練を開始した。
「刻印」の力は、以前とは比べ物にならないほど強力になっていた。遺跡のエネルギーと直接繋がったことで、ライラは周囲のエネルギーの流れをより敏感に感じ取り、それに干渉することができるようになっていた。黄金色のオーラを纏い、光のシールドを展開したり、指向性のエネルギー波を放ったりすることも、ある程度は可能になった。
だが、その制御はまだ完全ではない。感情の起伏――特に、怒りや恐怖――に呼応して、力が意図せず増幅されたり、不安定になったりすることがあった。また、集中すると、断片的な未来のビジョンや、周囲の人々の強い感情が、望まぬ形で流れ込んでくることもあった。この力を隠して、ペルセポリス・ネオの日常に戻ることは、想像以上に難しいかもしれない。
「力を恐れるな、ライラ」訓練中、カーヴェが静かに言った。「だが、力に溺れるな。刻印は、お前の一部だ。だが、お前の全てではない。制御の鍵は、力の源泉ではなく、お前自身の心の中にある」
カーヴェは、守人の一族に伝わるという、精神集中を高めるための呼吸法や、エネルギーの流れを整えるための古武術のような型を、ライラに教えた。それらは、ライラの力の安定に、確かに効果があるようだった。二人は、訓練を通して、師弟とも、戦友とも違う、独特の関係性を築き始めていた。
そんなある日、セーフハウスのドアベルが鳴った。カーヴェが警戒しながらドアを開けると、そこにはハッサンとサナーの姿があった。カーヴェが手配した別の隠れ家に匿われていた二人は、ライラたちが無事に戻ったことを聞きつけ、駆けつけたのだった。
「ライラさん! カーヴェさん!」
サナーは、ライラとカーヴェの無事な姿(とはいえ、傷だらけではあったが)を見て、涙を流して喜んだ。ハッサンもまた、以前の生意気な態度は消え、真剣な表情で深々と頭を下げた。
「本当に…ありがとうございました! 俺のせいで、こんな危険な目に…本当に、申し訳ありませんでした!」
「もういいのよ、ハッサン君」ライラは優しく微笑んだ。「あなたも、無事でよかった」
ハッサンは、今回の事件を通して、自分の浅はかさを痛感し、大きく成長したようだった。彼は、裏社会の仕事からは完全に足を洗い、これからは真面目に働いて、姉のサナーを支えて生きていくと、力強く語った。そして、近いうちに、ペルセポリス・ネオを離れ、別の都市で新しい生活を始めるつもりだとも。
別れの時、ハッサンはライラとカーヴェの手を強く握った。
「この御恩は、一生忘れません。いつか必ず、この借りは返します。もし、何か俺にできることがあったら、いつでも呼んでください!」
彼の瞳には、確かな決意が宿っていた。二人は、ハッサンとサナーの新たな門出を、温かく見送った。彼らとの出会いが、この過酷な戦いの中で、ライラの心にわずかな救いと希望を与えてくれたことは確かだった。
アルダシールとの関係も、変化していた。彼は莫大な情報解析料を請求してきたが(ライラは探偵業で稼いだクレジットの大半を支払う羽目になった)、その口調には以前のような単なるビジネスライクな響きだけでなく、どこかライラたちの身を案じるようなニュアンスが混じるようになっていた。
『おい、ライラ、無茶はするなよ。お前さんが死んだら、俺の貴重な情報源兼、カモが一人減るんでな』
憎まれ口を叩きながらも、彼は今後も必要であれば協力することを約束してくれた。彼もまた、この巨大な陰謀の存在を知り、単なる傍観者ではいられなくなったのかもしれない。
全ての情報が出揃い、身体も回復してきたところで、ライラとカーヴェは今後の行動について話し合った。
詩の予言が示す、分岐する未来。ライラ以外の刻印持ち候補の存在。力の制御法が隠されているかもしれない、別の古代遺跡やアーティファクト。そして、依然として脅威であり続けるイスファンディヤール・コーポレーション。
「…まずは、力を完全に制御できるようになることが最優先だ」カーヴェが言った。「ラフマーニ博士がリストアップしていた遺跡やアーティファクトを探すのが、現実的な選択だろう」
「ええ、そう思うわ」ライラも同意した。「でも、イスファンディヤール社の動きも無視できない。彼らが第二の刻印持ちを作り出そうとしているなら、それを止めないと、もっと危険なことになる」
「奴らの計画を阻止するには、証拠を掴み、公にする必要があるかもしれん。だが、それは我々だけでは難しい。協力者が必要だ」
「協力者…」ライラは考え込んだ。ファリード先生の古い知人、イスファンディヤール社内部の良心的な人物、あるいは、カーヴェの一族の、他の生き残りとか…?
「私の…守人の同胞は、おそらくもういないだろう」カーヴェは、ライラの考えを読んだかのように、静かに言った。「父の代で、多くが失われた。だが、失われた知識や、隠された拠点が、まだ世界のどこかに残っている可能性はある。それも、探していく必要がある」
やるべきことは山積みだった。ライラは、遺跡で得た情報と、自身の内に宿る力を、もはや個人的な探求のためだけではなく、もっと大きな目的のために使わなければならない、と強く感じていた。世界の調和、そして未来を守る。それが、「刻印持ち」としての、自分の新たな使命なのかもしれない。
「…探偵事務所に戻りましょう」ライラは言った。「表向きは、普通の探偵として日常を送りながら、水面下で情報を集め、力を磨き、そして、次に繋がる糸口を探す。それが、今の私たちにできることだと思う」
カーヴェは、黙って頷いた。
数日後、ライラとカーヴェは、警戒しつつも、中層街にあるライラの探偵事務所へと戻った。埃をかぶった事務所は、以前と何も変わらないように見えた。だが、そこにいるライラ自身は、あの遺跡での経験を経て、大きく変化していた。白銀の髪と黒い刻印は、その証だ。
事務所の片付けを終え、ライラが久々に合成コーヒーを淹れていると、ドアベルが鳴った。
(依頼人…?)
こんなに早く、依頼が来るとは思っていなかった。ライラは少し緊張しながら、ドアスコープを覗く。そこには、見慣れない中年の男性が、不安そうな表情で立っていた。身なりは質素だが、どこか知的な雰囲気を漂わせている。
ライラはドアを開けた。
「…あの、こちら、ライラ・ザハニさんの探偵事務所でよろしいでしょうか?」男性は、おずおずと尋ねた。
「ええ、そうですが…」
「私、アバス・ラフマーニと申します。先日、行方不明になったと報道されていた、遺伝子工学者の…弟です」
ライラは息を飲んだ。ラフマーニ博士の、弟?
「兄の遺品を整理していたところ、あなた宛ての、古いデータチップが見つかりまして…どうしても、直接お渡ししなければならないと思い、こちらへ伺いました。兄は…あなたに何か、重要なことを託そうとしていたようです」
男性は、震える手で、小さなデータチップをライラに差し出した。
ライラは、そのデータチップを、ゆっくりと受け取った。それは、新たな謎の始まりなのか、それとも、未来への道を示す、新たな羅針盤なのか。
隣には、カーヴェが静かに立っている。彼の瞳もまた、データチップと、それを持つライラを、真剣な眼差しで見つめていた。
ライラは、依頼人を事務所へと招き入れた。白銀の髪が、窓から差し込む朝の光を受けて、きらりと輝く。手の甲の黒い刻印が、これから始まるであろう、新たな物語の重さを物語っているかのようだ。
彼女の瞳には、過去の影はもうない。ただ、未来を見据える、強い光だけが宿っていた。
黄金の刻印を持つ探偵の、次なる章が、今、静かに幕を開けようとしていた。