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第七話:竜との対話、刻印の代償

ライラ・ザハニは、眩い光の奔流の中にいた。肉体の感覚は希薄になり、意識だけが、熱く脈打つ巨大なエネルギーの奔流――アジダハーカのエネルギーコア――の深淵へと、吸い込まれるように潜っていく。そこは、言葉も形も意味をなさない、純粋なエネルギーと情報が渦巻く混沌の海。物理法則を超越した、アジダハーカの精神世界そのものだった。


『グルルルル…オオオォォ…』


最初に感じたのは、圧倒的な怒りと苦痛の波動だった。それは、まるで傷つき、檻に閉じ込められた巨大な獣の咆哮のようだ。永い年月にわたる孤独、力の誤解と悪用への憤り、そして現在進行形で加えられている外部からの強制的な干渉(イスファンディヤール社や末裔たちの仕業だろう)に対する、激しい拒絶反応。コアの暴走は、アジダハーカ自身の苦しみの現れだったのだ。


それは、明確な意志を持つ個というよりも、制御を失った自然の猛威に近かった。荒れ狂うエネルギーの嵐が、ライラの脆弱な精神を飲み込み、押し潰そうとする。恐怖が全身を貫いた。このままでは、自分の意識も、この混沌の中に溶けて消えてしまうかもしれない。


(怖い…でも…逃げない!)


ライラは必死に自我を保った。ファリード先生の顔が、カーヴェの覚悟に満ちた瞳が、脳裏をよぎる。彼らの想いを無駄にはできない。そして、何よりも、この苦しんでいる存在を、このままにはしておけないという強い衝動が、ライラを突き動かした。


彼女は、自身の中に宿る「刻印」の力に意識を集中させた。それは、アジダハーカのエネルギーと共鳴し、調和するための鍵。ライラは、その力を増幅させ、自身の意志を、純粋な想いを、エネルギーの奔流に乗せて放った。


(聞こえますか、アジダハーカ…!)


言葉ではなく、想念で語りかける。


(私は、あなたを傷つけに来たのではない。あなたの声を聞きに来た。なぜ、そんなに苦しんでいるの? 何に怒っているの?)


最初は、拒絶の波動がさらに強まった。ライラの意識は、嵐の中の小舟のように翻弄される。だが、ライラは諦めなかった。


(あなたの力は、破壊のためだけにあるのではないはず。詩は…古代の記録は、あなたが世界の調和を保つ存在でもあると伝えている。その力を、思い出してほしい。破壊ではなく、調和のために使ってほしい…!)


ライラの純粋な呼びかけと、「刻印」が持つ本来の調停者としての波動が、徐々に、しかし確実に、荒れ狂うアジダハーカの意識に届き始めた。拒絶の波動が、わずかに揺らぐ。怒りの奥底に隠された、深い悲しみや孤独の感情が、ライラの意識に流れ込んでくる。


アジダハーカは、その強大すぎる力ゆえに、常に他者から畏怖され、利用され、あるいは封じ込められようとしてきた。真に理解され、受け入れられた経験は、ほとんどないのかもしれない。ライラは、その孤独に、自身の過去の孤独を重ね合わせた。


(分かるわ…あなたの気持ちが。私も、自分の力が怖かった。人から理解されず、一人で苦しんできた…でも、あなたは一人じゃない。私がいる。あなたの声を聞く者が、ここにいる…!)


ライラは、自身の「刻印」の力を、さらに深くコアのエネルギーへと浸透させていく。それは、まるで暴れる竜の逆鱗に優しく触れるかのような、繊細で危険な試みだった。だが、ライラの共感と調和への強い意志が、奇跡を起こし始めた。


アジダハーカの荒れ狂うエネルギーが、徐々に、その猛威を収め始めたのだ。怒りの赤黒い奔流が、次第に穏やかな青白い光へと変わっていく。ライラは、この瞬間を逃すまいと、ファリード先生から学んだ詩の知識、シームルグの心臓で得たエネルギーの流れに関する直感を総動員し、コアのエネルギーの流れを整え、安定させようと試みた。それは、まるで複雑な楽器を調律するかのような、あるいは、宇宙の呼吸そのものに合わせるかのような、高度な集中力と精神力を要する作業だった。


コアの間では、その変化が目に見える形で現れていた。不規則に明滅していたコアの光は、次第に穏やかで安定した青白い輝きを取り戻し、激しかった脈動も、ゆっくりとした、力強いリズムへと変わっていく。暴走寸前だったエネルギーの放出も収まり、空間を満たしていた危険な圧力が和らいでいく。


カーヴェは、コアの前に立ち、目を閉じて精神を集中させているライラの姿を、固唾を飲んで見守っていた。彼女の身体からは依然として黄金色のオーラが放たれているが、その表情は苦悶に満ち、額には玉のような汗が浮かんでいる。アジダハーカの強大なエネルギーとの交感と制御は、ライラの精神と肉体に、想像を絶する負担を強いているのだ。


「ライラ…!」


カーヴェは、彼女の消耗していく様子を見て、思わず駆け寄りそうになった。だが、今は邪魔をしてはならない。ライラは、人類の、そして世界の運命を左右しかねない、重要な調律を行っているのだ。


ライラの意識の世界では、アジダハーカのエネルギーはほぼ完全に鎮静化し、穏やかな流れを取り戻していた。だが、その代償は大きかった。ライラは、自身の生命エネルギーそのものが、コアの調律のために吸い上げられていくのを感じていた。まるで、ロウソクが燃え尽きるかのように、自分の存在が希薄になっていく感覚。


(…これが…力の代償…)


意識が朦朧とし始める。だが、あと少し。あと少しで、コアは完全に安定する。


その時、ライラの消耗しきった精神に、アジダハーカの意識が、今度は穏やかな波動となって流れ込んできた。それは、感謝の念のようでもあり、あるいは、未来への警告のようでもあった。


『…調停者よ…古き血脈の子よ…感謝する…』


『…だが、忘れるな…力は常に、光と影を持つ…汝の選択が、未来を紡ぐ…』


『…我は再び眠りにつこう…だが、汝との絆は…永遠に…』


アジダハーカの意識は、その言葉を最後に、静かにライラの精神から離れていった。まるで、嵐が過ぎ去った後の静かな海のように、コアのエネルギーは完全に安定し、穏やかな青白い光を放ち続けている。


ライラの意識が、ゆっくりと肉体へと引き戻されていく。最後に感じたのは、経験したことのないほどの、深い疲労感だった。


「…終わった…」


ライラは、かろうじてそれだけを呟くと、糸が切れたようにその場に崩れ落ちそうになった。


「ライラ!」


カーヴェが瞬時に駆け寄り、彼女の身体を支えた。ライラの顔は蒼白で、唇には血の気がなく、呼吸も浅い。そして、カーヴェは気づいた。ライラの艶やかだった黒髪の一部が、まるで雪が降りかかったかのように、白銀の色へと変わっていることに。さらに、彼女の右手の甲には、先ほどまで光り輝いていた「刻印」の紋様が、まるでタトゥーのように、肌に黒く焼き付いていた。それは、もはや消えることのない、力の代償の証だった。


「…すまない、ライラ…俺が…」カーヴェは、ライラの変貌した姿を見て、自責の念に駆られた。自分がもっと早く介入していれば、彼女がこれほどの代償を払うことはなかったのかもしれない。


「…いいの…カーヴェ…」ライラは、弱々しいながらも、カーヴェを見上げて微笑んだ。「これが…私の選んだ道だから…それに、これで…コアは安定したはず…」


ライラの言う通り、エネルギーコアは完全に安定を取り戻し、遺跡全体を満たしていた危険なエネルギーの波動も収まっていた。静かで、穏やかな空気が戻ってきた。


だが、その安堵も束の間だった。


「フハハハ! 見事だ、娘! 実に見事だ!」


背後から、甲高い、狂信的な声が響いた。振り返ると、コアの間へと続くゲートから、アジ・ダハーカの末裔のリーダーが、数名の部下と共に姿を現した。リーダーは仮面を外し、その素顔を露わにしていた。それは、意外にも若く、美しい女性の顔だったが、その瞳には狂気と熱狂の色が宿っている。


「お前の力、その『刻印』こそ、我らが待ち望んでいたもの! アジダハーカの力を完全に解放し、この穢れた世界を浄化し、我ら選ばれたジャードゥー能力者による新世界を築くための鍵だ!」


リーダーは両手を広げ、ライラに呼びかける。


「さあ、我らと共に来るのだ、運命の子よ! お前こそが、我らが新たな神となるのだ!」


だが、その言葉を遮るように、別の方向から冷徹な声が響いた。


「戯言を。その力は、我々イスファンディヤール・コーポレーションが管理し、有効活用するべきものだ」


ゲートの反対側から、全身サイボーグの指揮官が、手負いながらもまだ戦力を残している兵士たちを引き連れて現れた。彼の機械の目は、ライラを値踏みするように見つめている。


「被験者ヤスミン、いや、ライラ・ザハニ。君の能力は、我々の予測を遥かに超えていた。コアを安定させたその力、そして君自身の存在は、人類の未来にとって不可欠な資産だ。我々に協力すれば、君に相応しい地位と保護を約束しよう。抵抗は無意味だ」


二つの組織のリーダーが、コアの間で再び睨み合う。そして、その両者の視線は、最終的に、カーヴェに支えられながらも毅然と立つライラへと注がれた。彼らの目的は、もはやコアそのものではなく、コアを制御する鍵――ライラ自身へと完全に移行していた。


「…どちらも、ふざけたことを…」


カーヴェは、満身創痍の身体を引きずるようにして、ライラの前に立ち塞がった。彼の両手には、血に濡れたブレードが握られている。その瞳には、死を覚悟した守人の決意が燃えていた。


「ライラは、お前たちの道具ではない! 彼女を渡すくらいなら、ここで貴様ら全員を道連れにする!」


カーヴェは、最後の力を振り絞るように、戦闘態勢をとった。だが、彼の身体は限界に近い。一人で、二つの組織の残存戦力を相手にするのは、無謀としか言いようがない。


「カーヴェ…もういいわ」


ライラは、カーヴェの肩にそっと手を置いた。そして、彼を支えながら、一歩前に出た。彼女の身体は極度に疲労しているはずなのに、その瞳には、先ほどまでの弱々しさはなく、アジダハーカと対峙した時のような、静かで、しかし強い意志の光が宿っていた。


「…面白いことを言ってくれるわね、二人とも」


ライラは、両組織のリーダーを交互に見ながら、静かに言った。その声には、以前にはなかった威厳と、力の片鱗が感じられた。


末裔のリーダーが、恍惚とした表情で言う。


「そうだ、娘よ! 理解したか! お前は、我らと共に新たな時代を築くべき存在なのだ!」


サイボーグの指揮官も、冷静に分析するように続けた。


「合理的な判断を期待する、ライラ・ザハニ。我々と手を組むことが、君にとっても、世界にとっても、最善の選択だ」


ライラは、二人の言葉を黙って聞いていたが、やがて、ふっと息を吐き、そして、きっぱりと言い放った。


「断るわ」


その一言に、場の空気が凍りついた。


「…なんですって?」末裔のリーダーが、信じられないという表情で聞き返す。


「聞こえなかった? 私は、あなたたちのどちらにも与しない、と言ったのよ」


ライラは、自身の右手の甲に黒く焼き付いた「刻印」の紋様に視線を落とした。そして、再び顔を上げた時、その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。


「この力は…アジダハーカの力は、誰かを支配するためや、世界を破壊するためにあるんじゃない。それは、調和のための力。バランスを取り戻し、未来を守るための力。ファリード先生も、ラフマーニ博士も、きっとそう願っていたはずよ」


ライラは、疲弊しているカーヴェを庇うように、彼の前に立った。そして、両組織のリーダーとその部下たちを、真っ直ぐに見据えた。


「私は、この力を、私の意志で使う。誰にも利用されない。誰にも支配されない。それが、私の選択よ」


その言葉と共に、ライラの全身から、再び黄金色のオーラが静かに立ち昇り始めた。それは、以前のような制御不能な力の奔流ではなく、穏やかで、しかし圧倒的な存在感を放つ、調和された力の輝きだった。安定を取り戻したエネルギーコアが、ライラの意志に呼応するかのように、青白い光を一層強く放ち始める。


「…愚かな娘め!」末裔のリーダーが、怒りに顔を歪ませた。「ならば、力ずくでお前を我らのものとするまで!」


「…残念だ。だが、抵抗するならば、排除するしかない」サイボーグの指揮官も、冷徹に結論を下した。


イスファンディヤール社の兵士たちが、再び武器を構える。アジ・ダハーカの末裔たちが、ジャードゥーのエネルギーを高める。


遺跡の最深部、安定を取り戻したエネルギーコアの前で、最後の戦いの火蓋が、今まさに切られようとしていた。


ライラは、隣に立つカーヴェと視線を交わした。カーヴェは、傷つきながらも、力強く頷き返す。二人の間には、言葉を超えた深い信頼と、共に戦う覚悟があった。


ライラは深呼吸し、覚醒したばかりの「刻印」の力に、再び意識を集中させた。


(これが、私の戦い…私の未来…!)


黄金色の光を纏い、ライラは、カーヴェと共に、最後の敵へと立ち向かっていく。彼女の選択が、そして彼女の力が、どのような未来を紡ぎ出すのか。その答えは、まだ誰にも分からなかった。

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