第五話:古文書庫の囁きと竜の真実
眩い光の奔流が収まった時、ライラ・ザハニは数瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。全身を駆け巡った強烈なエネルギーの残滓が、まだ皮膚の下で微かに疼いている。目の前の巨大な黒曜石の扉は、音もなく完全に開かれ、その向こうに広がる未知の空間へと彼女を誘っていた。
「ライラ! 大丈夫か!?」
背後からカーヴェの緊迫した声が聞こえ、同時に力強い腕が彼女の肩を支えた。ライラははっと我に返り、ゆっくりと振り返る。カーヴェの顔には、安堵と、それ以上に強い驚愕の色が浮かんでいた。
「ええ…大丈夫。少し、消耗しただけ…」
ライラは掠れた声で答えた。身体は鉛のように重いが、意識は奇妙なほどクリアだった。腕に浮かび上がっていた「刻印」の光は消えている。しかし、自分の内側で何かが変わったという確かな感覚があった。まるで、これまで閉ざされていた回路が開き、未知のエネルギーが静かに脈打ち始めたかのような…。
「何か変わったことは? 痛みは? 記憶の混濁は?」
カーヴェは矢継ぎ早に問いかけ、ライラの瞳を覗き込んだ。その真剣な眼差しに、彼が本気で自分を心配していることが伝わってきた。
「…いいえ。ただ、少し…静かになった気がする。頭の中の囁き声が、今は止んでいる」
ライラはそう答えた。扉を開く直前まで聞こえていた、あの威厳に満ちた声は、今は沈黙している。扉を開くという「資格」を示したことで、遺跡の警戒が解かれたのだろうか?
「そうか…」カーヴェは何かを納得したように頷き、ライラから手を離した。「だが、油断はするな。ここから先が、本当の意味での『アフラマズダの眠る場所』だ」
二人は改めて、開かれた扉の向こうに広がる空間へと視線を向けた。
息を呑むような光景だった。そこは、これまでの遺跡通路とは全く異なる、荘厳さと神秘性に満ちた場所だった。巨大なドーム状の天井は、まるで夜空のように高く、壁一面には天井まで届くかのような巨大な書架が、整然と、しかし無限に連なっているように見える。それらの書架には、羊皮紙の巻物、粘土板や石板、そして水晶のように淡い光を放つ未知の素材で作られた記録媒体が、膨大な数、系統立てて収められている。人類の全歴史、あるいはそれ以上の知識が、ここに眠っているかのようだ。
空間の中央には、床からドーム天井まで伸びる、巨大な光の柱がそびえ立っていた。それは半透明で、内部では無数の光の粒子が複雑なパターンを描きながら、ゆっくりと回転している。まるで、この書庫全体の情報コアであり、同時にエネルギーコンデンサでもあるかのようだ。その柱から放たれる柔らかな光が、空間全体を神秘的に照らし出している。
空気は驚くほど清浄で、古紙の匂いではなく、微かに甘く、落ち着くような香りが漂っていた。静寂が支配しているが、それは死のような静寂ではない。数千年、あるいは数万年分の知識が凝縮され、静かに呼吸しているかのような、神聖さすら感じる空間だった。
「これが…『シームルグの叡智』…」
カーヴェが、畏敬の念を込めて呟いた。その名前は、古代ペルシャ神話に登場する、全ての知識を持つとされる賢鳥の名だ。
「詩の完全版は…どこに?」
ライラは、目の前に広がる情報の海を前に、途方に暮れそうになりながら尋ねた。ファリード先生が、ラフマーニ博士が、そして自分自身が追い求めてきたものが、このどこかにあるはずだ。だが、あまりにも膨大すぎる。
「通常のアクセス方法では、この書庫の表面的な情報しか得ることはできない」カーヴェは周囲を見回しながら言った。「センサーによるスキャンも、この空間を満たすエネルギーの影響で正確な測定は困難だ。おそらく、特定の資格を持つ者だけが、深層にある知識に触れることができるように設計されているのだろう」
特定の資格を持つ者。ライラは、自身の腕に残る微かな感覚に意識を向けた。扉を開いた時に感じた、あのエネルギーの高まり。自分の中の「刻印」が、この場所と共鳴しているのかもしれない。
ライラは、理屈ではなく、直感に従って歩き始めた。広大な書庫の中を、まるで何かに導かれるように進んでいく。カーヴェは黙って、数歩後ろから彼女についてきた。
しばらく歩くと、ライラは自身の内なる感覚が、特定の方向、壁際に並ぶ水晶の書架の一つに、微かに反応していることに気づいた。それはサイコメトリーとは明らかに違う、もっと直接的で、個人的な感覚。まるで、遠くから誰かに名前を呼ばれているかのような、あるいは、失くした自分の片割れを見つけたかのような、不思議な引力。
ライラはその水晶の書架の前に立ち、恐る恐る、その冷たく滑らかな表面に指先で触れた。
その瞬間、書架の表面に、淡い光の粒子が集まり、古代文字が浮かび上がった。そして、文字だけでなく、断片的なイメージや言葉が、直接ライラの頭の中に流れ込んできたのだ。
(…星々の塵より生まれしもの…)
(…虚空を渡る竜の息吹…)
(…最初の『唄』、世界の律動…)
それは詩の一節のようであり、同時に、この書庫に収められた知識へのアクセスログのようでもあった。ライラは、自分がこの「シームルグの叡智」と、直接対話しているかのような感覚に陥った。
「…どうした、ライラ?」
カーヴェが、ライラの異変に気づいて声をかけた。
「…分かるの。この書架が…私を呼んでいる。そして、話しかけてくる…詩の断片が、頭の中に…」
ライラは戸惑いながらも、自身の体験を伝えた。カーヴェは驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように頷いた。
「やはり、そうか。『印持ち』…お前のような存在だけが、この叡智の真髄に触れることができるのだな。俺の一族の伝承にも、そう記されていた」
「あなたの一族…?」
ライラはカーヴェを見た。彼はいつも自分の素性を隠してきた。だが、この場所では、彼もまた、自身の秘密を少しずつ解き放とうとしているのかもしれない。
「今は話している時間はない。お前のその感覚に従え。それが、我々を詩の完全版へと導くはずだ」
カーヴェはライラを促した。彼の瞳には、焦りの色と、そして長年追い求めてきたものに手が届こうとしているかのような、強い期待の色が浮かんでいた。
ライラは頷き、再び「刻印」の導きに意識を集中させた。それは、まるで体内を流れるコンパスのように、書庫の奥へ、奥へと彼女を誘っていく。途中、いくつかの書架に触れるたびに、新たな詩の断片や、アジダハーカに関する寓話のようなイメージが頭の中に流れ込んできた。
(…光と影の双子の竜…)
(…『刻印』の契約、調停者の宿命…)
(…星々の歌が乱れる時、災厄の龍が目覚める…)
断片的な情報は、どれも神秘的で、難解だった。だが、それらは確実に、ファリード先生が追い求めていた謎の核心へと繋がっているように感じられた。
そして、ついにライラの導きは、書庫の中央にそびえる光の柱のすぐ近く、ひときわ厳重に保護されたかのように見える、一段高い祭壇のような区画へと二人を導いた。そこには、他の記録媒体とは明らかに違う、特別なオーラを放つ物体が安置されていた。
台座の上に、静かに浮遊する、人間の頭部ほどの大きさの水晶体。それは単なる水晶ではなく、内部から虹色の複雑な光を放ち、まるで生きているかのように微かに脈打っている。周囲の空気は、この水晶体を中心に、より一層濃密なエネルギーで満たされていた。
「これだ…」ライラは確信した。「詩の完全版…アジダハーカの真実が、この中に…」
カーヴェもまた、その水晶体を畏敬の念のこもった目で見つめていた。
「『シームルグの心臓』…全ての知識が集約され、更新され続ける、この叡智の核だ。これに触れることは、通常ならば許されない。だが、お前ならば…」
ライラは唾を飲み込み、意を決して、その虹色の水晶体に、震える手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、これまでに感じたことのないほどの強烈なエネルギーと、膨大な情報が、奔流となってライラの意識に流れ込んできた。それは、痛みではなかった。むしろ、宇宙そのものと一体化するような、圧倒的な感覚。
ライラの脳裏に、壮大なビジョンが展開され始めた。
それは、時間も空間も存在しない原初の混沌から、最初の光が生まれ、宇宙が創造される瞬間から始まる、壮大な叙事詩だった。
エネルギーの渦の中から、純粋な意志と力を持つ存在――『アジダハーカ』と呼ばれるエネルギー生命体――が誕生する。彼らは一つではなく、複数存在し、それぞれが異なる性質と役割を持っていた。光と創造を司るもの、影と破壊を司るもの、そしてその両者の調和を保つもの。彼らは宇宙の法則そのものであり、星々の運行、生命の誕生と進化に、深遠な影響を与えていた。
やがて、彼らの力の一部、あるいはその影響の余波が、物質世界に干渉し始める。地球と呼ばれる惑星の知的生命体――人類――の中に、その力に感応し、微弱ながらも行使できる者たちが現れる。それが、『ジャードゥー』(異能)の起源だった。ジャードゥーは、アジダハーカの力の欠片であり、人類に進化の可能性をもたらしたが、同時に、争いや破壊の原因ともなった。
アジダハーカたちは、人類の未熟さと、その力がもたらす危険性を憂慮した。そして、彼らと人類との間に立ち、力の調和を保つための存在――『刻印を持つ者』――を生み出すための契約を、古代の人類の一部と結んだ。刻印は、アジダハーカのエネルギーと共鳴し、それを制御するための生体インターフェースであり、特定の古代の血脈にのみ、稀に発現する。刻印を持つ者は、アジダハーカとの調停者であり、制御者であり、そして時には、力の暴走を鎮めるための生贄としての役割をも担う、過酷な宿命を背負っていた。
叙事詩は、過去から現在、そして未来へと続いていた。科学技術が発展し、人類が宇宙へと進出しようとする時代。地下深くに眠る古代遺跡から漏れ出すエネルギーが、新たなジャードゥー能力者を増加させ、社会に混乱をもたらしていること。そして、未来への警告。もし、アジダハーカの本体とも言える、この遺跡の地下深くに眠る巨大なエネルギーコアが、悪意ある者によって制御され、あるいは暴走した場合、世界は再び原初の混沌と破滅に飲み込まれるだろう、と。
その情報の奔流の中に、ライラは二人の人物の記録を発見した。ファリード・ヌーリと、ラフマーニ博士。彼らは数年前、この『シームルグの心臓』にアクセスし、詩の真実と、それが示す未来の危険性を知ったのだ。
『…なんと恐ろしい…アジダハーカの力は、我々の想像を遥かに超えている…』ファリード先生の若い頃の声が、音声ログとして記録されていた。『イスファンディヤール社は、この力を兵器として利用するつもりだ…止めなければ…!』
『ラフマーニ、君の研究は危険すぎる! 特に、被験者"ヤスミン"…あの子は…あの子だけは、彼らの手に渡しはならん!』別のログでは、先生がラフマーニ博士を説得しようとしている。『彼女は最後の希望かもしれんが、同時に、世界を滅ぼしかねない最も危険な鍵でもあるのだぞ!』
そして、ラフマーニ博士自身の苦悩に満ちたメモも残されていた。『ファリードの言う通りだ…私の研究は、禁断の領域に踏み込みすぎていた…ヤスミンは、私の罪の結晶かもしれん…彼女の遺伝子に刻まれた古代のマーカーは、コアとの完全な共鳴を可能にするだろう…だが、それは彼女自身の崩壊をも意味する…イスファンディヤールは、彼女を制御できると考えているが、それは傲慢だ…彼女を…守らなければ…!』
ライラは、先生と博士の苦悩、そして自分に向けられた複雑な想いを知り、胸が締め付けられる思いだった。先生は、自分を純粋に娘のように愛してくれていた。だが、同時に、自分の持つ危険な可能性を知り、それをどう扱うべきか、深く悩んでいたのだ。ラフマーニ博士もまた、自身の研究への後悔と、ライラへの罪悪感に苛まれていた。
情報の奔流がようやく収まった時、ライラは精神的な疲労でふらつきながらも、水晶体から手を離した。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「…そうだったのね、先生…博士…」
彼女は、アジダハーカの正体、ジャードゥーの起源、「刻印」の意味、そしてイスファンディヤール社の真の野望――ライラを利用してアジダハーカのコアを制御し、世界を支配すること――その全てを理解した。
ライラが、知った情報をカーヴェに伝えようとした時、彼は静かに口を開いた。その表情は、これまでになく真剣で、どこか悲壮な覚悟を秘めているように見えた。
「…俺は、シームルグの守人だ」
カーヴェは、ライラの目を見て、はっきりと言った。
「古代より、この遺跡『シームルグの叡智』と、地下に眠るアジダハーカのコアが、悪用されぬよう監視し、時には介入してきた一族の末裔。それが、俺たち『守人』の使命だ」
ライラは驚いて、言葉を失った。カーヴェの謎めいた行動、遺跡に関する異常な知識、そして彼の超人的な戦闘能力。それら全てが、この告白によって説明された。
「ファリード先生は、我々『守人』の数少ない協力者の一人だった。彼は独自に詩の研究を進め、その危険性に気づき、我々と接触してきた。先生は、イスファンディヤール社の計画を内部から探り、それを阻止するために動いていた。そして、お前…ライラ、お前を見つけ出し、保護したのも、先生の決断だった」
「私を…保護?」
「そうだ。先生は、お前が『刻印持ち』であることに気づいていた。そして、お前がイスファンディヤール社に狙われることを恐れ、自分の助手として傍に置き、守ろうとしたのだ。同時に、いつかお前が自身の宿命と向き合い、その力を正しく理解し、制御できるようになることを願っていた」
カーヴェの言葉は、ファリード先生への最後の疑念を氷解させた。先生は、ライラを裏切ってなどいなかった。ただ、あまりにも重い秘密と責任を、一人で抱え込んでいたのだ。
「俺の使命もまた、先生と同じだ」カーヴェは続けた。「お前がその力を正しく理解し、暴走させることなく、アジダハーカとの調停者としての役割を果たせるようになるまで、守り導くこと。そして、アジダハーカのコアの暴走、あるいは悪用を、どんな手段を使っても阻止すること。それが、俺に課せられた宿命だ」
ライラは、カーヴェの瞳の奥にある、深い覚悟を見た。彼は、自分の意志とは関係なく、生まれながらにして重い責務を背負わされている。その点で、自分と似ているのかもしれない、とライラは思った。二人の間には、これまでとは違う、新たな信頼関係、あるいは共犯者としての絆のようなものが生まれ始めていた。
だが、その静かな瞬間は、突如として破られた。
ウゥゥゥーーーーーン…!
甲高い、耳障りな警報音のような振動が、静謐だった書庫全体に響き渡り始めたのだ。中央の光の柱が、それまでの穏やかな光から一転、激しく赤く明滅し始める。床が微かに揺れ、壁の水晶が不規則に光り出す。
「何!?」ライラが叫んだ。
同時に、ライラの通信端末に、アルダシールからの緊急通信が入った。ノイズが酷く、声は途切れ途切れだ。
『ライラ! カーヴェ! 聞こえるか!? まずいぞ! イスファンディヤール社の主力部隊が…ザザ…複数の坑道から…ザザザ…遺跡内に突入してきた! お前たちが『叡智の間』に…ザッ…到達したのを感知されたんだ! 連中、コアの…ザザ…強制活性化を狙ってる可能性が…! さらに…! アジ・ダハーカの末裔の連中もだ! 別のルートから…ザザ…急速に接近中! くそっ、通信が…! 遺跡が…戦場になるぞ!』
通信はそこで途絶えた。
「イスファンディヤール社と…アジ・ダハーカの末裔だと!?」
ライラは愕然とした。最悪のタイミングで、二つの脅威が同時にこの遺跡に迫っている。彼らの目的は、おそらく同じ。アジダハーカのコアの制御、あるいは解放。
「…時間の問題だと思っていたが、思ったより早かったな」カーヴェは冷静に状況を分析していた。「奴らは、この『心臓』がお前によって起動されたのを感知したのだろう。そして、コアの活性化が近いと判断した」
「どうすれば…!?」
「まず、情報を確保する!」ライラは即座に判断し、再び『シームルグの心臓』である水晶体に手を触れた。「詩の完全版と、アジダハーカに関するデータ…可能な限りダウンロードする!」
水晶体はライラの意志に応えるかのように、再び膨大な情報をデータパッドへと転送し始めた。だが、全ての情報をダウンロードするには時間がかかる。警報音はますます激しくなり、遠くから戦闘の音が聞こえ始めている。
「ライラ、もう時間がない!」カーヴェが叫んだ。「データは後でいい! 脱出するぞ!」
彼はライラの手を取り、書庫の出口へと向かおうとした。だが、その瞬間、開かれていた黒曜石の扉の向こうから、黒い戦闘服に身を包んだイスファンディヤール社の兵士たちが数名、姿を現した。彼らはライラとカーヴェを認めると、即座に武器を構えた。
「ターゲット発見! 包囲しろ!」
「くそっ、もうここまで!」カーヴェは舌打ちし、ブレードを抜いた。
戦闘が避けられない状況。だが、敵の一人が、ライラに向けて特殊なエネルギー兵器――おそらくジャードゥー能力を中和、あるいは暴走させるための兵器――を構えた瞬間だった。
ライラの中に眠っていた何かが、危険に反応した。
彼女は無意識のうちに、右手を兵士に向け、強く念じた。(やめて!)
その瞬間、ライラの右手の甲に、淡い黄金色の「刻印」の模様が閃光と共に浮かび上がった。そして、彼女の手のひらから、目に見えない力の壁のようなものが展開され、兵士が放ったエネルギー弾を完全に防いだのだ。
「なっ!?」
兵士たちは驚愕に目を見開いた。ライラ自身も、自分の身に起こったことに驚いていた。だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。彼女の内部で、遺跡のエネルギーと「刻印」がさらに強く共鳴し、制御できない力が溢れ出す。ライラは、まるで身体が勝手に動くかのように、もう一度右手を前に突き出した。
ドォン!という衝撃音と共に、ライラの手のひらから、目に見えるほどの微弱な衝撃波が放たれ、前方にいた数名の兵士を吹き飛ばした。
「…これは…私の力…?」
ライラは自身の右手の甲に浮かび上がる刻印を見つめ、呆然と呟いた。それはまだ不完全で、不安定で、自分の意志で制御できるものではない。だが、間違いなく、自分の中に眠っていた力が、覚醒の片鱗を見せた瞬間だった。
「ライラ! 今のうちだ!」
カーヴェがライラの腕を引き、敵が怯んでいる隙に、書庫の壁の一部へと駆け寄った。彼が壁の特定の模様に触れると、音もなく隠し通路への入り口が開いた。
「こっちだ! これは俺たち『守人』だけが知るルートだ!」
二人は隠し通路へと飛び込み、背後で通路が閉じる音を聞いた。通路は狭く、暗かったが、外の喧騒からは遮断されている。
「…今の力…あれがお前の『刻印』の力の一部だ」カーヴェは息を切らしながら言った。「まだ覚醒したばかりで不安定だが、お前にはアジダハーカのエネルギーを制御する素質がある」
「でも、どうすれば…」
「今は考えるな。まずはここから脱出し、態勢を立て直す。確保したデータがあれば、何か分かるかもしれん」
カーヴェはそう言って、通路の先を指した。この通路は、おそらく遺跡の外部、あるいは比較的安全な区画へと繋がっているのだろう。
だが、ライラは立ち止まった。彼女の頭の中には、先ほどダウンロードした詩のデータと、遺跡の構造に関する情報が渦巻いていた。そして、一つの可能性が、強い確信となって浮かび上がってきた。
「待って、カーヴェ」ライラは言った。「セーフハウスに戻るだけじゃダメかもしれない」
「どういう意味だ?」
「詩には…そして、ラフマーニ博士のメモにもあったわ。アジダハーカの力を正しく理解し、制御するためには、特別な場所へ行かなければならない、と。それは…エネルギーコアそのものがある最深部か、あるいは…力を制御するための古代の修練場のような場所…」
ライラは自身のデータパッドに表示された、遺跡のさらに深部の地図をカーヴェに見せた。そこは、今回の潜入計画では目標としていなかった、未知の領域だった。
「危険すぎる!」カーヴェは即座に反対した。「そこへ行けば、イスファンディヤール社や末裔の連中と鉢合わせになる可能性が高い! それに、お前の力が暴走する危険も…!」
「分かってるわ。でも、このまま逃げても、いずれ捕まる。それに、イスファンディヤール社がコアの強制活性化を試みているなら、時間がないかもしれない。私が行って、何か…何かできることがあるなら…!」
ライラの瞳には、恐怖を乗り越えた強い決意の光が宿っていた。彼女はもはや、守られるだけの存在ではない。自身の宿命と向き合い、自ら行動しようとしていた。
カーヴェは、ライラのその瞳をじっと見つめた。彼の表情は複雑だった。守人としての使命感、ライラへの個人的な感情、そして目の前の危険。それらが彼の心の中で激しくせめぎ合っているのが分かった。
「…行くのね」
長い沈黙の後、カーヴェは静かに言った。それは問いかけではなく、確認だった。
ライラは力強く頷いた。
「行くわ。それが、私の選んだ道だから」
彼女はデータパッドを握りしめ、自身の右手に残る、まだ熱を持っているかのような力の余韻を感じた。これから進む道が、どれほど険しく、危険なものになるのか、想像もつかない。だが、もう引き返すことはできなかった。
「…分かった」カーヴェは、ついに覚悟を決めたように言った。「ならば、俺も共に行こう。お前を一人で行かせるわけにはいかない」
彼はライラの隣に立ち、隠し通路のさらに奥、遺跡の最深部へと続くであろう暗闇を、二人で見据えた。
遺跡の警報音は、まだ鳴り響いている。外では、二つの組織による激しい戦闘が始まっているのかもしれない。だが、二人の間には、不思議な静けさと、共有された決意があった。
ライラの本当の戦いは、そして彼女の真の覚醒は、これから始まろうとしていた。