第三話:博士の影と古文書の囁き
夜明けの光は、ペルセポリス・ネオの空を白々と染め上げていた。ライラ・ザハニの事務所の窓から差し込むそれは、まるで舞台照明のように、部屋の中央で佇む彼女の姿を浮かび上がらせる。カーヴェがハッサンとサナーを連れて去ってから、数時間が経過していた。部屋にはライラ一人。昨夜までの喧騒が嘘のような静寂が支配していたが、それは決して安らぎをもたらすものではなかった。むしろ、耳鳴りのように纏わりつく不安と、新たなる決意の前の、息詰まるような緊張感に満ちていた。
ライラの視線は、デスクのモニターに映し出された二つの情報ウィンドウに注がれていた。一つは、ペルセポリス・ネオの地下深くに広がるという、封鎖された古代遺跡セクター『アフラマズダの眠る場所』の断片的な地図データと、それに付随する危険度警告。もう一つは、行方不明となっている遺伝子工学の権威、『ラフマーニ博士』に関する乏しい公開情報。
どちらを追うべきか。遺跡には、ファリード先生が追い求めた詩の完全版やアジダハーカの秘密、そして自分自身の謎を解く「鍵」があるかもしれない。だが、そこはイスファンディヤール・コーポレーションが厳重に管理する未踏査領域。潜入は不可能に近い。一方、ラフマーニ博士。彼ならば、あの忌まわしい研究ファイル、自分の過去、そして「刻印」について何かを知っている可能性がある。しかし、彼の行方は杳として知れず、数年前に忽然と姿を消している。まるで、意図的に全ての痕跡を消し去ったかのように。
ライラはモニターから目を離し、窓の外に広がる都市のパノラマを見た。無数の人々がそれぞれの生活を営むこの巨大な都市のどこかに、真実は隠されている。だが、それを手繰り寄せる糸は、あまりにも細く、脆い。
ファリード先生。彼への想いは、今や複雑な様相を呈していた。かつての純粋な思慕、溺愛に近いほどの信頼は、あのファイルを見た瞬間から、疑念と、裏切られたかもしれないという痛みによってかき乱されている。先生は、自分の「特異性」を知りながら、それを隠していたのだろうか? それは自分を守るためだったと信じたい。だが、もしそうでなかったとしたら…? 自分は、先生にとって何だったのだろうか?
考えを振り払うように、ライラは頭を振った。感傷に浸っている暇はない。どちらの道も険しいが、より具体的な手がかりがある方から当たるべきだ。ラフマーニ博士。彼の名前と元所属は分かっている。まずは、そこから糸を辿ってみよう。
決意を固めると、ライラの動きは早かった。彼女はまず、情報屋でありハッカーのアルダシールに、安全な暗号化回線で追加の依頼を送った。
『アルダシール。ラフマーニ博士のデジタルフットプリントを追ってほしい。退職後の足取り、特に金の流れ、通信記録、移動履歴…どんな些細な情報でもいい。それと、彼が住んでいた可能性のある生活圏を割り出してくれ。報酬は弾む』
返信はすぐに来た。
『博士だと? また面倒な名前が出てきたな。あの男は、イスファンディヤール社の中でもトップクラスの機密情報にアクセスできたはずだ。消されたか、あるいは自ら消えたか…。まあいい、面白そうだ。やってやる。だが、報酬は前金で半分貰うぞ』
ライラは苦笑しながら、指定された口座にクレジットを送金した。アルダシールはがめついが、その能力は確かだ。彼ならば、公的記録から削除された情報すら掘り起こせるかもしれない。
次に、ライラはファリード先生が残した膨大な研究資料のアーカイブにアクセスした。キーワード「ラフマーニ」「遺伝子工学」「イスファンディヤール」「刻印」などで検索をかける。先生の資料は混沌としており、目的の情報を見つけ出すのは砂漠で針を探すような作業だった。だが、数時間かけて、いくつかの関連性を示唆する断片的なメモや、先生がイスファンディヤール社と関わっていた頃(おそらくライラを引き取るよりも前の時期)の古い研究記録の一部を見つけ出すことができた。そこには、ラフマーニ博士の名前が、他の数名の研究者と共にリストアップされていた。プロジェクト名は墨で塗りつぶされているが、「古代生体エネルギー解析」「特異遺伝子マーカー」といった不穏な単語が散見される。先生はこの研究に関わり、そして何らかの理由で離反したのだろうか?
ライラは必要な情報をデータパッドにコピーし、装備の点検を始めた。プラズマガン、予備のエネルギーセル、ロック解除ツール、光学迷彩機能付きのクローク、複数の偽装IDチップ、そして小型のドローン。ラフマーニ博士の痕跡を追う過程で、どんな危険が待ち受けているか分からない。備えは万全にしておく必要があった。特に、イスファンディヤール社の影がちらつく以上、公的な組織との接触も避けられないかもしれない。
準備を終えたライラは、まずラフマーニ博士が退職前に住んでいたとされるペルセポリス・ネオの上層エリア、天空回廊アスマン・ラーフに程近い高級居住区へと向かった。中層街の猥雑さとは対照的に、そこは空気清浄システムが行き届き、緑豊かな空中庭園や洗練されたデザインの高層マンションが立ち並ぶ、清潔で静謐な空間だった。だが、その整然とした美しさには、どこか人間味のない冷たさが漂っている。
ライラは偽装IDを使ってエリア内に入り込み、博士が住んでいたとされるマンションを訪れた。コンシェルジュに丁重に尋ねるが、「数年前に退去された方については、個人情報保護のためお答えできません」と、マニュアル通りの回答しか得られない。周辺の住民に聞き込みを試みるも、皆一様に無関心か、あるいは警戒心を露わにするだけだった。上層の住人たちは、下層や中層からの訪問者を快く思わない傾向がある。
次に、博士が関わっていた可能性のある学会や研究機関のリストを頼りに、関係者に接触を試みた。だが、ここでも壁は厚かった。「ラフマーニ博士? 確かに優秀な方でしたが、退職後の消息は…」「彼は少し、その…孤立していたというか、ご自身の研究に没頭されるタイプでして」「イスファンディヤール社を辞めた後のことは、我々も詳しくは…」 口を揃えたような曖昧な返答。まるで、博士の存在そのものが、タブーであるかのように。
情報収集は難航した。博士はまるで、ペルセポリス・ネオのデジタルな記録からも、人々の記憶からも、その姿を注意深く消し去っているかのようだ。あるいは、誰かによって消されたのか。背筋に冷たいものが走る。
数日間、地道な聞き込みとデジタル記録の探索を続けたが、成果は芳しくなかった。焦りが募り始めた頃、アルダシールから暗号化されたメッセージが届いた。
『ライラ、ビンゴだ。ラフマーニの金の流れを追った。退職金の大半が、数年前に設立されたダミー会社を経由して、ペルセポリス・ネオ郊外の不動産購入に充てられている。場所は『ザクロスの谷』。例の博士が購入したのは、谷の奥にある古い邸宅だ。ただし、登記情報は巧妙に偽装されている。普通の追跡じゃまず見つけられんぞ。我ながら良い仕事だ』
ザクロスの谷。ライラはその名前を聞いたことがあった。数十年前、ペルセポリス・ネオの開発初期に、政府系の研究機関や関連企業の裕福な研究者たちが好んで住んだ高級住宅地だ。だが、都市の中心部が発展するにつれて人々は移り住み、今では半ば忘れ去られたゴーストタウンのようになっていると聞く。博士が隠遁生活を送るには、確かに都合の良い場所かもしれない。
『ただし、気をつけろ』アルダシールのメッセージは続いた。『お前の周辺の通信記録に、妙なノイズが混じり始めている。かなり高度な傍受だ。それと、お前がアクセスしようとした公的データベースのいくつかに、不審なアクセスブロックがかけられている。偶然じゃない。お前、マークされてるぞ。おそらく、イスファンディヤールだ』
アルダシールの警告は、ライラが感じていた不穏な気配を裏付けるものだった。巨大な組織の監視網が、確実に自分に迫っている。
ライラはザクロスの谷へ向かう決意を固めた。だが、公共交通機関を使えば、移動履歴は容易に追跡されるだろう。彼女は裏社会のコネクションを使い、記録に残らない旧式のガソリン駆動車両と、偽造された通行許可証を手配した。
ペルセポリス・ネオの喧騒を抜け、郊外へと車を走らせる。都市の輪郭が遠ざかるにつれて、景色は次第に荒涼としたものへと変わっていった。かつて緑豊かだった丘陵地帯は、酸性雨と開発の影響で所々地肌が剥き出しになり、放棄された工場や風力発電の残骸が点在している。空には相変わらず重苦しい雲が垂れ込め、世界全体が色褪せてしまったかのようだ。
数時間走り、ザクロスの谷へと続く古い道に入った。道は舗装が剥がれ、ひび割れている。両側には、かつては手入れの行き届いた庭園だったであろう場所に、今は背の高い雑草が生い茂り、蔦が絡まった廃墟同然の家々が点在していた。人影はほとんどなく、時折、野生化した犬や、警戒心の強い老人の姿が見えるだけだ。まるで時間が止まってしまったかのような、寂寥とした空気が漂っていた。
アルダシールから送られてきた座標を頼りに、谷の最も奥まった場所にある一軒の邸宅にたどり着着いた。そこは、周囲の家々よりもさらに荒廃が進んでおり、庭は完全に雑草に覆われ、壁は崩れかけ、窓ガラスの多くは割れていた。本当にここに、あのラフマーニ博士が住んでいたのだろうか?
ライラは車を少し離れた場所に隠し、徒歩で邸宅に近づいた。人の気配はない。正面玄関のドアは固く閉ざされている。裏手に回り、割れた窓から内部を窺う。中は薄暗く、埃っぽい。家具は残っているようだが、人の住んでいる気配はない。パリサの証言通り、博士はここを去った後なのだろう。
ライラが邸宅の周囲を調べていると、不意に背後から声がかかった。
「…そこで何をしているんだい?」
振り返ると、隣の家の庭先と思われる場所に、一人の初老の女性が立っていた。痩せた体に、古風な作業着を着て、手に剪定ばさみを持っている。白髪交じりの髪を無造作にまとめ、鋭い観察眼でライラを値踏みするように見ている。顔には深い皺が刻まれているが、その瞳の奥には知性と、長年この土地で生きてきた者特有の頑固さが窺えた。
「すみません、人を探しているんです。ラフマーニ博士という方を…以前、こちらにお住まいだったと聞いて」
ライラは警戒しつつも、正直に目的を告げた。嘘をついても、この女性には見透かされそうな気がした。
女性は眉をひそめ、ライラをじろじろと見た。
「ラフマーニ…ああ、あの引きこもりの博士か。あんたは、その人の何なんだい? 家族かい? それとも…追っ手かい?」
「探偵です。個人的な依頼で、彼の消息を探しています。ご迷惑でなければ、何かご存知ないかと思いまして」
女性――パリサと名乗った――は、しばらくライラの目を見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。
「探偵ねぇ…まあ、あの博士なら、誰かに追われていてもおかしくはないかもしれんね。いつも何かに怯えているようだったから」
パリサは剪定ばさみを置き、ライラを手招きした。彼女の家の小さなテラスに招き入れられ、ハーブティーをご馳走になった。警戒心はまだ解けていないようだが、退屈な隠遁生活の中で、久しぶりに現れた訪問者に多少の興味を抱いたのかもしれない。
「ラフマーニ博士は、そうさね、ここに引っ越してきたのは3年ほど前かね。ほとんど家から出ず、誰とも口を利こうとしなかった。たまに見かけても、いつも周囲を警戒して、何かに怯えているような…そんな様子だったよ」
「何か研究をされていた様子は?」
「さあね。夜中に明かりがついていることはよくあったが、何をしていたのかは…。ただ、時々、奇妙な機械音や、動物の鳴き声のようなものが聞こえてくることがあってね。気味が悪かったよ」
「動物の鳴き声?」
「ああ。何かの実験でもしていたのかもしれんね。あの人は元々、遺伝子工学の専門家だったんだろう? イスファンディヤール社とかいう、あの胡散臭い大企業にいたって話じゃないか」
パリサは吐き捨てるように言った。彼女自身も元研究者であり、巨大企業に対して良い感情を持っていないようだ。
「それで、博士はいつ頃からいなくなったんですか?」
「半年…いや、もう少し前かね。ある日、ぱったりと姿を見せなくなったんだよ。夜逃げでもしたのか、それとも…誰かに連れて行かれたのか。まあ、あの様子じゃ、どちらもあり得る話さね」
パリサの話から、博士が極度の恐怖と孤独の中で生活し、そして謎の失踪を遂げたことが窺えた。彼は一体、何から逃げようとしていたのだろうか?
「…あのお宅、少し中を見せていただくことはできませんか? 何か手がかりが残っているかもしれない」
ライラはダメ元で頼んでみた。
パリサはしばらく考え込んでいたが、やがて溜息をついた。
「…まあ、いいだろう。どうせ空き家だ。ただし、荒らしたりするんじゃないよ。もし何か見つけたら、私にも教えるんだ。あの博士が何をしていたのか、私も少し気になっていたからね」
パリサの意外な許可を得て、ライラは再び博士の邸宅へと向かった。裏手の窓から慎重に内部に侵入する。家の中は、パリサの言う通り、生活の痕跡がそのまま残されていた。飲みかけの合成コーヒー、読みかけのデータパッド、散らかった衣類…。しかし、研究に関する書類や機材は、見事に持ち去られているか、あるいは破壊されている。博士自身が処分したのか、それとも失踪後、何者かが侵入して持ち去ったのか。
ライラはデスク周りを重点的に調べ始めた。椅子に腰掛け、目を閉じてサイコメトリーを発動させる。指先から、博士の残留思念が流れ込んでくる。それは、圧倒的な恐怖と焦り、そして絶望感だった。誰かに追われているという強いプレッシャー。何かを守らなければならないという強迫観念。そして、時折混じる、ファリード先生の名前と、ライラ自身のコードネーム「ヤスミン」に対する、後悔とも罪悪感ともつかない複雑な感情。
(先生…博士は、あなたと私のことを…)
残留思念は断片的で、明確な情報は得られない。だが、博士が書斎の特定の場所――古い書棚の一角――に強い意識を向けていたことが感じ取れた。ライラは書棚を調べ、指先で慎重に探る。そして、一つの偽装された書籍の背表紙が、わずかに動くことに気づいた。それを引き出すと、壁に埋め込まれた小さな電子金庫が現れた。
金庫は高度なセキュリティでロックされていたが、ライラの持つツールとスキルで、時間をかけて解錠することができた。中には、埃をかぶった小さな金属製の箱が一つと、折り畳まれた一枚の羊皮紙のような古い紙片だけが入っていた。
金属製の箱は、旧世代のデータ記憶装置のようだった。表面には何のラベルもなく、重々しい質感が、その中身の重要性を示唆しているかのようだ。
そして、手書きのメモ。使われている紙は特殊な加工がされており、インクもこの時代のものとは思えない古風なものだ。そこには、やはりあの古代文字に似た、しかし僅かに異なる書体で、詩の一節が記されていた。
『…虚無より生まれし影、光を喰らい、龍の顎開かれん
星々の涙、大地を濡らす時、古き封印は解かれる…』
詩の下には、走り書きのような文字で、現代語のメッセージが添えられていた。
『彼女を守れ。鍵は遺跡に。イスファンディヤールを信じるな。頼む、ファリード』
ファリード。このメモは、ラフマーニ博士がファリード先生に宛てて書いたものなのか? そして、「彼女」とは、やはり自分のことなのだろうか? 「鍵は遺跡に」――それは、地下遺跡セクター『アフラマズダの眠る場所』を指しているに違いない。
ライラが、メモとデータ記憶装置を手に取った、その瞬間だった。
キーン、という甲高い耳鳴りと共に、強い眩暈が彼女を襲った。視界が一瞬、白く点滅し、脳裏に直接、複雑な幾何学模様――以前にも感じた「刻印」の断片のようなイメージ――が焼き付いた。そして、燃えるような巨大なドラゴンの目が、一瞬だけ幻影として現れ、すぐに消えた。
「…っ!」
ライラは思わずよろめき、壁に手をついた。これは、いつものサイコメトリーの負荷とは違う。もっと根源的で、自分の内側から来るような、未知の感覚。まるで、自分の身体が、このデータ記憶装置や詩の言葉に共鳴しているかのようだ。
その異変と同時に、ライラの鋭敏な聴覚が、外の異常を捉えた。複数の車両が、谷の道を高速でこちらに向かってくる音。エンジン音からして、高性能な軍用車両に近い。そして、タイヤが砂利を踏む音。邸宅を取り囲むように停止した気配。
(追手…! イスファンディヤールか!?)
博士の家に罠が仕掛けられていたのか、それとも自分の動きが完全に捕捉されていたのか。どちらにしても、絶体絶命の状況だ。ライラはデータ記憶装置とメモをジャケットの内ポケットにねじ込み、プラズマガンを構え、脱出口を探そうとした。
だが、邸宅の玄関ドアが蹴破られ、武装した兵士たちが次々と突入してくるのが見えた。彼らの装備は、都市治安維持局のものではない。黒い戦闘服に身を包み、顔はフルフェイスヘルメットで覆われている。イスファンディヤール社の私兵部隊だ。
「ターゲット発見! 生け捕りにしろ!」
ヘルメットのスピーカーから、冷たい命令が響く。閃光弾が投げ込まれ、ライラは咄嗟に目を庇い、伏せた。銃声が響き渡り、壁や家具が破壊されていく。
(ここまでか…!)
数の差は圧倒的だ。ライラは必死に応戦するが、すぐに追い詰められる。背後からも兵士が回り込んできた。逃げ場はない。
兵士の一人が、非殺傷性のスタンロッドを構えてライラに迫る。ライラが最後の抵抗を試みようとした、その時。
屋根の上で、何かが砕ける音と、短い悲鳴が聞こえた。そして、次の瞬間、邸宅の天井の一部が轟音と共に崩れ落ち、黒い影が兵士たちの只中に舞い降りた。
カーヴェだった。
彼はどこから現れたのか、まるで予測していたかのように、完璧なタイミングで介入してきた。両手に短いブレードを持ち、旋風のように兵士たちの間を駆け抜ける。その動きは人間業とは思えないほど速く、正確無比だった。兵士たちの攻撃はことごとく回避され、逆に急所を突かれて次々と無力化されていく。ジャードゥーを使っている様子はないが、その戦闘能力は明らかに常軌を逸している。
「カーヴェ!」
「説明は後だ! 行くぞ!」
カーヴェはライラの手を取り、兵士たちの混乱を突いて、邸宅の裏手へと駆け出した。そこには、彼がどこからか調達してきたらしい、黒く塗装された旧式の大型バイクが隠されていた。
二人はバイクに飛び乗り、カーヴェがエンジンを始動させる。轟音と共にバイクが走り出し、邸宅の庭を突っ切って、谷の道へと飛び出した。背後からは、追手の車両が数台、猛スピードで追ってくる。激しいカーチェイスが始まった。
「なぜ、いつもあなたが現れるの!?」
ライラはカーヴェの背中にしがみつきながら叫んだ。
「お前が厄介事に首を突っ込むからだ、と言っただろう!」
カーヴェは冷静に答えながら、巧みな運転で追手の追跡をかわしていく。狭い谷道を猛スピードで駆け抜け、時にはオフロードに飛び出してショートカットする。
「博士のメモ…『彼女を守れ』ってあった。あれは、私のことなの?」
「…さあな。だが、お前が狙われているのは事実だ」
カーヴェはそれ以上答えようとしなかった。彼の横顔はヘルメットで隠れて見えないが、その声にはいつもの無感情さとは違う、何か硬質な響きが感じられた。
数十分の激しいチェイスの末、カーヴェは追手を完全に振り切ることに成功した。ペルセポリス・ネオの郊外にある、アルダシールが手配したと思われる隠れ家――古い倉庫を改造したセーフハウス――にたどり着いた時には、空は再び暗くなり始めていた。
バイクを降り、セーフハウスの中に入る。内部は殺風景だが、最低限の生活設備と、高性能な通信機器や解析用のコンピューターが備え付けられていた。
ライラはカーヴェに向き直った。
「説明して、カーヴェ。あなたは何者なの? なぜ、私の行く先にいつも現れるの? イスファンディヤールと何か関係があるの?」
カーヴェはヘルメットを脱いだ。その素顔は、整ってはいるが、どこか影があり、感情を読むのが難しい。彼はライラの目を真っ直ぐに見返した。
「…俺の目的も、お前と同じだ。真実を知ること。そして、イスファンディヤール社を…止めることだ」
「止める? あなた一人で?」
「一人ではない」カーヴェは静かに言った。「お前がいる」
その言葉の意味を、ライラは測りかねた。彼は自分を利用しようとしているのか? それとも、本当に協力者として見ているのか?
「博士が残したデータ記憶装置…中身を調べてみないと」
ライラは話題を変え、ジャケットから金属製の箱を取り出した。それを解析用のコンピューターに接続し、アルダシールに遠隔での解析を依頼する。
『おう、ライラ。無事だったか。こいつは…プロテクトが半端じゃないな。イスファンディヤール社の最高機密レベルだ。少し時間がかかるぞ』
アルダシールの声がスピーカーから聞こえる。
ライラは解析を待ちながら、博士が残したもう一つのもの――手書きのメモ――を広げた。
『彼女を守れ。鍵は遺跡に。イスファンディヤールを信じるな。頼む、ファリード』
「鍵は遺跡に」――ラフマーニ博士も、ファリード先生と同じ結論に達していたようだ。アジダハーカの秘密、詩の完全版、そしておそらくは「刻印」の謎を解く鍵は、あの地下遺跡セクター『アフラマズダの眠る場所』にある。
「彼女を守れ」――この言葉が、ライラの胸に重くのしかかる。それは、自分自身のことなのか? それとも、他に守るべき「彼女」が存在するのか? ファリード先生は、自分に何かを託そうとしていた?
イスファンディヤール社への不信感は、もはや疑いようのないものとなっていた。彼らは、アジダハーカの力を、そしておそらくは「刻印」を持つ者を、危険な目的のために利用しようとしている。ファリード先生も、ラフマーニ博士も、その陰謀に気づき、抵抗しようとして、消されたのかもしれない。
ラフマーニ博士の捜索は、結果的に新たな謎と、より大きな危険をライラにもたらした。だが、同時に、進むべき道も明確になった。
地下遺跡セクター『アフラマズダの眠る場所』。
そこへ潜入し、真実を掴むしかない。
ライラはコンピューターのモニターに、遺跡の古い地図データと、入手可能な限りの潜入ルートに関する情報を表示させた。複雑な構造、厳重な警備システム、そして未知の危険。生半可な覚悟で挑める場所ではない。
「…行くのね、遺跡に」
静かな声がした。いつの間にか、カーヴェがライラの隣に立っていた。彼の視線もまた、モニターの地図に注がれている。その瞳の奥に、ライラは初めて、彼自身の目的、あるいは宿命のようなものの一端を見た気がした。
「ええ」ライラは頷いた。「そこに行かなければ、何も分からないから」
「危険すぎる。イスファンディヤールも、アジ・ダハーカの末裔も、あの場所を狙っている」
「それでも行くわ。あなたも来るんでしょう?」
ライラの問いに、カーヴェは答えなかった。ただ、モニターに映る遺跡の深部を、険しい表情で見つめているだけだった。
セーフハウスの窓の外では、ペルセポリス・ネオの夜が始まろうとしていた。無数の光が闇を飾り立てる、この巨大な都市の地下深くで、古代からの秘密が、今も静かに息づいている。ライラの新たな、そして最も危険なミッションが、始まろうとしていた。