第二話:刻まれた過去と動き出す影
ペルセポリス・ネオに、静かな夜明けが訪れていた。酸性雨は止み、分厚い雲の切れ間から、久しく忘れていたような淡い陽光が差し込み始めている。窓の外では、都市のメカニズムが再び活発に動き出す音が聞こえ始めていた。浮遊車両の滑走音、気送管を貨物が移動する低周波音、そして遠くから聞こえる市場の喧騒。嵐の後の静けさは、しかしライラ・ザハニの事務所の中までは届いていなかった。
部屋の空気は、徹夜明け特有の倦怠感と、張り詰めた緊張感で満たされていた。ソファベッドでは、ハッサンがまだ眠りに落ちている。彼の呼吸は穏やかだが、顔に残る痛々しい傷跡が、昨夜の出来事の激しさを物語っていた。傍らには、姉のサナーが椅子に座ったまま、心配そうに弟の寝顔を見守っている。彼女もまた、一睡もしていないのだろう、目の下には濃い隈が刻まれていた。
そしてライラは、デスクの前に座ったまま、モニターに表示されたデータから目を離せずにいた。それは、昨夜、アジ・ダハーカの末裔のアジトから回収したデータチップに入っていた、おびただしい量の情報の一部。古代文字で記された詩の新たな断片、組織の活動記録らしきもの…そして、その中に紛れ込んでいた、一つのファイル。
『被験者ファイル:コードネーム"ヤスミン"』
そのファイルを開いた瞬間、ライラは全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。そこに記録されていたのは、紛れもなく自分自身の詳細な情報だったからだ。
ライラ・ザハニ。年齢、身体的特徴、血液型、虹彩パターン…。そして、彼女の持つジャードゥー(異能)――サイコメトリーに関する精密な分析データ。能力の発現時期、トリガーとなる条件、精神的負荷の度合い、そして、通常のサイコメトリー能力者とは異なる特異なパターンを示す脳波活動。
さらに読み進めるうちに、ライラの呼吸は浅くなっていった。そこには、彼女自身も知らなかった、あるいは忘れていた過去の一部が記されていた。原因不明の高熱と意識障害に繰り返し襲われた幼少期。その際に記録されたという異常な生体エネルギー反応。そして、結論として記された一文。
『本被験者は、アジダハーカ・エネルギーに対する極めて高い親和性を示唆する。遺伝子配列内に未解読のマーカー(古代由来の可能性)を確認。外部からの適切な刺激、あるいは内部要因による覚醒により、『刻印』が発現する可能性は92.7%と推定される』
刻印。昨夜、ハッサンが持っていた詩の断片にあった言葉。「魂の刻印持つ乙女」。それが、自分を指しているというのか?
そして、このファイルを作成したのは誰なのか? ファイルの最終更新日は数年前になっているが、作成者や所属機関に関する情報は巧妙に消去されている。だが、研究内容のレベルの高さ、使用されている専門用語から、巨大な研究機関、あるいは国家レベルの組織が関与していることは明らかだった。イスファンディヤール・コーポレーションか? それとも…?
何よりもライラの心を乱したのは、このファイルの存在そのものが示唆する可能性だった。自分の過去は、自分の能力は、何者かによって監視され、研究されていた? ファリード先生は、これを知っていたのだろうか? あの温和な笑顔の下で、自分に重大な秘密を隠していたというのか?
ファリード先生への絶対的な信頼が、音を立てて崩れていくような気がした。彼への思慕、純愛にも似た感情は、今は行き場を失い、不信感と裏切られたような痛みに変わろうとしている。先生は自分を守ろうとしていた? それとも、自分を研究対象として見ていた?
「う…」
ソファベッドから、ハッサンの呻き声が聞こえた。彼がゆっくりと目を開ける。
「ハッサン!」
サナーが駆け寄り、弟の額に手を当てた。
「姉ちゃん…? ここは…」
ハッサンはまだ朦朧としているようだったが、ライラの姿を認めると、気まずそうに視線を逸らした。昨夜の出来事、そして自分の浅はかな行動が招いた結果を思い出したのだろう。
ライラは深く息を吸い込み、混乱した感情を心の奥に押し込めた。今は感傷に浸っている場合ではない。やるべきことがある。
「気分はどう、ハッサン君?」
努めて冷静な声で尋ねる。
「…だ、大丈夫。アンタが助けてくれたんだろ? 悪かったな、姉ちゃんにも、アンタにも、迷惑かけて…」
「謝罪は後でいいわ。それより、昨日のことを詳しく聞かせてほしい。特に、あのデータチップをどうやって手に入れたのか」
ライラはモニターから目を離し、ハッサンに向き直った。彼の証言が、この不可解な状況を解き明かす鍵になるかもしれない。
だが、その時だった。事務所のドアが、ノックもなしに静かに開いた。そこに立っていたのは、黒いロングコートのフードを目深にかぶった男――カーヴェだった。彼はいつものように音もなく現れ、部屋の中の重苦しい空気を一瞥した。
「…ライラ。少し、話がある」
カーヴェの声は低く、感情が読み取れない。だが、その瞳の奥には、ライラの動揺を見透かしているかのような鋭い光が宿っていた。
ライラはサナーに目配せし、ハッサンの傍にいるように促した。そして、自身は立ち上がり、カーヴェと共に事務所の隅、他の二人には聞こえないであろう場所へと移動した。
「何の用? 昨夜の報酬なら、後で必ず振り込むわ」
ライラの口調には、無意識の内に棘が混じっていた。カーヴェの存在は頼りになるが、同時に彼の謎めいた態度、全てを知っているかのような素振りが、今のライラには苛立ちを覚えさせた。
「報酬の話ではない」カーヴェは静かに首を振った。「お前のことだ。随分と顔色が悪い。昨夜拾った『お土産』に、何か面白いものでも見つけたか?」
やはり、見抜かれている。ライラは唇を噛んだ。この男の前では、感情を取り繕うのは難しい。
「…見たんでしょう? あのデータチップの中身を。私が解析する前に」
ライラの問いに、カーヴェは肯定も否定もしなかった。ただ、フードの奥の瞳が、わずかに細められたように見えた。
「あなたは何を知っているの、カーヴェ? あのファイル…私の情報が、なぜあんなところに? ファリード先生は…先生は、これを知っていたの!?」
感情が抑えきれず、声が震える。カーヴェはしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「…俺が知っているのは、断片だけだ。お前が何者で、どんな過去を持っているのか、その全貌を知る者は少ない。ファリード先生も、その一人だったのかもしれん」
「『だったのかもしれない』ですって? 曖昧な言い方をしないで!」
「事実だ。先生は、多くの秘密を抱えていた。それは確かだ。だが、それがお前を守るためだったのか、それとも別の目的があったのか…今の俺には判断できない」
カーヴェの声は淡々としていたが、その言葉の端々に、彼自身もまた何かを探し求めているような響きがあった。
「だが、一つだけ言えることがある」カーヴェは一歩近づき、ライラの目を真っ直ぐに見据えた。「あのファイルは、お前が追うべき真実の一部だ。お前の過去、お前の力…それらは全て、ファリード先生が追っていた謎、アジダハーカと詩の秘密に繋がっている」
「…どういう意味?」
「今はまだ話せない。だが、忘れるな。お前は一人ではないということだ」
その言葉は、慰めにも、あるいは別の意味にも取れた。ライラはカーヴェの真意を図りかね、疑念の目で彼を見つめた。
カーヴェはふっと視線を逸らし、窓の外に目を向けた。
「アジ・ダハーカの末裔は、奪われたデータを取り戻そうと躍起になるだろう。特に、詩に関する情報と…『刻印』を持つ可能性のあるお前の存在を、彼らは確実に認識したはずだ」
彼の口から出た「刻印」という言葉に、ライラの心臓が再び大きく跳ねた。
「奴らは手段を選ばん。昨夜の襲撃は、ほんの始まりに過ぎん。お前は狙われている、ライラ。次に接触してくるときは、生け捕りが目的だろう」
カーヴェの言葉は、冷たい現実を突きつけてきた。
「どうすればいいの…?」
「選択肢は二つ。一つは、全てを捨てて身を隠すこと。ペルセポリス・ネオを離れ、追手の届かない場所へ行く。俺が手配することもできる」
その提案は、一瞬、魅力的に響いた。この複雑な謎と危険から逃れられるのなら…。だが、ライラはすぐに首を振った。
「逃げない。ファリード先生を見つけ出すまで…真実を知るまで、私は止まらない」
「…そう言うと思った」カーヴェは微かに口元を緩めたように見えた。「ならば、選択肢はもう一つだ。備えろ。そして、さらに深く潜れ。真実を知りたければ、危険を冒すしかない」
「どうやって?」
「手始めに、そのデータチップの出所を探ることだ。あの少年から詳しく話を聞け。そして、詩の解読を進めること。ファリード先生の研究資料が手掛かりになるはずだ。だが、急げ。時間はあまり残されていないかもしれん」
カーヴェはそれだけ言うと、再び影のように音もなく事務所から出て行った。嵐のような彼の存在が消え去ると、部屋にはまた重苦しい沈黙が戻ってきた。
ライラは大きく深呼吸し、気持ちを切り替えた。カーヴェの言葉は謎めいていたが、やるべきことは示してくれた。今は、目の前のことから一つずつ片付けていくしかない。
彼女はハッサンの元へ歩み寄った。彼は少し回復したのか、ソファベッドの上に身を起こしていた。
「ハッサン君、話せる?」
ハッサンはライラの顔を真っ直ぐに見られず、俯いたまま頷いた。
「昨日のこと、本当に悪かった…俺、金が欲しくて…姉ちゃんに楽させてやりたくて…それで、つい魔が差したんだ」
「気持ちは分かるわ。でも、あなたが手を出したのは、普通のデータじゃなかった。あのチップ、どこで手に入れたの? 正直に話して」
ハッサンの顔がさらに曇った。
「…ジール・ザミーンの、その…『夜のバザール』って知ってるか?」
「非合法な情報や物品が取引される闇市場ね。聞いたことはあるわ」
「そこでさ、一週間くらい前かな…妙な格好したジジイが、古いデータストレージをいくつか売りに出してたんだ。誰も見向きもしなかったんだけど、俺、なんとなく気になって、一番安いやつを一つだけ買ってみたんだよ。ただのガラクタだと思ったんだけど…」
ハッサンは言葉を続ける。
「家に帰って中身を見てみたら、なんだかヤバそうなデータが色々入っててさ。その中に、あの古代文字みたいなやつ…詩?…のデータもあったんだ。何かのゲームのデータかとも思ったけど、調べてみたら、最近『アジ・ダハーカの末裔』って連中が、そういう古代のデータだか詩だかを血眼になって探してるって噂を聞いて…それで、もしかしたら高く売れるんじゃないかって…」
「それで、彼らに接触したのね? どうやって?」
「ネットの裏掲示板で、奴らのコンタクト先を見つけたんだ。データをちらつかせたら、すぐに食いついてきて…それで、昨日の取引になった。俺、姉ちゃんがファリード教授の助手だったってことを言えば、信用してもらえるかと思って…そしたら、奴らの態度が急に変わって…」
ハッサンの声には、後悔と恐怖が滲んでいた。彼は自分の浅はかさが、姉やライラをも危険に晒したことを理解し始めていた。
「そのデータを売っていた老人…どんな人物だったか、詳しく覚えてる? それと、夜のバザールのどこで彼を見たか」
「えっと…背が低くて、猫背で…顔にしわが多くて、片方の目が白く濁ってたような…。服装は、ボロボロのローブみたいなのを着てて、フードを深くかぶってた。場所は、バザールの奥の方、古い廃棄ダクトが集まってるエリアだったと思う。いつもいるわけじゃないみたいだけど…」
「分かったわ。ありがとう、ハッサン君。今はゆっくり休んで」
ライラはハッサンの肩を軽く叩いた。彼の情報は、重要な手がかりになるかもしれない。あのデータチップは、単に闇市場に流れただけではない。何者かが意図的に、あるいは偶然に、そこへ持ち込んだ可能性がある。その出所を探れば、ファリード先生の失踪や、自分自身のファイルの謎に繋がるかもしれない。
次にライラが取り掛かったのは、データチップに入っていた詩のデータの解析だった。モニターに古代文字を表示させ、ファリード先生が残した膨大な研究資料――データパッド、手書きのノート、音声記録――と照合していく。先生の資料は体系的に整理されているとは言えず、解読は困難を極めた。まるで、意図的に複雑なパズルにされているかのようだ。
「この文字の組み合わせ…先生のノートにあった記述と一致する。意味は…『星々の配列が…定められし時…』か。でも、この部分は…?」
ライラは見たことのない文字の組み合わせに首を捻った。先生の資料にも該当するものが見当たらない。アジ・ダハーカの末裔が持っていたデータは、先生の研究よりもさらに進んでいたか、あるいは異なる情報源から得られたものなのだろうか?
数時間、資料と格闘したが、完全な解読には程遠い。専門家の助けが必要だと判断したライラは、古い通信端末を取り出し、特定の番号をコールした。数回の呼び出し音の後、不機嫌そうな男の声が応答した。
『…あァ? 誰だ、こんな時間に人の安眠を妨害するのは』
「私よ、アルダシール。ライラ」
『ライラだと? ちっ、お前から連絡があるときは、大抵ロクなことじゃないんだ。何の用だ? またガラクタ同然の古代遺物の解析か? それとも、イスファンディヤール社のサーバーに穴を開けろとでも言うのか? 言っとくが、今の俺は休暇中だ』
アルダシール・バハドゥル。ペルセポリス・ネオの裏社会でその名を知られた、凄腕のハッカーであり、同時に古代技術や失われた言語にも異常なほど詳しい変わり者だ。性格は偏屈で皮肉屋だが、その腕は確かだった。ライラとは、過去にいくつかの事件で協力した縁があり、彼には少なからぬ「貸し」があった。
「休暇は残念だけど、少し知恵を借りたいの。あなた好みの『お宝』かもしれないわよ?」
ライラはモニターに表示された詩の一部をキャプチャし、暗号化してアルダシールに送信した。
『ほう…? これは…かなり古いな。アケメネス朝以前…いや、もっと遡るか? エラムか、あるいはそれ以前の未知の言語体系かもしれん。面白い。で、これをどうしろと?』
アルダシールの声に、わずかに興味の色が灯った。
「この言語の解析と、これが何の詩なのか、心当たりがないか調べてほしい。それと、もう一つ。このデータチップの出所を探りたいの」
ライラはデータチップの識別コードと、ハッサンから聞いた闇市場のディーラーに関する情報を簡潔に伝えた。
『…闇市場のデータチップに、こんな超古代言語の断片だと? キナ臭いな、ライラ。お前、またとんでもない厄ネタに首を突っ込んでるんじゃないだろうな?』
「さあ、どうかしら? ただの知的好奇心よ。で、引き受けてくれる?」
『…ったく、仕方ねえな。お前への『貸し』は、これでチャラだぞ。解析には時間がかかる。何か分かったら連絡する。それまで、厄介事に巻き込まれて死ぬなよ』
一方的に通信は切られた。ライラは苦笑し、端末を置いた。アルダシールは口は悪いが、約束は守る男だ。彼の協力が得られれば、詩の解読とデータチップの起源に光が見えるかもしれない。
その日の午後は、ハッサンの容態を見ながら、引き続きファリード先生の資料の整理と詩の解読に費やした。サナーは少し落ち着きを取り戻し、ライラを手伝ってくれた。彼女は助手として、先生の研究資料のどこに何があるかを把握していた。
「この記号…先生が『竜の目』と呼んでいたものです。アジダハーカの力の源泉を示すものだとおっしゃっていました」
「この一節は、先生が特に重要視していた部分です。『刻印を持つ者が現れし時、古き契約は成就する』…先生は、これが単なる比喩ではないと考えていたようです」
サナーの言葉は、ライラの心に新たな疑問と不安を投げかけた。ファリード先生は、どこまで知っていたのだろう? そして、「刻印を持つ者」とは、やはり自分のことなのか?
夕暮れが近づき、ライラが少し休憩を取ろうと事務所の外に出た時だった。中層街の雑踏に紛れようとした瞬間、背中に突き刺さるような視線を感じた。振り返るが、人混みの中に怪しい人物は見当たらない。だが、気のせいではない。明らかに誰かが、自分を見ている。
(監視…!)
カーヴェの警告が現実のものとなった。アジ・ダハーカの末裔が、もう動き出したのだ。ライラは平静を装いながら、人混みの中を歩き、建物の角を曲がった瞬間に走り出した。尾行を撒かなければならない。
複雑に入り組んだ路地を駆け抜け、市場の喧騒の中に紛れ込もうとする。だが、追手の気配は執拗にライラを追ってくる。複数いるようだ。彼らは連携し、巧みにライラを追い詰めていく。
ライラは人気の少ない廃工場地区へと誘い込まれる形になった。ここは見通しが悪く、隠れる場所も多いが、同時に逃げ場も少ない。
「…出てきなさい。無駄な抵抗は止めて、大人しく我々に協力すれば、危害は加えない」
背後から、冷たい声が響いた。ライラが振り返ると、そこには黒ずくめのローブを纏った三人の男女が立っていた。昨夜のアジトにいた連中とは違う顔ぶれだが、纏う雰囲気は同じだ。冷徹で、狂信的な光を瞳に宿している。
「『刻印』を持つ娘…我らが指導者はお前を待っておられる。お前こそが、アジダハーカの力を解き放ち、新しき世界を築くための『鍵』なのだ」
やはり、彼らはライラのことを知っている。そして、生け捕りにするつもりだ。
「何のつもりか知らないけど、人違いよ。私はただの探偵」
ライラはそう言いながら、密かにプラズマガンの安全装置を解除した。
「シラを切るな。我々はお前の能力も知っている。そのサイコメトリー…そして、お前の内に眠る更なる力をな。大人しく来れば、その力を正しく導いてやろう」
リーダー格の男が、一歩前に出る。
「断るわ」
ライラは即座に銃を抜き、男の足元に威嚇射撃を行った。プラズマ弾が地面を抉り、火花が散る。
「愚かな…! 生け捕りにしろ!」
男の号令と共に、三人が同時に襲いかかってきた。一人は両手からエネルギー弾のようなものを放ち、もう一人は驚異的なスピードで距離を詰めてくる。リーダー格の男は、両手を広げ、周囲の金属片を操り始めた。三人ともジャードゥー使いだ。
ライラはエネルギー弾を回避し、高速で迫る男の攻撃を紙一重でかわす。同時に、飛来する金属片を遮蔽物で防ぎながら、反撃の機会を窺う。サイコメトリーで相手の次の動きを予測しようとするが、複数の能力者が相手では集中が難しい。
(まずい…!)
連携の取れた攻撃に、ライラは徐々に追い詰められていく。遮蔽物にしていたドラム缶が金属片によって破壊され、ライラは身を晒す形になった。エネルギー弾がすぐ側を掠め、腕に軽い火傷を負う。
「終わりだ、娘!」
リーダー格の男が、巨大な鉄骨を念動力で持ち上げ、ライラめがけて振り下ろそうとした瞬間だった。
パァン!という乾いた音と共に、鉄骨を操っていた男の手元で火花が散った。鉄骨は制御を失い、地面に大きな音を立てて落下する。
「何!?」
男たちが驚いて周囲を見回す。廃工場の屋根の上、逆光の中に人影が見えた。黒いロングコートが風に翻る。カーヴェだ。彼は狙撃銃のようなものを構えていた。
「邪魔者が…!」
アジ・ダハーカの末裔の一人が、カーヴェに向かってエネルギー弾を放つ。だが、カーヴェは軽々とそれを回避し、屋根から飛び降りると、驚くべき速さで戦闘に介入してきた。
カーヴェの戦闘スタイルは、ライラとは対照的だった。無駄な動きが一切なく、冷徹かつ効率的。彼はジャードゥーを使っているようには見えないが、その体術と武器の扱いは常人の域を超えている。ナイフのような短い刃物を巧みに使い、敵の攻撃を捌き、急所を的確に突いていく。
ライラも即座に反撃に転じた。カーヴェが敵の注意を引きつけている隙に、高速移動タイプの男に接近し、サイコメトリーで動きを読みながら体勢を崩し、プラズマガンで無力化する。
残るはリーダー格の男だけとなった。彼はカーヴェとライラの二人を相手に、必死に金属片を操って抵抗するが、連携の前に徐々に追い詰められていく。
「く…!引け!」
リーダー格の男は、形勢不利と判断し、撤退を命じた。残った手下と共に、煙幕弾を使い、素早くその場から姿を消した。
戦闘が終わり、廃工場には静寂が戻ってきた。ライラは荒い息をつきながら、火傷した腕を押さえた。カーヴェが静かに近づいてくる。
「…怪我は?」
「たいしたことないわ。それより、なぜここに?」
「お前が心配だったからだ、と言ったら信じるか?」
カーヴェは珍しく、冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「さあ、どうかしらね。でも、助かったわ。ありがとう」
素直な感謝の言葉が口をついて出た。彼がいなければ、どうなっていたか分からない。
「奴らは、私のことを『刻印を持つ娘』、『詩の鍵』と呼んでいたわ。やっぱり、私は何か特別な存在なの…?」
ライラの問いに、カーヴェは少しの間、黙っていた。
「…そうかもしれん。だが、それが何を意味するのか、今はまだ誰にも分からない。お前自身も含めてな」
彼はライラの腕の火傷に視線を落とした。
「手当てが必要だ。事務所に戻るぞ。ここはもう安全ではない」
二人は警戒しながら廃工場地区を後にした。ライラは、自分が明確に狙われているという事実と、「刻印」という言葉の重みを、改めて痛感していた。隠された過去と向き合う覚悟は、もう揺るがない。危険を冒してでも、真実を知らなければならない。
事務所に戻ると、サナーが心配そうに出迎えた。ハッサンはまだ眠っている。カーヴェは手際よくライラの腕の手当てをしてくれた。彼の指先は驚くほど器用で、その手つきにはどこか慣れたものを感じさせた。彼はいったい何者なのだろうか? ライラは改めて疑問に思ったが、今はそれを問う時ではない。
手当てが終わると、ライラはカーヴェに向き直った。
「カーヴェ、お願いがあるの。この子たち…ハッサンとサナーを、しばらくの間、安全な場所に匿ってほしい。私が動いている間、彼らが狙われる可能性がある」
カーヴェは黙って頷いた。
「分かった。俺に心当たりがある。安全は保証しよう」
「ありがとう。費用は…」
「いらん。これは、俺がすべきことだ」
カーヴェはそう言うと、眠っているハッサンを慎重に抱え上げ、サナーに目配せした。サナーは不安そうにライラを見たが、ライラが力強く頷くと、意を決したようにカーヴェに従った。三人の姿が事務所から消えると、ライラは一人、部屋に残された。
静寂が戻った部屋で、ライラはファリード先生の研究資料と、解析途中の詩のデータを再び広げた。その時、通信端末が着信を告げた。アルダシールからだった。
『よう、ライラ。お前の頼んでいた件、いくつか分かったぞ』
アルダシールの声は、いつもより少し興奮しているように聞こえた。
『まず、あの詩の言語だが…やはり既知のどの古代言語とも完全には一致しない。だが、ペルセポリス・ネオの地下深くに存在する、未踏査の古代遺跡セクター…通称『アフラマズダの眠る場所』から発見された碑文の言語と、極めて類似性が高いことが分かった。あの遺跡は、イスファンディヤール社が厳重に管理していて、立ち入りは不可能に近いがな』
地下遺跡セクター。ファリード先生も、その場所に関心を示していた。詩の完全版、あるいはその手がかりが、そこにある可能性が高い。
『それと、データチップの出所だ。ハッサンとかいう小僧が買った闇市場のディーラーだが、奴は元々、イスファンディヤール社の廃棄物処理部門の下請け作業員だったらしい。数年前に例の極秘研究施設が閉鎖された際に、機密データをいくつか持ち出して、小遣い稼ぎに流していたようだ。例のチップも、その時に持ち出されたものの一つだろう』
イスファンディヤール社。やはり、あのファイルは彼らが作成したものなのか? ファリード先生は、彼らの研究を知って離反し、そして狙われた?
『最後に、お前のファイルに記録されていた研究者名だが…ほとんどは偽名か架空の人物だった。だが一人だけ、実在の人物の可能性がある名前があった。『ラフマーニ博士』。数年前にイスファンディヤール社を退職した後、行方が分からなくなっている遺伝子工学の権威だ。彼なら、お前のファイルについて何か知っているかもしれん』
ラフマーニ博士。新たな名前、新たな手がかり。
「ありがとう、アルダシール。大きな助けになったわ。これで『貸し』はチャラね」
『ああ。だが、気をつけろよ、ライラ。お前が追っているのは、ただの古代の謎じゃない。今も生きている、巨大な陰謀だ。下手をすれば、お前もファリード教授と同じ運命を辿ることになるぞ』
アルダシールの警告を胸に、ライラは通信を切った。
目の前には、進むべき道が示されつつあった。地下遺跡セクターへの潜入。行方不明のラフマーニ博士の捜索。どちらも困難で危険な道だ。だが、もう迷いはなかった。
ライラは立ち上がり、窓の外を見た。ペルセポリス・ネオの夜景が、無数の光の点となって広がっている。あの光の下で、どれだけの秘密が、陰謀が、そして悲劇が隠されているのだろうか。
「先生、あなたの真意と、私の過去…必ず見つけ出す」
その瞳には、不安を振り払った強い意志の光が宿っていた。彼女はデスクに向かい、次の行動計画を練り始めた。カーヴェの言葉が脳裏に蘇る。『備えろ。そして、さらに深く潜れ』。
ライラの探求は、新たな、そしてより危険な段階へと足を踏み入れようとしていた。