第十八話:砂漠の夜明け、新たな羅針盤
アムダリヤ砂漠に、荘厳な夜明けが訪れていた。地平線の彼方から昇り始めた太陽が、広大な砂丘を黄金色に染め上げ、空にはまだ昨夜の星々の名残と、天頂を過ぎて遠ざかり始めた『天翔る蛇』(彗星)の淡い光条が見えている。空気は澄み切り、ひんやりとして心地よい。それは、永い時の流れと宇宙の摂理を感じさせる、圧倒的な美しさだった。
だが、その美しい光景を前に、ライラ・ザハニ、カーヴェ・アシュラフィ、そしてレン(ゼロ)の三人は、しばし呆然と立ち尽くしていた。ほんの少し前まで、彼らの目の前には、緑豊かなオアシスと、古代の叡智を秘めた聖地パリーダエーザが存在したはずだった。しかし今、そこには何もない。ただ、他の場所と変わらない、広大な砂漠が広がっているだけだ。まるで、聖地での出来事全てが、幻であったかのように。
しかし、幻ではない。ライラの右手の甲には、もはや黒い焼き印ではなく、皮膚そのものから発するように、美しい黄金色の「刻印」が静かに輝いていた。白銀に変わった髪の一部も、朝日に照らされて神秘的な光沢を放っている。そして何より、彼女の内に満ちる力は、以前とは比較にならないほどに安定し、深化していた。アジダハーカとの交感と、聖地での祝福。それは紛れもない現実であり、彼女が新たな段階へと到達した証だった。
隣に立つカーヴェもまた、聖地での出来事が現実であったことを、その身をもって証明していた。彼の身体には無数の傷跡が残り、その表情には深い疲労の色が浮かんでいる。だが、彼の瞳には、守人としての使命を果たし、ライラを守り抜いたという確かな達成感と、彼女の覚醒を目の当たりにした畏敬の念が宿っていた。
そして、カーヴェの足元に寄り添うように立つレン(ゼロ)。彼もまた、聖地の穏やかなエネルギーに触れた影響か、以前のような怯えや混乱は鳴りを潜め、どこか落ち着いた様子を見せていた。まだ言葉数は少なく、表情も乏しいが、ライラを見上げるその瞳には、確かな信頼と、僅かながらの好奇心が芽生え始めているように見えた。聖地での経験は、彼にとってもまた、大きな変化をもたらしたのかもしれない。
「…本当に、消えてしまったのね、パリーダエーザは…」
ライラは、聖地があったはずの場所を見つめながら、呟いた。まるで、役目を終えた舞台装置が、静かに片付けられたかのようだ。
「伝承によれば、聖地の門が開かれるのは、星々が特別な配置を取る、限られた時間だけだ」カーヴェが、傷ついた腕を押さえながら答えた。「その時を過ぎれば、聖地は再び時空の狭間へと姿を隠し、次の『刻』が来るまで、誰の目にも触れることはない」
「次の『刻』…それは、また数千年後、ということかしら」
「おそらくはな。我々は、幸運にも、その稀有な瞬間に立ち会うことができた…そして、その代償も払った」
カーヴェの視線が、ライラの白銀の髪と、自身の傷跡に向けられる。聖地で得たものは大きかったが、失ったものもまた、少なくない。
ライラは、データパッドを取り出し、表示を確認した。聖地でダウンロードした、詩の完全版、アジダハーカに関する膨大な情報、そしてラフマーニ博士の研究データの一部。幸い、それらは失われずに記録されていた。これこそが、彼らが命がけで手に入れた、未来への羅針盤となるはずだ。
だが、今はまず、この過酷な砂漠から生還し、態勢を立て直す必要があった。
「アルダシールに連絡を取ってみるわ」
ライラは通信端末を取り出し、暗号化回線を試みた。砂漠の深部では電波状況が悪かったが、聖地周辺の特殊なエネルギーフィールドが消えたためか、今回は比較的スムーズに接続できた。
『…ライラか! 生きていたか! よかった…! あの後、聖地周辺のエネルギー反応が完全に消滅して、追跡不能になったから、最悪の事態も覚悟していたんだぞ!』
スピーカーから聞こえてきたアルダシールの声は、安堵と興奮が入り混じっていた。
「ええ、なんとかね。アルダシール、状況は?」
『ああ、こっちも徹夜で追ってたよ。聖地周辺のエネルギー異常が収束したのを感知して、イスファンディヤール社と末裔の残党は、どうやら撤退を開始した模様だ。かなりの損害を出したようだがな。だが、安心するのは早いぞ』
アルダシールの声のトーンが、再び警告の色を帯びる。
『奴らは、お前たちが聖地から生還したことを、ほぼ確実に把握しているはずだ。特にイスファンディヤール社は、聖地のデータ回収に失敗した以上、その情報を持ち、さらに覚醒した力を持つお前自身への執着を、ますます強めるだろう。奴らの情報網は、ペルセポリス・ネオだけでなく、この辺境地域にも及んでいる。必ず、追ってくるぞ』
「…分かってるわ」ライラは頷いた。「私たちも消耗している。まずは安全な場所へ移動して、態勢を立て直したい。どこか、心当たりは?」
『…そうだな。お前たちが今いる場所から北西へ2日の距離に、古い守人の隠れ家があるはずだ。記録によれば、そこは外部からの探知が極めて困難な構造になっている。カーヴェなら、場所が分かるかもしれん。そこへ向かうのが最善だろう』
「守人の隠れ家…?」ライラはカーヴェを見た。
カーヴェは、アルダシールの言葉を聞いて、何かを思い出したように頷いた。
「…ああ、心当たりがある。父から、存在だけは聞かされていた。一族の中でも、ごく一部の者しか知らない、古代の避難所だ。そこなら、安全を確保できるだろう」
「よし、決まりね。アルダシール、ありがとう。また連絡するわ」
ライラは通信を切り、カーヴェとレンに向き直った。
「まずは、カーヴェが知っている隠れ家へ向かいましょう。そこで傷を癒やし、情報を整理して、これからどうするかを決める」
三人は、再び輸送車両に乗り込んだ。車両もまた、砂漠での過酷な走行と、戦闘のダメージで満身創痍だったが、カーヴェの応急修理で、なんとか動く状態にはなっていた。
カーヴェの記憶と、ライラの刻印が示す微かなエネルギーの痕跡を頼りに、彼らは砂漠の中を、北西へと進路を取った。道中、天穹の読人たちの隠れ里があった方向を振り返る。彼らは無事だろうか? イスファンディヤール社たちの襲撃を、どう切り抜けたのだろうか? ライラは彼らの安否を気遣ったが、今は自分たちの安全を確保し、託された使命を果たすことが、彼らの覚悟に応える唯一の方法だと信じるしかなかった。
二日間の慎重な移動の後、三人はついに、カーヴェが言っていた守人の隠れ家へとたどり着いた。そこは、巨大な岩山の麓にある、一見するとただの洞窟にしか見えない場所だった。だが、カーヴェが特定の岩に触れ、守人の一族に伝わる合言葉のようなものを呟くと、岩壁の一部が音もなくスライドし、内部へと続く通路が現れた。
隠れ家の内部は、予想以上に広く、そして機能的だった。居住スペース、医療設備、通信設備、そして膨大な量の記録媒体(巻物やデータチップなど)が保管された書庫まで備わっている。空気は浄化され、エネルギーも自己完結型のシステムで供給されているようだった。まさに、長期間の潜伏と研究を可能にするための、完璧な避難所だった。
「…すごいわ…」ライラは、その設備に目を見張った。「あなたの一族は、こんな場所を持っていたのね」
「…俺も、ここへ来たのは初めてだ」カーヴェは、どこか感慨深げに呟いた。「父は、俺が一人前になるまで、この場所の存在を伏せていた。おそらく、万が一の時のための、最後の切り札として…」
三人は、この隠れ家で、ようやく本当の意味での休息を取ることができた。新鮮な水と、備蓄されていた保存食で渇きと飢えを癒やし、医療設備で互いの傷を丁寧に治療した。特にレンは、安全な環境とライラのケアによって、精神的にかなり落ち着きを取り戻し、以前よりもはっきりと、自分の意志を伝えられるようになってきていた。
身体を休めると同時に、ライラとカーヴェは、聖地で得た情報と、ラフマーニ博士が遺したデータの整理・分析に取り掛かった。書庫に残されていた守人の記録も、貴重な情報源となった。
詩の完全版は、ライラの予想通り、世界の未来に関する複数の可能性を示唆していた。それは、まるで複雑に絡み合った運命の糸のようであり、特定の選択や出来事によって、全く異なる結末へと分岐していくことを示している。特に注目すべきは、「第二の刻印持ち」に関する記述だった。詩によれば、刻印持ちは一つの時代に一人とは限らず、稀に複数の適合者が同時に現れることがあるという。そして、もし二人の刻印持ちが出会い、その力が共鳴した場合、計り知れないほどの強大な力が生まれるが、同時に、世界のバランスを大きく崩す危険性も孕んでいる、と警告されていた。
「第二の刻印持ち…」ライラは呟いた。「イスファンディヤール社が躍起になって探しているのは、これなのね…」
ラフマーニ博士の研究データも、それを裏付けていた。博士は、ライラ以外にも、古代の血脈を受け継ぎ、刻印の素質を持つ可能性のある家系を、いくつか特定していたのだ。そのリストには、ペルセポリス・ネオの有力者や、辺境に隠れ住む少数民族の名前などが含まれていた。
さらに、博士のデータと守人の記録からは、「失われた聖地」に関する新たな情報も浮かび上がってきた。聖地パリーダエーザは、確かに最も重要な場所だが、唯一の聖地ではないらしい。世界各地には、アジダハーカのエネルギーが色濃く残る場所や、古代の刻印持ちが力の制御のために使ったとされる遺跡、あるいは特殊なエネルギーを持つアーティファクトが、まだいくつか存在するというのだ。それらの場所を訪れることが、ライラが自身の力を完全にマスターするための鍵となるかもしれない。
そして、レン(ゼロ)に関する情報。彼の父親であるザイド博士は、やはりイスファンディヤール社と敵対関係にあり、現在は行方をくらましている可能性が高いこと。そして、レン自身に施された遺伝子操作と能力融合は、非常に不安定であり、放置すれば彼の生命そのものを蝕んでいく危険性があることが、博士の記録から明らかになった。レンを救うためには、彼の体内の歪んだエネルギーを中和し、安定させる方法を見つけ出す必要がある。そのヒントもまた、他の聖地やアーティファクトにあるのかもしれない。
情報が整理されていく中で、ライラ、カーヴェ、そしてレン(彼は自身の過去に関する情報を、苦痛に耐えながらも、知ろうとしていた)は、今後の行動について話し合った。
選択肢は、大きく分けて二つあった。
一つは、ペルセポリス・ネオへ帰還すること。都市に戻り、探偵事務所を拠点として、イスファンディヤール社の「プロジェクト・キメラ」と「第二の刻印持ち」捜索計画の実態を調査し、それを阻止することを最優先とする。アルダシールと連携し、水面下で活動しながら、力の制御訓練も続ける。リスクは高いが、脅威の根源に直接迫ることができる。
もう一つは、新たな旅に出ること。詩や記録が示す、他の「聖地」候補や、力の制御に繋がるアーティファクトが存在する可能性のある場所を探す旅に出る。それは、ライラ自身の力の完全な覚醒と、レンを救うための方法を見つけることを優先する道だ。辺境への旅は危険が伴うが、イスファンディヤール社の追跡をかわしやすいかもしれない。
どちらの道を選ぶべきか。ライラは深く考え込んだ。どちらの選択も、多くの困難と犠牲を伴うだろう。
カーヴェは、ライラの葛藤を察し、静かに言った。
「どちらの道を選ぼうとも、俺はお前と共に行く。レンもだ。我々は、もはや運命共同体だ」
レンもまた、ライラの手を握り、力強く頷いた。
「…ライラと…一緒なら…ボク、大丈夫…」
二人の言葉と、その信頼に満ちた眼差しが、ライラの迷いを振り払った。彼女が選ぶべき道は、一つしかない。
「…ペルセポリス・ネオへは戻らないわ」ライラは、きっぱりと言った。「少なくとも、今は。イスファンディヤール社の目を欺きながら都市で活動するのは、あまりにも危険すぎる。それに、私とレンが、この力を完全に理解し、制御できるようになることが、今は何よりも重要だと思う」
彼女は、カーヴェとレンを見た。
「私たちは、新たな旅に出る。博士が、そして詩が示す、他の聖地を探す旅に。そこで、力の制御法を学び、レンを救う方法を見つけ出す。そして、いつか…必ず、イスファンディヤール社の野望を打ち砕く。それが、私たちの進むべき道よ」
ライラの決断に、カーヴェもレンも、力強く頷いた。目標は定まった。
三人は、隠れ家で数日間、旅立ちのための準備を整えた。守人の記録から、次の目的地となりうる古代遺跡の場所をいくつか絞り込み、そこへ至るルートを計画する。車両を修理・改造し、砂漠だけでなく、山岳地帯や密林など、様々な環境に対応できるよう装備を整えた。食料、水、医療品、そして武器弾薬も可能な限り補充した。ライラは、聖地で得た知識と、カーヴェから教わった精神集中法を組み合わせ、力の制御訓練にも励んだ。
そして、出発の朝。三人は、隠れ家の入り口に立ち、朝日が昇り始めた外の世界を見つめた。ペルセポリス・ネオとは違う、広大で、未知なる世界が、彼らを待ち受けている。
「どんな困難が待ち受けていても、私たちは三人で乗り越える」ライラは、カーヴェとレンの手を握り、誓うように言った。
「真実を明らかにし、誰もが安心して生きられる未来を作る」カーヴェが、力強く応えた。
「…ボクも…頑張る…ライラと、カーヴェと…一緒に」レンもまた、自身の言葉で決意を示した。
三人を乗せた輸送車両が、再び砂漠の大地へと走り出す。彼らが目指すのは、もはや特定の都市ではない。地平線の彼方、古代の謎と、未来への希望が眠る、未知なる場所だ。
イスファンディヤール社の追跡、アルヴァン(ザイド博士)の影、末裔の残党、そして詩が予言する未来の分岐点…。多くの謎と脅威が、彼らの行く手に待ち受けているだろう。
だが、ライラの瞳には、もはや迷いはなかった。黄金色に輝く刻印が、まるで未来を示す羅針盤のように、静かに輝いている。彼女の隣には、信頼できるパートナーと、守るべき存在がいる。
黄金の刻印を持つ探偵の、真の物語は、この砂漠の夜明けと共に、新たな地平線へと向かって、今まさに始まろうとしていた。




