第十六話:星見の洞、刻印の試練
アムダリヤ砂漠の奥深く、外界から隔絶された天穹の読人の隠れ里。その中心にある、ひときわ大きく、古えの雰囲気を纏った洞窟――『星見の洞』の入り口に、ライラ・ザハニは一人、立っていた。背後には、心配そうに見守るカーヴェと、不安げにライラのローブの裾を握るレン(ゼロ)の姿がある。だが、この先に進めるのは、ライラだけだった。
洞窟の入り口は、巨大な一枚岩で塞がれているように見えたが、その表面には複雑な古代文字と、星図のような模様が、微かな光を放ちながら刻まれている。天穹の読人の長老によれば、この封印は、真の「刻印持ち」にしか解けないという。
ライラは深呼吸し、心の準備を整えた。不安がないと言えば嘘になる。洞窟の奥には、アジダハーカの力の断片が満ちているという。遺跡のコアで経験した、あの圧倒的なエネルギーとの対峙。それを、今度は一人で、しかも自身の未熟な力で調和させなければならない。失敗すれば、精神が崩壊し、二度と戻れないかもしれない。
だが、迷いはなかった。レンを救うために。世界の調和を守るために。そして、自分自身が何者であるかを知り、その力を正しく使うために。この試練は、避けて通れない道だった。
「…行ってくるわ」
ライラは、カーヴェとレンに力強く頷きかけると、右手の甲を、封印の岩へと静かにかざした。黒く焼き付いた「刻印」の紋様が、洞窟の奥から漏れ出す微かなエネルギーに呼応するように、淡い黄金色の光を放ち始める。
すると、岩に刻まれた古代文字と星図の模様が、ライラの刻印と共鳴し、眩い光を放った。ゴゴゴゴ…という地響きと共に、巨大な岩が音もなく内側へとスライドし、洞窟の内部へと続く暗い通路が現れた。
ライラは、最後にもう一度二人を振り返り、そして、決然とした表情で、洞窟の暗闇へと足を踏み入れた。背後で、岩の扉が再び静かに閉じる音が響いた。
洞窟の内部は、外の灼熱の砂漠とは別世界だった。ひんやりとした空気が肌を撫で、完全な静寂が支配している。光源はないはずなのに、壁面に埋め込まれた水晶のような鉱脈が、星々のように微かな光を発し、通路をぼんやりと照らしていた。壁には、所々に古代の壁画が描かれている。それは、星々の運行、アジダハーカと思われる竜の姿、そして、天穹の読人の祖先たちが、何か儀式を行っているような場面だった。まるで、この洞窟自体が、彼らの歴史と信仰を記録した書物であるかのようだ。
ライラは、懐中電灯を頼りに、洞窟の奥へと慎重に進んでいった。通路は自然の洞窟を利用しながらも、明らかに人の手が入っており、滑らかに削られた壁や、規則的に配置された石柱が見られる。空気中には、遺跡のコアの間で感じたものと似ているが、もっと希薄で、しかし純粋なエネルギーが満ちているのを感じた。それは、ライラの刻印と微かに共鳴し、彼女の感覚を研ぎ澄ませていく。
どれくらい歩いただろうか。やがて通路は開け、広大なドーム状の空間へとたどり着いた。天井は高く、そこには天然の岩盤に開いた大きな穴があり、そこから砂漠の夜空――今は昼間だが、洞窟の深さゆえか、星々が輝いて見える――を望むことができた。まるで、巨大な天体望遠鏡の内部のようだ。
そして、その広間の中央には、黒曜石のような滑らかな岩で作られた、円形の祭壇が存在した。祭壇の上には、透き通った水晶の球が安置されており、天井の穴から差し込む星々の光を集めて、内部で複雑な光のパターンを明滅させている。この水晶こそが、洞窟内に満ちるアジダハーカのエネルギーを集約し、試練を与えるための装置なのだろう。
ライラは、祭壇にゆっくりと近づいた。一歩足を踏み出すごとに、空気中のエネルギー濃度が高まっていくのを感じる。そして、祭壇まであと数歩という距離まで近づいた時、最初の試練が始まった。
周囲の空間が、ぐにゃりと歪んだ。そして、ライラの目の前に、見慣れた探偵事務所の光景が、幻影として現れたのだ。だが、そこには誰もいない。ただ、デスクの上に、ファリード先生が失踪直前に残した、解読途中の詩の断片が置かれているだけ。その詩の文字が、まるでライラを責めるかのように、赤黒く浮かび上がる。
『なぜだ、ライラ…なぜ、もっと早く気づかなかった…? お前の力が足りなかったせいだ…』
先生の声ではない、だが先生の想いを代弁するかのような、冷たい声が頭の中に響く。
違う。これは幻じゃない。私の心の奥底にある、罪悪感だ。
次に幻影は変わる。遺跡での戦闘。カーヴェが傷つき、倒れる姿。そして、自分が力を暴走させ、周囲を破壊してしまうイメージ。
『お前の力は危険すぎる…お前は、大切な人たちを傷つける…』
幼い頃の記憶が蘇る。異能の力に怯え、孤独だった日々。周囲からの拒絶の言葉。
『化け物…!』『近寄るな!』
内なる闇が、次々と形を取り、ライラの心を蝕もうとする。恐怖、罪悪感、孤独感、そして「刻印持ち」という重すぎる宿命への抵抗感。それらが、鋭い棘となって、ライラの精神を突き刺した。
「…っ!」
ライラは膝をつきそうになった。呼吸が浅くなり、視界が霞む。このままでは、精神が持たない。
(…違う…!)
だが、ライラは歯を食いしばり、顔を上げた。遺跡での試練、カーヴェとの訓練、そしてレンとの出会い。それらが、彼女に新たな強さを与えていた。
(これは、私の一部…でも、私の全てじゃない!)
ライラは、自身の弱さや恐怖から目を逸らさない。それら全てを受け入れた上で、それでも前に進むという強い意志を、心の中心に据えた。
「私は、もう一人じゃない…!」
ライラは、カーヴェの顔を、レンの顔を、そしてファリード先生の本当の想いを思い浮かべた。彼らとの絆が、彼女の心を支える光となる。
ライラが内なる闇を克服した瞬間、周囲の幻影が、まるで陽炎のように揺らぎ、掻き消えていった。頭の中の声も止み、再び洞窟の静寂が戻る。
だが、安堵する暇はなかった。次の試練が、間髪入れずに始まったのだ。
広間の中央にある祭壇の水晶が、それまでの穏やかな輝きから一転、激しい稲妻のような光を放ち始めた。洞窟全体に満ちていたアジダハーカのエネルギーが、祭壇の水晶へと急速に引き寄せられ、凝縮されていく。そして、凝縮されたエネルギーは、制御不能な奔流となって、ライラへと襲いかかってきたのだ!
それは、遺跡のコアで感じたエネルギーの奔流ほど巨大ではない。だが、より荒々しく、原始的で、混沌とした力の塊だった。まるで、生まれたばかりの、あるいは傷ついたアジダハーカの幼生体のようだ。その力に触れただけで、精神が焼き切れそうになる。
(これが…アジダハーカの力の断片…!)
ライラは、咄嗟に刻印の力を解放し、黄金色のオーラを纏った。だが、エネルギーの奔流は、ライラの防御フィールドを容易く貫通し、彼女の精神と肉体に直接流れ込もうとしてくる。力で対抗しようとすれば、押し潰されるだけだ。
(…調和…)
ライラの脳裏に、遺跡で得た感覚と、カーヴェの言葉が蘇る。力を恐れるな。力に溺れるな。流れを受け入れ、導き、調和させろ。
ライラは、防御に徹するのをやめ、敢えてエネルギーの奔流を、自身の刻印を通して受け入れた。全身を激痛と、灼熱感が襲う。意識が飛びそうになる。だが、ライラは必死に耐え、流れ込んでくるエネルギーの性質を感じ取ろうとした。
それは、純粋な破壊衝動だけではない。その奥底には、やはり深い苦しみと、理解を求めるような叫びがあった。この力の断片もまた、孤独なのだ。
ライラは、自身の刻印の力を、荒れ狂うエネルギーに対する「調律の音叉」のように使った。自身の精神を、エネルギーの流れと同調させ、そのリズムを読み取り、そして、穏やかな波動を送り返す。それは、荒馬を乗りこなすかのような、絶妙なバランス感覚と、相手への深い共感を必要とする、危険な試みだった。
エネルギーの奔流は、ライラの内部で激しく抵抗し、彼女の精神を何度も引き裂こうとした。だが、ライラは諦めなかった。
その時、洞窟の外で待っていたレンが、ライラの危機を敏感に感じ取っていた。彼は、ライラと精神的な繋がりを強めていた「刻印」の波動を通して、彼女の苦痛と奮闘を感じ取ったのだ。
(ライラが…苦しい…助けないと…!)
レンは、まだ自身の力を完全には制御できない。だが、ライラを助けたいという一心で、彼は自身の持つ精神感応の力を、洞窟の中にいるライラに向けて、必死に送り始めた。それは、ささやかな力だったが、純粋な信頼と友情のエネルギーだった。
レンから送られてきた温かいエネルギーは、ライラの消耗しきった精神に、新たな力を与えてくれた。そして、その純粋な波動は、ライラを介して、荒れ狂うアジダハーカのエネルギーの断片にも届いた。
エネルギーの奔流の抵抗が、ふっと弱まった。ほんの一瞬の隙。ライラは、その瞬間を見逃さなかった。彼女は、自身の刻印の力と、レンから送られてきた力を融合させ、最大限の調和の波動を放った。
黄金色の光が、洞窟全体を満たす。荒れ狂っていたエネルギーの奔流は、その光の中で、まるで浄化されるかのように、徐々にその荒々しさを失い、穏やかで、清浄なエネルギーへと変容していった。
そして、ついに、エネルギーは完全に鎮まり、祭壇の水晶へと静かに還っていった。水晶は、以前よりもさらに澄み切った、美しい輝きを放っている。
「…はぁ…はぁ…」
ライラは、その場に崩れるように座り込んだ。全身から力が抜け、指一本動かすのも億劫なほど消耗していた。だが、心の中には、確かな達成感と、自身の力が一段階、新たなレベルへと到達したという手応えがあった。力の制御が、以前よりも格段に向上しているのを感じる。
ライラが息を整えていると、目の前の祭壇の水晶が、再び輝きを増し始めた。そして、その内部に、複雑な光の模様が浮かび上がり始めたのだ。それは、無数の星々が繋がり、エネルギーの流れを示す、立体的な星図だった。
『…見事なり、刻印持ちよ…汝は、試練を乗り越え、資格を示した…』
長老の声とは違う、もっと古く、厳かな声が、ライラの頭の中に直接響いた。それは、この洞窟自身、あるいは、天穹の読人の祖先の意識の集合体のようなものかもしれない。
『…これこそが、『真の星図』。聖地パリーダエーザへの道を示す、魂の羅針盤なり…』
星図のイメージが、ライラの意識に深く刻み込まれていく。それは、単なる地理的な情報ではなかった。特定の時間、特定の星々の配置の下で、砂漠の中に現れるという、エネルギーの道筋。そして、聖地の門を開くために必要な、古代の詠唱と、刻印の力の特定の波長。それら全てが、ライラに託されたのだ。
さらに、星図と共に、いくつかの断片的な未来のビジョンが、ライラの脳裏を掠めた。黄金の光に包まれた巨大なドラゴンの姿。崩壊し、炎に包まれるペルセポリス・ネオの摩天楼。そして、二つの道の前で、選択を迫られている自分自身の姿…。希望の光と、不吉な破滅の影。未来は、まだ確定していない。自分の選択にかかっているのだと、そのビジョンは告げているようだった。
啓示が終わると、水晶の輝きは収まり、洞窟には再び静寂が戻った。ライラは、疲労困憊ではあったが、確かな手応えと、進むべき道への確信を得て、ゆっくりと立ち上がった。
洞窟の入り口まで戻ると、岩の扉はライラの接近を感知し、自動的に開いた。外では、カーヴェとレンが、心配そうに待ち構えていた。ライラの無事な姿を見て、二人は安堵の表情を浮かべた。
「ライラ!」レンが駆け寄り、ライラに抱きついた。
「…よく戻った」カーヴェも、安堵の息を漏らし、ライラの肩を支えた。彼は、ライラの纏うオーラが、以前とは明らかに違う、より強く、そして穏やかになったことに気づいていた。
天穹の読人の長老も、ライラの元へと歩み寄ってきた。彼は、ライラの瞳の奥に宿る新たな光を見て、深く頷いた。
「…試練を乗り越えられたな、刻印持ちよ。その目を見れば分かる。あなたは、真の資格を得た」
長老は、ライラを祝福し、そして改めて、聖地の重要性と、そこに眠る力の扱いについて語った。
「聖地パリーダエーザは、単なる遺跡ではない。アジダハーカのエネルギーが凝縮され、時空が歪む特異点でもある。そこでは、過去、現在、未来が交錯し、強大な力が手に入るやもしれん。だが、その力は、容易く人を惑わせ、破滅へと導く。決して、力に溺れてはならぬぞ」
そして、長老は、ライラに一つの古い護符を手渡した。それは、星見の洞の水晶と同じような、微かな光を放つ石で作られており、表面には守人の印に似た模様が刻まれている。
「これは、我ら天穹の読人に代々伝わる『星の欠片』。聖地のエネルギーと共鳴し、汝の力を安定させる助けとなるだろう。そして、道に迷った時には、進むべき方角を示してくれるやもしれん」
「ありがとうございます、長老」ライラは、護符を丁重に受け取った。
「我らは、あなたに全てを託す」長老は、ライラの目を真っ直ぐに見つめて言った。「世界の調和を守り、未来を正しく導くこと。それが、刻印持ちである、あなたの使命だ」
その言葉は、ライラの胸に重く、しかし確かな覚悟として刻まれた。
最後の準備が整えられた。天穹の読人たちは、ライラたちに、砂漠を安全に進むための水、食料、そして彼らだけが知る近道や危険な場所に関する情報を惜しみなく提供してくれた。車両も修理され、燃料も満タンにされた。
だが、出発の準備が整ったまさにその時、集落の見張りから、緊急の知らせがもたらされた。
「長老! 敵襲です! 多数の車両と飛行物体が、こちらへ急速に接近中! おそらく、イスファンディヤール社と、末裔の残党です!」
ついに、追手がこの隠れ里の場所を突き止めたのだ。彼らもまた、聖地の場所と、門が開くタイミングを知り、最後の決戦のために集結してきたのに違いない。
「…もはや、猶予はないようだな」長老は、険しい表情で空を見上げた。「刻印持ちよ、急がれよ! 我らが、ここで時間を稼ぐ!」
天穹の読人たちが、武器を手に取り、集落の防衛体制を整え始める。彼らは戦士ではないが、故郷と使命を守るためならば、命を賭して戦う覚悟があるようだった。
「しかし…!」ライラは、彼らを置いていくことに躊躇した。
「行くのだ、ライラ!」カーヴェが、ライラの腕を掴んだ。「彼らの覚悟を無駄にしてはならん! 我々には、聖地へ到達し、為すべきことがある!」
レンもまた、ライラの服を掴み、不安そうな瞳で頷いた。
ライラは、天穹の読人たちに深く頭を下げ、感謝と別れの言葉を告げた。
「長老、皆さん…必ず、戻ってきます」
「星々の導きがあらんことを」長老は、力強く答えた。「そして、汝の選択が、光をもたらさんことを、祈っている」
ライラ、カーヴェ、そしてレンは、改造された輸送車両に飛び乗った。夜空には、アルダシールが言っていた「天翔る蛇(彗星)」が、不気味なほどの輝きを放ち、天頂へと近づきつつあった。ライラの意識の中には、「真の星図」が、進むべき光の道筋を示している。
車両は、エンジンを咆哮させ、天穹の読人たちの隠れ里を後にした。背後では、追手の車両のヘッドライトと、戦闘の閃光が見え隠れしている。最後の決戦の時は、刻一刻と迫っていた。
目指す先は、聖地パリーダエーザ。そこに何が待ち受けているのか、世界の運命はどうなるのか、まだ誰にも分からない。
だが、三人の瞳には、極限の緊張感の中にも、揺るぎない決意と、互いへの深い信頼の光が宿っていた。彼らの最後の旅が、今、始まった。




