第十五話:砂塵の道、天穹の読人
ペルセポリス・ネオの巨大な防護壁が、地平線の彼方へと完全に消え去った時、ライラ・ザハニ、カーヴェ・アシュラフィ、そしてレン(ゼロ)の三人は、自分たちが全く異なる世界に足を踏み入れたことを実感していた。目の前に広がるのは、アムダリヤ砂漠。赤茶けた砂と岩がどこまでも続き、空は、都市では決して見ることのできない、吸い込まれそうなほどに高く、青い。しかし、その美しさは、同時に生命を拒絶するような厳しさを孕んでいた。
昼間の太陽は、容赦のない灼熱の矢となって大地に降り注ぎ、気温は摂氏50度を超えることもあった。改造された輸送車両の冷却システムはフル稼働しているが、車内にいても息が詰まるほどの熱気が漂う。夜になれば、気温は氷点下近くまで急降下し、寒さが骨身に染みた。視界を奪い、車両の機能を狂わせる激しい砂嵐も、彼らを幾度となく襲った。
水と燃料は、生命線だった。ペルセポリス・ネオを出る前に可能な限り補給したが、広大な砂漠を横断するには十分とは言えない。カーヴェは、彼が「守人」として受け継いだ知識と、辺境での活動経験を最大限に活かした。古い地図と自身の直感を頼りに、枯れた川床の地下水脈や、岩場の僅かな湧水を見つけ出し、貴重な水を確保する。砂嵐が来る前には、地形を読み、風を避けられる岩陰や洞窟を見つけ出し、シェルターとした。車両のメンテナンスも彼の担当だった。砂漠の過酷な環境は、精密機械である車両にとっても過酷で、フィルターの清掃や冷却系のチェックは欠かせなかった。
ライラも、探偵として培った知識と機転で貢献した。彼女は、ファリード先生から学んだ古代の植物学の知識を思い出し、砂漠に自生する僅かな食用植物や薬草を見分け、食料や薬の足しにした。また、変化した「刻印」の力は、遠くの水源の気配や、天候の変化を、カーヴェの経験則とは別の形で、直感的に予知することがあった。
レン(ゼロ)は、当初、この過酷な環境の変化に最も戸惑っていた。実験施設とプラントの暗闇しか知らなかった彼にとって、灼熱の太陽も、吹き荒れる砂嵐も、全てが脅威だった。だが、ライラの献身的な世話と、カーヴェの(ぶっきらぼうながらも)的確な指導、そして何よりも、生きたいという本能が、彼を少しずつ適応させていった。彼は、ライラやカーヴェの真似をして、自分の身を守る術を学び、時には、自身の不安定な能力を、サバイバルに役立てようと試み始めた。
例えば、水が見つからず、全員が脱水症状に陥りかけた時、レンが苦し紛れに念じると、彼の周囲の空気中の水分が、ほんの僅かだが凝結し、小さな水滴となって現れたのだ。それはコップ一杯にも満たない量だったが、彼らにとっては命の水となった。また、夜間に砂漠の危険生物(巨大なサソリや、音もなく忍び寄る蛇など)がキャンプに近づいた際には、レンの精神感応能力がそれをいち早く察知し、警告を発することもあった。
「…すごいわ、レン!」ライラは、レンが初めて自分の意志で力を制御し、役立てた時、心からの称賛を送った。「あなたには、素晴らしい力があるのよ」
レンは、ライラの言葉に、戸惑いながらも、はにかむような表情を見せた。それは、彼がこの旅の中で、少しずつ自分自身を肯定し始めている証だった。
カーヴェは、そんなレンの変化を、複雑な表情で見守っていた。彼はレンの持つ力の危険性を忘れてはいなかったが、同時に、彼がライラの影響を受けて、人間らしい感情を取り戻しつつあることも感じていた。カーヴェは、レンに対して、守るべき対象としてだけでなく、時には厳しい訓練相手として接することもあった。レンが力を暴走させかけた時には、容赦なくそれを抑え込み、力の制御の重要性を説いた。それは、カーヴェなりの不器用な愛情表現なのかもしれなかった。
過酷な環境下での共同生活は、否応なく三人の絆を深めていった。焚き火を囲んで少ない食料を分け合い、交代で見張りをし、互いの傷の手当てをする。言葉数は少なくとも、互いを気遣い、信頼し合う空気は、確実に育まれていった。ライラは、いつしか自分が、この二人に対して、姉のような、あるいは母親のような感情を抱いていることに気づいていた。それは、探偵として常に保ってきたクールな仮面の下にある、彼女自身の本来の優しさだったのかもしれない。
旅の途中、彼らは砂漠の中に埋もれた、いくつかの小さな古代遺跡を発見した。多くは、風化が進み、原形を留めていないものだったが、中には、かつての隊商路の宿場跡や、古代の天文観測所と思われる建造物の残骸もあった。
ある日、彼らは比較的保存状態の良い、円形の石造りの遺跡を発見した。内部には、祭壇のようなものがあり、壁には色褪せてはいるものの、精緻な壁画や、古代文字で書かれた碑文が残されていた。
「これは…」ライラは、壁画を見て息を飲んだ。そこには、満天の星空の下、アジダハーカと思われる巨大な竜の姿と、その竜と対峙するかのように立つ、「刻印」を持つ人物(男女の区別はつかないが、手の甲にライラと同じ紋様が描かれている)の姿が描かれていた。そして、その周囲には、ローブを纏い、星々を指し示す人々の姿も見える。
「見て、カーヴェ。この文字…遺跡で見たものや、博士のデータにあったものと繋がるわ」
ライラは、自身の知識と、そして「刻印」の力を使い、碑文の解読を試みた。彼女の力が、古代文字に込められた残留思念のようなものと共鳴し、断片的な意味が頭の中に流れ込んでくる。
『…天翔る蛇(彗星)、竜座の心臓を貫く時…砂は黄金に輝き、楽園の門は開かれん…』
『…されど、道を知るは、星の言葉を解す者のみ…真の星図は、天穹の読人の手に委ねられし…』
「天穹の読人…」ライラはその言葉を繰り返した。
「…やはり、そうか」カーヴェが、壁画のローブの人物たちを指差しながら言った。「守人の伝承にも、その名が出てくる。『天穹の読人』。かつてこの砂漠に存在したとされる、隠遁した部族だ。彼らは、星々の動きから未来を読み解き、アジダハーカの意思と交信し、そして、聖地である楽園の秘密を守り続けてきた、と言われている」
「彼らを探し出せば、聖地への正確な道筋が分かるかもしれない、ということね?」
「可能性は高い。だが、伝承によれば、彼らは外界との接触を極端に嫌い、その居場所を知る者はほとんどいない。砂漠の中を、常に移動し続けているとも言われている」
手がかりは掴んだが、それは同時に、新たな困難な課題を意味していた。広大な砂漠の中から、移動を続ける謎の部族を探し出す。それは、不可能に近いミッションに思えた。
だが、ライラには、一つの可能性があった。
「レン…」ライラは、壁画を不安そうに見つめていたレンに、優しく声をかけた。「あなたの力…精神感応の力で、近くにいる人々の気配を感じ取ることはできる?」
レンは、ライラの言葉に、少し驚いたように目を見開いた。彼はこれまで、自分の力を恐れ、無意識に抑え込もうとしてきた。だが、ライラに促され、そして何か役に立ちたいという気持ちからか、彼は意を決して頷いた。
レンは目を閉じ、精神を集中させた。彼の周囲の空間が、微かに歪む。彼の額に、汗が滲む。数分間の沈黙の後、レンは目を開け、か細い声で言った。
『…いる…遠くに…たくさん…でも、違う…感じ…静かで…古い…感じ…』
彼の言葉は断片的だったが、ライラとカーヴェには、それが何を意味するか分かった。レンは、通常の人間とは異なる、独特の精神的な波動を持つ集団――おそらくは「天穹の読人」――の気配を、遠くに感じ取ったのだ。
「よくやったわ、レン!」ライラはレンを抱きしめた。「どの方角か、分かる?」
レンは、震える指で、砂漠の特定の方角を指し示した。
「よし、行こう!」
三人は、新たな希望を胸に、レンが示した方角へと、再び車両を走らせた。
しかし、彼らの旅は、依然として危険と隣り合わせだった。アルダシールからの断続的な情報によれば、イスファンディヤール社の追跡部隊は、高性能な砂漠用車両と、熱源を探知する偵察ドローンを投入し、執拗に彼らの後を追ってきているという。彼らは、ライラたちが聖地に関する重要な手がかりを掴んだことを確信しているようだった。
さらに、砂漠には、予期せぬ脅威も潜んでいた。ある夜、彼らが岩陰でキャンプを張っていた時、巨大な影が音もなく忍び寄ってきたのだ。それは、サソリと甲殻類を融合させたような、全長3メートルはあろうかという異形の生物だった。硬い甲殻を持ち、巨大な鋏と、猛毒を持つ尾を振りかざして襲いかかってきた。
「キメラか!?」ライラは叫んだ。だが、そのエネルギーパターンは、レン(ゼロ)とは明らかに異なっていた。もっと凶暴で、人工的な歪さを感じさせる。
「いや、違う…!」カーヴェが、敵の動きを見切りながら応戦する。「これは…イスファンディヤール社が開発した、遺伝子改造された戦闘生物かもしれん! あるいは、プロジェクト・キメラの、別の…!」
戦闘は熾烈を極めた。戦闘生物の甲殻は硬く、ライラのプラズマガンも、カーヴェのブレードも、決定的なダメージを与えられない。巨大な鋏の一撃が車両の側面を抉り、毒針がカーヴェの腕を掠めた。
絶体絶命かと思われたその時、レンが動いた。彼は恐怖に震えながらも、ライラを守りたいという一心で、両手を前に突き出した。彼の周囲の空間が、ぐにゃりと歪む。戦闘生物の動きが一瞬、不自然に停止した。
「今だ!」ライラは叫び、刻印の力を集中させた。彼女は、戦闘生物の甲殻の僅かな隙間、エネルギーラインが集中しているであろう箇所を直感的に見抜き、そこに最大出力のプラズマ弾を撃ち込んだ。
甲高い断末魔と共に、戦闘生物は内部から爆発するように四散した。
「…やった…」三人は、息を切らしながら、互いの無事を確認した。レンは、初めて自分の意志で敵と戦い、仲間を守ったことに、戸惑いと、そして確かな手応えを感じているようだった。カーヴェは、腕の傷を押さえながらも、レンの行動を認めざるを得ないという表情をしていた。
だが、この遭遇は、彼らに大きな消耗を強いた。水も燃料も、そして弾薬も、残り少なくなってきている。そして、イスファンディヤール社が、このような危険な生物兵器まで投入してきたということは、彼らが本気でライラたちを排除、あるいは捕獲しようとしている証拠だった。
(時間がない…早く、天穹の読人を見つけないと…)
ライラは焦りを感じながらも、レンの感知能力を頼りに、さらに砂漠の奥深くへと進んでいった。
そして、数日後。水も食料も尽きかけ、三人が疲労の極致に達していた時、ついにその瞬間が訪れた。
レンが、突然、特定の方角を指差し、興奮したように叫んだ。
『いる! すぐそこに! たくさん! 静かな…気配!』
彼が指差す方角には、巨大な岩山が連なっている。その麓には、一見すると何もない砂地が広がっているだけに見えた。だが、ライラが刻印の力で集中すると、確かに、その岩山の麓の空間が、巧妙な光学迷彩か、あるいは何らかのエネルギーフィールドで隠されているのを感じ取れた。
「…あそこだ!」
三人は、最後の力を振り絞り、その岩山へと向かった。フィールドに近づくと、空気が変わり、微かに植物と水の匂いが漂ってきた。フィールドを通り抜けると、そこには信じられないような光景が広がっていた。
岩山に囲まれた、緑豊かなオアシス。澄んだ水を湛えた泉があり、その周りにはナツメヤシや、見たこともない美しい花々が咲き誇っている。そして、泉の周りや、岩山の洞窟を利用した住居に、人々が静かに暮らしていた。
彼らは、ゆったりとした白いローブを纏い、顔には日差しと砂塵を避けるための薄い布を巻いている者が多い。肌の色や髪の色は様々だが、一様に、深く澄んだ瞳を持ち、どこか浮世離れした、神秘的な雰囲気を漂わせている。彼らこそが、伝説の「天穹の読人」なのだろう。
だが、彼らの視線は、決して友好的ではなかった。ライラたち異邦人の突然の出現に、彼らは明らかに警戒し、中には槍や弓のような、古風だが鋭い武器を構える者もいる。
「止まれ、外の者よ」
集団の中から、ひときわ威厳のある、白髪と長い髭を蓄えた長老らしき人物が進み出て、静かだが力強い声で言った。「ここは、汝らが足を踏み入れるべき場所ではない。速やかに立ち去られよ」
「お待ちください!」ライラは、一歩前に出て、ローブのフードを取り、自身の姿を露わにした。「私たちは、あなた方に危害を加えるつもりはありません。ただ、道を求めて、ここまで来たのです。星々が示す、聖地である楽園への道を」
ライラの言葉に、天穹の読人たちの間に、どよめきが起こった。聖地の名を知る者は、彼ら以外にはほとんどいないはずだったからだ。
長老は、鋭い目でライラを詮索するように見た。
「聖地の名をどこで知った? そして、なぜそれを求める?」
「私はライラ・ザハニ。この者はカーヴェ、そしてレン」ライラは、自身の右手の甲を示した。黒い刻印の紋様が、砂漠の陽光の下で、はっきりと見える。「私は、『刻印持ち』です。自身の力を制御し、世界の調和を守るために、聖地へ行く必要があるのです」
ライラの言葉と、その手の甲に刻まれた紋様を見た瞬間、長老の表情が変わった。驚きと、畏敬と、そして長年待ち望んでいたものがついに現れたかのような、複雑な感情がその瞳に浮かぶ。周囲の読人たちもまた、武器を下ろし、息を飲んでライラを見つめている。
「…まさか…本当に…」長老は、震える声で呟いた。「古き予言は、真であったか…」
彼は、ゆっくりとライラに近づき、その刻印を注意深く観察した。
「…星の定めを受け継ぎし者よ。ようこそ、我らが隠れ里へ。我らは、あなたのような存在が現れるのを、幾世代にもわたって待ち続けていた」
長老は、ライラたちを、彼らの集落へと招き入れた。
「我らは天穹の読人。星々の言葉を読み解き、アジダハーカの意思を伝え、そして、聖地である楽園の秘密を守る者。あなたには、聖地へ至る資格があるか、見極めさせていただきたい。我らに伝わる、最後の試練を受けていただく必要がある」
最後の試練。ライラは、ゴクリと唾を飲んだ。聖地への道は、すぐそこまで来ている。だが、その門を開くためには、まだ乗り越えなければならない壁があるのだ。
「試練とは…何でしょうか?」
「それは、あなた自身の内なる力と、向き合っていただくこと」長老は、集落の中央にある、ひときわ大きな洞窟――おそらくは彼らの聖所――を指差した。「あの『星見の洞』に入り、内に満ちるアジダハーカの力の断片と対峙し、調和を示していただきたい。成功すれば、我らはあなたに『真の星図』を託しましょう。だが、もし失敗すれば…あなたの精神は、力の奔流に飲み込まれ、二度と戻ってはこれまい」
それは、命がけの試練だった。ライラは、隣に立つカーヴェと、そして心配そうに自分を見上げるレンを見た。彼らの存在が、ライラに勇気を与えてくれた。
「…受けます。その試練」
ライラは、長老の目を真っ直ぐに見据え、きっぱりと答えた。
長老は、満足そうに頷いた。
「よろしい。だが、心されよ。天翔る蛇(彗星)は、間もなく天頂へと至る。聖地の門が開かれる時間は、極めて限られている。そして…」
長老の表情が、わずかに曇った。
「聖地を目指しているのは、あなた方だけではない。闇の勢力もまた、その力を求め、この砂漠に集結しつつある。試練を乗り越えたとしても、その先に待つのは、さらなる戦いかもしれん」
ライラは、長老の言葉を胸に刻み、星見の洞へと続く道を見据えた。目の前には、最後の試練が待ち受けている。そして、その先には、聖地である楽園と、避けられぬ最終決戦が。
ライラは、カーヴェとレンに力強く頷きかけると、一人、洞窟の暗闇へと足を踏み入れた。彼女の表情には、決意と、かすかな不安、そして、仲間への信頼が浮かんでいた。
砂漠の真ん中で、星々の下、刻印を持つ乙女の、最後の試練が始まろうとしていた。




