第十二話:破れた写真と囁く過去
ペルセポリス・ネオの地下深く、放棄された実験施設の一室。壁に刻まれた「ワタシ ハ ニンゲン? カイブツ?」という悲痛な問いかけと、床に落ちていた一枚の破れた家族写真。それが、ライラ・ザハニとカーヴェ・アシュラフィが掴んだ、「キメラ」と呼ばれる存在に関する、あまりにも痛々しい手がかりだった。イスファンディヤール社の非人道的な計画が生み出した、苦悩する魂。ライラの心には、キメラに対する強い同情と、彼(あるいは彼女)を救い出さなければならないという使命感が、重くのしかかっていた。
「この写真…」ライラは、拾い上げた写真を注意深く観察した。写っているのは、優しい笑顔の母親と、まだ幼い、おそらく十歳前後の子供。子供の性別ははっきりしないが、その瞳には無垢な輝きがある。背景は、ペルセポリス・ネオ郊外の、緑豊かな公園のようだ。撮影されたのは、少なくとも数年前だろう。そして、本来なら父親が写っていたであろう部分は、無残に破り取られている。まるで、父親の存在そのものを否定するかのように。
「キメラは…元々は、普通の子供だったのかもしれないわね」ライラは呟いた。「この家族に、一体何があったのか…」
「そして、これだ」カーヴェは、部屋の隅で見つけた小型の発信機を指差した。「まだ微弱な信号を発している。キメラ自身が気づかずに身に着けているのか、それとも、我々への罠として、わざと残されたのか…」
発信機の存在は、謎の依頼人の影を色濃く感じさせた。彼は本当にキメラを保護したいのか? それとも、別の目的があるのか? 彼らがキメラと接触するのを待ち、漁夫の利を得ようとしている可能性すらある。
「まずは、この写真を手がかりに、キメラの過去を調べる必要があるわ」ライラは決意を込めて言った。「彼が何者なのかを知れば、なぜ狙われているのか、そして、どうすれば救えるのか、分かるかもしれない」
カーヴェも頷いた。「同時に、発信機の信号も監視下に置く。迂闊に追跡すれば、罠にはまる可能性がある。依頼人の正体と目的も、引き続き探る必要があるな」
二人は、現場から回収した写真と発信機を手に、事務所へと戻った。ライラは、早速、破れた写真のデジタルデータを高解像度でスキャンし、解析を開始した。母親と子供の顔の特徴、服装のスタイル、背景に写り込んでいる植物の種類や建物の様式など、あらゆる情報から撮影時期と場所を絞り込もうと試みる。
同時に、ライラは写真そのものに触れ、サイコメトリーを試みた。流れ込んできたのは、暖かく、幸せな家族の記憶の断片。公園で笑い合う声、母親の優しい眼差し、そして…破り取られた部分から感じる、父親に対する複雑な感情。それは、愛情や尊敬だけでなく、どこか裏切られたような、深い悲しみと怒りのようなものだった。しかし、具体的な名前や場所に関する情報は、時間の経過と共に薄れてしまっているのか、明確には読み取れない。
「…やはり、これだけでは難しいわね」ライラは溜息をつき、再びアルダシールに連絡を取った。「頼みがあるの、アルダシール。写真の解析をお願いしたい」
『はぁ? また写真か? 今度はどこの誰のだ? まさか、お前さんの昔の恋人でも探してるんじゃないだろうな?』
通信の向こうで、アルダシールがいつものように皮肉を飛ばしてくる。
「ふざけないで。これは、今回の事件の重要な手がかりなの。写っている人物の特定、特に破られている父親の部分の推定復元、それと撮影場所の割り出し。できる?」
『…やれやれ。人使いが荒いな。まあ、やってやるよ。ただし、これも高額請求だからな!』
ライラは苦笑し、写真のデータをアルダシールに送った。彼の持つ高度な画像解析技術と、ペルセポリス・ネオのあらゆるデータベースにアクセスできる能力ならば、何か掴めるかもしれない。
一方、カーヴェは、彼自身のルートで調査を開始した。守人として、あるいは裏社会の情報屋としてのコネクションを使い、写真の人物に似た失踪者や、数年前に起こった不審な事故に関する情報を探り始めた。彼の調査方法は、ライラのデジタルなアプローチとは対照的に、地道で、人との繋がりを重視するものだった。二人は、それぞれの得意分野で、キメラの過去へと迫ろうとしていた。
調査を進める間も、ライラは自身の力の変化と向き合い続けていた。刻印の力は、以前よりも確実に彼女の内に根付き、日常の中にその影響を及ぼし始めていた。
人混みの中を歩けば、周囲の人々の喜び、悲しみ、怒り、不安といった感情の波が、望まぬ形で流れ込んでくる。時には、特定の個人の強い思念――例えば、恋人を想う切ない気持ちや、上司への激しい憎悪など――を、まるで自分のことのように感じてしまい、気分が悪くなることもあった。
また、集中すると、未来の断片が不意に見える現象も続いていた。スーパーマーケットで、棚から落ちてくる商品。交差点で、信号無視をして突っ込んでくるバイク。その予知能力のおかげで、いくつかの小さなトラブルを未然に防ぐことはできたが、絶えず流れ込んでくる未来の可能性の奔流は、ライラの精神を疲弊させた。
(このままじゃ、普通の生活なんて送れない…)
力の制御は、喫緊の課題だった。ライラは、カーヴェから教わった呼吸法と精神集中法を、毎日欠かさず続けた。それは、外部からの情報や感情の流入をある程度遮断し、自身の精神的なシールドを築く訓練でもあった。
「…感情に流されるな」訓練中、カーヴェは静かにアドバイスした。「力は、お前の意志に従うべきものだ。お前が感情に支配されれば、力もまた暴走する。常に、心の中心を保て」
彼は、守人に伝わるという、力のオンオフを意識的に切り替える訓練も指導した。それは、刻印の力を完全に封印するのではなく、必要な時にだけ、必要な分だけ引き出すための技術だった。ライラは、少しずつだが、その感覚を掴み始めていた。だが、力を制御しようとすればするほど、その力の根源にあるアジダハーカの存在や、遺跡での出来事がフラッシュバックし、時折、右手の甲の刻印が理由もなく疼くこともあった。この力が、完全に自分のものになったわけではないという事実を、嫌でも思い知らされる。
そんな中、カーヴェが回収した発信機が、再び微弱な信号を発信し始めたことに気づいた。信号は、特定の場所を示しているわけではなく、ランダムに移動しているように見える。キメラがまだペルセポリス・ネオのどこかに潜伏し、移動を続けているのか? それとも、これはやはり罠で、ライラたちを特定の場所へとおびき寄せようとしているのか?
「…どうする、ライラ?」カーヴェが尋ねた。「この信号を追うか?」
ライラは迷った。危険な賭けになるかもしれない。だが、キメラの居場所を知る唯一の手がかりである可能性も捨てきれない。
その時、事務所の暗号化された通信ラインに、新たな着信が入った。発信元は不明。あの謎の依頼人からだった。
『…探偵。キメラの居場所に近づいているようだな』
声は以前と同じく、機械的に変調されている。
『だが、奴ら…イスファンディヤール社の追手もすぐそこまで迫っている。キメラは危険な状態だ。このままでは、奴らに捕まるか、あるいは暴走して自滅するだろう』
「何が望みなの?」ライラは、冷静に問い返した。
『…直接話したい。指定する場所へ来てほしい。時間は、今日の午後3時。場所は、中層街のカフェ『星屑のテラス』だ。人目が多い場所の方が、お互いにとって安全だろう』
「なぜ、あなたがキメラを保護したいのか、その理由も聞かせてもらえるかしら?」
『…それは、会って話そう。一人で来い。余計な連れは不要だ』
通信は一方的に切られた。
「…どう思う?」ライラはカーヴェを見た。
「罠である可能性は、さらに高まったな」カーヴェは厳しい表情で答えた。「人目が多い場所を指定することで、こちらを油断させようとしているのかもしれない。あるいは、我々の戦力を分散させる狙いか」
「でも…」ライラは続けた。「ここで接触を拒否すれば、依頼人の正体も、キメラに関する情報も、得る機会を失うことになる。それに、もし本当にキメラが危険な状態なら…」
「…行くしかない、ということか」カーヴェは、ライラの決意を読み取った。「分かった。だが、条件がある。接触はお前一人で行け。俺は周囲に潜み、万一の場合に備える。少しでも危険を感じたら、すぐに合図をしろ。即座に介入する」
「ええ、それでお願い」
二人は、接触に向けた計画を練り始めた。カーヴェは周辺のビルや裏通りの構造を調べ、最適な監視ポイントと介入ルートを割り出す。ライラは、護身用の小型プラズマガンに加え、相手の嘘や敵意を探るために、サイコメトリー能力を補助する特殊なセンサーグローブを準備した。
午後3時少し前、ライラは指定されたカフェ『星屑のテラス』に到着した。そこは、中層街の比較的人通りの多い通りに面した、ガラス張りの開放的なカフェだった。店内は、昼下がりのティータイムを楽しむ客で賑わっている。
ライラは、窓際の席に座り、周囲をさりげなく観察した。カーヴェからの合図はない。彼は、すでにどこかのビルから、このカフェ全体を監視しているはずだ。
約束の3時ちょうど。カフェの入り口から、一人の人物が入ってきた。ライラは息を飲んだ。現れたのは、予想もしなかった人物だったからだ。
それは、壮年の男性だった。高価そうな仕立ての良いスーツを着こなし、穏やかな物腰だが、その瞳の奥には、鋭い知性と、何か計算高い光が宿っている。ライラは、その顔に見覚えがあった。イスファンディヤール社の公開されている役員リストで見たことがある。確か、研究開発部門の担当役員、ドクター・アルヴァンという名前だったはずだ。
(イスファンディヤール社の役員が、なぜ…!?)
混乱するライラの前に、アルヴァンと名乗る男は静かに腰を下ろし、微笑んだ。
「ライラ・ザハニさん。お会いできて光栄です。私が、今回の依頼人です」
彼の声は、電話で聞いた変調された声とは全く違っていた。落ち着いた、知的なバリトンだ。
「…あなたが?」ライラは、警戒心を解かずに尋ねた。「イスファンディヤール社の役員であるあなたが、なぜ自社の被験体であるキメラの保護を、私のような外部の探偵に依頼するのですか?」
「おや、私のことをご存知でしたか。さすがですね」アルヴァンは、少しも悪びれずに言った。「理由は簡単ですよ、ミス・ザハニ。私は、我が社の現在の方向性に、強い懸念を抱いているのです」
彼は、声を潜めて続けた。
「プロジェクト・キメラは、確かに私が主導した計画の一つでした。当初は、ジャードゥー能力の謎を解き明かし、人類の進化に貢献するための、純粋な科学的探求だったのです。しかし、現在の経営陣…特に、過激な思想を持つ一部の派閥は、その成果を、兵器開発や、社会支配のための道具として利用しようとしている。ラフマーニ博士が命がけで持ち出したデータは、その氷山の一角に過ぎません」
彼の言葉は、真実味を帯びているようにも聞こえた。社内の権力闘争。良心の呵責。ありえない話ではない。
「キメラ…被験体コード・ゼロは、その計画の中でも、最も成功し、そして最も危険な存在です。彼の持つ能力は、我々の予想を遥かに超えてしまった。そして、精神的にも極めて不安定だ。彼をこのまま野放しにしておけば、ペルセポリス・ネオに壊滅的な被害をもたらしかねない。かといって、会社の回収部隊に捕まれば、彼は兵器として利用されるか、あるいは危険因子として処分されるでしょう」
「だから、私に保護を依頼した、と?」
「ええ。あなたなら、その『特別な力』で、キメラと意思疎通を図り、彼を安全に保護…あるいは、必要ならば無力化できるかもしれない、と考えたのです。あなたにとっても、悪い話ではないはずだ。キメラを確保すれば、プロジェクト・キメラを告発するための決定的な証拠となる」
アルヴァンは、そこで言葉を切り、ライラの目を真っ直ぐに見据えた。
「取引といきましょう、ミス・ザハニ。キメラを、生きたまま、あるいは無力化した状態で、私の指定する場所に連れてきてください。そうすれば、見返りとして、あなたが欲している情報を提供しましょう。プロジェクト・キメラの全てのデータ、イスファンディヤール社内部の協力者のリスト、そして…ラフマーニ博士が、あなたのために隠していた、もう一つの研究データも」
最後の言葉に、ライラの心が揺れた。博士が隠していた、もう一つのデータ? それは、自分の過去や、力の制御に関する、更なる情報なのだろうか?
ライラは、アルヴァンの言葉の真偽を探ろうと、テーブルの下で、センサーグローブを起動させ、彼の感情の波を読み取ろうとした。だが、奇妙なことに、彼の感情はほとんど読み取れない。まるで、分厚い壁に覆われているかのように、表面的で、平板な印象しか伝わってこないのだ。彼は、感情を制御する訓練を受けているのか、あるいは…何か別の理由があるのか?
(この男、信用できない…)
ライラは直感的にそう感じた。だが、彼の提案する取引は、あまりにも魅力的だった。
ライラが返答に窮していると、彼女の耳に装着していた小型通信機から、アルダシールの声が聞こえてきた。彼が約束通り、写真の解析結果を送ってきたのだ。
『ライラ! 例の写真、解析できたぞ! こいつは…驚いたな…』
ライラは、アルヴァンに気づかれないように、意識を通信に集中させた。モニターに、解析結果が表示される。
アルダシールの報告は、衝撃的なものだった。写真に写っていた母親と子供は、やはり数年前にペルセポリス・ネオ郊外の研究所で起きたとされる爆発事故で死亡した、ザイド博士という研究者の妻子だと特定された。そして、破り取られていた父親は、そのザイド博士本人だった。
『だが、ここからが本題だ』アルダシールの声が続く。『ザイド博士は、表向きはイスファンディヤール社とは無関係の研究者だったが、裏ではラフマーニ博士と繋がりがあり、非公式にプロジェクト・キメラの研究に協力していた形跡がある。そして、例の爆発事故だが…どうも腑に落ちない点が多い。事故ではなく、口封じのために仕組まれた可能性が高い。さらに…』
アルダシールは、一呼吸置いて、決定的な情報を告げた。
『ザイド博士は…死んでいないかもしれない。事故の後、彼の身元情報が完全に抹消されているんだ。まるで、意図的に存在を消されたかのように。そして、彼の専門分野は…高度なサイバネティクスと、生体情報マスキング技術だ』
ライラは、目の前のアルヴァンの顔を見た。穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳の奥には、冷たい計算が光っている。ザイド博士…サイバネティクス…生体情報マスキング…そして、感情が読み取れない、この男。
(まさか…!?)
背筋に悪寒が走った。目の前にいるこの男、ドクター・アルヴァンは、実は…?
その考えが頭をよぎった瞬間、アルダシールから、新たな緊急通信が入った。
『ライラ! キメラのエネルギー反応を探知した! 例の発信機の信号も、急速にそこへ向かっている! 場所は、第7廃棄物処理プラントだ! だが、気をつけろ! イスファンディヤール社の特殊部隊も、同時にその場所へ向かっている! 大規模な戦闘になるぞ!』
状況は一刻を争う。ライラは、目の前の男への疑念と、キメラへの心配の間で、決断を迫られた。
「…取引は、保留にさせてもらうわ」
ライラは、アルヴァン(あるいはザイド博士?)の目を見て、きっぱりと言った。彼の驚いたような表情を横目に、ライラは席を立ち、カフェを飛び出した。
「カーヴェ! 聞こえる!? 第7廃棄物処理プラントよ! キメラがそこにいる! イスファンディヤール社も向かっているわ!」
ライラは通信機でカーヴェに連絡を取りながら、走り出した。
(キメラ…!)
アルダシールの解析結果が、ライラの頭の中で反響する。事故で家族を失い(あるいは失ったと思わされ)、自身は実験体とされ、父親の研究によって怪物へと変えられたのかもしれない子供。その悲劇的な過去を知り、ライラのキメラに対する感情は、同情から、強い保護への意志へと変わっていた。
(必ず助け出す…! 誰にも利用させない…!)
ライラは、カフェの後方のビルから、音もなく現れたカーヴェと合流し、第7廃棄物処理プラントへと全速力で向かった。
彼らの前には、イスファンディヤール社の特殊部隊が待ち受けているだろう。そして、まだ正体の掴めない、謎の依頼人の影も。キメラの過去と未来、そしてライラ自身の刻印の力が交錯する、新たな戦いの舞台が、ペルセポリス・ネオの汚れた空の下で、彼らを待ち受けていた。




