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第十一話:キメラの影、歪む都市

ペルセポリス・ネオの夜は、決して安らかではない。だが、ライラ・ザハニの探偵事務所に鳴り響いた電話の音は、いつにも増して不穏な空気を纏っていた。非通知の番号。機械的に変調された、感情の読めない声。そして、その声が告げた依頼内容は、ライラの全身を再び緊張で貫いた。


『…消えた人間を探してほしいのだ。その人間は…『キメラ』と呼ばれていた』


キメラ。ラフマーニ博士が命がけで警告した、イスファンディヤール社の非人道的な計画「プロジェクト・キメラ」。その名前を持つ人間を探せ、と? これは偶然なのか、それとも…。


ライラは受話器を握りしめ、隣に立つカーヴェと視線を交わした。カーヴェもまた、その言葉を聞き逃さなかった。彼の表情が、わずかに険しさを増す。


「…詳しく、お聞かせいただけますか?」ライラは、努めて冷静に、探偵としての声色で応答した。


『…時間がない。詳細はデータで送る』声は続けた。『キメラは、イスファンディヤール社の厳重な管理下にある研究施設から、数日前に逃走、あるいは何者かによって連れ去られた。我々は、キメラを保護したいと考えている。だが、奴ら…イスファンディヤール社の回収部隊も、必死にその行方を追っている。奴らに見つかる前に、キメラを確保してほしい』


「あなた方は、一体何者です? なぜ、私に?」


『我々の正体は明かせない。だが、君が『特別な力』を持つ探偵であることは知っている。そして、イスファンディヤール社と敵対していることもな。この依頼は、君にしか頼めない』


声は、ライラの「刻印」の力を知っているような口ぶりだった。そして、敵の敵は味方、という理屈だろうか。だが、その口調にはどこか、ライラを利用しようとするような響きも感じられた。


『報酬は破格だ。成功すれば、君が望むだけの情報も提供しよう。イスファンディヤール社の内部情報でも、ラフマーニ博士の研究データでも…あるいは、『刻印』に関する情報でもだ。だが、もし失敗すれば…我々も、そしておそらく君も、奴らに消されることになるだろう』


甘い餌と、明確な脅迫。ライラは、これが危険な罠である可能性を十分に感じていた。だが、「キメラ」というキーワードは、あまりにも魅力的すぎた。プロジェクト・キメラの実態に迫る、絶好の機会かもしれない。ラフマーニ博士の遺志に応えるためにも、この依頼は受けるべきだ、とライラは直感した。


「…分かりました。依頼、お受けします。最初の接触方法と、キメラに関する情報を」


『賢明な判断だ。接触場所は、ジール・ザミーン、セクター・シータの第3廃棄情報ターミナル。明日の0時ちょうど。そこに、最初の情報が入ったデータチップを置いておく。キメラに関する情報は…不安定だということだけ覚えておけ。能力も、精神も。下手に刺激すれば、何が起こるか分からん。健闘を祈る』


一方的に通信は切られた。事務所には、再び重い沈黙が訪れる。


「…どう思う、カーヴェ?」ライラは、カーヴェに意見を求めた。


「罠の可能性が高い」カーヴェは、即座に答えた。「依頼人の正体も目的も不明瞭すぎる。我々をおびき出し、キメラごと始末するつもりか、あるいは、キメラを捕獲するために我々を利用するつもりか…。どちらにしても、信用できない」


「同感よ。でも…」ライラは続けた。「それでも、行くしかないと思う。『キメラ』…ラフマーニ博士が警告していた存在よ。もし、本当にそんな人間が作られ、苦しんでいるのなら、放ってはおけない。それに、これはプロジェクト・キメラの実態を知る、唯一の手がかりかもしれない」


カーヴェは、ライラの決意に満ちた瞳を見つめ、そして、小さく頷いた。


「…分かっている。お前が行くと決めたのなら、俺も共に行く。だが、最大限の警戒を怠るな。どんな状況になっても、生き残ることを最優先に考えろ」


「ええ、もちろんよ」


二人は、再び訪れた危険な任務に向けて、準備を開始した。ライラはアルダシールに連絡を取り、今回の依頼について(依頼人の正体は伏せつつ)情報を共有し、ジール・ザミーン周辺の監視と、キメラに関連する可能性のある情報の収集を依頼した。カーヴェは、武器や装備を念入りに点検し、セーフハウスから持ち出していた予備の装備も確認した。


翌日の深夜0時。ライラとカーヴェは、ジール・ザミーンの深部、セクター・シータの第3廃棄情報ターミナルへと向かった。そこは、かつて下層民向けの公共情報端末が設置されていた場所だが、今は完全に放棄され、薄暗い通路の奥に、壊れたコンソールが数台、墓石のように並んでいるだけだった。周囲には人の気配はなく、不気味な静寂が漂っている。


指定されたコンソールの上に、約束通り、小さなデータチップが一つ、置かれていた。カーヴェが周囲を警戒する中、ライラは慎重にデータチップを回収し、自身のデータパッドに接続した。アルダシールが事前に仕込んでくれたセキュリティチェックプログラムが作動し、ウイルスや追跡プログラムが仕掛けられていないことを確認する。


データチップの中には、いくつかのファイルが格納されていた。


一つは、「キメラ」の姿を捉えたと思われる、極めて不鮮明な監視カメラの映像。暗い通路を、フードを目深にかぶった人影が、よろめきながら走り去っていく。性別も年齢も判別できない。ただ、その動きが異常に速い瞬間と、逆に壁に手をついて苦しそうに蹲る瞬間があり、状態が極めて不安定であることが窺えた。


もう一つは、キメラが施設から脱走した際の、断片的な経路データ。ジール・ザミーンの地下水路や、廃棄された研究所跡など、複雑で危険な場所を示している。


そして、最後の一つは、キメラの能力に関する、断片的な報告書らしきテキストデータだった。『被験体コード:キメラ。複数のジャードゥー因子と、限定的なアジダハーカ・エネルギーサンプルを強制的に融合。結果、極めて強力かつ不安定な複合能力を発現。主な能力として、周囲の電子機器への干渉・暴走誘発、限定的な空間歪曲、強力な精神感応及び幻覚投影能力を確認。ただし、制御は不可能であり、精神状態の悪化に伴い、無差別な能力の暴走を引き起こす危険性大…』


「…なんてことを…」ライラは、その記述を読んで、戦慄した。人間を、まるで実験動物のように扱い、こんな恐ろしい存在を作り出すとは。イスファンディヤール社の狂気は、想像以上だった。


「この逃走経路…最近、この周辺で奇妙な事件が頻発しているエリアと重なるな」カーヴェが、データパッドの地図と、彼が独自に収集していた情報を照合しながら言った。「制御不能なジャードゥーの暴走、原因不明の電子機器の故障、集団幻覚騒ぎ…おそらく、この『キメラ』が、逃走中に無意識に能力を撒き散らしているのだろう」


「じゃあ、それらの事件現場を辿れば、キメラの現在の居場所に近づけるかもしれないわね」


ライラは、変化した自身の感知能力に意識を集中させた。遺跡での経験を経て、彼女はサイコメトリーのように対象に触れなくても、特定のエリアに残る強い感情や、異常なエネルギーの痕跡を、以前よりも広範囲で感じ取れるようになっていた。


「…感じるわ。この近く…地下水路の方角から、とても不安定で…苦しそうなエネルギーの残滓が…」


ライラは、キメラが放ったであろうエネルギーの痕跡を捉えた。それは、まるで傷ついた獣が流した血の匂いを辿るかのように、彼女を導いていく。


二人は、データチップとライラの感知能力を頼りに、キメラの追跡を開始した。ジール・ザミーンのさらに深く、暗く、危険な領域へと足を踏み入れていく。


地下水路は、ヘドロと汚水、そして得体の知れない廃棄物が堆積し、強烈な悪臭を放っていた。狭く、暗い通路を進むと、壁には新しい爪痕のようなものや、原因不明の放電による焦げ跡などが残されており、キメラがここを通ったことを示していた。


時折、ライラは壁に手を触れ、サイコメトリーを試みた。流れ込んでくるのは、圧倒的な恐怖と混乱、そして激しい苦痛の感情。作られた存在としての悲しみ、誰にも理解されない孤独感、そして、自分自身の中に渦巻く制御不能な力への怯え。ライラは、その感情に触れるたびに、胸が締め付けられるような痛みを感じた。キメラは、怪物などではない。イスファンディヤール社の犠牲者であり、救いを求めている存在なのだ、と。


「…ライラ?」カーヴェが、ライラの変化に気づいて声をかけた。「大丈夫か? キメラの感情に、同調しすぎているのではないか?」


「…ええ。でも、放ってはおけない。あの子…きっと、誰かに助けてほしいだけなのよ」


ライラの瞳には、強い共感の色が浮かんでいた。彼女の「刻印」の力が、キメラの苦しみに、深く共鳴しているのかもしれない。


追跡を続けるうちに、二人は奇妙な現象に遭遇し始めた。突然、周囲の照明が激しく点滅し始めたり、通信機器がノイズを発して使えなくなったりする。あるいは、存在しないはずの壁や扉が、一瞬だけ幻覚として現れたり、足元の空間がぐにゃりと歪むような感覚に襲われたりすることもあった。これらは、キメラが近くを通過した際に残した、不安定な能力の影響なのだろう。


そして、彼らを追っているのは、ライラたちだけではなかった。


「前方、三時方向! 熱源複数!」カーヴェが警告を発した。


通路の先から、黒い戦闘服に身を包んだ数名の兵士が現れた。彼らは、イスファンディヤール社のロゴが入った最新鋭の装備を身に着けており、その動きには一切の無駄がない。明らかに、キメラを回収するために派遣された秘密部隊だ。


「ターゲット捕捉! 邪魔者は排除しろ!」


兵士たちは、警告なしに発砲してきた。ライラとカーヴェは、即座に応戦態勢をとる。


「カーヴェ、援護を!」


ライラは、戦闘しながらも、自身の刻印の力を、周囲の環境へと広げた。地下水路の壁や床に流れる微弱なエネルギーを感じ取り、それに干渉する。彼女が意識を集中させると、兵士たちの足元の床の一部が突然ぬかるみ、彼らの動きを鈍らせた。さらに、近くの配電盤にエネルギーを流し込み、ショートさせて一時的な停電を引き起こし、兵士たちの暗視ゴーグルを無効化する。


その隙に、カーヴェが動いた。彼は闇に紛れて高速で接近し、混乱する兵士たちを次々と無力化していく。彼の動きは、遺跡での戦いを経て、さらに洗練されているように見えた。


だが、兵士たちを退けたのも束の間、今度は別の脅威が現れた。通路の反対側から、禍々しいオーラを纏った数人の人影が近づいてくる。彼らは、アジ・ダハーカの末裔の残党だった。


「見つけたぞ、裏切り者のキメラ! そして、刻印持ちの娘も!」


末裔の一人が、憎悪に満ちた声で叫んだ。彼らは、キメラをイスファンディヤール社から奪い返し、自分たちの目的のために利用しようとしているのか、あるいは、危険な存在として抹殺しようとしているのか。


末裔たちは、強力なジャードゥーを放ちながら襲いかかってきた。炎、氷、念動力。狭い通路で、再び激しい戦闘が繰り広げられる。


ライラは、刻印の力で防御フィールドを展開し、ジャードゥー攻撃を防ぎながら、相手のエネルギーの流れを読んで反撃の機会を窺う。カーヴェは、ライラを守りながら、近接戦闘で末裔たちを一人ずつ確実に仕留めていく。


戦闘の最中、ライラは奇妙なことに気づいた。自分が刻印の力を強く使うと、近くにいるはずのキメラが残したエネルギーの痕跡が、一時的に安定するようなのだ。逆に、自分が怒りや焦りを感じると、キメラの痕跡もまた、荒々しく乱れる。


(まさか…私の力が、あの子に影響を与えている…?)


刻印の力が、他者のジャードゥーや精神状態にも干渉しうる可能性。それは、新たな希望であると同時に、恐ろしい危険性も孕んでいた。もし、自分の負の感情が、キメラの暴走を引き起こしてしまったら…?


ライラは、自身の感情を制御し、冷静さを保つことの重要性を、改めて痛感した。


激しい戦闘の末、ライラとカーヴェは、辛うじてイスファンディヤール社の部隊と末裔の残党を退けることに成功した。だが、二人とも消耗し、傷を負っていた。


「…キメラの痕跡が、この先に続いているわ」ライラは、乱れた呼吸を整えながら言った。「かなり弱っているみたい…でも、まだ動いている」


二人は、最後の力を振り絞り、追跡を再開した。そして、ついに、キメラが潜伏していると思われる場所――かつて使われていた古い地下実験施設の一室――にたどり着いた。扉は内側からバリケードが築かれているようだったが、隙間から中の様子を窺うことができた。


部屋の隅で、一人の人影が蹲っていた。ボロボロになった研究着のようなものを着て、フードを目深にかぶっているため、顔は見えない。だが、その身体は小刻みに震え、周囲には不安定なエネルギーのオーラが揺らめいている。そして、時折、その姿が一瞬、歪んで見える。まるで、複数の存在が混ざり合い、安定した形を保てずにいるかのようだ。痛々しく、恐ろしく、そして何よりも哀れな姿だった。


あれが、キメラ…。


ライラは、そっと声をかけた。


「…そこにいるのね? 大丈夫? 私たちは、あなたを助けに来たのよ」


その声に、キメラはビクリと肩を震わせ、顔を上げた。フードの奥から覗いた瞳は、人間のものではなかった。片方は爬虫類のように縦長の瞳孔を持ち、もう片方は昆虫のように複眼状になっている。そして、その瞳には、深い恐怖と混乱、そして人間への強い不信感が浮かんでいた。


『…来るな…! 近づくな…!』


キメラの声は、複数の声が重なり合ったような、奇妙な響きを持っていた。


「私たちは敵じゃないわ。あなたを利用しようとする者たちから、あなたを守りたいの」ライラは、できるだけ穏やかな声で語りかけた。「あなたの苦しみ、私には少しだけ分かる気がするから…」


ライラは、自身の刻印の力を、威嚇ではなく、共感と癒やしの波動として、そっとキメラに向けた。キメラの周囲で揺らめいていた不安定なエネルギーが、わずかに穏やかになる。キメラの瞳から、警戒の色が少しだけ薄れたように見えた。


(もう少し…!)


ライラが、さらに一歩近づき、手を差し伸べようとした、その瞬間だった。


部屋の天井が、轟音と共に破壊され、そこからイスファンディヤール社の強化兵士たちが、ワイヤーを使って降下してきたのだ。同時に、部屋の別の入り口からも、アジ・ダハーカの末裔たちがなだれ込んできた。彼らもまた、キメラの居場所を突き止めていたのだ。


「キメラを確保しろ!」


「異形の存在め、ここで消えろ!」


再び、三つ巴の戦闘が始まろうとしていた。キメラは、突然の襲撃と混乱にパニックを起こし、再び能力を暴走させ始めた。周囲の壁が歪み、電子機器が火花を散らす。


「まずい! 逃げるぞ!」カーヴェが叫び、ライラの手を引いた。


キメラもまた、恐怖に駆られて、壁の一部を自ら破壊し、その向こうの暗闇へと姿を消してしまった。


ライラとカーヴェは、追撃してくる両組織の攻撃を掻い潜りながら、辛うじてその場から離脱した。


戦闘の後、静けさが戻った実験施設の一室。そこには、キメラがいた痕跡だけが残されていた。壁には、苦悩に満ちた殴り書きのような文字が刻まれている。


『ワタシ ハ ニンゲン? カイブツ? ドコ ニ モ イバショ ガ ナイ…』


そして、床には、一枚の破れた写真が落ちていた。そこに写っていたのは、ごく普通の、優しい笑顔をした家族の写真。だが、その写真の父親と思われる人物の顔は、意図的に破り取られている。これは、キメラが持っていたものなのだろうか? 彼(あるいは彼女)は、元々は普通の人間だった…?


ライラは、壁の文字と写真を、複雑な思いで見つめていた。キメラの苦しみと孤独が、痛いほど伝わってくる。


そして、もう一つ、気になるものがあった。部屋の隅に、巧妙に隠されていた小型の発信機。これは、誰が仕掛けたものだ? 逃走したキメラを追跡するためのものか? それとも、ライラたちをおびき寄せるための罠の一部だったのか? 謎の依頼人の影が、再びちらつく。彼の真の目的は、一体何なのか?


「…必ず、あの子を見つけ出す」ライラは、固い決意を込めて呟いた。「そして、今度こそ…守ってみせる」


ペルセポリス・ネオの歪んだ空の下、キメラを巡る新たな追跡劇が、そして、ライラの探偵として、刻印持ちとしての、より困難な戦いが、再び始まろうとしていた。彼女の選択は、この歪んだ都市に、どのような影響を与えていくのだろうか。

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