第十話:遺された声、蠢くキメラ
ペルセポリス・ネオ中層街、シャフル・ミヤーネの雑居ビル「アフラ・タワー」七階。ライラ・ザハニの探偵事務所は、数日ぶりに主の帰還を迎えていた。窓の外では、都市の喧騒が以前と変わらず続いていたが、事務所の中の空気は、明らかに以前とは異なっていた。遺跡での死闘の記憶、失われたものと得たものの重さ、そして、二人の居住者が経験した劇的な変化が、静かに、しかし確実に空間を満たしていた。
ライラは、事務所のドアを開けた瞬間、深い安堵と同時に、言いようのない違和感を覚えていた。ここは自分の「帰る場所」のはずなのに、まるで初めて訪れた場所のようにも感じられる。それは、場所が変わったのではなく、自分自身が変わってしまったからだろう。
彼女は無意識に、右手の甲を左手で覆った。黒く焼き付いた「刻印」の紋様。それは、もはや隠すことのできない、自分の一部となっていた。そして、鏡に映る自分の姿を見るたびに、白銀色に変わってしまった髪の一部が、あの遺跡での出来事が夢ではなかったことを突きつけてくる。
カーヴェは、ライラの後ろで静かにドアを閉め、鋭い視線で室内を素早く確認した。侵入者の痕跡はない。彼は、ここ数日間のセーフハウスでの生活と同様に、ライラの傍を離れず、常に警戒を怠らないでいた。彼にとっても、この事務所は一時的な休息場所でしかないのかもしれない。守人としての彼の戦いは、まだ終わっていないのだから。
そんな二人の元へ、新たな訪問者が現れたのは、事務所に戻って間もなくのことだった。インターホンのモニターに映し出されたのは、先日ライラに助けを求めてきた、ラフマーニ博士の弟と名乗る中年の男性、アバス・ラフマーニの姿だった。彼の表情は、以前よりもさらに憔悴し、深い悲しみを湛えている。
「…どうぞ」
ライラは、複雑な気持ちで彼を招き入れた。アバスは、ライラと、その隣に立つカーヴェのただならぬ雰囲気、そしてライラの変貌した姿(特に髪の色)に気づき、一瞬、言葉を失ったようだったが、すぐに気を取り直し、深々と頭を下げた。
「ライラ・ザハニさん…先日は、突然押しかけて申し訳ありませんでした。そして…兄のことで、何かご存知ではないかと…」
彼の声は震えていた。おそらく、兄であるラフマーニ博士の失踪が、もはや単なる行方不明ではなく、最悪の事態――死亡――の可能性が高いことを、彼もまた察しているのだろう。
ライラは、彼に席を勧め、温かい合成茶を淹れた。そして、どこまで話すべきか逡巡しながら、慎重に言葉を選んだ。
「アバスさん…お兄様の失踪には、残念ながら、非常に危険な組織が関与している可能性が高いです。私たちが調査した結果、お兄様は、その組織…イスファンディヤール・コーポレーションから、命を狙われていたと考えられます」
アジダハーカや刻印といった核心部分は伏せたが、巨大企業の陰謀という事実は伝えた。アバスは、その名前を聞いて、蒼白になった。
「イスファンディヤール社…! やはり、兄が恐れていたのは…!」彼は何かを察していたようだ。「兄は…もう…?」
ライラは、静かに首を横に振った。
「…残念ながら、それを断定できる情報はありません。ですが、彼があなたに何かを託そうとしていたのなら、それは非常に重要な意味を持つはずです」
アバスは、ライラの言葉に頷くと、懐から小さなデータチップを取り出し、震える手でライラに差し出した。
「これが…兄が最後に私に託したものです。『もし自分の身に何かあったら、必ずライラ・ザハニという探偵を探し出し、これを渡してくれ。彼女なら、真実を…そして、未来を守ってくれるかもしれない』と…」
ライラは、そのデータチップを、厳粛な気持ちで受け取った。ラフマーニ博士が、死を覚悟して残したメッセージ。そこには、一体何が記録されているのだろうか。
「兄は…一体、何を知ってしまったのでしょうか? そして、なぜあなたに…?」アバスは、懇願するような目でライラを見た。
「…分かりません。ですが、必ず、このデータチップの中身を解き明かし、お兄様の遺志に応えたいと思います。そして、可能な限り、真実を突き止め、あなたにお伝えすることを約束します」
ライラは、探偵として、そして博士から何かを託された者として、力強く答えた。アバスは、その言葉に少しだけ安堵したように、何度も頭を下げ、事務所を後にした。彼の背中には、兄を失った深い悲しみと、真実を知りたいという切実な願いが滲んでいた。
アバスが去った後、ライラはすぐに受け取ったデータチップを解析用のコンピューターに接続した。だが、予想通り、そこには最高レベルの暗号化と、複数のトラップが仕掛けられていた。下手に手を出せば、データが消去されるか、あるいは追跡される危険すらある。
「…アルダシールに頼むしかないわね」
ライラは溜息をつき、再びあの偏屈なハッカーに連絡を取った。
『またお前か! 今度は何の厄ネタだ!? こっちはお前らが持ち帰ったデータの解析で、ここ数日寝てないんだぞ!』
通信回線の向こうから、アルダシールの不機嫌極まりない声が響く。
「ごめんなさい、アルダシール。でも、これもあなた好みの『超一級の厄ネタ』だと思うわ。ラフマーニ博士が、私宛に残した最後のメッセージらしいの」
『ラフマーニだと!? あの失踪した天才か! …ちっ、仕方ねえな。だが、これは別料金だぞ! それも超高額だ!』
「分かってるわよ。お願い」
ライラはデータチップの情報を安全な方法でアルダシールに転送した。解析には時間がかかるだろう。それまでの間、ライラとカーヴェは、事務所での生活を再開することにした。
それは、「日常への回帰」というよりは、「日常への回帰の試み」と呼ぶべきものだった。
事務所の空気は、以前とは明らかに違う。カーヴェが常にライラの傍にいることで、奇妙な緊張感と、同時に不思議な安心感が同居していた。彼はライラの護衛を自任し、事務所のセキュリティを強化し、外部との接触にも細心の注意を払った。時には、ライラが淹れた合成コーヒーを黙って飲み、窓の外を眺めていることもあったが、その意識は常に周囲に向けられているようだった。二人の間には、まだ多くの謎と、言葉にならない感情が存在していたが、あの遺跡での経験は、彼らを単なる依頼人とボディガード以上の、もっと深く、複雑な関係へと変えていた。
ライラ自身もまた、変化に戸惑っていた。探偵業を再開しようと、簡単な依頼――例えば、近所の老人から依頼された、逃げ出したサイバネティック・ペットの捜索――を引き受けた時のことだ。ペットが隠れていそうな路地裏で、ライラはサイコメトリーを使おうとした。だが、対象に触れる前に、ペットの怯えた感情や、隠れ場所のイメージが、断片的に頭の中に流れ込んできたのだ。
(…え? 今のは…?)
それは、触覚を介さずに、より広範囲の残留思念を感知する能力へと変化している兆候だった。さらに、集中すると、数秒先の未来の出来事が、不鮮明なビジョンとして見えることさえあった。子供がボールを追いかけて飛び出してくる、配達ドローンが制御を失って落下する…。その力のおかげで、いくつかの小さな事故を防ぐこともできたが、同時に、絶えず流れ込んでくる情報や感情に、ライラは疲弊し始めていた。
「…無理をするな」ある夜、訓練スペースで力の制御に苦しんでいたライラに、カーヴェが静かに声をかけた。「その力は、まだお前の器に収まりきっていない。焦りは禁物だ」
彼は、ライラが力の波長を乱しているのを正確に読み取り、そっと彼女の肩に手を置いた。不思議なことに、カーヴェに触れられると、ライラの内部で渦巻いていたエネルギーが、少しだけ穏やかになるような気がした。彼もまた、守人として、エネルギーの流れを整える術を知っているのかもしれない。
「守人に伝わる呼吸法がある。精神を集中させ、エネルギーの流れを制御するためのものだ。試してみるか?」
ライラは頷き、カーヴェからその呼吸法を教わった。それは、ゆっくりと深く息を吸い込み、体内のエネルギーを感じ取り、それを意識的に循環させるというものだった。最初は難しかったが、繰り返すうちに、ライラは確かに、自身の力の波が少しずつ穏やかになっていくのを感じた。
「ありがとう、カーヴェ」
「礼は不要だ。これも、俺の使命だ」
カーヴェはそう答えたが、その横顔には、使命感だけではない、温かい何かが宿っているように見えた。
そんな日々が数日続いたある日、アルダシールから緊急度の高い通信が入った。ラフマーニ博士のデータチップの解析が、ついに完了したというのだ。
『ライラ、これは…とんでもない代物だぞ…!』
アルダシールの声は、興奮と、そして畏怖のような響きを帯びていた。モニターに、彼が解読したファイルが次々と表示されていく。
最も衝撃的だったのは、ラフマーニ博士自身がやつれた姿で登場する、ビデオメッセージだった。彼は、おそらく死を覚悟し、震える声で、ライラに向けて最後の言葉を紡いでいた。
『…ライラ・ザハニ君、いや…ヤスミン、と呼ぶべきか。君がこれを見ているということは、私はもうこの世にいないのだろう。そして君は、自身の真実に近づきつつあるのだろうね…。すまない。本当に、すまなかった…』
博士は、嗚咽を堪えながら、自身の過去の研究について語り始めた。彼がイスファンディヤール社で、古代の遺伝子マーカー――「刻印」の因子――の研究に関わっていたこと。そして、ライラがその因子を持つ、極めて稀な存在であることを突き止めたこと。
『我々は、君を…いや、君のような存在を、人類の進化の鍵として見ていた。だが、それは傲慢だった。君の持つ力は、アジダハーカと深く結びつきすぎている。それは世界を救う調和の力となりうるが、一歩間違えれば、全てを焼き尽くす破滅の炎ともなる…』
博士は、ライラに力の制御の重要性を繰り返し訴えた。
『制御できなければ、力はお前自身を喰らうだろう。だが、希望はある。古代の刻印持ちたちは、その力を制御し、安定させるための場所を持っていた。『失われた聖地』…そこへ行くことができれば、お前は真の覚醒を果たせるかもしれん…』
彼は、聖地の具体的な場所は明言しなかったが、いくつかの座標データと、解読困難な古代文書の断片を、別のファイルに残していると告げた。
『そして、警告だ、ヤスミン。イスファンディヤール社は、諦めてはいない。彼らは、お前以外にも刻印の素質を持つ血脈を探し出し、利用しようとしている。あるいは…作り出そうとしているのかもしれない…』
博士の言葉は、そこで途切れ、別の極秘ファイルがモニターに表示された。タイトルは、『プロジェクト・キメラ』。
その内容は、ライラの想像を絶するものだった。イスファンディヤール社は、古代の血脈から抽出した遺伝子、様々なジャードゥー能力者の因子、そして遺跡から違法に採取したアジダハーカのエネルギーサンプルを強制的に融合させ、人為的に強力なハイブリッド能力者――『キメラ』――を作り出そうとしていたのだ。ファイルには、非人道的な実験の記録、失敗し、暴走した被験体のデータ、そして、成功例とされる数体の『キメラ』の恐るべき能力に関する記述が生々しく記録されていた。
『私は、この狂った計画に反対し、データを持ち出して逃亡した。だが、奴らは私を執拗に追ってきた…。ヤスミン、君にこれを託す。この計画を…イスファンディヤール社の狂気を、止めてくれ…! それが、私の最後の願いだ…』
ビデオメッセージは、そこで途絶えた。ライラは、画面に映る博士の苦悩に満ちた最後の表情を、ただ呆然と見つめていた。自分の出生の秘密の一部、力の危険性、そして、新たな脅威『プロジェクト・キメラ』。あまりにも多くの情報が、一度に彼女の心に流れ込んできた。
カーヴェは、ライラの隣で静かにメッセージを見ていた。彼の表情は硬く、イスファンディヤール社への怒りを露わにしていた。
「…キメラ計画…許しがたい蛮行だ。ラフマーニ博士の遺志、我々が継がねばならん」
その言葉を裏付けるかのように、ペルセポリス・ネオの街では、不穏な事件が頻発し始めていた。制御不能になったジャードゥー能力者が、原因不明の暴走を起こして街を破壊する。繁華街で、人々が次々と原因不明の昏睡状態に陥る。下層街では、不気味な変異を遂げた、見たこともない生物が目撃される…。
ニュースでは「新型ドラッグの蔓延」「集団ヒステリー」などと報道されていたが、ライラとカーヴェは、それらが『プロジェクト・キメラ』の失敗作や、あるいは計画の副産物によるものではないかと疑っていた。アルダシールもまた、独自にこれらの事件を追っており、『キメラ計画の被験体が野に放たれたか、あるいは末裔の残党が、イスファンディヤール社への報復か何かで、裏で糸を引いている可能性もある』という分析結果を送ってきた。都市の治安は、確実に悪化し始めていた。水面下で、何かが蠢き始めている。
ライラは、カーヴェと今後の行動について話し合った。ラフマーニ博士が残した情報、詩の予言、そしてペルセポリス・ネオで起こり始めた異変。全てが、新たな戦いの始まりを告げている。
「博士が示した『失われた聖地』…そこへ行けば、力の制御法が見つかるかもしれない」ライラは言った。「でも、今は『キメラ計画』を止める方が先決だと思う。このままでは、街が…人々が危険に晒される」
「同感だ」カーヴェも頷いた。「聖地の場所を探すのは時間がかかるだろう。まずは、キメラ計画の証拠を掴み、イスファンディヤール社の企みを暴く必要がある。だが、相手は巨大企業だ。我々だけでは…」
「分かってるわ。だから、探偵として動くのよ」ライラは決意を込めて言った。「表向きは、普通の依頼を受けながら、水面下でキメラ計画に関する情報を集める。力を制御する訓練も続ける。そして、時が来たら…行動を起こす」
それは、危険で、困難な道だ。だが、今の自分たちにできる、最善の方法に思えた。
カーヴェは、ライラの決意に満ちた瞳を見つめ、そして、静かに言った。
「…分かった。お前が進む道が、俺の道だ。これからは、単なる守人としてではなく、お前のパートナーとして、共に戦おう」
彼の言葉には、これまでにない明確な意志と、ライラへの深い信頼が込められていた。ライラもまた、彼の言葉を、そして彼自身を、心から信頼し、受け入れた。二人の間には、もはや壁はなかった。対等なパートナーとしての、新たな関係が始まったのだ。
その時、事務所の電話が鳴った。ディスプレイには「非通知」の表示。ライラは、カーヴェと視線を交わし、警戒しながら受話器を取った。
「…はい、ライラ・ザハニ探偵事務所です」
『…ライラ・ザハニ探偵事務所か?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、低く、機械的に変調された、感情の読めない声だった。
『ある調査を依頼したい。極秘裏に…消えた人間を探してほしいのだ。その人間は…』
声は、一瞬、間を置いた。
『…『キメラ』と呼ばれていた』
ライラは息を飲んだ。キメラ。それは、偶然なのか? それとも…。
イスファンディヤール社の内部告発者か? 末裔の残党の罠か? あるいは、全く別の、第三の勢力の影か?
受話器を握るライラの手が、わずかに震えた。だが、その瞳には、迷いを振り切った強い光が宿っていた。探偵として、そして刻印持ちとして、新たな事件と、その背後に潜む巨大な闇に立ち向かう覚悟は、もうできていた。
「…詳しく、お聞かせいただけますか?」
ライラは、静かに、しかし確かな意志を込めて、そう答えた。
ペルセポリス・ネオの明けの空の下、黄金の刻印を持つ探偵の、次なる戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。




