第一話:雨音とサイコメトリー
降りしきる雨は、ペルセポリス・ネオの空気を重く湿らせていた。単なる水滴ではない。上層の工場群や大気浄化プラントが吐き出しきれなかった汚染物質を溶かし込んだ、肌を刺すような酸性雨だ。窓ガラスを叩くその音は、単調でありながらどこか神経を逆撫でする響きを持っていた。
ライラ・ザハニは、自身が「事務所」と呼ぶ狭い部屋の窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。ここペルセポリス・ネオ中層街、シャフル・ミヤーネの雑居ビル「アフラ・タワー」の七階。窓の外には、雨に濡れて光沢を増した高層建築群が霧の中に霞み、巨大なホログラム広告が虚ろな色彩を明滅させている。最新型の浮遊車両が静かに雨の中を滑り、地上では旧式のガソリン車と電動バイク、そして人々がフードを目深にかぶり、足早に行き交っていた。活気と退廃が奇妙に同居する、それがこの街の日常だった。
ライラの事務所は、そんな喧騒とは壁一枚隔てた静寂の中にある。広さは十畳ほどだろうか。壁には防音と断熱を兼ねた古めかしい吸音材が貼られ、床には色褪せたペルシャ絨毯もどきの合成繊維マットが敷かれている。部屋の半分はデスクスペースが占めていた。大型のフラットモニターが三台、キーボード、データパッド、そして無数のケーブル類。その隣には、年代物の書籍やデータチップが乱雑に積み重ねられている。壁際には簡易キッチンとシャワールームへの扉、そして奥には仮眠用のソファベッドが見えた。探偵事務所というよりは、引きこもりのハッカーか、世捨て人の研究室といった方が近いかもしれない。実際、ライラはそのどちらの要素も持ち合わせていると言えた。
彼女は溜息をつき、窓から離れてデスクに戻った。モニターの一つには、古代文字で書かれた詩の画像データが表示されている。複雑な曲線と点描で構成された、まるで生きているかのような文字。それは、彼女がかつて師事し、そして今は行方不明の恩師、ファリード・ヌーリ教授が研究していた失われた言語だった。
「先生…」
無意識に呟いた声は、雨音にかき消されそうだった。ファリード先生。白髪と長い髭を蓄え、いつも穏やかな瞳で古代の叡智について語ってくれた人。ライラにとっては、単なる師以上の存在だった。幼い頃に両親を失い、施設を転々としていた自分を引き取り、知識と、そして何より「帰る場所」を与えてくれた。彼への想いは、尊敬や感謝だけでは言い表せない。それは限りなく純粋な思慕であり、時として、自分でも持て余すほどの強い執着――溺愛に近いものだったのかもしれない。
彼が失踪して、もう半年が経つ。警察は早々に捜査を打ち切り、世間も著名な学者の失踪を過去のニュースとして忘れ去ろうとしていた。だが、ライラは諦められなかった。ファリード先生は、何か巨大な陰謀に巻き込まれたのだと確信していた。古代の詩に隠された「アジダハーカ」の謎。そして、それを狙う巨大企業「イスファンディヤール・コーポレーション」の影。先生は失踪直前、何かを掴みかけていた。そして、ライラに断片的な警告と、解読途中の詩の一部を託したのだ。
彼を探し出す。真実を明らかにする。その一心で、ライラはファリードの研究を引き継ぐ傍ら、この探偵事務所を開いた。彼の知識と人脈、そして自身が持つ厄介な力――ジャードゥーを使って。
ジャードゥー。この世界で「異能」と呼ばれる特殊能力。遺伝的なものか、環境汚染の影響か、あるいはペルセポリス・ネオの地下に眠る古代遺跡から漏れ出す未知のエネルギーによるものか、その起源は定かではない。様々な能力が存在し、能力者は登録と管理の対象となる。有用な者は社会で重用されるが、危険視される者は時に隔離され、差別も根強い。
ライラのジャードゥーは「サイコメトリー」。触れた物体や場所に残された強い感情や記憶の断片を読み取る力だ。それは時に捜査の糸口となるが、制御は難しく、精神的な負荷も大きい。他人のどす黒い感情や、悲劇の瞬間の記憶に触れるたび、ライラの心は少しずつ蝕まれていく。それでも、これがファリード先生を見つけ出すための唯一の武器だった。
雨音は依然として止まない。ライラは冷めた合成コーヒーを一口飲み、再びモニターの詩に目を向けた。だが、集中できない。ファリード先生の不在が、部屋の隅々にまで満ちているように感じられた。先生は、この詩の中に何を見つけようとしていたのだろう? アジダハーカとは、一体何なのだろう?
その時、事務所のドアを激しく叩く音が響いた。ノックというよりは、叩きつけるような音だ。ライラは眉をひそめ、インターホンのモニターを確認する。そこには、ずぶ濡れになった若い女性が、息を切らして立っていた。年は二十歳前後だろうか。安価な合成繊維のレインコートを羽織っているが、フードから覗く顔は恐怖と不安で青ざめている。
「…どうぞ」
警戒しつつも、ライラはドアのロックを解除した。勢いよくドアが開き、女性が転がり込むようにして入ってくる。床に雨水が滴り、小さな水たまりを作った。
「はぁ…はぁ…! あ、あなたが、探偵のライラ・ザハニさん…ですよね?」
女性は肩で息をしながら、懇願するような目でライラを見上げた。
「そうだけど。まず、落ち着いて。タオルをどうぞ」
ライラは壁にかけてあったタオルを投げ渡した。女性は震える手でそれを受け取り、顔と髪を乱暴に拭う。
「ありがとうございます…! 私、サナーっていいます。サナー・ラヒミ」
「サナーさん。それで、一体どうしたの? こんな時間に、ずぶ濡れで」
ライラの口調は努めて事務的だった。同情や共感は、時に判断を鈍らせる。特にこの仕事では。
サナーはタオルを握りしめ、再びライラを見た。その瞳には涙が浮かんでいる。
「弟なんです! 弟のハッサンが…昨日から、帰ってこないんです!」
「ハッサン…弟さんね。家出とか、友達の家に泊まってるとか、そういう可能性は?」
「違うんです! 絶対に違う! あいつ、昨日、家を出る前に変なことを言ってて…『姉ちゃん、俺、今日デカいヤマがあるんだ。成功したら、もうこんな中層街ともおさらばだ』って。でも、顔はすごく青ざめてて、手が震えてたんです。何か、すごくヤバいことに関わってるって…」
ライラは黙ってサナーの話を聞いていた。家出少年少女の捜索依頼は珍しくない。大抵は数日もすれば、友人宅や街のゲームセンターあたりで見つかるものだ。だが、サナーの必死な様子は、単なる心配性だけでは片付けられない何かを感じさせた。
「ハッサン君は何歳? 普段は何をしているの?」
「十七歳です。学校にはもう行ってなくて…その、ジャンク屋を手伝ったり、古い情報端末の改造とか…そういうことを…」
所謂、裏通りの何でも屋、あるいは小物のハッカーといったところか。ペルセポリス・ネオでは掃いて捨てるほどいる若者たちだ。彼らがちょっとした小遣い稼ぎのつもりで危険な仕事に手を出し、トラブルに巻き込まれるケースは後を絶たない。
「最後に連絡があったのはいつ?」
「昨日の夜9時ごろです。『今から下層街の『錆びた歯車』って店に行く』ってメッセージがあって、それっきり…電話しても繋がらないし、メッセージも既読にならないんです!」
「錆びた歯車…聞いたことがある。下層街、ジール・ザミーンに近いエリアの、あまり評判の良くない情報屋兼ジャンク屋ね」
ライラは眉根を寄せた。ジール・ザミーンはペルセポリス・ネオの最下層。旧市街の残骸が迷宮のように広がり、スラムや非合法マーケットがひしめく無法地帯だ。中層街の住人が不用意に足を踏み入れるべき場所ではない。
「警察には?」
サナーは力なく首を振った。
「行きました。でも、家出人捜索願を出すにはまだ早いって…それに、ハッサンが関わった仕事の内容が分からないと、まともに動いてくれないって…。あいつ、きっと、本当に危ないことに…!」
サナーの声は再び涙で震え始めた。ライラは腕を組んで少し考えた。正直、面倒な案件だ。成功報酬も期待できそうにない。だが、目の前の少女の必死な瞳が、かつての自分と重なるような気がした。誰にも頼れず、ただ途方に暮れていた自分。そして、そんな自分に手を差し伸べてくれたファリード先生の姿。
「…分かった。引き受けましょう」
「ほ、本当ですか!?」
サナーの顔がぱっと明るくなる。
「ただし、条件がある。ハッサン君について、知っていることは全て正直に話してもらうこと。それから、報酬は成功報酬。見つけ出せたら、あなたの払える範囲で構わない。でも、経費は別。それから、私の指示には絶対に従うこと。危険な場所に行くことになるかもしれないから」
「はい! はい! 何でもします! お金は…今はあまりないけど、必ず払いますから!」
「いいわ。それじゃあ、まずハッサン君の写真と、彼の部屋にある私物で、最近よく触っていたものを持ってきてくれる? それと、彼がよく使う情報端末のIDとか、分かる範囲で構わないから」
「わ、分かりました! すぐに取ってきます!」
サナーは勢いよく立ち上がり、再び雨の中に飛び出していった。ライラは一人残された事務所で、もう一度溜息をついた。
「面倒なことに首を突っ込んじまったかな…」
だが、後悔はしていなかった。これは仕事だ。探偵としての「義理」。そして、ほんの少しだけ、過去の自分への贖罪のような気持ちもあったのかもしれない。
数十分後、サナーは息を切らして戻ってきた。手にはデータパッドと、古びた金属製のペンダントを握りしめている。
「これがハッサンの写真と、あいつがよく使ってる端末のIDです。それと、このペンダント…お守りだって言って、いつも身に着けてたものなんですけど、昨日は珍しく机の上に置いてあって…」
ライラはデータパッドを受け取り、ハッサンの写真を確認した。まだ少年っぽさの残る、しかしどこか挑戦的な目つきをした若者だ。次に、ペンダントを受け取る。安価な合金で作られた、三日月と星を組み合わせたようなデザイン。長年身に着けていたのだろう、表面は滑らかに摩耗している。
「…少し、時間をくれる?」
ライラはペンダントを手のひらに乗せ、目を閉じた。集中する。意識を指先に集め、ペンダントに残された残留思念を探る。これが彼女のジャードゥー、サイコメトリーだ。
最初はノイズばかりだ。様々な感情や記憶の断片が、混線したラジオのように流れ込んでくる。ペンダントに込められた持ち主の日常的な感情。苛立ち、焦り、少しの希望、退屈…。だが、ライラはそれらを丁寧に濾過し、より強く、新しい残留思念を探っていく。
(…あった)
昨日の夜のものと思われる、強い感情の波。それは、興奮と、それ以上に強い恐怖だった。
視界が白く染まり、断片的なイメージが流れ込んでくる。薄暗い路地。壁に描かれたグラフィティ。怪しげな光を放つジャンク屋の看板。「錆びた歯車」の文字が見える。
『…だから、言っただろ! 俺ならできるって!』
ハッサンの声だ。若い、自信に満ちた声。だが、その奥に震えが混じっている。
『データは本物だろうな? 約束のブツは…』
別の声。低く、威圧的な男の声。姿は見えない。影だけが揺らめいている。
『ああ、間違いない! 古代…のやつだろ? 例の…詩…の一部だって…』
『詩だと? ふん、そんなものはどうでもいい。重要なのは、そのデータが『鍵』になるかだ。お前の姉貴が…例の教授の助手だったというのは本当か?』
ライラは息を飲んだ。ファリード先生のことだ。なぜハッサンが、そんなことを?
『…ああ。まあな。でも、姉貴はもう関係ねえよ! このデータは俺が独自に入手したんだ!』
ハッサンの声に焦りの色が濃くなる。恐怖が伝染してくる。
『ふん…まあいい。データを確認させろ。話はそれからだ』
場面が変わる。狭い部屋。壁には不気味なシンボルが描かれている。竜のような、蛇のような…アジダハーカの図像? ハッサンがデータパッドを操作している。その手が小刻みに震えている。
『…なんだよ、これ…話が違うじゃねえか!』
ハッサンの悲鳴に近い声。
『黙れ、小僧。お前は知りすぎた』
男の声。冷たく、無慈悲な響き。
ドン、という鈍い音。ハッサンの短い呻き声。
そして、強い恐怖と絶望の感情だけが、津波のようにライラを襲った。
「…っ!」
ライラは思わずペンダントを手放し、荒い息をついた。額には汗が滲み、軽い吐き気を感じる。サイコメトリーの負荷だ。特に、死や暴力に繋がる強い感情は、術者の精神を激しく消耗させる。
「ライラさん!? 大丈夫ですか!?」
サナーが心配そうに駆け寄ってくる。
「…ええ、大丈夫。少し、疲れただけ」
ライラは壁に手をつき、呼吸を整えた。
「ハッサン君は…かなり危険な状況にいるかもしれない。彼が関わったのは、単なるデータ取引じゃない。もっと大きな…ファリード先生の失踪にも関わる何かだ」
「先生に…? どういうことですか!?」
「詳しいことはまだ分からない。でも、彼が取引しようとしていたデータは、先生が研究していた古代の詩の一部だった可能性がある。そして、取引相手は…おそらく『アジ・ダハーカの末裔』よ」
サナーの顔から血の気が引いた。「アジ・ダハーカの末裔」――ジャードゥー至上主義を掲げ、時にテロ行為も辞さないとされる過激派組織。その名前は、中層街の住人でも噂で耳にするくらいには知られていた。
「そ、そんな…! ハッサンが、どうしてそんな連中と…!」
「分からない。でも、彼がその組織にとって重要な情報、あるいは『鍵』になると判断されたなら…命が危ない」
ライラはジャケットを羽織り、腰のホルスターに愛用の小型プラズマガンを収めた。
「サナーさん、あなたはここにいて。絶対に外に出ないで。ハッサン君の居場所を探してくる」
「で、でも!」
「これはもう、単なる家出人の捜索じゃない。あなたを巻き込むわけにはいかない。いいわね?」
ライラの強い口調に、サナーは言葉を呑んだ。不安と恐怖に震えながらも、こくりと頷く。
ライラは事務所のドアを開け、再び雨の中に足を踏み出した。空は依然として暗く、酸性雨が容赦なく降り注いでいる。彼女はコートのフードを目深にかぶり、下層街、ジール・ザミーンへと続く昇降機に向かって歩き出した。
ジール・ザミーンは、ペルセポリス・ネオの光が生み出す深い影だった。かつて栄えた旧市街の残骸が、無秩序に折り重なるようにして存在している。太陽の光はほとんど届かず、代わりに建物の隙間から漏れる怪しげなネオンサインや、配管から吹き出す蒸気が視界を遮る。空気は中層街よりもさらに淀み、埃っぽさと機械油、そして得体の知れない腐臭が混じり合っていた。
ライラはこの場所が嫌いではなかった。いや、正確には、この場所に満ちる剥き出しの生命力や、法の支配が及ばない自由さ(それは同時に危険さと同義だが)に、ある種の居心地の良ささえ感じていた。綺麗事だけでは生きていけないことを知っている人間にとっては、上層街の清潔さよりも、この混沌の方がむしろ正直に思えた。
彼女はまず、「錆びた歯車」を目指した。サイコメトリーで視たジャンク屋だ。ハッサンが最初に接触した場所。何か手がかりが残っているかもしれない。
店は、迷宮のような路地の一角にあった。錆びついた歯車の看板が、雨風に晒されてキーキーと音を立てている。店内は薄暗く、ガラクタ同然の機械部品や旧式のサイバネティクスパーツが所狭しと積み上げられていた。カウンターの奥には、油で汚れたツナギを着た、義眼が不気味に光る老人が座っている。
「よう、嬢ちゃん。こんな掃き溜めに何の用だい? 最新の義手でも探しにきたか? それとも、ちっとヤバい情報かい?」
老人はニヤリと笑い、金歯を覗かせた。
「ハッサンという若い改造屋を知っている? 昨日、ここに来たはずだけど」
ライラは単刀直入に切り出した。下層街では、遠回しな物言いは時間の無駄だ。
老人は一瞬、目を見開いたが、すぐにいつもの人を食ったような表情に戻った。
「ハッサン…ああ、あの威勢のいい小僧か。来たぜ、確かに。何やらデカいヤマを掴んだって、息巻いてたな。だが、すぐにどこかへ行っちまったよ。どこへ行ったかは知らねえな」
「嘘をつかないで。彼はここで誰かと会う約束をしていたはずよ。黒ずくめの男…『アジ・ダハーカの末裔』の連中じゃなかった?」
ライラの言葉に、老人の顔から笑みが消えた。義眼がカタカタと音を立てて焦点を合わせようとしている。
「…嬢ちゃん、あんた、何者だ? あの連中に関わるのは、命知らずか、よほどのバカだけだぜ」
「ただの探偵よ。ハッサンを探しているだけ。正直に話してくれたら、面倒事は起こさない」
ライラはカウンターに数枚のクレジットチップを滑らせた。下層街での情報料だ。
老人はチップを一瞥し、溜息をついた。
「…来たよ、黒ずくめの男がな。ハッサンが来る少し前に現れて、奥のテーブルで待ってた。ハッサンは浮かれてたが、俺は嫌な予感がしたね。あの男からは、ヤバい匂いがプンプンしてたからな。ジャードゥー使いかもしれねえ」
「どんな男だった?」
「背は高かったな。顔はフードでよく見えなかったが、声が低くて…なんというか、感情がねえような声だった。ハッサンに何かデータを見せろって言ってたな。その後、二人で出て行ったよ。どっちの方角に行ったかは…」
老人は言葉を濁し、店の奥を顎でしゃくった。「これ以上は知らない」という合図だ。
ライラは礼も言わずに店を出た。情報は少ないが、ハッサンが「アジ・ダハーカの末裔」と接触し、何らかのデータ(おそらく詩の断片)を渡そうとしていたことは確実だ。そして、その取引がうまくいかなかったことも。
問題は、ハッサンがどこへ連れて行かれたかだ。サイコメトリーで視た「不気味なシンボルのある部屋」が鍵になるだろう。だが、ジール・ザミーンは広大で、組織のアジトがどこにあるのか見当もつかない。
(こういう時は…彼の出番、か)
ライラは懐から小型の通信機を取り出し、特定の周波数に合わせた。数回のコールの後、ノイズ混じりの低い声が応答した。
『…何の用だ、ライラ』
「カーヴェ? 今どこにいるの?」
『お前には関係ない。用件を言え』
相変わらず、愛想のない声だ。カーヴェ・アシュラフィ。ライラが時折、情報収集や危険な場所への潜入で協力を仰ぐ、謎めいた情報屋兼ボディガード。無口で、常に影のように行動し、その素性はライラもよく知らない。ただ、彼の情報網の広さと、戦闘能力の高さは確かだった。そして、なぜか彼は、ライラの依頼を断らない。時に、依頼される前に現れて、さりげなく助け舟を出すことさえある。彼がライラに向ける感情は、単なるビジネスパートナー以上のものであるように感じられたが、ライラはその核心に触れることを避けていた。彼との間には、暗黙の境界線が存在する。
「『アジ・ダハーカの末裔』のアジトの場所を知りたい。ジール・ザミーンのどこかにあるはずよ。特徴は…壁に、竜か蛇のようなシンボルが描かれた部屋がある」
通信機の向こうで、わずかな沈黙があった。
『…なぜそれを追う? 深入りはするなと言ったはずだ』
カーヴェの声には、珍しく僅かな苛立ちが混じっているように聞こえた。
「依頼よ。失踪した少年が関わっている。そして、ファリード先生の失踪にも繋がっている可能性がある」
『…ファリード教授か』
再び沈黙。カーヴェがファリード先生のことをどう思っているのか、ライラは知らない。ただ、彼もまた、先生の失踪に何か思うところがあるのかもしれない、と漠然と感じていた。
『…分かった。場所を送る。だが、一人で行くな。俺もすぐに向かう』
「カーヴェ、これは私の…」
『これは警告だ、ライラ。奴らは本気だ。お前が考えている以上に、事態は深刻かもしれん』
一方的に通信は切られた。ライラは舌打ちし、データパッドを確認する。すぐに暗号化された座標データが送られてきた。ジール・ザミーンのさらに深部、旧市街の廃棄された発電所区画を示している。
「勝手に…」
文句を言いながらも、ライラはカーヴェの警告を無視できなかった。彼の言う通り、今回の相手はこれまでとは違う。単独で乗り込むのは無謀かもしれない。
だが、ハッサンの命がかかっている。そして、ファリード先生の手がかりがそこにあるかもしれないのだ。躊躇している時間はない。
ライラはデータパッドの地図を頼りに、再び雨の中を歩き出した。ジール・ザミーンの深部へ向かうにつれて、人通りはまばらになり、建物の荒廃も進んでいく。崩れかけた壁、剥き出しになった鉄骨、不気味な音を立てて回る換気扇。まるで巨大な生物の骸の中を歩いているような感覚に陥る。
時折、背後に視線を感じる。この街では日常茶飯事だ。だが、今日のそれは、単なるチンピラや物盗りのものではない、もっと組織だった監視の視線のように感じられた。カーヴェが言っていた「厄介な連中」だろうか。あるいは、「アジ・ダハーカの末裔」の見張りか。ライラは警戒レベルを引き上げ、プラズマガンのグリップにいつでも手が届くようにしながら、足を速めた。
目的の廃棄発電所区画は、巨大な廃墟群の中心にあった。かつてはペルセポリス・ネオのエネルギー供給の一部を担っていたのだろう、巨大な冷却塔やタービン建屋が、墓標のように雨の中に聳え立っている。周囲は高いフェンスで囲まれているが、所々破られており、侵入は容易そうだ。
ライラはフェンスの破れ目から敷地内に侵入し、身を隠しながら内部の様子を窺った。発電所のメインコントロール棟と思われる建物から、微かに明かりが漏れている。人の気配もある。ここがアジトで間違いないだろう。
(カーヴェはまだか…?)
彼を待つべきか、先行すべきか。ライラは迷った。ハッサンがまだ生きている保証はない。一刻も早く突入したい気持ちと、危険を冒すべきではないという理性がせめぎ合う。
その時、背後の暗がりから、音もなく人影が現れた。ライラは反射的に身構え、銃に手をかけたが、それがカーヴェだと気づいて力を抜いた。
「…遅かったじゃない」
「お前が早すぎるんだ」
カーヴェは相変わらず表情を変えずに言った。黒いロングコートに身を包み、フードを目深にかぶっているため、その顔はほとんど見えない。ただ、雨に濡れた彼のシルエットからは、張り詰めた緊張感が伝わってきた。
「中の様子は?」
「明かりがついている。複数の人間の気配があるわ。おそらくここがアジトね」
「…だろうな。ここは奴らが好んで使う隠れ家の一つだ。だが、最近は動きがなかったはずだ。何か大きな動きがあったのかもしれん」
カーヴェはコントロール棟を見据えながら呟いた。
「ハッサンという少年は、重要な情報を持っていたようだ。詩の断片…おそらく、アジダハーカの覚醒に関わる何かだろう」
「あなた、どこまで知っているの?」
ライラは訝しげにカーヴェを見た。彼はいつもそうだ。必要な情報だけを与え、自分の知識の源については決して明かさない。
「知る必要はない。今は、あの少年を救出し、お前が無事にここから出ることが最優先だ」
カーヴェはライラを一瞥し、続けた。
「突入する。俺が陽動を引き受ける。お前はその隙に内部に潜入し、少年を探せ。例のシンボルがある部屋だ。おそらく、儀式か尋問に使われる部屋だろう」
「陽動? 無茶よ!」
「お前一人で突入するよりは可能性がある。いいな?」
有無を言わせぬ口調だった。ライラは反論を飲み込み、頷いた。彼我の戦力差を考えれば、これが最も現実的な作戦だろう。
「分かったわ。でも、あなたも無茶はしないで」
「…お前もな」
短い言葉を交わし、二人は同時に動き出した。カーヴェは音もなく建物の側面へと回り込み、ライラは正面玄関に近い窓から内部を窺う。
数秒後、建物の裏手から閃光と爆発音が響き渡った。カーヴェが仕掛けた陽動用の小型爆弾だろう。建物内部がにわかに騒がしくなり、複数の人影が裏手へと向かうのが見えた。
(今だ!)
ライラは隠れていた場所から飛び出し、近くの窓ガラスを音を立てずに切り取って内部に侵入した。建物内部は、外観同様に荒廃していた。錆びた計器類、埃をかぶったコンソール、床に散乱する瓦礫。非常灯だけが頼りなく通路を照らしている。
ライラは息を殺し、サイコメトリーで得たイメージを頼りに、目的の部屋を探した。建物は思ったよりも広く、構造も複雑だ。焦りが募る。カーヴェが稼げる時間は限られている。
いくつかの部屋を通り過ぎ、奥まった通路を進んだ時、ライラは足を止めた。扉の一つから、微かに呻き声のようなものが聞こえる。そして、扉の表面に、あの禍々しいシンボルが掠れたペンキで描かれていた。竜とも蛇ともつかない、螺旋を描くような奇妙な図像。
(ここだ…!)
ライラは慎重に扉に近づき、耳を澄ませた。中には複数の人間の気配がある。話し声も聞こえる。
「…まだ口を割らんのか、小僧」
低い、威圧的な声。錆びた歯車の店で聞いた男の声に似ている。
「う…ぐ…知らねえ…俺は何も知らねえ…!」
ハッサンの声だ。弱々しいが、まだ生きている。
「シラを切るな。お前の姉はファリード・ヌーリの助手だった。あの教授は『詩』の秘密をどこまで掴んでいた? アジダハーカの『鍵』については? お前も何か聞いているはずだ!」
「姉貴は…関係ねえって言ってるだろ…! 俺はただ、データを高く売りたかっただけで…」
バチン、という肉を打つような鈍い音と、ハッサンの苦痛に満ちた呻き声が響いた。
ライラは唇を噛みしめた。もう時間がない。彼女はプラズマガンを構え、扉のロック機構に狙いを定めた。エネルギーチャージの微かな音。そして、トリガーを引いた。
閃光と共に、ロック部分が溶解し、扉が勢いよく開いた。
「何者だ!?」
室内にいた黒ずくめの男たちが、驚いてライラの方を振り返る。部屋は広く、中央には拷問用に使われたとおぼしき椅子が置かれ、そこにハッサンがぐったりと縛り付けられていた。彼の顔は腫れ上がり、意識も朦朧としているようだ。壁には、やはりあの螺旋状のシンボルが大きく描かれている。部屋には三人の男がいた。いずれも屈強な体格で、武装している。
「探偵ライラ・ザハニ。その子を解放してもらうわ」
ライラは冷静に言い放ち、牽制のために部屋の隅の壁に向けて一発、プラズマを発射した。壁の一部が溶解し、火花が散る。
男たちは一瞬怯んだが、すぐに銃を構えて応戦してきた。狭い室内で激しい銃撃戦が始まる。ライラは遮蔽物に身を隠しながら、的確に反撃を加える。元・異能捜査官としての経験が、彼女の動きを洗練させていた。
プラズマ弾が飛び交い、壁や機材が破壊されていく。男の一人がジャードゥーを発動させた。彼の腕が瞬間的に硬質化し、ライラが隠れるコンソールを殴りつける。コンソールが砕け散り、ライラは床を転がって回避した。
(ジャードゥー使い!)
厄介だ。ライラは即座に反撃し、硬質化が解けた瞬間を狙って男の腕を撃ち抜いた。男が苦悶の声を上げて倒れる。
残りは二人。ライラは床に落ちていた金属パイプを拾い上げ、それに触れてサイコメトリーを発動させた。瞬間的に、直前にこの部屋で起こった出来事の断片が流れ込む。男たちの動き、会話、ハッサンの恐怖…。そして、リーダー格の男が、通信で誰かと話していた記憶。
『…ええ、データは確保しました。ですが、まだ一部です。完全な『詩』と『鍵』の在処は、まだ…ええ、教授の娘…いえ、助手の女を探します。彼女が何か知っているはず…』
(やはり、私を…!)
ライラは情報を処理しながらも、冷静に状況を判断した。リーダー格の男が、ハッサンに気を取られている隙を突く。ライラは床を蹴って飛び出し、男の懐に潜り込むと同時に、プラズマガンの銃口を突きつけた。
「動かないで」
リーダー格の男は動きを止め、苦々しげにライラを睨んだ。もう一人の男も、銃を下ろさざるを得ない。
「…何の真似だ、探偵风情が」
「ハッサン君を解放して。そして、ファリード先生の居場所を教えてもらうわ」
「ふん、知るわけがなかろう。それに、この小僧はもう用済みだ」
男の目が冷たく光る。ライラは嫌な予感を覚えた。
「どういう意味?」
「こいつが持ってきたデータは、確かに『詩』の一部だった。だが、それだけでは意味がない。完全な『詩』、そしてアジダハーカの力を解き放つ『鍵』…それら全てを手に入れなければ」
男は嘲るように笑った。
「ファリード教授は、その全てに近づきすぎていた。だから消えてもらったのさ。そして、次はお前の番かもしれんな、教授の愛弟子さん」
その時、部屋の入り口に新たな人影が現れた。カーヴェだ。彼のコートは所々焼け焦げ、戦闘の痕跡が見えるが、怪我はないようだ。
「ライラ、無事か」
「ええ。カーヴェ、そいつらを」
カーヴェは無言で頷き、残っていた男たちに素早く近づくと、目にも留まらぬ速さで彼らを無力化した。関節技か、あるいは何らかのジャードゥーを使ったのか、男たちは声も上げられずに床に崩れ落ちた。
ライラはすぐにハッサンに駆け寄り、拘束を解いた。
「ハッサン君、しっかりして!」
「う…あね…き…?」
ハッサンは朦朧とした意識の中で、ライラの顔を見て、サナーと見間違えたようだ。
「ごめん…俺…」
「今はいいから。すぐに応援を呼ぶ」
ライラは通信機を取り出そうとしたが、ふと床に落ちている一枚のデータチップに気づいた。男が「確保した」と言っていたデータだろう。ライラはそれを拾い上げ、ポケットにしまった。
そして、もう一つ、ハッサンの傍らに落ちていたものに目が留まった。それは、インクが滲んで読みにくくなっているが、明らかに手書きの紙片だった。
ライラはそれを拾い上げる。そこには、彼女が見慣れない、しかしファリード先生が研究していた古代文字で、短い一節が記されていた。
『…炎の翼持つ蛇、古き眠りより目覚め
魂の刻印持つ乙女、その唄によりて扉を開かん…』
「魂の刻印持つ乙女…?」
ライラはその言葉を繰り返した。ファリード先生がライラに託した資料の中にも、似たような記述があった気がする。これは一体、何を意味するのか?
その詩の断片は、まるで熱を持っているかのように、ライラの手の中で微かに脈打っているように感じられた。そして、その瞬間、事務所のモニターで見ていた詩のイメージと、ファリード先生の心配そうな顔、そして過去に自分を襲った原因不明の高熱と、その時に見た奇妙な夢の断片が、フラッシュバックのように脳裏をよぎった。
(まさか…)
ファリード先生失踪の謎。古代の詩。アジダハーカ。そして、自分自身の過去。それらが、一本の線で繋がろうとしているような、強い予感。
「ライラ?」
カーヴェの声に、ライラははっと我に返った。
「…なんでもない。早くここを出ましょう。彼の手当ても必要だし、このデータも解析しないと」
ライラは詩の断片を慎重に折り畳み、データチップと共にジャケットの内ポケットにしまい込んだ。
カーヴェは意識のないハッサンを肩に担ぎ上げ、ライラは周囲を警戒しながら、荒廃した発電所を後にした。外は依然として雨が降り続いていた。だが、空は少しだけ白み始めている。夜明けが近いのかもしれない。
事務所に戻ると、サナーが心配そうに待っていた。ハッサンの無事な(とは言え、怪我はしているが)姿を見て、彼女は泣きながら弟に駆け寄った。ライラはカーヴェにハッサンの応急手当を頼み(彼は意外にも医療知識にも詳しかった)、自分は拾ってきたデータチップの解析に取り掛かった。
チップには強力なプロテクトがかかっていたが、ライラは持てる限りのハッキングスキルを駆使して、数時間かけてそれを解除した。中には、やはり古代文字で書かれた詩のデータが含まれていた。ファリード先生が研究していたものと酷似しているが、より詳細で、いくつかの未知の記述も含まれている。特に、アジダハーカのエネルギー構造や、それを制御するための特定の音声パターン(おそらく「唄」)に関する記述は、ライラの知識を遥かに超えるものだった。
そして、データの中にはもう一つ、奇妙なファイルが含まれていた。それは、ある人物の遺伝子情報と、ジャードゥーの発現パターンに関する詳細な研究記録だった。被験者の名前は…ライラ・ザハニ。
「…!?」
ライラは息を飲んだ。これは、一体どういうことだ? なぜ自分の情報が、アジ・ダハーカの末裔が狙うデータの中に? まるで、自分が研究対象であるかのような記述。そして、そこには「被験者はアジダハーカ・エネルギーへの特異な親和性を示し、『刻印』発現の可能性が極めて高い」と記されていた。
刻印。詩の断片にあった「魂の刻印持つ乙女」という言葉が、再び頭の中で響いた。
ファリード先生は、自分に何を隠していたのだろう? 自分の過去に、このジャードゥーに、一体どんな秘密があるというのか?
ライラは窓の外を見た。雨はいつの間にか止み、朝の光がペルセポリス・ネオの街並みを照らし始めている。だが、ライラの心の中の霧は、ますます深くなるばかりだった。
恩師の失踪。古代の詩とアジダハーカの謎。暗躍する組織。そして、自分自身の秘密。
これは始まりに過ぎない。長く、険しい道のりの。
ライラは固く拳を握りしめた。その瞳には、不安と、それを上回る強い決意の光が宿っていた。真実を突き止めるまで、決して立ち止まるわけにはいかない。たとえ、その先にどんな過酷な運命が待っていようとも。
彼女の新たな戦いが、今、静かに始まった。