〈五周年記念・特殊話〉婚約者は配達人と、もし。
五年間連載存続達成記念。本編と一応関係はありません。
IFストーリー。
〝もし、レオンの弱点が酒で、ヴァルに確保されていたら〟
「くれぐれもバレないようにしろ。城から離れた見つかりにくい場所に捨てるんだ」
騒ぎになるまで見つからないように、と。そう念を押された奴隷二人は泥酔した青年の腕を肩に回し、手引きされるままに城の外に出た。
その肩に体重を預け、覚束ない足を動かすことがやっとである青年の立場を理解しながらもただただ命令通りに従う。国の行く末など顧みない。そういう奴隷だからこそ今回の命令も任された。命令通りにすれば報酬と共に自由にしてやると言われたら、完璧にこなすしかない。
城からなるべく離れるべく引き摺るように歩き続ける間も、運ばれる青年は抵抗の一つもしない。
自室で弟達に勧められるまま知らずうちに度数の高い酒を飲んでしまった青年は、今は目がうっすら空いている程度だった。顔は酷く紅潮し、自分が何をやっているかも理解できない。
思考することもできずただただ促されるままされるがままに着替えさせられ、城下の冷たい夜風に吹かれても自分が外にいることに危機感も覚えない。呂律も回らず、ぼやける視界の中で、ただただ意味も考えず足を動かした。自分がどこにいるかどころか、何故こうしているのかも理解できていない。
昔から酒に酷く弱いことを知っている弟達からの罠に、兄はまんまと嵌まっていた。
酒に弱くても今までは上手く立ち回れていたというのに、明日に決まった婚約白紙の可能性を告げられたばかりの彼は弟達が望んでくれた酒を断るほどの気力は持てなかった。どうせ酔ってもいくらか眠れば体調を取り繕える程度まで戻ることを知っているからこそ、油断してしまった部分もある。
その結果今も自分に何が待っているかも知らず、奴隷達二人に連れられるまま陥れられていくことに自覚もできない。
明日になればいつも通り、酔っていた記憶の前後ごと消えたまま城下で発見される手筈など考えることもできない。
「なぁおい、アンタ!この辺に良い穴場はねぇか?連れがどうしても飲み足りねぇらしくてよ」
城下を降り、すれ違う人間も増えてきた。貿易国でもあるアネモネ王国は夜も観光者や貿易関係等で国外の人間が訪れる為、夜も賑わっている場所は多い。
第一王子を運ぶ奴隷達もその立場に処されるような大罪を犯す前は城下で酒も浴びるほど飲んだ時期もあったが、青年をこっそり捨てられるような酒場は知らない。
へらへらと笑いながら尋ねる二人を奴隷と気付かない船乗りは、尋ねられるまま自分の行きつけの酒場の一つを彼らに教えた。隠れ酒場で、こじんまりしているが酒の種類も多くて楽しめると。奴隷達は道順を聞くままにすぐ行き先を決めた。
王族の誘拐など、捨てる前に大ごとにでもなればただ自分達が罪を着せられて処刑されるだけだ。
もともとが犯罪奴隷である彼らは死罪の次に重い罰を受けているところである。ここでバレれば、いくら命じられただけと訴えても極刑は免れない。もともと信頼の欠片もない立場だ。
だからこそ任された任務は完璧にこなさなければならない。
あとは隠れ酒場で潰れるまで飲ませ、金を置いて捨てていくだけ。このまま目立たず酒場に辿り着けば簡単な仕事だ。
「…………水……。……みずを……」
夜風の冷たさに、青年がうっすらと正気を取り戻さなければ。
さっきまで譫言の一つも漏らさなかった青年が、突然発言をしたことに奴隷の二人もびくりと肩が跳ねた。今ここで正気に戻られるわけにはいかない。
依頼者には酔っていれば前後の記憶はないと言われても、完全に信じているわけではない。泥水した青年をそのまま運ばされたから良かったものの、ここで正気に戻られて騒がれても自分達の顔を覚えられても処刑が待っている。
酒で蒸気する熱に侵され身体が燃えるように熱く、そして喉が枯れ地のように乾ききりヒリついた青年は、水を欲して肩に回させられた腕にもわずかに力が入った。
自分の状況もわからないまま、習慣的に近くに水差しがないかを探そうとする。泥酔した時には必ず看病用に侍女や従者を置かれていた青年は、小さく唱えるだけでも水を口元に運ばれるのが当然だった。しかし今自分の両隣にいるのは、犯罪奴隷であり更には自分をこれから陥れようとする敵だ。
しかし理解も回らない青年はそのまま息を吸い上げ、吐くと共にまた水を求める。
身体の熱と、そして干上がる喉の苦しさを潤すものを全身が求める。まだ広場に出たばかりの奴隷達も、ここで変に目立つわけにもいかない。水、水と呟く青年をいっそ噴水に突っ込もうかとも考えるが、そんなことをしてうっかり本当に酔いが冷められても溺れ死にされても困る。
「おい!金ならあるんだ!!お前酒買ってこい!!」
「わ、わかった!!」
水ではなく、再び酔いで潰すべく一人は急ぎ近くの酒場へと走った。王子達から資金はたんまりと持たされている。
流石に奴隷の身体で青年一人を目立たず運ぶのも難しく、仕方なく一人に酒を買いに行かせたままもう一人は青年を一度壁によりかけた。
このまま寄り道せずに酒場へ直行したかったが、背に腹は代えられない。夜も民が行き交い騒ぐ城下では、幸いにも酒を売っている場所ならいくらでもある。
ぐったりと壁により掛けられればそのままぼんやりと薄目が開いた青年は長い足をそのまま伸ばし放って、大人しい。壁の冷たさが身体を冷まさせるのは心地良く感じた。当然同時に酔いもほんの少しずつだが冷めていく。
「水……」
「ええ、ええ、もう少々お待ちくださいね~!今すぐ冷たいお水をお持ち致しますので~」
男の猫撫で声が青年へと丁寧にかけられる。実際は泥酔させる為の酒を用意しているとは思わせないように細心の注意を図る。
深く帽子を被った青年は、狭い視界の中で大きく呼吸した。水、水がもう少しとそれしか今は考えられない。
青年一人が明らかにぐったりと壁により掛けられていれば、当然夜を行き交う民の目にも引っかかる。
なるべく目立たない場所を選んだ筈だったが、それでも慣れない土地を歩く船乗りや観光客も多ければ予期せず人通りの少ない場所に迷い出る。
明らかにぐったりとした様子の青年が「水……」とぼやき、さらにもう一人も困ったように頭を掻いていれば、行き交い通り過ぎる中には声を掛ける者も当然出る。
「おいおい大丈夫か兄ちゃん。水か?医者でも呼ぶか。おいお前水持ってるだろ」
「!?いやいや気にしねぇでくれ!今連れが水を買ってくるところだ。い、いつものことだからよ!」
「でも歩けねぇんだろ。そうだ、これから俺らもダチの家行くんだが近くだし寄ってけ」
酔い潰れた青年へ、善意だけで足を止めた。定期的にアネモネ王国へ品を下ろしに来る船乗りだ。大酒飲みの仲間がいる男は、酔いへの対処法もある程度は知っている。共に並んでいた友人も、断られたのも気にせず水を飲ませてやろうと水筒である革袋を取り出した。
しかし奴隷からすればそんなことをされればたまらない。更には多少強引にそのまま青年を一人で担ごうとする男に顔を青くする。奴隷で痩せた男と違い、目の前の船乗りは体格もしっかりしている。無理矢理青年を引き剥がすのも難しい。このまま本当に看病なり男の家に運ばれるなりすれば、正体がバレるか青年が正気に戻ってしまうかもしれない。
やめろやめろふざけんなクソと頭では思うが口にでは言えない。早く仲間が帰ってこないかと去った方向を見たが、まだついさっき走って行ったところだ。そんな早く戻ってくる筈も無い。
いや本当に良いからやめてくれと、本気で止めたが船乗りもまた強引でいくらか酒も入っている。話を聞かないままに「気にすんな」と青年を担いで歩き出す。
目の前の船乗りですら帽子を取れば気付くかもしれないのに、城下に家を持っている民にこのまま会えば間違い無く正体がバレる。
自分達が誘拐したとバレてはいけない。青年に酔いを冷まさせるわけにもいかない。そしてすぐに民に見つかるわけにもいかない。
その三大条件を何度も頭を巡らせながら、奴隷が混乱のまま最後に取った行動は。
「ッ……クソ!!」
「⁈あっおい‼︎どこ行くんだおい!!」
逃げ出した。
既に前金は貰っている。そして一時的に自由になっている今、一かバチか国外へ逃げ出すことを今決めた。このまま民に正体がバレたところで、その前に自分が国外に出れていれば問題ない。奴隷である自分は、もともと依頼者の為に動いているわけでもない。
酒を買いに行かせた仲間も見捨て、一目散に人通りの多い場所を選んで紛れ逃げ出した。もう任務を全うすることよりも、馬を買うか盗むかどこかの船に密入できないかしか考えない。
突然走り出した男の背中に、追いかけようとした船乗りも途中で諦めた。何故逃げられたのかもわからないまま、友人に「放っておけ」と止められる。今はそんなことよりも泥水した青年を解放することを優先した。
行こうぜ、水飲ませてやれ、と。一度肩から下ろし青年の楽な姿勢で口へ水を注ぐ。上手く力が入らず、僅かに口の端から垂らしながらも間違い無く水分を補給した青年に「大丈夫か?」と呼びかけた。
さっきの連れはなんだったんだ、まさかわざと飲まされてたんじゃねぇのかと当たらずとも遠からずの見当をつける。まさか王族誘拐とまでは想像しないが、青年を無理矢理飲ませ誘拐や人攫いなどよくある手法だ。これからろくでもない場所に連れて行かれるところだったんじゃないかとも考えながら、船乗りは取り敢えずそのまま介抱すべく友人の家へと運
「……おい、待て。そいつはこっちで引き取る」
……ぼうとしたところで、引き留められた。
さっきまでは自分達以外いなかった筈の通りに、今はまた知らない男が立っていた。ギロリと鋭い目で自分達を睨んでくる男に、船乗りと友人達も反射的に肩を反らす。
つい今彼が何かしらに巻き込まれるか嵌められるところだったのではないかと考えたばかりの船乗り達には、新たに現れた男もその仲間としか思えない。さっき連れが水を買いにと言われたことを思い出せば、その連れかとも考える。
言葉こそ比較平和的に投げられたが、それに反して男はこの上なく凶悪な眼差しをこちらに向けていた。船乗りに負けない身長でゆらりと腕を伸ばし、寄越せと示す。
逃げた男以上に、青年を渡してはいけない相手だと船乗り達全員が肌で理解した。善意で足を止めただけなのに、知らないうちに恐ろしい思惑に巻き込まれているような感覚に背筋が寒くなる。どう見ても目の前の男は裏家業かそれに近しい界隈の人間だ。
「……アンタ、本当に知り合いか?証明できるか?悪いがそれができねぇなら俺らが引き取るぜ。大分飲んでる」
声を低めながら最悪の場合ここで青年を担いで逃げるか、大声で衛兵や助けを呼ぶか、それとも肉弾戦かと船乗りは覚悟する。
本当に知り合いならば確かに任せるのも一つの手だが、どちらにせよすぐに介抱が必要な青年だ。しかし泥酔した青年はまだしも目の前に現れた男は友人家に招きたい風貌でもなかった。夜に溶けるような男の人相を相手に喉を鳴らす。
今も、尋ねてすぐに男は顔を険しくするだけで答えない。それどころか担いでいた荷袋を握っていた手を緩め出し、そこでやっと改めて口を開いた。
「そいつじゃねぇ、そいつの女の知り合いだ。明日の式前に羽目を外さねぇように回収を頼まれてる」
だな?と、そこで男は背中に隠れていた二人へ声だけで呼びかける。
呼ばれ、大きな影からひょこりと顔を出した少年少女に船乗り達も目を丸くした。てっきり男一人だと警戒していたら、姿を現したのはかわいらしい少年少女だ。
打合せ通り「うん」「はい!」と飛び出す彼らは二人手を繋ぎながら男よりも前に青年へと歩み寄る。
凶悪な男一人ならば警戒するが、連れの子どもを見れば一気に船乗り達からの警戒も凪いだ。しかも「女の」と言われれば、一気に納得もいく。青年の直接の知り合いにはどうしても見えなかったが、顔も知らないその女の知り合いならば比較繋がりも想像もできた。
パタパタと駆け寄ってくる少年少女にも後ずさりせずに、そのまま立ち止まり目で向かえる。
ありがとうございました!と声を上げる少年は船乗りを見上げながら笑顔で笑いかける。少し緊張気味の少女も、決めていた言葉通りに青年へと呼びかけた。
「ベイル!明日結婚式なんだからもう帰らないと!ジャンヌが怒るわよ!!」
「そうです!みんな一生懸命探してますよ!!僕らと一緒に帰りましょう!今度こそ本当に愛想つかされちゃいます!」
王族ではない名前を思い浮かぶまま呼びながら青年へと呼ぶ駆ける二人に船乗り達も一気に顔が引き攣った。
式って結婚式かと思えば、少ない情報でもありありと青年の状況がいくらな想像できた。
結婚式を前に男が友人と浴びるまで飲んだくれているとなれば、確かにここで自分達の家に保護するわけにもいかない。婚約者の元へ帰すべきだ。結婚式前になにやってんだコイツとまで思う者も出る。
続いて二人の後を追い前に出る男も、低い声でそれらしく補足する。
結婚前に友人と飲みに行くと行って消えていた。酒が弱いくせにすぐに調子に乗る。妬んでる奴がいるから飲まされて海に捨てられるかもしれないと心配した女に頼まれた。こっちは良い迷惑だと、嫌そうに顔を歪めながらそれらしく説明する。
半ば事実である部分も含んでいる為、男にとってもその表情は本物だったことが余計に船乗り達に信憑性を上げた。何より男も嘘を吐くのは慣れている。それらしい言葉でその場を凌ぐなど、以前は息を吸うように当然やっていたことだ。
早く早く!と急かす子ども二人の証言も手伝い、そういうことならと船乗り達も大人しく青年を男へと托した。
「なんか連れらしい男がいたんだが、さっき急に逃げちまってな」
「ああタチのわりぃ野郎にも簡単に絡まれる」
なんとか立てる状態の青年を奴隷達がやっていたように自分の肩へ腕を回させ受け取る。短く「面倒かけたな」となるべく波風立たない言葉を掛ければ、船乗り達も「いやいや良かった」とそのまま手を振って場を去った。ありがとうございました!と頭を下げる少年と手を小さく振り返す少女も連れる男に、すっかり警戒心は消えたまま何事もなかったかのように背中を向けた。
彼らが数メートル離れたところで、男も音に出さず静かに息を吐く。
最悪の場合は荷袋の砂で目くらましをしてそのまま壁の上へと上がって逃げようかとも思ったが、想定外に突っかかってくることもない相手だったと思う。
船乗り達が男を警戒していたように、男にとっても船乗り達が善人の皮を被った人攫いや裏家業の可能性を鑑みていた。
「……クソが」
舌打ちを交え、男はそこで改めて肩に腕のかかった青年を睨む。
取り敢えずは酒を買いに行った男が戻ってくる前にと、ずるずる引き摺るような形で壁際へ青年を移動する。荷袋の砂を捨てようかとも思ったが、まだこの青年を追ってくる輩が現れるかもわからない今下ろせない。
壁際に立てば、そこで少年少女も男の裾を掴んでくっついた。上手くいった!と胸を張りたい気持ちはやまやまだったが、まだ誰が聞いているかもわからない今は口を閉じて潜む方が先決だと彼らもわかっている。
壁際に立ったところで、男は他に気配がないことを確かめてから特殊能力を使う。壁に触れれば、岩製の分厚い壁はすんなりとトンネルのような穴を形成させた。四人で壁の向こうを通り抜け、すぐにまた元通りにする。
壁の向こうは倉庫の為人も少ない。そのまま見つかる前にと、敢えて壁を通り抜ける形で青年を回収した場所とも広場とも離れた場所へと移動する。
七件以上の倉庫前を通り過ぎてから、人通りのない細い路地に出たところで男は足を止めた。まだ約束の時間までは随分あるだろうと考え、まずは隠すよりも先に青年をなんとかすることに決める。
肩に回していた腕を下ろさせ、ばたりとそのまま地面に崩すように寝かせた。もともとまともに自分の足で歩けなかった青年は倒されるままごろんと地面に転がる。細い路地に出た為、ここで入口全てを壁で封鎖するかと考えたがその前にすることがある。
「水飲ませる?」
「顔にも浴びせてやれ」
路地の入口手前で顔を出し、他に行き交う人間がいないことを確かめながら少女に水は任せた。酔いが冷めて騒がれるのも面倒だとは思ったが、青年の顔色が気付けば大分まずい色になっていることに気がついた。
船乗りが介抱した時は譫言を溢すくらいにはなっていた青年は、今は譫言も漏らさない。呼吸の音は聞こえるが、もう目が開いていない。このまま死んだように大人しい方が確保する側としては楽だが、死なれるのは困る。
人影がないことを確かめてから少女の方に振り向けば、ちょうど手から生み出した水を青年の口へめがけて掛けているところだった。量の加減が難しく顔全体にもかかったが、そこで青年もぱちりと目をあけた。
注がれる水をいくらか飲み込んだが、途中で詰まり噎せだした。自分から胸を起こしけほけほと咳き込む青年は顔色こそ悪いままだが、それでもちゃんと意識がある分はマシだと男も息を吐く。ここで反応も意識もなかったら、自分がわざわざ医者を探さなければならないところだった。
プライド達と合流まで、どこかで匿わなければならない。
距離を取って青年を監視していた男だが、あまりにも早く強制回収しなければならなくなったことに歯噛みする。青年が扮して城から運ばれるところから付いてきていた男だが、城下に出て早速一般人に遭遇することになるとは思わなかった。
このまま泥酔した青年を放置して済むなら一番楽だが、途中でまた体調を悪化される方が面倒だ。しかも合流まで、自分はぐだぐだと妙な緊張感で心底どうでも良い優男の体調を心配するか口の固い医者を探して放りこまないといけない。
目の前でこほこほ咽こむ青年を見ながら思考を巡らし、結果仕方なく青年へ歩み寄る。
チッ‼︎と再び舌打ちを溢し、嫌そうに顔を顰めながら足を出す。起こした胸からまた力尽き倒れ仰向けの状態で呼吸を繰り返す青年を横に蹴り転がそうとしたが、……残念ながら契約でそこは止まってしまう。不敬は許されたが、暴力に許可を得たわけではない。
仕方なく腰を落とし、手で押しやる形で仰向けから横に寝かせた。王族が着るような窮屈な格好ではなく庶民に紛れられる楽な格好の青年はそれでも顔色が悪い。
どんだけ飲まされたんだと思いつつ、うんざりと息を吐く。
先ほどの船乗り達に言ったのは出まかせも含んだがどうやら本当に許容量以上ガバ飲みした馬鹿か、飲まされた馬鹿らしいと推測する。
青年の顔を心配して覗き込んでいた少年少女に、その背中側へ回るように指示する。それから躊躇なく青年の顎を片手で持つと無理やり開かせ、指を捻じ込み吐き出させた。
ゲホッゲホッかはっ……‼︎と、無理やり胃の内容物をせり上げさせられた青年も、これには一気に目を見開いた。吐き気が込み上げると同時に目も覚めたが、状況を理解するよりも大変なことになりそれどころではなくなった。アルコールがいくらか排除されたが、暫くは後を引く吐き気と戦うことになる。
「起きたか。セフェク、ケメト奥行くぞ」
青年が無事に覚醒したことを自分の力で肘をつき起き上がったのを確認した男に、背中を撫でるような優しさはない。
青年の長い足を掴むとそのままずりずりと引き摺り出した。げほげほと身体を揺らす青年のことなど気にせず、ケメトとセフェクにくっつかれたまま荷物を運ぶような感覚で路地の反対の入り口へと向かう。
わけもわからず引き摺られ、酔いが回ったまま混乱する青年も慌てて抵抗するように手をバタつかせるが今は大して力が入らない。声を出そうにもまだ喉が痛んでまともに発せず吐き気と咳と戦うしかない。
数メートル奥に進んだところで、土壁を形成し入ってきた道を塞ぐ。最初から行き止まりのように固めれば、そこで青年の足からも手を放った。
解放されたところで、手の甲で口元を拭う青年が形成されたばかりの壁に手をつきながら上体を起こす。まだ足には力が入らず、バタバタと壁に擦り背中を預けた。目の前の怪しげな男と、きょとんとした顔の少年少女を丸い目で凝視する。
「ここ…………………僕……?」
「喋れんじゃねぇか。セフェク、水もう一回浴びせてやれ」
わかった、と。男からの指示にセフェクも躊躇いなく青年の顔へ放水した。
ビシャアッ!と突然手のひらから水を放たれ、青年も思わず目を瞑った。口に含むよりも呼吸ができないことに焦り、顔を逸らす。水の勢いが激しすぎる為、水分補給を考える余裕もない。やっと水が止まってから、やっと呼吸は整った青年はそれからも目はトロンと溶けたままだった。背後が封鎖され見知らぬ男達を前に困惑と恐怖を露わにすることもない。
その様子を男は眺めながら、まだ青年が酔いが完全に覚めてはいないと理解する。あくまで身体がマシになった程度、体内に取り込まれた分の酔いは頭まで残っている。
ぽやんとした青年の間の抜けた顔を睨みながら、しかし怯えて喚かれるよりはマシと考えることにする。ケメトが「お水飲んでください!」とセフェクの腕を引きながら青年に呼び掛ければ、彼女が今度こそ弱めに放つ水を青年も手で掬って口を濯ぎ、次の二口目からは喉を潤した。
なんとか欲しい分の水を得られ、はーー……と長く息を吐く青年はまだ自分の状況を理解できていない。ぽやぽやしたまま壁に手をつき立ち上がるが、そこから視線は浮き止まってしまう。
「…………………………」
「ヴァル、この人まだ駄目そう」
「騒がれるよりはマシだ、放っとけ」
ハァ、と。大きく息を吐いたヴァルは、放心状態の青年を視界から消す。
状況を全くわかっていない青年にそのままずっと呆けてくれとすら思う。殴って気絶させるか、いっそ泣こうが喚こうが土壁の中に閉じ込める手段を考えるがどちらも裏稼業でもない一般人に行うことはできない。
取り敢えずこのまま身を潜めて時間を潰そうかと壁に寄りかかり座るヴァルだが、すぐに動き出した気配に片眉と視線を上げた。
棒立ちの青年が、ふらふらと彼らを横切り反対側の出口へと歩き出した。
ぽかりと口を上げたセフェクとケメトが見上げる中、横切られる瞬間にヴァルは足を引っ掛けてやりたくなったがやはり契約でできない。そもそも彼を強引に引っ張り込むことも地面へ押さえつけることもできないのだと思い出す。あくまで自分が許されているのは最低限の無礼だけだ。
つまり、合流の時間までただただ付いていくしかない。
「おい、どこ行く気だ。おい、……」
ふらり、ふらりと長身の青年はただ歩く。
民にバレる前に回収はできたが、呼び止める声も聞かず進み出す青年にヴァルは再び腰を上げることになる。あきらかに様子のおかしい彼に、怯えるようにセフェクとケメトもヴァルにくっつきながら後に続く。
ぐらりぐらりと身体を左右に揺らしながらだるそうに青年を追いかけるヴァルは、雇い主への苦情を今から考えた。
彼が泥酔させられ城からどこかに連れ出されようもしたところまでは察しがついているが、こんなのが本当にこの国の王族かと言いたくなる。
回収した場所から距離は離れたとはいえ、また野放しにされたところを目をつけられても面倒なことになる。酔っ払いの不審者一人と、それに付き合っている同行者三名付きでは、民だけでなく見回りや巡回をする衛兵や騎士から呼びかけられる度合いも異なる。しかもこの先に何があるかわかっていれば、うっかり溺れ死なれない為にもついて行くしかない。
「……波の、おと……」
気持ち良い。そう、青年は思いながら風に乗って聞こえた小波の音に誘われた。
ダンスのステップ混じりに揺れ、弾み、軽やかに跳ねながら。潮の香りが女性のどんな香水よりも心地良い。
貨物船用の貿易倉庫を七件も通り過ぎた先は、海だった。青年が父親の貿易や城下視察で何度か訪れたことのある港とは場所が違うが、一般の商業用貿易船が古いものから小型のものまで停泊されている。深夜にも関わらず、この時間帯にも細々と積荷運びや漁に出る船乗りもいる。
夜には初めて見る、暗闇の中でぽつぽつと明かりが浮かび人の影が過ぎる光景は今まで知る光景とはまた違った美しさだった。
幻想的にも見える光景に、青年は石畳から浜辺に足をつけるより前に立ち止まった。冷たい潮風に当てられ、全身で味わうように一度目を閉じた。
人がいる場所に出られるのは面倒だが、幸いにも正体どころかまだ誰も青年を気にしていないとヴァルは安堵する。暗闇の中では帽子を被らなくとも互いに顔は確認できない。
しかし青年にとっては顔が見えなくても行き交う民の姿や声を聞けるだけで充分に心が満たされた。目を開きふらり、と路地を出たところでまた壁に寄りかかりながら口元がほつれる。たまにランプや灯りを手に歩く民の顔が浮かべば、まるで恋人を見つけたかのように頬まで緩む。
今日こそ大漁だ、おかえりなさい、僕も手伝う!と、子どもの声まで聴こえてくれば耳が擽られる。普段、王族として城下に降りた時には耳にできない、民同士の何でもない会話が子守唄よりも心地よかった。いつまでもいつまでも聞いていたくなる。
再び聞き入るために目を閉じてみれば、じわりと目尻に涙が滲んだ。ずっと、ずっと会いたくて会いたくて聞きたくて堪らなかった民の声と姿だ。
─ 良い夢だな
ぽつりと、理由もなくそう青年は確信して思う。
足元がふわふわして顔が蒸気し温かく、あんなに会いたくて会いたくて堪らなかった民に会えている。まるで雲の上にいるような高揚感でまた目を開く。目を開ければ雲の上なんかよりもずっと良い、アネモネの港だ。
岩壁を手で伝いふらつく身体を支えながらまた青年は夢の世界を歩き出す。自分が知る港とも少し違う海なのが余計に非現実感を掻き立てた。
「〜♪……〜〜♪」
しまいにはとうとう鼻歌までこぼし出したことに、ヴァルは一人顔を顰める。本格的に酔っ払いのお守りになっていく。
ふらりふらりと落ち着かない足取りもダンスのステップまじりになってきた。背後からでも踊り出しているのがわかる。青年の鼻歌はヴァル達の誰も聞いたことがない、アネモネの演奏会で定番の壮大曲だ。船乗りが妻と子に留守を任せ、大海原へと漕ぎ出すその船出を連想した曲は青年もよく覚えていた。
晴れて太陽の出る時間帯はあんなにも明るくて騒がしい海なのに、夜はこんなに静かで魅惑のある景色なんだと青年は胸を弾ませる。
石壁伝いに海を眺めて進めば、途中で途切れた。壁が終わり、その先にあるのは漁師の家々だ。窓の向こうは灯り、人の気配のわかる家にまた笑みが浮かぶ。
美しい海と、漕ぎ出す船と、ぱらぱらと行き交う民。そして温かみを溢す家に見惚れるままそこで青年は壁の際に寄りかかり立ち止まる。ぼんやりと口を閉じ、溶けた目でじっと見える光景全てに五感を研ぎ澄まし続けた。
いくら時間が経過してもそのまま飽きないように景色を眺め続ける青年に、セフェクやケメトだけでなくヴァルも暇を持て余す。大して何も見えない暗がりの海とシルエットだけの船や窓灯が見えるボロ家を前に、何故そこまで夢中に見続けられるのかもわからない。
とうとうケメトもセフェクもその場に座り込みだした。
このまま誰にも気付かれないなら良いと、ヴァルも仕方なくこの場で寝るかと考える。壁に寄りかかり腰を下ろせば、いつでも特殊能力で身を隠せるようにケメトを引っ張り込む。隣に寄り掛けても良かったが、一番確実なのはと膝の上に小柄なケメトを乗せることにする。セフェクもその隣にぴとりとくっつけば、ヴァルの体温分落ち着いた。
長居する体勢になるヴァルは、銅像のように動かない青年の背中を見ながら欠伸を交える。
「一体何が楽しくて眺めてやがる……」
「全てさ」
独り言のつもりの呟きに、唐突に青年から言葉が返された。
さっきまで千鳥足だったとは思えないほどはっきりとした通りの良い声に、三人は目を見張る。
まさか酔いが覚めたのか、それともさっきまで演じていたのかと思うほどの滑舌の甦りだった。少し背中を起こしても角度で青年の顔は見えない。まさかここで逃げるのかも鑑みて口を結び青年の腹を探り見やる。
背後にいる気配と投げかけられた声に、青年も言葉しか向けず振り返らない。ただただ全身で外を味わいながら、一人滑らかな笑みを海へと向ける。
「民の暮らし、海の息吹。常にこの国は美しい」
「でぇ?んなもん見る為だけに城も出たってか?坊ちゃんが」
「…………?」
くだらない言葉を並べる青年に、吐き気と共に投げ掛ければそこで彼は振り返る。丸い翡翠色の眼差しが揺れていた。何を言っているかわからない。
城?と、都合の良い夢の中で青年の頭には言葉の意味が思い返せなかった。まず、自分を坊ちゃんと呼ぶ褐色の男が何者かも思い出せないし考えようとも思えない。そんなことをすれば一気に悪夢が競り上がってくるような気がしてならなかった。あくまで全て夢の住人だ。
記憶をごっそり失ったかのような空虚な瞳の青年に、ヴァルは苦い顔で睨み返した。
どこまでも都合が良い甘ちゃんの軽い頭はまさに自分が想像してきた王族らしい。
てっきり男達に連れられたと思ったが、まさか自分の意思だったのかとも考え直す。今の状況に疑問を浮かべない分まだ我に返っていないかそれとも計画通りなのかと思考し、試しに問いを増やすことにする。
「てっきりお抱えの女の一人や二人に会うのかと思ったが」
「女性?……嗚呼、会いたいな」
ふ、と振り返ったまま静かに微笑む青年に、ヴァルは片眉をあげて見返す。
顔の整った色男とは確保した時から思ったが、自分の意思で抜け出したならやはりそういう理由かと思い直す。遠い目で翡翠を揺らす青年は、そこでゆっくりと腕を伸ばし空の星を数えるように指先で示し出す。会いたい女性はそれに等しいほどに数えきれない。
「果物売りの女性はこれから店を大きくしたいと話していた。嗚呼あの、野菜をくれた彼の奥さんにも会いたいな。僕の名を自分の子に与えてくれた女性にも、僕の手を両手で握り締めてくれた女性はひ孫がもう産まれた頃だと思う。一輪の花をくれたあの少女は、背も伸びただろう……」
ぽつり、ぽつりとしかし取り止めもなく呟き始める。
最初は行きずりの女にもでも手当たり次第かと思ったヴァルだが、あまりにも範囲の広い女性像ばかりに表情が怪訝に変わる。どれも〝女〟と表現しているが、どう考えても色恋の相手として語っていない。
言葉こそぽつりと雨の降り出しのような弱さなのに、止めどなく続ける青年の語りは声も小さく、自分達以外には届かず夜に溶けていく。
何を言いたいのかわからない青年の語りを殆ど頭には通さず耳から耳へ流し続けてまた暫く。青年が眺めていた民も次第に数が減り海に出るか、家へと消えていった。
「逢いたいな……」と女性を語る口が止まり始めた。女性だけではない、男性も会いたい民は多過ぎる。しかし
「皆、殆ど名前は知らない……。会いたい民の名は知らなくて、名前を知る令嬢には、…………もう……」
会いたくないかもしれない。
そう、考えてることも罪深く酷いことだと思いながら青年は続きを言えず、口を閉ざす。さっきまで高揚した胸が嘘のように冷たい水底に落ちた。
アネモネの民を等しく愛する王子が、恐怖と罪悪感を覚える相手は同じ国で共に同じ水で生きるアネモネの貴族令嬢だ。自分にただただ感情を向けてくれる民には胸が熱くなっても、自分が知らず知らずに傷つけ、そして同時に罪深い感情や欲を自分へ露わに向けてきた彼女達を思い出すと肌がぞわりと総毛立つ。
〝承認欲求〟〝自己愛〟〝独占欲〟とその感情を向ける彼女達の目を思い出せば、自分もあんな感情を民に向けてるのだと思い知らされる。彼女達を通し、自分が恐ろしくそして醜い存在だとわかってしまう。
もう彼女達のように傷つけてしまうことも、自分が彼女達のようになってしまうのもこわくて怖くて仕方がない。今ではもう自分は社交界に出ることも許されなくなり、彼女達に会う機会も式典くらいで格段に減った。自分により傷つけられた彼女達もまた自分との接触は望まない。会ってもまた自分が傷つけるか期待をさせるか、自分で自分の醜さと穢らわしさを知るだけの彼女達にはもう
「……いや、会いたい」
一人の、声だった。
誰に重ねて問われたわけでもない。ただ、思い出す度に胸を抉り刺す彼女達すらも自分にはやはり会いたくて会いたくて仕方がない民なのだと知る。
彼女達の感情はまだ恐ろしい。しかし、民である彼女達がどうか自分に傷つけられてしまった分幸せであってくれと思ってやまない。
水平線の先よりも遠くへ向けた感情と向き合った瞬間、青年の目から滴が溢れ出した。力なく開いたままの口にまで入り込み、顎から落ちる。
今、自分が何故ここにいるのか。経緯などは考えず、ただ民に会いたかったのだとだけ思い出す。
落ちた滴を確かめるように手のひらで受け止める。酒で焼けた喉が干上がり、肺がぎゅっと締め付けられ苦しい。一度の感情がそのまま身体全てに浸透し、自分でも何故悲しいのかわからなくなりそうになる。ただただ悲しくて、そして泣きたいのだと目的など忘れ身体も精神も染まり望む。
「会いたいっ……民に…っ。…会いたい……会いたいっ………っ。……ゃだ……」
ひっく、と子どものような音で喉がしゃくり上げた。
一筋だけだった涙が、次々と溢れ出し大粒になっていく。泣き方もわからない、隠す理由もわからないままにアネモネの夜空を見上げ泣き出した。
自分がもうどこにいるのか、どうすれば良いのかもわからない。昨日が何があって、明日に何が起こるかも思い出せない。それなのに悲しさにだけ飲まれ、泣くことでしか自分を保てない。美しいアネモネの海も、空もいつだって心が洗われたのに今は残酷にも見える。もう自分の行き場は何処にもないのだと、その事実だけが思考に巡る。
突然ぐしゃぐしゃに泣き出した青年に、ヴァルは無言のまま顔を引き攣らせた。
さっきまで大人しかったのにまさか泣き出すとは思わなかった。面倒くさい酔い方だ、とそう思いながら今すぐ放り出して帰りたくなる。十七歳の青年が、年齢よりも遥かに幼く見えた。
このまま泣かせておくか、それともセフェクに水を掛けさせて頭を冷やさせるかを真面目に考える。目の前の青年が何が不満でそこまで泣くのかわからない。酔っ払いの言い分をそのまま拾えば、民に会いたいだけで泣いている。民の中に意中の女がいれば納得できたが、そういう様子でもない。
雇い主に頼まれただけで、ヴァル達は青年のことを殆ど知らない。雇い主と彼との間にどのようなやり取りがあったかさえも。だが、彼は異国の婚約者ではなく、民に会いたいとほざいて泣いている。意中の女がいるわけでもない、雑多の全てに対してだ。
民が王族にならまだしも、王族が民に会いたいなど好きにできるもんじゃないのかとヴァルは眉を寄せ考える。今だって、いくら酔いの回った頭でも、いやだからこそ会いたい民がいるのなら直接会いにいけば良いものをそこから動かない。
今まで浜辺にいた民に対しても、あくまで視界に入れるだけで自分から距離を置いている。
酔いが回っているのか、それとも理性があるのか。月明かりに照らされる青年が、次第にこの世の生き物ではないように思えてくる。
こんなに感情を露わに泣き喚く人間に、人間味を感じないことに気味が悪い。子どものように泣いているのに、人形が泣き出すような感覚に近かった。腹の底が掴めない。
背中を丸め涙を落とす青年を、ただただ眺め観察する。喉が枯れるのと、涙が枯れるのと、酒が抜けるのどれが早いかと考えながらただ泣かせ続けた。
そして、後悔することになる。
「?おい、そこ誰かいるのか⁈」
ハッと、息を飲んだ。
ぐしゃぐしゃに訳もわからず泣き続ける青年ではなく、ヴァルの方が顔色を変え振り返る。まだ声は遠かったが、その分の大きく張られた声の正体を考える暇もない。
薄くここまで届くランプの灯りが近付いてくることに、慌てて立ち上がる。膝のケメトも慌てて飛び退き、セフェクがその手を取り引き寄せた。逆光で相手の姿は見えなくとも、見つかるわけにはいかないことはわかる。
呼びかけられても全く気付く様子のない青年を、初めてヴァルは駆け寄りその腕を掴む。周囲に見つからない為という命令許可の元、力尽くで引き寄せた。ケメトが自分の反対手を掴んだことを確かめ、背後の壁の向こうを通り抜ける。
自分達が抜けたところですぐに壁を形成し直せば、声を掛けてきた男にはまるで人間が壁を通り抜け消えたかのように錯覚した。
おい‼︎と、声を上げ急ぎ駆け寄るが、もう呼びかけた男が着いた時には誰もいない。すぐ傍の路地に入ったのかと、呼び掛けながら路地を進んでいくが、当然そこはも抜けの空だった。
路地ではなく、壁を直接通り抜けた青年達はその壁の裏側で新たな土壁の空間を作り息を潜めていた。
足元の地面を操り逃げたかったが、それでは音で気付かれる為やり過ごすには隠れるしかない。壁の向こう側に行こうとも、そこを登り覗かれれば見つかってしまう。
涙の跡を残したまま放心する青年の口を手の平で覆い塞ぎ、分厚い土壁の向こうにも漏れないように徹底する。慣れたセフェクとケメトは自分で口を覆うが、見つかった原因の青年はそんなことわかる訳もない。
姿を確認する前に身を隠したが、恐らくは見回りの衛兵かとヴァルは思考の中で見当付ける。
単に夜の海で流離っている青年であれば気にされることもなかった。しかし酔いに流され嗚咽を溢し出した影に、見回りの衛兵が不審に思い声をかけるのは当然だった。
「ヴァル、もういなくなったんじゃない?」
「どうしますか?ここ離れますか?」
こそこそこそと、暫く身動ぎ一つせず固まったケメトとセフェクが声を抑え息と近い音でヴァルに問いかける。
五分以上経過しても、耳をつけた壁の向こうからは足音が戻ってくる気配がない。てっきり路地を確認したら戻って今度は壁の向こうを探ると思っていた分、それを全てやり過ごした後に次の行動に出たかった。しかしこれほど待ってもこないということは巡回を再開したか、まだ路地か周辺を探し回っているかだ。
配達で遭遇する裏稼業と違い、無力化して済ませられる相手ではないから厄介だった。
クソが、と。また舌打ち混じりに吐き捨てる。良い年した男がわんわん泣き喚くからこうなった。まだ雇い主達は来ないのかと考えながら、もう暫く様子を見ることにする。しかし、そこで今度は青年の方が異変を起こした。
「……!〜〜っっ‼︎…!……‼︎」
さっきまで大人しかったのに、急にバタバタと力の入らない手足で暴れ出した。
口を完全に塞がれた為声が出せないが、佇んだままの足で地面を踏み鳴らし、手が自分の口を覆う褐色の手をペチペチと叩く。離してくれ、と抵抗を見せる青年の顔を目で確かめたヴァルは、酔いが覚めたのかと冷静に思う。もしくはまた吐き気に襲われたならそっちはそっちで面倒でもある。
「……騒ぐんじゃねぇぞ」
脅すことができない分、注意だけの念押しを低めた声でする。
元々の低い声が更に低められてかけられた青年もコクコクコクと必死に何度も頷いた。灯りのない暗闇の中、夜目が効くままに青年の顔に怯えが浮かんでいるのを確かめてからヴァルは静かに手を離した。怯えたということは今までとは異なり自分の立場を理解したということになる。
口封じから解放され、青年は最初に大きく息を吸い上げてから壁に背中をつける形に彼らへ振り返った。ドン、と勢い良く壁にぶつかり音を立ててしまえば、それだけでまた舌打ちを鳴らされる。
暗闇の中、夜に目が慣れた後の青年にも目の前に三人がいることしかわからない。ギラリと刺すような視線を感じれば、それだけで息が浅くなる。
顔も姿も思い出せないまま、青年は抑えた声を必死に意識する。
「きっ……み、達はっ…………?」
パクパクと口を倍数開きながら、青年は率直に尋ねてしまう。
酒の所為で記憶が混濁しまだ何がどうなっているのかわからない。風に当てられ、涙で洗い流してしまった上で突然の衝撃と目の前の出来事にやっといくらか正気を取り戻していた。
今の今まで自分が何を考えていたかすらも上手く思い出せないが、ただ一番真新しい記憶と今の状況を照らし合わせればやっと心臓が仕事した。バクバクと内側から叩かれながら耳までこだまする。
信じられないものをみるように目を限界まで見開き顔を蒼白にさせる青年に、ヴァルも一度閉じた口を開く。全てを説明してやる気はないが、誘拐と思われたらもっと面倒になると
「「フリージア」」
ン、と互いの言葉に途中で口を閉じるヴァルと、そして青年は息を引いた。
フリージアから命じられた、とフリージアの人間かいと。その最初の言葉が意図せず重なった。
壁を広げ覆い囲ませる目の前の現象に、酔いが覚めてきた青年がそれを特殊能力だと理解するのは難しくなかった。さっきも目にしたはずなのに、今初めて見た感覚で固まる青年は闇に溶ける男相手に暫く目が離せない。鋭い眼光だけが暗闇に浮いて見えたまま、手探りでその肩を掴む。
「お…お願い、します。フリージアに、こ……の事はっ……」
「そりゃあ無理な相談だな。主の命令に逆らえるわけもねぇ」
無礼を許されている今の内に自分の口調で突き放す。
酔いがどの程度冷めているかはわからないが、自分に口止めを縋る程度には状況を理解したらしいことは少し意外に思う。
青年も、自分が何故こんなところにいるのかはわからない。酔いで前後も上手く思い出せない。
弟達と少し酒を飲んで、酔ってもベッドで寝ているだけの筈なのに何故か外にいる。しかし意識が朦朧としている間の微かな記憶もある。自分が勝手きままに夜の道を歩いていたことと、そして衛兵に見つかった瞬間にこうして匿われていることを自覚するだけで、本来頭の良い優秀な青年にはある程度汲み取れた。
自分は何故か酔いのまま衝動的に外に出てしまった。異国で今も自分を待ってくれているだろう婚約者の告げた通りになってしまったと思い知る。
明日には婚約解消を願い出る立場の自国が、前夜に城下へ抜け飲んだくれ発見されるなど許されることではない。婚約者からの警告までも無碍にしてしまった。その上、このままでは自分は彼女の予知通り全てを失ってしまう。
これから更に傷付けてしまうだろう婚約者をこれ以上悲しませることも、そして国王である父親や民を落胆させたくない。考えれば考えるほど、今の自分はどうしようもなく追い詰められていた。
広くもない密閉された空間で突如自分に縋り付いてくる青年に、ヴァルは「うぜぇ」と喉を反らし腕で力付くで突っ張り剥がす。夜目には青年が泣きそうな顔で懇願するのも息のかかる距離で見えたが、顔を逸らし視界から消す。
もう一度壁に耳を当て、いい加減誰も戻ってこない気配を確かめてから能力を解いた。
月星の灯りで、ヴァルだけでなく青年もセフェクもケメトも互いの顔が視認できるようになる。手を剥がされた後も、諦められずもう一度ヴァルへ手を伸ばす青年は今度は手で弾かれ避けられ、ふらつく足でよろけ膝を付いた。これから起こることを考えれば、震えて力も入らない。
「お願い、お願いします……僕に、できることならなんでも……このことを知られれば父上も、……プライドにも…」
「知ったこっちゃねぇな。テメェが国王に放り出されようと愛想つかされようと痛くも痒くもねぇ」
今にも平伏をしそうに手を地面に付け出す青年に、気持ち悪いと先に望みを断つ。
むしろこんな王族はさっさと後ろ盾を無くして路頭に迷えば良いと思う。こんな情けない女々しい男が噂の婚約者かと思えば吐き気がした。王族の都合は知らないが、趣味が悪いとすら思う。どう見てもプライドに尻に敷かれるか足を引っ張る図しか想像がつかない。
ケッと吐き捨てながら足を上げたが蹴り飛ばすことはできず、途中で止まる。
「放り出……。それも、…………ははっ……」
足蹴にされずとも靴の裏を突き出された青年は、それでも顔を顰めるどころか肩も背ごと丸く落ちていく。
見開いた目からまた思い出したように涙の粒が溢れた。口が歪に笑いながら、地面に突いたままの両手に視線を落とす。あまりにも惨めで見窄らしい自分を再認識する。
口にはできない。しかし、胸の底では思ってしまう。……それも良いかもしれないと。
アネモネの法律も刑罰も、王族として望まれるまま学んできた彼は網羅している。王族としての名を辱めた者は重罰であれば国外追走か奴隷堕ち。こんな自分は、美しいアネモネには不要な存在とも思えば、望めるならばいっそ奴隷になってアネモネの底で民を見上げ続ける身になればいっそ楽だと思う。自分のような穢らわしい存在にはそれが相応しいのかもしれない。
今も酒に溺れ、衝動のままに城下へ飛び出し、自分に警告をくれた婚約者をも裏切った。必死に望まれる姿を、望まれる言動をと振る舞ってきた筈なのに全てが裏目に狂っていく。
手の甲に落ちる涙すら、人形のような自分には不相応だと思う。
ぱしりと、目元から手の根で押さえ涙を止めようとした。それでも、溢れる量は変わらない。指の隙間から落ちるだけだ。
「何故僕はっ……こんなにも、……っ」
そこから続きは言えずとうとう蹲る。
アネモネからも見放され、フリージアにも不相応と判断された。
肩を震わせ小さくなって泣き噦る青年は、もう動く気力も削ぎ落とされる。早く城へ帰らなければならないが、もうプライド王女の使いに知られてしまったことでどうしようもなくなった。どうやって帰ろうと、衛兵や城の者達に気付かれる。いや、もう騒ぎになっていてもおかしくないと思う。いっそこのまま消えてしまいたい。
嗚咽を漏らし、喉を詰まらせる青年にヴァルは苦々しい顔で貧乏揺すりする。青年の都合など心底どうでも良い。
自分をまだ配達人とすら知らない青年が、ここで口封じでもしようと殺しにかかってくればまだ化けの皮を剥がせたと愉快にもなれたが、ただただ子どものように泣くばかりだ。こんなのがフリージアの王配など先が思いやられる。
セフェクとケメトが困ったように顔を見合わせヴァルの腕や裾を掴む中、青年は口封じどころか言い訳もしようとしない。
めんどくせぇうざってぇと頭の中で十は繰り返した後、青年を見下ろしたままヴァルは周囲の気配だけは注意する。
「飲んで泣いて潰れて結局何がしてぇんだテメェは」
目の前の青年に何も共感できない。
飲んだくれるまではわかる。その後に運び出されたのか、それとも自分の意思で手を貸させたのかまだわからない。奴隷達が酒場に捨てる前に回収してしまった為、決定的証拠は掴めていない。しかも目の前の青年自体がそれを口にしようとしない。
プライドに命じられているのはあくまで見張りだ。お守りをしろとは言われていない。見つからなければ何でも良いが、このままうじうじされるまま相手もしたくない。虫唾が走る。
苛立たしげに問い掛けたヴァルに、青年は喉をしゃくり上げながら顔を上げる。自分の望みなど、それこそ自分が一番知りたいことだ。
濡れた瞳で目の前の男を見る。凶悪な顔付きと闇に溶け込める褐色の肌を見ると、本当にフリージアの人間なのかと疑いたくもなる。しかし自分に恐喝の一つもしてこずに、むしろ何を言ってもフリージアには知らせると突き放された。
この先歪な自分が何を選ぼうとも、きっと最悪は変わらない。自国には泥を塗り、父親とフリージアからの信頼を落とし、フリージアには婚約解消を望み、婚約者を今以上に傷付ける。最悪の自分は、もうどれを選んでも堕ちるところまで堕ちる。
特殊能力を持つフリージアの使者が、どうして尋ねたのはわからない。
ただ、その問いに答えようとすれば自分でも驚くほどにすんなりと答えは舌から滑り落ちた。
「僕は──」
その答えはあまりにも単純で、誰の耳にもつまらない結論だった。
青年を回収してからもう何度目かもわからない舌打ちを溢したヴァルは、そこで荷袋を肩にかけ直す。フードを被り、口布を上げて素顔を隠す。
プライドから依頼されているのはあくまで見張りと保護。王子を逃すなとも突き出せとも言われていない。むしろ受けた依頼の為ならば無礼も許されている。
プライド達の合流まで次の行動を決め、土に汚れた青年に一言呼び掛ける。
言われた言葉に理解ができず、目を見張る青年は膝を落としたまま動けなかった。ケメトが手招きしセフェクがその背中を押して、なんとか動こうとするが、酔いに混ざった頭と力も入らない。
ヴァル、動けないみたいとケメトとセフェクに言われ、配達人はその手を引っ張り上げ無理やり立たせた。
起こしてくれたことに礼を言おうとする青年だが、最初の一文字を発音したところで背中を向けられた。
まさか、本当に叶えられるとは思いもしなかった。
……
…
「……ヴァル。君は本当にその話好きだね……」
ヒャハハッと高笑いを上げる客人に、アネモネ王国の第一王子は片手で額を押さえる。
愛しい婚約者と別れ自国に残り王位継承者となることが決まった彼は今、庶民を扮した格好をしていない。自国へ配達人として訪れた客人をいつも通り自室に招いたまでは良かったが、その度に悩まされることがあった。
「酔っ払いが飽きずに蒸し返しやがったからだろ」
「それは本当に感謝してるからだよ」
なのに。と、そう思いながら王子は静かに未開封のワインを二本ヴァルへと寄せた。
自分の手元にもグラスは一本あるが、半分飲んだだけでそれ以上は進めない。弟達に酒で嵌められてから自分の許容量を確認した王子だが、それからは量も度数も飲める値の半分を超えないようにしている。あとはケメトとセフェクと同じように果実や菓子をつまむ程度だ。
友人となりたい相手としてヴァルを何度も酒を引き合いに招いている王子だが、今でも気付けば当時のことを語ってしまう。
目の前で信じられない量の酒を空にしている配達人に会話の中で突っぱねられる度「けれど」と当時のことをつい口にしてしまう。
「まさかあんな風に帰れるなんて思わなかったんだから」
ハァ……と溜息を漏らしながら当時のことを思い返す王子にヴァルは舌打ちの代わりに酒を仰いだ。
もう王子と酒を飲む度に飽きるほど言われる話で恩に着せられるのは、もううんざりに近い。
当時泣き出した王子に何が望みか聞いた結果、ヴァルは城の外壁から窓へと忍び込む形で彼を自室に送り届けていた。既に弟達は撤収し部屋はも抜けの空だったが、灯りが付けっ放しになっていた部屋を侍女や従者が深夜に確認しに訪れるより先には戻ることができた。鍵のかかった窓ではなく壁を直接〝開けた〟為、飾られた物はいくらか壊れたが幸いにも見張りの衛兵に乗り込まれずには済んだ。
合流したプライド達が王子の部屋に瞬間移動で訪れた時の驚き顔は爆笑するほど愉快だったが、部屋に無事戻れた時に王子に泣いて感謝されたのは死ぬほどうざかったと今でもヴァルは思う。
飲みかけのワインを許可を得て口をつけた際、ボトルの表示よりも全く別物の度数が高い酒に入れ替えられていたと知ればやっと王子が嵌められたらしいことも察せられた。
見張りを任されていたこともあり、結局王子の部屋で飲みかけのワイン以外も際限なく飲み続けながらプライド達を待つことになった為、恩着せも一回で終わらなかった。
着替える前を泣いて感謝され、王子が庶民服から着替え終えた時もまた泣いて感謝された。プライドからの頼みがなければ、何度窓から飛び出したくなったかわからない煩わしさだった。
しかし王子からすれば、まさか衛兵どころか門兵に気付かれることなくアネモネの城に侵入し部屋に帰れるとは思いもしなかった。ヴァルにとってもあくまで〝王子の家に王子を届けるだけ〟という感覚だからこそ他国の城に侵入できたが、そうでなければ家宅侵入の最上級である場所に正面門を使わず入ることは叶わない。城というのは、本来何者であろうと許可なく侵入が許される場所ではない。
最終的に弟達の犯したことも明るみになったが、プライド達が合流したところでいつの間にか部屋から去っていたヴァル達にもう一度礼ができなかったことは王子にとっても心残りだった。
プライドを通し許可を得て、当時の感謝を少しずつでも返したいと思うのは王子にとっては当然のことだった。
「あの時はそれで充分過ぎたから」
「うぜぇ」
王子の言葉を一蹴しながら、もう何度も聞いた話の味の悪さを酒で上塗る。
結果としてはプライドのお陰で婚約解消もそしてアネモネ王国にも残ることができるようになった王子だが、あの時はただただ自分のせいで不要な心痛をかけずに済んだことで救われた。
城の者や父親達、そして王子失踪により衛兵や民を不安にさせずに済んだことの安堵で涙が止まらなかった。フリージアの使者により婚約者に知られようとも、その後どうなり蔑まれようとも、……できる限り民や周囲を苦しめたくはなかった。
『僕は、城に帰りたい』
「…………」
王子の話を聞いてないように顔を背けて空にした酒瓶を転がし、また新たな酒を手に取りながらヴァルもまた当時のことを嫌でも思い出す。
あの時は今以上に印象最悪の女々しい面倒で気持ちの悪い王子だったが、あの時の望みを語った時の真っ直ぐな翡翠の眼は今も強く頭に残っている。
『ありがとう、ヴァル。…もう少し、頑張ってみるわ』
いつかの誰かによく似ているとそう思えてしまったから。
結局家に帰りたいなどつまらないくだらないと思ったヴァルだが、同時に酷く重なり過ぎって堪らなかった。いくら逃げたくても、その先は棘の中だとわかっていても望んで〝そこ〟を選ぶ。王族という存在を再び突きつけられたかのようだった。
彼女に似ていると思えば余計に、その願いを叶えないわけにもいけなくなった。隷属の契約とも違う、根本の部分で抗えない。
ペッ、とそこまで思考してしまったところで敢えて栓を歯で抜き、床に吐き捨てる。結局は目の前の王子も、当時の弱々しさとは別人のように今では〝王族〟だった。
酒の美味さとは関係なく、胃がもたれる感覚にもう一度ヴァルは王子を見据えながら切り札を投げ付ける。
「飲んで踊って歌って泣き噦った酔っ払い王子が」
「ッだからそれは……‼︎もう、本当に、本当に、嘘じゃないのはわかっているから……!」
黒歴史を吐き捨てれば、王子が今度は顔まで赤らんだ。声を上げて狼狽出す王子に、またヴァルはヒャハハッと嘲笑う。
当時、いつになっても騒ぎの気配がなく一度合流を試みたプライドに言った苦情を両者ともありありと思い出す。
何故ここにヴァルがいるのかと、そう尋ねたプライドに開口一番に「酔っ払い王子が潰れて歌って踊って家に帰りたいと泣き出した」と言われた時の困惑は王子もよく覚えている。酔いが回っていた自分もそこまではっきりとは記憶に留めていなかった。
重ねて「見張りは任されたが酔っ払いのお守りまで飲んだ覚えはねぇぞ」と苦情を重ねられるプライドの、なんとも言えぬ顔もまた忘れられない。
自分がここまで迷惑をかけた意趣返しの嘘かとも当時は思ったが、その後にプライドから彼が隷属の契約で王族に〝嘘を吐けない〟ことを知った時の羞恥と絶望感は凄まじかった。
今はもう王子に対しては嘘も隠し事も許可されたヴァルだが、当時はまだ許可がなかったうちの証言は誰も疑いようがない事実だ。
一度ならず二度までも昔の話をしつこく蒸し返す相手にまたヴァルが黒歴史を語れば、王子の視界がパチパチ弾けた。何度聞いてもその時の話は嘘であって欲しい。
「でぇ?思い出したのかあの変な鼻歌」
「いやだからそもそも覚えてないんだよ……。そんな癖誰からも聞いたことなかったのに」
正確にはそこまで酔うほど飲まないように気をつけていた。
飲んで陽気になるとはよく聞く話だが、今でも自分がそんなに酷い酒癖だったなど信じたくない。社交の必要さえなければ、一生酒に口をつけたくないくらいだった。
トントンと指で机を叩くヴァルが記憶を突くが返答は変わらない。
プライドに嘘を吐く許可を与える前に覚悟して当時の顛末を歯に絹着せず詳細にヴァルから聞いた王子は、思い出したくても当時のことを思い出せない。記憶の破片は弟達に酒を飲まされたところと、美しいアネモネの夜空と海。そして初めて見る土壁の特殊能力の直後の暗闇の中で突きつけられた鋭い眼光からだった。
ケメトとセフェクも、気になるように記憶にある鼻歌を王子へ鳴らしてみせるが、二人ともぼんやりとしか覚えていない曲調は王子にも解読不可能だった。セフェクから「ヴァルもやってみてよ」と言われても、ヴァル本人は聞こえないふりをする。
「その上よろよろよろよろふらふらふらふら踊りやがって。あれが血統高い王族の踊りなんざアネモネもたかが知れるぜ。なぁ?酔っ払いが」
「いや……アネモネのダンスはもっと格式高いもので……」
「どんなか覚えてやがんのか」
「……だから覚えてないって……」
こんな感じでしたっけ?と、ケメトがヴァルへ椅子から降りてふらふら踊れば、セフェクまで悪意なく「こうじゃない?」と左右に揺れる。流石の王子も顔を覆って見ていられなくなる。
酔うほど飲んでいないのに真っ赤な顔で俯き背中を丸める王子に、ヴァルもニヤニヤと嘲笑う。あいも変わらずこの話題を出す限り頭を抱える王子は、当時と同じくらい小さく見えるが今は気分も悪くない。
栓を抜いた酒瓶に直接口をつけ、グビッと喉で味わった。上等な酒は、間違いなく満足できる味ばかりだ。
当時とは違い、王子に向けて楽しそうに笑うヴァルにケメトもセフェクもそこで踊りを止める。ヴァルの左右にぴたりとくっつき、唇を結んでまた王子をケメトは見やりセフェクは上目に睨んだ。
何度も何度も揶揄われ嘲笑われる王子とヴァルは二人の目には楽しそうに見えた。タダ酒を飲む為だけではなく、きっとこのやり取りも彼が楽しんでいるだろうとわかったから。
……フリージア王国配達人に、アネモネ王国第一王子が〝レオン〟とその名を呼ばれるようになるのは、互いに当時のことを文字通り〝飽きるまで〟蒸し返した後のことだ。
酒の量に違いはあれど、語り明かす時間は変わらない。




