我儘姫様と、もし。
「!ジルベールおそい!!今日も父上に言いつけるんだから!」
おやおや、と。庭園に出ていた姫に向かい、ジルベールは軽く困ったように肩身を狭めて見せた。
しかし歩む速度はのんびりと変わらない。王宮から歩いてきたジルベールをいち早く見つけたプライドは、それすらも我慢できないように「走って!」と怒鳴るがそれでも少しだけ早める程度である。最初はそんな姫の一言一言に肝を冷やしていた侍女達も、今はほっと胸を撫でおろすばかりだった。ぷんすかと甲高い声で怒鳴るプライドの背後で、使用人の誰もが深々とジルベールに頭を垂れた。
お待たせいたしました、とやっと目の前までたどり着いてからいつものように形式通りの挨拶をするジルベールにプライドは「おそい!」としか言わない。両親や叔父と違い、ジルベールであればいくら偉そうにしても良いという考えは今も変わらない。
「プライド様。そうお声を荒げては喉を傷めますよ」
「うるさい!ジルベールのせい‼︎」
「それではこの服の汚れも私の所為でしょうか?」
そう‼︎とまた劈くような高い声でプライドは叫んだ。
肩以上ある長い深紅の髪はぐしゃりと草葉が絡みつき、鼻の頭から頬そして上等なドレスにまで土汚れがついている。自分がくるまでの間に彼女がドレスで転げまわった証拠である。
これはまた派手にやったものだと思いつつ、ジルベールは慌てる様子もない。これはこれは、と長い指先でプライドの髪に絡んだ葉を一枚取るとそれ以上はせず丸めた背を伸ばした。
にっこりとプライドではなく、使用人達へ見回すように笑いかけるジルベールはまた今日もいつものように彼らへ提案する。
「プライド様とまた二人きりでお話をさせて頂いても宜しいでしょうか。今日は天気も良いのでこのまま庭園で」
そこの椅子を借りましょうか、と休憩用の長椅子を指させば衛兵達も急ぎ警備の形態を変えた。
完全に離れるわけではない。あくまで一定距離で二人を見守るだけである。話し声こそ聞こえないが、何かあればすぐに駆け付ける位置へと移動する衛兵に侍女達も同様に下がった。初日からジルべールがしていることは変わらない。
一緒に遊ぶでも、お茶を飲むことすらしない。ただ幼い姫と一対一で話すだけで時間を過ごしている。そして信じられないことに我儘姫もまた、そこで飽きたの一言も言わずに受け入れていた。
今もジルベールからの提案に「はやく‼︎」と急かすだけで嫌がらない。まさか催眠術でもかけているのではないかと思うほど、ジルベールと対話中の姫は一度もその場を放り出さなかった。そして、ジルベールがやっていることは催眠でもなければ洗脳でもない。
「……さて、プライド様。そのように服を汚しては侍女が困りますよ」
「うるさい‼︎良いの!私が汚したいからしたの‼︎」
席に座って早速指摘をしてきたジルベールにプライドも目を吊り上げる。
侍女も何も、実際は侍女ではなくジルベールを困らせる為だけにしたことである。今日もジルベールが来ると思った彼女は、彼が来るまでの間に困らせてやろうとわざと庭園で転げまわった。今更侍女が困るなど顧みることもない。彼女達は自分の言う通りにする為だけにいるのだから。
ふん!と息巻き頬を膨らませるプライドに、ジルベールも左右に遅く首を振った。もうこのひと月で彼女の壊滅的な自己中心性には慣れている。
「ではお尋ねします。なぜ侍女を困らせても良いとお思いで?」
「私は女王になるの‼︎国で一番偉い人になるの!」
ジルベールの問いに、棘こそあるがプライドはすんなりと答えた。
最初の頃からそうだった。今までの大人が自分の機嫌を取ることばかりだったのに対し、ジルベールが試みたのは〝質問〟だけである。
最初は答えるのも嫌で追い返そうとしたプライドだが、言い返すつもりで返答するにつれ何となくそれが繰り返したくなった。単純に質問に答えてやる、という感覚に優越を感じるだけではない。自分にジルベールが興味を持ったからといって嬉しくもなんともない。しかし、答えていくにつれ自分の中のこんがらがった鬱憤が一本の糸に変わる感覚は心地よかった。
言い返す度に自分がどうして腹立たしく、どうしたいのかもどう考えているのかも〝自分〟がわかるのだから。更にはジルベールはそこに〝どうすればいいか〟も教えてくれる。
「お言葉ですが姫様、権力にずっとなど保証されません。花が朽ちるように、権力もまた水を得なければ枯れて落ちてしまうでしょう」
「うそ‼︎」
「本当ですとも。文字を覚えたら異国の歴史書を読まれるのも良いかと。とても興味深いと思いますよ」
むむむむむっ、とジルベールの言葉にプライドは頬を限界まで膨らます。
ジルベールなんかに馬鹿にされるのも嫌だったが、それ以上に〝今〟は知れないことが嫌だった。最初の頃は繰り返し「教えて!」といったこともあるが、絶対にジルベールは教えてくれないと学習した。お陰で最近は文字を覚えることにも以前にも増して躍起になっている。邪険にしか扱っていなかった侍女にも本を読み聞かせさせる数や教師に質問する数も増えた。
プライドが顔を真っ赤にして怒る様子に、果実よりも簡単に熟れると頭の中だけで評価し笑うジルべールはそこで急に遠い目をして見せた。
顎に指を添え、視線をプライドから空へと向ける。突然自分から注意の逸れたジルベールへプライドも目を水晶のように丸くすれば、その瞬間にするりとジルベールの次の言葉が間合いに滑り込まされた。
「……ああでも、永遠にする方法もあるにはありますねぇ」
「なに⁈」
「ですがこれは時間が掛かりますし……流石に幼いプライド姫には難しいかと」
「な・に‼︎‼︎」
仄めかすジルベールの思った通りに彼女は食いつく。
賢いとはいえ幼児と呼べる年であるプライドは、ジルベールにとっては手のひらの上だった。はやく教えてと、真正直にジルベールの服の袖を引っ張り泥をなすりつけるプライドは答えが欲しくてたまらない。自分がずっと偉いままでいられる方法があるのなら、今すぐにでも欲しかった。
おやおや困りました、話過ぎましたねと。ジルベールもいつもの倍はプライドを焦らし続ける。今までもこうして彼女の興味を引いて気づかせてみたが、今回は特に大事な段階である。ここで成功するかどうかで、アルバートの今後の苦労も変えられる。
わかりました負けましたと、柔らかく言うジルベールにやっとプライドも引っ張る手をやめた。泥をつけられた服を払うのも止め、そこでジルベールは仕方がなさそうに正面を彼女に向けて言い放つ。
「先ずは侍女に好かれることです」
「??侍女に??」
いや。と、疑問のまま直後にはプライドから拒絶の一言が放たれた。
子どもながらに自分を言うことを聞かせようとしてくる言葉はまず否定から入る。それもジルベールは想定の範囲内だった。普通の幼児であれば、これ以上は何を言っても「いや」の一点張りである。
しかし、プライドは賢かった。
もちろん理由があります。と続けるジルベールに、彼女もそこで拒絶の口が止まった。どういうこと、と睨む目で見返せば今日のアルバートとそっくりの顔になる。
「侍女は一番プライド様がどんなことをしているか知っているのですよ。噂は広がります。侍女に好かれれば、きっとプライド様の良い噂は城中や城下、そして国中に広がります。人からの評価は花にとっての水と同じです」
「いや。嫌いだもん」
「何故嫌いなのですか?」
「私の思った通りにならないもん。気持ち悪い顔して嫌なこと言ってべたべた一緒についてくるから嫌い」
「なるほど。ならば好きになる必要はないですよ。あくまで好かれるように、……そう見せれば良いのです。侍女を騙すくらい幼いプライド様でも簡単にできますよ」
「どうやるの?」
敢えて〝騙す〟と子ども心を擽る言葉にプライドも今度は疑問で返した。
侍女と仲良くなりたいとも顔色を窺いたいとも思わない。しかし、そんな侍女へだからこそ〝騙す〟ことの罪悪感もプライドには全くなかった。
理想通りの返答にジルベールは心の底からにっこりと笑い、そして説く。
「先ずは呪文ですね。朝は「おはよう」と夜は「おやすみなさい」と唱えましょう。自分の言う通りに動いたら「ありがとう」と必ず褒めてやるのです。怒るようなことをされたら「大丈夫」と言って自分の方が大人だと示すべく笑って返してみましょう。特に笑顔は大事ですね。プライド様は幼いながらにしてローザ様のようにとてもお美しいので、笑えばそれだけで誰もに喜ばれますよ。現に御父上はプライド様が笑うと喜ばれるでしょう?」
「…………それだけ?」
「ええそれだけです。全ての人間に好かれる簡単な秘術です。特に偉い人間が下の人間にすればより効果が上がるでしょう」
プライドにとって、どれも簡単なことである。
「おはよう」も「おやすみ」も特別な言葉ではない。父親には何度も唱えたことのある、知った言葉である。侍女が自分の言う通りの行動をするなど毎日何十回もある。命令するのが自分なのだから。更には大人の証明だと揶揄されれば「大丈夫」くらい言えると示してみたい。更には自分の顔を具体的に褒められたことなど父親以外殆どなかったが、ジルベールにそう言われればちょっと得意な気分にもなった。
わかった、と。
プライドがすんなりと自分の行動を変えるきっかけを得たのは、天才謀略家の手によれば驚くほど簡単だった。
次にジルベールが来るまでには侍女に好かれてみせてやると、幼き姫も挑戦的な気持ちになる。まだ幼児であるにも関わらず、理解力もある賢い少女には抱くのも容易な感情だった。親にやってみせて褒められたいように、競争で勝って注目を浴びたくなるように幼児でも当然持っている挑戦心が擽られ実行へと移させる。
ジルベールと別れた後、早速部屋に帰ると言い出すプライドへ侍女が着替えと湯浴みを提案すれば早速「ありがとう」と放たれた。その瞬間にはジルベールも思わず笑みが零れた。
やはり賢い子だと思いながら、また次会うのが楽しみだと自分へ手も振らない幼女を見送った。当然、ここで終わらせるつもりも彼にはない。
「姫様が挨拶をしてくださるようになった」「すぐに怒鳴り散らすことがなくなった」「ありがとうと言うようになった」「ジルベール宰相が訪れるようになってから」「笑顔が可愛い」と。その評判は、満ち潮のように城内へ広がりだした。
もともと幼い姫である。我儘さえ酷くなければ、目の前でにこにこ笑う幼い少女を可愛く思う気持ちはどの侍女も持っている。態度が改善すれば「成長した」の一言で過去の全てを許されるのも幼児の特権だとジルベールは思う。大人になればこうはならない。
アルバートから何度も「何をした」「どうやった」と尋ねられても、嘘を言いたくないジルベールは軽く受け流し続けた。今それを言えば確実に、娘になんてことを教えたんだと怒られるに決まっている。今の彼女は、気持ちが伴っての行動ではなく全ては自分の為に他者を見下し演じているに過ぎないのだから。
しかし、それで終わらせないのもまたジルベールである。
「流石ですプライド様。では次は名前を憶えてみましょう。私より多く侍女の名前と顔を覚えられれば、私が責任持ってその夜には王配殿下をお連れ致しましょう」
侍女に好かれたと、うまく騙せていると自慢する少女にまた一つ課題を出してみる。
父親を出せば、すんなりとプライドも勝負に乗った。当然そこで優しく負けてやるジルベールでもない。勝つまでは何度でも挑戦に乗りましょうと唱えれば、それからは毎回侍女の名前当て勝負が行われた。
「キャメロンがね、あとスージーが、マリーが……」
そして自分に良い顔をしてくる侍女に、〝子ども〟として自分に好意を向けてくる相手にプライドが心を開くのも難しいことではない。
名前さえ覚えてしまえば、個別意識は当然である。自分の身の回りにいる侍女の呼び名を覚えれば、それだけでも彼女は精神的に孤独ではなくなる。そして、自分の名前を憶えてくれる幼い姫に侍女が心を動かされるのも容易だった。怒れば怖い顔の少女も、にこにこ笑えば愛らしい美少女である。
「では次は従者にも好かれてみましょう。プライド様の言動を御父上や御母上に伝えるのは衛兵や彼らですから。彼らに好かれればご両親にも良い評価が伝わります」
「次は衛兵ですね。彼らはずっと聞き耳を立てているのですよ。それにプライド様に何かあった時、好かれていれば優先的に助けてもらえます。強者に好かれれば、怖いものなどありません」
「料理人達も馬鹿にはできません。出された品を美味しく全てを食すという少し難関ですが、彼らは城下の民と繋がりの多い者も多いですから」
「最近侍女だけでは勝負になりませんし、全員の名前と顔で勝負の範囲を広げましょうか。その方がプライド様の勝利する可能性も広がりますよ」
偽りの好意から、相手に善意と好意で返される。賢くても幼い少女であれば、そこで好意に好意を抱くことも自然の流れである。
自分がなにをせずとも「可愛い」と褒めたたえられ「素晴らしい」「お優しい」「立派な姫君」と語られるのが耳に入れば、本気でそんな気分になる。良くも悪くも環境に反映されるのが子どもである。プライド自身の偽の好意も、無意識のうちに本物の相思相愛の好意に塗り変わる。
ここまでは全てジルベールの描いた通りである。最初は我儘な幼児のご機嫌とりなどと本気で嫌だったが、言葉が通じる賢い姫だったことが幸いだった。騙されやすく、しかし理解力がある子どもを操るのは片手間で充分だ。このまま周囲の評価を上げ、彼女自身も周囲の評価を欲して外聞を意識するようになれば完璧に彼女の不満も
「ジルベールに好きになってもらうにはどうすれば良い?」
「…………。今も変わらず私はプライド様を宰相としてお慕いしておりますとも」
足を運ぶようになって一年が経過した頃、突然放たれた問いにジルベールは数秒だけ詰まった。
アルバートの忙しい身も当初よりはマシになり、父親が今までと同じように訪問してくれるようになってもプライドからジルベールの指名は終わらなかった。
顔と名前当て勝負も、そして〝次は誰に好かれる〟かも自然とする必要がなくなったお互いに、今はただジルベールもプライドの近況や自慢を聞くだけである。
文字通りプライドに好かれた自覚はあるジルベールは、幼過ぎる彼女が年相応以上にませていることも理解していた。しかも彼女は自分に最愛の婚約者がいることもまだ知らない。
表情には出さず、にこやかに答えたが一瞬だけ嫌な予感に冷たい汗が一筋伝った。アルバートに知られれば拳を落とすだけでは済まされない。既に、たった一年で急激に態度が良くなったプライドに何をしたのかと怪しまれたままである。そろそろ種明かしをしても良いかとは思っていたが、ここでプライドから下手なことを言われればアルバートに言い訳もできない。
「じゃあ父上に好きになってもらうにはどうすれば良い?」
その日は雨だった。
部屋の明かりだけを灯し、自分だけが呼ばれたジルベールは客用の椅子に腰を下ろしていた。紅茶を片手に、視線を窓の向こうへと注ぐ彼女はただでさえ明暗の効果で大人びてみえる。それでもあくまで幼児だがあと五、六年もすれば美しい女性に育つであろうと想像できた。もともとティアラの可愛い顔つきと違い、女性らしい大人びた顔つきである。
すんなりとプライドに続けられた言葉にジルベールは静かに胸を撫でおろした。こんな幼子相手に自分の自意識過剰だったのだと反省し、息を吐きつつ答えを返す。
「王配殿下は最初から心よりプライド様を愛しておりますよ」
「じゃあヴェスト叔父様はどうすれば私のことを好きになる?」
「ヴェスト摂政は確かに厳格なところもありますが、もとよりプライド様のことを想ってのことです。最近ではプライド様の評判が良いことを自分のことのように喜ばれて」
「母上は、どうすれば会いにきてくれる??」
「…………」
最後に重く放たれた問いが、最初から自分に尋ねたかった一番の問いなのだと理解した。
自分の方には顔を向けず、窓の向こうをじっと睨む少女は間違いなくまだ幼子だ。しかし、この言葉には表面以上の重さがあった。
この一年、間違いなくプライドの評価は上がった。アルバートも、ヴェストも城中の人間がプライドを見る目が変わった。しかし母親であるローザとは変わらず疎遠なままである。城中の評判を褒められたことすら未だ無い。
「予知ができるようになったら?城中の人にもっと好きになってもらったら?もっと母上に似た顔になったら?国中の人の名前を覚えたらー……、……この部屋にきてくれる?」
いつもの彼女よりもはるかにか細い、弱弱しい声だった。
城中の人間に間違いなく今の彼女は好意的に見られている。侍女とも言葉を交わしては笑い合い、姫として愛される。そして今のプライドも侍女達に心を開いている。父親も会いに来る頻度は戻り、宰相という相談役も得た。しかしそれでも決定的に彼女は満たされない。
いくら人に愛される術に組み込んでも、たった一人の愛情をいつまでも求めている。友人でも、使用人達でも、恋人よりも遥かに代えの聞かない〝この世でたった一人自分を産み落とした存在〟に愛されたいと望んでいる。
幼子であるプライドの年を考えれば当然のことだ。この年であれば親が絶対的存在になる。しかし、彼女の場合は成長と共に癒えるようなものではないだろうとジルベールは音もなくこの場で思い知った。
年を重ね成長と共に親が絶対的存在から離れていくのが子どもだが、彼女の場合はそれ以上の喪失が深過ぎる。幼少に刻まれた価値観ほど、覆すのは不可能なのだと痛感させられる。紅茶を置き、今は彼女の傷を少しでも埋める手伝いに努めることにする。
「……御母上もプライド様を愛しておりますよ。ただ、女王は民のことを一番に考える存在ですから」
「じゃあ民がいなくなったら良いの?」
「それでは女王も王族も成り立ちません。ローザ様も悲しみます。プライド様が親しくなった城の者達も私も〝民〟の一人です」
「じゃあ絶対母上の一番は私にならないの?」
「もう大事な娘ですよ。……だから、立派な宮殿や侍女や使用人を付けて貴方様を守っているのです」
「いらない」
彼女の行動は、〝裏返し〟の一言では語れない。
子どもながらの、全てよりも親を求める言動がここまで物悲しく聞こえるのはジルべールも初めてだった。自分もそれなりに子ども時代に苦労したつもりだが、ここまで恵まれた空間でここまでお膳立てされても尚彼女の満たされなさは病的ともいえる。
ローザがどうしてプライドと距離を置いたのかを知らない自分では、この問題ばかりはどうしようもない。まさか、多忙である筈の女王が存在の伏せられたティアラや、自分の婚約者であるマリアンヌには会いに行っているなど言えるわけもない。
「……少なくとも、私はプライド様とこうしてお話する時を楽しく思います。こんな素晴らしい時間を逃している女王陛下が気の毒でなりません。………これからも引き続き、友人として話し相手になっていただけますか」
御母上には遠く及びませんが。と、そう続けるジルベールに初めてプライドは顔を向けた。
父親譲りの紫色の目を大きく開き、それからゆっくり笑う。母親ではないが、初めて公言された〝友人〟という存在が擽るように胸の痛みを和らげた。まだ社交界にも式典にも満足に出れない齢の姫には、友人もいなかった。
少し潤みかけていた目で笑ってくれる姫に、ジルベールも切れ長な目を緩めて返した。早々に終わらせたいと思った子守りだが、賢く吸収の速い彼女は話すのも飽きさせない。友人に面影を強く残した姫を、このまま成長を見守り続けるのも悪くないと思う。
雨の音が静かに音を薄れさせ、次第に雲の隙間から太陽の光があふれ出した。
予期せぬ宰相と幼過ぎる王女の友人関係は、確かにこの時成立し
─ プライド・ロイヤル・アイビー、六歳。
「申し訳ありません。プライド様。……今日も、ジルベール宰相は公務でお忙しいとのことでした」
「……〝大丈夫〟……〝ありがとう〟」
……崩壊するまでは、長くなかった。
またいつものように同じ返答を持ってくる衛兵に、プライドは目も合わせず窓へ指先を当ててみる。トン、と小さく音が立った先は晴れ渡った空が広がっていた。それにも関わらず、彼女の視線は雨雲を眺めるように暗い。
本当にそれは突然だった。友人になってから、一年ほどは変わらず関係は続いていた。ジルベールと、そして父親が一緒に会いにきてくれる日はいつだって胸が弾んだ。父親とジルベールとのやり取りを見るのも好きだった。会いに来なくても今は彼女の周りには大勢の城の人間がいて、笑いかけてくれた。
しかし、ジルベールが姿を現さなくなった。
定期的に、むしろ頻繁に訪れてくれていた彼が何故急に会いに来てくれなくなったのかはわからない。最後に会った時に喧嘩をしたわけでもない。普通にいつも通り「それではまた」と言って笑って帰っていった。しかしそれから何日待っても呼んでも、ジルベールがこの部屋の扉を叩くことはなかった。また、昔のように部屋に訪れてくれるのは父親だけである。……そう、昔のように。
〝また〟愛情を示してくれた相手が突然消え、見捨てられ、一人残された。
当時の記憶はないプライドだが、それでも不思議と感覚だけが胸に残り絞られた。
母親に愛された記憶も六歳の彼女にはもう残っていない。しかし、それでもなぜか〝また〟という言葉が胸に浮かんでは深く根付いて消えてくれない。泣きたいくらいの気持ちになるのに、「やっぱり」と歌う自分がそれをさせてくれない。
空っぽになったような気持ちでただ窓の外を眺めてカップを持ち上げる。また、父親に尋ねる名前が増えただけ。今の自分にとっては既に昔となった頃のように我儘を言って好き勝手に怒鳴って侍女達を困らせたいとは思わない。あの頃よりも今の方がずっと苦しくない。挨拶を返し、笑って見せて、好かれる。癇癪どころか本気で怒ることなんて今では滅多になくなった。今も一人寂しくお茶をする少女を誰もが心配して見守っている。しかし
「……飽きられちゃった」
誰へ向けてかも独り言かも明確にはわからない。
ただ一言小さく落とされた呟きは、絶対的な諦めが彼女の胸に新たな傷となって遺る証だった。
……
「……ああ、大丈夫だったよ。プライド様が倒れたと聞いた時は生きた心地はしなかったが、予知能力を得られた。これであの御方は正真正銘の第一王位継承者だ。………私も、一安心だ」
─ プライド・ロイヤル・アイビー、八歳。
良かったわね、と。そう力なく伸ばした指先でジルベールの頬を撫でるマリアの顔はいつもより少しだけ柔らかかった。
ほんの二年前まで、彼が楽し気に語っていた少女のことはマリアもよく知っている。相手は自分にとっても親友の娘である。その上、ジルベールまで仲良くなったと聞いた時は嬉しくてたまらなかった。幼い〝友人〟ができてしまったと語った時には、流石アルバート様の娘だと笑ってしまった。
その姫が、今日突然頭を抱え倒れたと聞いた時は自分まで心臓が止まるかと思った。
ちょうど見舞いに来てくれていたジルベールも部屋の外の騒ぎが耳に届いた途端、目を剥き真っ青な顔でこの部屋を出て行ったのだから。
しかし予知能力に目覚め、さらには父親の命を救ったと聞けばマリアンヌにとっても久々に聞く嬉しい知らせだった。ここ二年、全ての時間を自分に当ててくれていたジルベールがどれほど彼女のことを案じているかマリアも知っている。……自分のせいで、友人との大事な時間を奪ってしまったことも。
「式典以外では久しく会わなかったが、あれから二年は我儘だという噂は聞かない。きっと今度こそローザ様もプライド様をお認め下さるだろう」
あれから、まともにジルベールはプライドと会話をしていない。
式典でも交わすのは最低限。話したいことはいくらでもあったが、下手に長引かせて明かされたくない腹をプライドに探られたくなかった。
マリアの病のことは極一部の人間しか知らない。いつかマリアの病が治ったら誠心誠意謝罪し、もう一度やり直せればと思い描いた数は計り知れないが、それまではプライドと距離を置くと一方的に決めてしまった。
この二年間、我儘な姫と語られることはなくなったプライドは間違いなく以前よりは王族らしい器である。あの時に関わったジルベールとしての時間は無駄ではなかった。……しかし、代わりに呼ばれるようになった語りは耳にする度にジルベールの胸をかぎ爪のように引っ掻いた。
「まるで人形のようだ」と。
齢を重ね、式典にも姿を見せるようになり、それなりに貴族の令嬢子息を紹介されるようになった少女だがいまだ誰とも打ち解けない。
目の奥が冷たく死んでいると、誰からともなく噂された。決まった言葉しかやり取りも好まず、あれほど語らいを楽しんでいた侍女とも二年前から間もなく会話をすることを止めてしまった。愛する父親以外の前では心から笑うどころか表情すら変えてくれなくなった。
侍女が間違いを犯しても怒ることがないプライドだが、同時に侍女に何があろうと気にも留めなくなった。まるで動きが決められた時計の仕掛け人形のように常に動きも言葉も変わらない。それ以外を無駄だと判断した彼女に、使用人達の心も次第に離れ諦められていった。
そのきっかけが何なのか、都合よく気付かないジルベールではなかった。
結局、彼女を最後まで見放さなかったのは父親のアルバートだけだった。
自分の所為で彼女は父親以外全ての人間を諦めてしまった。
今日こそ予知をアルバートに告げてから、人形のようだった目がまるで覚めたように「父上は⁈」とベッドから飛び上がり窓枠に上がるような暴挙に出た彼女だが、それも予知能力に目覚めたばかりの今だけだろうと思う。アルバートを止めた直後、無理矢理窓から引き剥がしたのは自分だが、あれも心臓に悪かったと彼は思う。プライドも紫色の瞳を丸く白黒させてこちらを見上げていたと思い返す。
今までも彼女を突き放したことに罪悪感へ苛まれた彼だったが、それでもやはりプライドに今更時間をこれ以上割く余裕も残っていない。
表情をつい曇らせてしまうジルベールへ、マリアンヌは眉を寄せもう一度震える手に力を振り絞った。すぐに気付いたジルベールが「どうしたんだい?」と手を掴み、自分の頬に添えさせたがそれでもマリアンヌの悲し気に歪む表情は変わらない。
彼女をまた悲しませてしまったと理解するジルベールは、思考を全て削ぎ落とし目の前の最愛の女性へと全てを染めた。
「愛している。マリア、……君には私が付いているから」
「…ジル、…一つお願い…あるの。…必ず、約束して」
微笑み、優しい言葉を何度でも口にしてくれる婚約者へマリアンヌは吐ききるように訴える。
頷き、躊躇わず返す彼へ「ありがとう」と感謝を告げてから彼女は息をまた吸い上げた。
「…もし…私が死んだら ─」
自分の所為で全てを犠牲にし、今も自分以外の人間のことばかりで胸を痛め続けている彼が。
この先はどうか自分の為にも生きてくれるようにと、その願いを込めて。




