騎士隊長は香り、
─ 今日は……暫く外が良いな……。
そう、カラムは遠い目で静かに息を吐き出した。
午後になり、近衛任務を交代したカラムはアランと共に並びながら以前にアランやエリックが話していたことを思い出した。
午後過ぎとなり、休息時間を得たティアラやステイルと共に庭園でお茶会する三人を眺めれば平和そのものだった。
そして少なからず自分の胸中もまた平和だと自覚する。プライドの部屋にいた時のように香水の香りが充満していない、開けた場所では香水の効果も大分薄れてくれる。風の流れによっては、まったくの無臭に感じられる時もある。
もともと天気が良いから外でお茶会をと提案したのはステイルだったが、きっと天気以上の配慮もあったのだろうとカラムは痛いほど理解する。
近衛任務として護衛中であるにも関わらず、このまま目を閉じて風を感じていたいとさえ思う。……部屋にいた時の、己の醜態を思えば。
『ところで、カラム隊長。今日実はカラム隊長の香りなんです」
「わかっております」と「その言い回しは少々……」の二つ。その時カラムは両方を言いたい口を意識的に結び、飲み込んだ。
引き継ぎと交代を終え、アーサーとエリックが退室してから間もなくのことだった。きっと今朝から話すのを楽しみにしてくれたのであろうプライドが自分の胸を手で示しながらの笑みに、カラムも誠心誠意の礼儀で返した。
まさか扉を開いた時点で心臓が止まり掛けましたとは言えない。
プライドから誤解を招きそうな言い方をされただけでも心臓が危うかったというのに、心からの笑みを向けられ思わず即答ができなかった。ンッ……と僅かに詰まってから、言葉より先に礼で返した。
いつもならばここで「とてもお似合いです」と言いたいところだったが、まさか自分の香水の香りに限って言えるわけもない。貴族出身であるカラムにとって香水はただの芳香や匂い消しではない。
頭を上げてから、なんとか言えたのが「恐縮です」の一言だけだった。既にこの時点で顔が火照っていただろうとカラムは自覚する。目の前で微笑むプライドがいつもより華やいでみえるのも、魅力的に思えてしまうのも気のせいではない。
目や耳だけではない、嗅覚にも訴えかけられるのは今日まで覚悟していた以上に驚異だった。そして何よりも部屋でプライドが教師から教わる間、広がり充満する香りの中に
自分自身溶けてしまうような感覚が。
どうか事前に告知してほしかった、と。カラムは切に思う。
当然、第一王女がわざわざ近衛騎士でしかない自分に断りを入れる必要がないと理解もしている。ただ感情だけの訴えだった。
ひと月前はアランが、一週間ほど前にはエリックがと把握していた分まさか今日とは予想もしていなかった。アランもエリックも、事前報告があったわけではなく突然だったことは同じだが、しかしカラムの場合は二人とも状況が少し違う。
自分は既に一週間ほど前にジルベールから買い取った香水を身につけている。つまり、今プライドと自分は同じ香水をつけているということになる。
せめてプライドがつける日を教えて貰えれば、この日だけでも違う香水をつけたというのにと本気で思う。
あくまで近衛中として姿勢も正し、騎士として怠慢など許さずある程度の緊張感を保っているカラムだが、本当なら部屋にいた時点で座り込みたいくらいの心境だった。もともとエリックが死にかけた理由も少なからず自分は理解できている。
プライドの香水は、好ましい。レオンもアランとエリックの香水もそれぞれ印象が本人に合っており良い香りだと思ったが、流石ジルベール宰相と思うほどやはり自分構想と言われた香水がもっとも好ましかった。
『あ、カラムだこれ』
『カラム隊長、ですね』
『すげぇカラム隊長です……』
そう、アランとエリックそしてアーサーが殆ど声を揃えたことを、今もよく覚えている。
最初に広がった香りから明らかにカラムの印象そのもののような香水は、全員同意を得るほどだった。プライドが香水を空中へ吹き付けた際、綺麗に全員が即答できてしまったのはヴァルの香水ぶりだった。
騎士三人の香水でどれが誰かという中で、ワインを思わせる深みの香りが貴族出身であるカラムの気品高さを全員が彷彿とさせられた。明らかにアランともエリックともアーサーとも印象の異なる系統だ。
更には柑橘系とも少し印象の異なるアプリコットの酸味で騎士らしい規律とただ華やかなだけではない調和も取られている。
貴族という特徴を前出しされた香りは、それでもカラムは少し顔に力が入った。決して不満だったのではない。むしろ自分の好ましすぎるその香りはと、そこまで考えてしまったところでプライドだった。
『すごく素敵な香り。……けど、なんだかすごくカラム隊長……というか……、……?』
そう言って視線を注がれた瞬間、死ぬかと思った。
プライドには責任はない、あの場にティアラやステイルがいても遅かれ早かれ同じような結果だろうと今でもカラムは思う。
あの時だけは、注がれた視線からわかりやすく目を閉じ顔まで背けてしまった。プライドの視線だけではない、全員の視線の熱を確かに肌で感じた。
カラム自身、良い香りだと思った。最初はジルベールに調香師の店を紹介して貰えないだろうかとも暢気に考えたぐらいだ。
直接自分が会ったわけでもなく、希望を伝えたわけでもない。ただジルベールからの情報だけで、貴族として香水に慣れ親しんだ自分にも特別好ましい香りにされただけでも驚いた。
しかし途中で、焦燥も覚えた。自分にとって好ましい、貴族らしい気品高い香りを自分は
『カラム隊長、式典でもよく似た香水を使われていたり……?』
〝伯爵家〟爵子として愛用している。
正確には全く同じ香水ではない。最初の印象づける香りが似ているだけ、ただ自分の好ましい香りで貴族の気品溢れる香水を伯爵家として複数所有しているのは当然だった。
騎士としては使わない、あくまで私用として屋敷で所持していた香水だったが、今の自分の身の上があんな状況でなければ間違ってもプライドに気付かれることもなかった。
羞恥に身が焼けるような感覚で、思わず口を絞り王女相手の十秒近く黙秘してしまった。
その間にも追い打ちをかけるようにアランから「ああ、ボルドー卿」と言われれば、八つ当たりしたくなった。アランもアーサーも嗅覚は良いが、だからといって関わる相手の香水の差異までは気に留めない。プライドの香水すら判別できるのは特徴的な香水を覗けば自分自身の構想の香水くらいだ。
しかしプライドは王族として香水に対して造詣は深い。ある程度気には留めている。
その中で、他ではないカラムが貴族として現れる際に騎士の時と同じ香水で済ますような横着をするわけがないこともわかっていた。
もともとカラムの印象に相応しい香りは貴族として彼と対面した時も、全く違和感がなかった。しかし、今こうして改めて香るとはっきりと本人〝らしい〟だけではない感覚に気付けてしまった。
騎士として普段使いの香水ではなかった為、あの時は羞恥だけで済んだが今はそれ以上の危機に見舞われる。
今回は間違いなく彼女とお揃いの香水なのだから。
「そういえばお姉様っ。今日ってカラム隊長とお揃いなのですか?」
「ええ、お揃いね」
今朝、プライドが香水を披露した際に午前のアーサーとエリックに話したのを、ティアラもステイルと共に聞いていた。今日教えるのが楽しみだと語ったプライドに、早々にステイルは外でお茶会を計画しようと決めた。
あまりにもさらっとお揃い発言をされたカラムは、僅かに右肩が強ばった。
息を止め堪えたが、香水が溢れる部屋で溶けていく感覚を覚えたのはやはり自分だけなのだと理解する。照れ笑いで返すプライドに、そこまでの深刻度は感じられない。しかし、今後アランやエリック、そしてアーサーも同じ状況になればきっと自分と同じ心境を味わうだろうと確信に近く思う。
自分の〝構想〟で終わらない。その時だけでも自分の香りそのものになってしまったそれがプライドから香ることの危機感に、提案された時点で一番気付いていたのはカラムだ。心臓が痛いほど鳴り、喉まで無性に乾く。
もともと、男女が揃いの香水という時点で意味深過ぎる。恋人同士であることを暗に示す為につける場合も上級層同士では珍しくない。
さらに言えば、敢えて〝自分〟の香りを相手につけて、香水がうつるほど近づいた、つまり親しい間柄だと主張することもある。
それをよりにもよって近衛騎士が、王女と揃いの香水など穿った目で見れられても文句を言えない。ステイルが「外出や人と会う時は控えてください」と言ってくれたことには、本当に救われたと今も思う。
そうでなければもうパーティーや式典ではこの系統の香水はつけられなかったと思う、と同時に。
─ いや……寧ろ婚約者候補としては正しいのか……?
まだ、その結論に至っていない。
プライドからも別段どちらの要望も受けていない為、どちらが正解かわからない。本命の婚約者を誤魔化す為に敢えて揃いの香水で出席するか、それとも本命にまで誤解させないように似た系統の香水は全て避けるべきか。
ステイルの英断のお陰でパーティーや式典では自分達の香水を使うことはない為、今後も心配なく気に入りの香水を使うことができるが、そうでなければ今も悩んでいただろうとカラムは思う。
どちらにせよ今後貴族としてのあの香水を使う度に、それだけで心臓が危うくなるのだろうと思えば今から頭が重い。
「そろそろ部屋に戻りましょうか」と、カラムにとってもの小休止が終わる時間になるもあっという間のことだった。
お茶会を終え、プライドは部屋に、ステイルは仕事に戻り始める時間だ。
片付けを侍女達に任せ、プライドとティアラと共に部屋に戻れば不在中に換気も終えられていた部屋は幾分呼吸のしやすい状況に戻っていた。
しかし、部屋で一度ソファーに寛ぐプライドからはまた静かに香ってしまう。そして、自分も同じ香りなのだという事実にカラムは意思とは関係なく何度も思い返してしまう。
背中に組んだ手が力一杯握られているのを、隣に立つアランだけがこっそり目撃した。
「!そういえばカラム隊長」
はっ、と。何とか自然に返事はできた。
額に汗がじんわりにじんでしまったことを誤魔化すように前髪を直し、姿勢を正す。ソファーから手招きでカラムを呼ぶプライドは、少しだけ袖をまくってみせた。
外にいた時は心地の良い風のせいでなかなか気付けなかったが、換気も終わり無風の部屋の中ではきちんと確かめることができた。手首の周りにも薄くだけ衣服の袖にもついている。
プライドのその動作だけで何を言いたいのか、自分がずっとせわしなく考え続けてしまっていた話題だと気付いたカラムはそれだけで身体が短く揺れた。口を結び、見返せばまた花のような笑みが香りの中で浮かべられる。
「今の香り、すごく〝騎士の〟カラム隊長ですよ。流石ジルベール宰相ですね」
気付かれていました?と、自分より先に愛用してくれているカラムに尋ねるプライドに、ティアラも「本当ですか!」と興味津々にプライドにくっついた。
くんくんっと姉の顔の近くで鼻を動かせば、今朝姉を迎えた時とは印象の異なる香りに気がついた。姉の肌と共に花のような香りも伴って感じたが、それだけではない男性的な香りが調和している。
雄々しくはない、森林のような爽やかさな香りだ。男性がつけていてもおかしくないが、しかしプライドから香っても爽やかさと落ち着きの残る印象だった。姉とお揃いのカラムからもどんな風に香るか気になったが、流石に姉や兄と同じ距離感で鼻を近づけることはできない。
自分が香っている間姉へ何も言わないカラムに、ティアラがちらっとそこで気になるように上目で覗けば
「~~~~っっ……きょ、う縮……です……!……~~っ」
塗ったように紅潮した肌で、カラムがやっとその一言を絞り出したところだった。
礼という形で視線を足下に逃がし、勢いよく下げたせいで整えた前髪も乱れ垂れた。バクバクバクと心臓の音が耳の向こうで塞ぎ、心臓がどこにあるのかがはっきりわかってしまうほどに主張し鳴らしている。
あまりの真っ赤に火照るカラムにプライドも「カラム隊長!?」と思わず大声が出た。いつも落ち着いているカラムにしては珍しく少し声が枯れていたことにも驚いた。ここにアーサーがいれば……!と最初にそう思ったが、たとえアーサーがいてもどうにもならない。
隣に立つアランが「あちゃー」と苦笑いで眺める中、自分の顔色の酷さを確信したカラムは右手で自分の口を覆った。水面下で焦りを最小限まで抑え続けていたカラムだが、実際はとっくに限界に近かった。
香水についての理解が、近衛騎士達の中で誰よりもあるからこそだった。
伯爵家であるカラムは知っている。特定の人物にとって好ましい香りを、異性がつけるその意味を。相手に好ましく思われたい、同じ香りを共有したい、関係の証にしたい求める意図はそれぞれあるが、その根本にある結果は
相手〝好み〟になっている。
相手の好む香りを纏っている。相手が嗜んでいる香水と同じものを身につけている。男女どちらかなど関係なく、香水を自分の為にではなく相手に寄り添うということは多かれ少なかれそういうことだ。装飾品やドレス、化粧のように相手好みになる形の一つでもある。
ただ自分自身の為に好きな香りを身につけるだけでなく、香水には意中の相手を〝誘惑〟する意味合いも存在する。自分の気持ちに合わせたい、同性に良く思われたい、異性を誘惑したい、意中の相手の意識を惹きたい。
自分自身以外にも、周囲や相手にどう思われたいかによって香水もまた使い分けることが上級層の人間にとっては常識だ。カラム自身、式典や社交界で〝男性が好む香り〟の香水を付けた女性に距離を詰められたことは何度もある。
そして今回のジルベールの香水はプライド本人に好評なだけではなく、それぞれ構想された本人達にも好ましいものばかりだった。そしてそれをプライド自身がつけるということは
〝自分好みのプライドによる誘惑〟にも等しい。
だからこそ今日までアランやエリック、そしてアーサーが取り乱すのも当然だとカラムはよく理解できていた。
ただの良い香りの香水ではない、プライドが〝彼一人の為の〟香水を身につけていたようなものなのだから。
香水の意味合いを全く理解していない彼らでも、嗅覚からまで自分好みのプライドになられていれば緊張するな意識するなと言う方が無理な話である。
まさかプライドがそこまで見通した上で自分達を弄び誘惑したとは思わないカラムだが、しかし結果としてそうなっている。
ただの良い香りであれば、もしくは自分を構想した香りなだけで自分にとってここまで好ましい香りでなければこんなことにはならなかったと、カラムは思う。自分だけでなく、アラン、エリック、アーサーもあんな惨状にはならない。
そして今の自分は、そこからさらに輪を掛けて彼女から自分と同じ香りがしている。
自分好みのプライドが自分の香りを纏わせていることがわかってしまうからこそ、余計に頭に熱が回った。落ち着かず、薄皮一枚すら過敏になっている気さえする。手の平が恐ろしく湿り、呼吸の息すら熱く、速い。
ステイルが部屋に訪れた時点ですぐに察するほどには、カラムはいつも通りとはほど遠かった。
「あの……カラム隊長大丈夫ですか?!外結構気温高かったですし、もしかして……」
「いえ……!なんでも、ありません……!申し訳ありません、どうぞお気になさらず……!!」
まさか日射病か熱中症をと心配するプライドに、カラムも全力で否定する。
やはり近衛騎士に揃いの香水を進めるなど止めるべきだったかとも後悔するが、もう言えない。まさか香水を纏うプライドを相手に騎士が動転してしまったなど恥、口が裂けてもいえるわけがない。
専属侍女のロッテが水を差し出せば、礼を言ってから厚意に甘えた。まだ近衛任務が終わるまで時間は長いのだぞと自分を思考の中で叱咤する。
それから近衛終了の時間になるまで、カラムは近衛騎士達の中で最も調子を崩し続けた。




