〈書籍5巻発売決定‼︎・感謝話〉三番隊騎士隊長の夢見は。
この度、ラス為書籍5巻の書籍発売と発売日が決定致しました。
感謝を込めて、書き下ろさせて頂きます。
時間軸は「頤使少女とショウシツ」あたりです。
─ 人の声は、聞こえていた。
「……?ここは、……?」
あてもなく呟きを溢し、周囲を見回す。
どこを見回しても、塗り潰されたような黒しかない。目を開けているのか開けていないのかもわからない空間に、私は立っていた。
どこまで広がっているのかも手を伸ばす余裕もないほど囲まれているのかも、一目ではわからない。ただ、状況を整理している間に前髪を指で押さえれば視界に自分の手が入った。
思わず息を飲み、周囲だけでなく自分の身の回りも確認すれば何故か身体だけは全て視認することができた。足元もわからないほどの暗闇にも関わらず、自分の身体だけ見えるのは幸いだが同時に不気味だ。
気が付いた時には壁に立てかけられるでもなく床に転がっていたわけでもなく、自分の足で立っていたことも引っ掛かる。いっそ夢かとも思うが、夢にしては妙に思考ができているように感じる。
前後の記憶も思い出せない。
演習場を軽く見回り、アーサー達との手合わせに付き合ったところまでは覚えている。少なくともこの場が単に監禁されているわけではなく、何らかの特殊能力者による意図だと考えるのが自然だろう。
どんな特殊能力者か。試しに両手を広げて前後左右上下の安全確認をしてみたが、何にもぶつからない。靴先で床を叩けば、地面とは違う人工物の感覚が伝わった。
いっそ床を破壊してみるか、だがこの下に何があるかもまだ予想できない。この建物自体が脆ければ、自分で自分の首を絞めることにもなる。
もし仮にここが現実の場所であれば、騎士団演習場にいた私を拉致しこのような建造物に連れてくるなど、並みの特殊能力者ではない。まさか騎士団演習場内で外部の奇襲に受けたとも、騎士団の中に裏切り者が出たとも考えにくい。侵入されたとすれば、件のティペットか。だが、いくら透過の特殊能力者であろうとも……
「ッ誰かいるのか?!いるなら返事をしてくれ‼︎」
さっきから耳鳴りのように聞こえる微かな声。
それに向けて声を張るが断続的な声以外、何の反応も返されなかった。
遠いのか、耳を凝らさないと声なのか音なのかの判別も難しい。だが、恐らくは人の声だろう。私を閉じ込めた者か、それとも私以外にも捕らえられている者がいるのか。先ずはそれを確認しなければならない。相手が何者であろうとも、今よりもこの状況を把握することに繋がるだろう。
目を凝らし、声の方向に身体ごと向き直る。正確な距離は掴めないが、恐らくであろう方向を見れば小さな光が一瞬だけ瞬いた。私の姿以外が黒の中、光もない空間にも関わらず反射のようなものが見えたのはそれだけで視認できる何かがあるという証拠だ。
駆けきりたいが罠が張り巡らされていることも考え、一歩一歩に全方位へ意識を巡らし前進する。なるべく速く、そして一歩先が断崖絶壁であることも鑑みる。
進んでも全く距離感も掴めず、急く気持ちを胸の内に抑えながら先へと進んだ。
一歩一歩慎重に進む為に時間を掛けている筈にも関わらず、一方的なその声は息継ぎの間すら感じられなかった。最初は途切れ途切れに聞こえていたことから何か救命の声かとも思ったが、ここまで途絶えないとなると命に別状はないのか。被害者であろうと加害者であろうと、辿り着くまでは声を途絶えさせないでくれと願う。この視界では、手がかりたった一つの損失も命に関わる。
段々と近づけば近づくほど、その声ざ輪郭づいていく。
聞いたことがあるようで、しかしわからない。まるで二重音のようで、更には近づけば近づくほど耳が痛くなる。声色から何人か思い当たる人物を連想しようとしても浮かばない。思い当たらないというよりもまるで記憶に靄がかかっているかのような感覚だ。
近づきながら何度私から呼びかけても返事がないことを考えると、人間なのかも少し疑いたくもなってくる。何故ならば気付いてからずっと変わらないその声は。
『ハハハハッ…………』
言いようのない、不気味にも聞こえる笑い声だった。
こんな空間に閉じ込められ、まさか気でも触れてしまったのかとも考える。近づけば近づくほど甲高い笑い声は楽し気には聞こえるが、どうしても心地の良いものではない。むしろその反対だ。
声の甲高さからして女性、もしくは子ども。間違いようもない気がするにも関わらず、どうしてもそれが誰かが浮かばない。まるで蓋をして押さえつけられているかのように、気持ちが悪いほど思考が塞がる。間違いなく私が知っている、聞いたことのある笑い声だ。
そう考えれば不思議と額に汗が湿った。この先を望みながら、行きたくないと本能的に身体の自由がきかなくなってくる。まさか、たかが笑い声程度で騎士である私が怖気づいだとでもいうのかと自分で自分を疑う。
一歩一歩速度は落とさず、注意も怠らず気付けば息を止めていた。とうとう光の根源に数メートル先と読める距離まで接近する。まるで私を待ちかねていたかのように一つぽつりと佇んでいたのは、長方形の横長い枠付きの物体だ。縦であれば全身鏡でもおかしくないが、私の視線の位置に佇むその先へ距離を詰めれば違うと理解する。
正面から見て枠の向こうに映し出されるのは鏡のように自分の姿ではなければ、…………現実でも、なかった。
『アッハハハハハッ‼︎』
「……アラン……?」
笑い声をあげている、方ではない。床に押さえつけられ、血溜まりの上に佇む女性へ顔を起こし続ける男の方だ。
硝子一枚の向こうで、まるで切り取られたような光景は悪夢そのものだった。
床に押さえつけられたアランの顔は見えない。私の方ではなく、その更に奥にいる亡骸へと向けられている。
首を斬り落とされ血を噴水のように噴きだす亡骸と、そしてその向こうに佇む女性の足。踵の高い靴と、そして女性靴に相応しくない剣先が血を滴らせていた。残すは上等なドレスの裾しか移されない。床を汚す血だまりと同じ深い深紅のドレスに一瞬だけ頭が割れるように痛んだ。
アランを押さえつけている男達が何者かも手足や服以外顔もここからでは覗けない。
アランの首にナイフを突きつける男だけは服の上等さが異なるが、それ以外の者は服の袖から我が国の衛兵のようにも見える。偽物か、それ以前にこの光景は一体何だ。
ある筈のない光を反射させる枠の向こうに手を伸ばせば、やはり隔てる硝子の感覚がそこにあった。様々な角度で窓の向こうを覗いても、アランを押さえつけている男達どころか高笑いを上げている女の顔すら不自然なほど覗けない。
あまりの光景に言葉も出ない。本来ならばアランが押さえつけられている状況だけで、窓を割る行動に出た。しかし、それ以上にこの先を現実だとは思えない。
窓の向こうを確認すればするほど、いつの間にか狭くなっていた視野が広がれば広がるほど、そこが現実とは思えない。何故ならば床に伏し、首と胴体を切り離され血を溢れさせ続ける骸は、…………この私だったのだから。
─ 人の声は聞こえていた。嘆き怯える民の声も、苦しみ苛まれる騎士の声も、全て。
なんだ、これは。
こんなに近くで、硝子一枚隔てた先に私がいるというのに、アランも女も、他の男達も誰もこちらを向かない。たった一つこちらに顔を向けているのは、頭から血に塗れたこの私の首そのものだった。
兄と同じ赤茶の髪も混じった赤毛も、自分では見れない筈の瞼を閉じた顔も。間違いなく、私のものだ。
胴体から離されているにも関わらず、自分でも信じられないほど怯えも苦もなくたた固く瞼を閉ざしただけの顔だった。
床に転がった拍子にか、首から溢れた血を浴びたか。傾き転がった頭が半分近く血に濡れ慕っている。
まさかこれが私の最期の未来なのかと思えば、それだけで喉が太く鳴った。
何故、私は抵抗することもなくこのように死ななければならない?アランが人質に取られたからか、いやそれでもこの程度であれば他にも手はあった筈だ。方法を何も考えず、敵へただ首を差し出すなどあり得ない。
しかも、おかしいのはそれだけではない。私が死ぬ、この場所もだ。
あまりの光景に最初は気付かなかったが、恐らくは騎士館。しかも騎士団長室だ。だがここが現実の騎士団演習場内とはもう思えない。微かにしか見えない私やアランの団服にも違和感がある。
『は〜い。……次』
笑い声がいつの間にか止み、そして唐突だった。
ずっと高笑いを上げていた女の声が覚めたように低められ、アランへと歩み寄っていく。さっきまで固まったように動かなかったアランからも声が漏れた。顔が見えなくても、その表情が驚愕に見開いているのだろうと声でわかる。
血の滴る剣を引きずるようにして床を傷付け、カツンカツンと踵の固い靴が音を鳴らし近付いてくる。……瞬間。何が待っているのかを、最初に肌で理解した。
言いようのない焦燥に、気付けば渾身の力で窓を叩く。たかが声の通る硝子一枚先に、怪力の特殊能力を使うまでもないと頭で理解しつつもその力を行使した。しかし、ガンと骨まで響く振動だけだ。
歯を食い縛り、もう一度今度は特殊能力最大限の力で腕を振るったが、それも硝子がけたたましい音を立て私の拳を傷めるだけだった。……当たり前だ。わかっている、そんなこと最初から。これは現実ではない。ただの幻か夢の
「ッアラン‼︎何をしている⁈立て‼︎早く動くんだ‼︎‼︎」
声を荒げ、硝子の向こうへ何度も何度も両拳を同時に振るう。ガン、ガン、と反響する拳の音に紛れ女が何かを喋ったが、聞き取る暇など在りはしない。ただでさえ不快なその声が二重に聞こえ、言葉を聞き取るのも難しい。自分でも信じられないほど吐き気の覚える声だ。
特殊能力が効かないのか、それとも私が特殊能力を使えていないのかもわからない。
拳も肘も蹴りも、腰の剣を抜いても硝子一枚へヒビ一つ入らない。瞬きも忘れ、食い縛った口の中から血の味がした。
アラン、と何度も声を荒げ呼ぶ。何人に押さえつけられているのか、目の前で暴れるアランがそれでも拘束はびくともしない。わかっている、これは現実ではない夢か幻だ。全てが現実とは異なり過ぎる。
ここで私が何をしようともきっと変わらない。現実である筈がない。今ここで生きている私が、硝子の向こうで死んでいる時点で現実の筈がない。この向こうで何が起ころうと、現実で私が死ぬはずもアランがどうなる筈も
……〝啓示〟だったら。
「アラン‼︎何をしているアラン‼︎‼︎また私の目の前で死ぬ気か⁈‼︎」
ふざけるな。そう喉が痛むほど叫び、叩きつけ過ぎた拳からはいつの間にか血が滲んだ。
アラン、と何度も呼び、割れる筈のない現実の筈もないその硝子へ拳を何度も何度も振るい続ける。女の不快な喋る声が耳を掠り、私が自らの拳の音で叩き潰す。
もうこの女の言葉などどうでも良い、早く止めなければ破らなければと頭の冷たい部分以外の全てで思う。まるで、本当に目の前でアランが殺されようとしているような錯覚に、これも特殊能力者の仕業かと叫ぶ頭の声も響かない。違う、これは現実ではない‼︎
啓示だとしても今の現実ではない。ここで焦る必要などない、そんなことよりも一つでも多くの情報を現状の把握をと思うのに自由が利かない。身体が、頭が、まともに働かない。
冷静をと言い聞かせてもそれ以上の全てが今ここで止めなければアランが死ぬと言っている。あの女をやはり殺すべきだったと─……、……あの女?
息が荒れ乱れ、汗が額だけでなく全身に噴きだした。握った拳が意思関係なく微弱に震えるのが力を込め過ぎているからか血が滴る痛みからか別かもわからない。窓を叩く音に反響するように内側からも心臓の音が嫌に耳奥で響き速まる。
あり得ない、これが先の未来であることもあり得ない。何故アランがこんな死に方をしなければならない⁈何故私はまた何もせず死んだ⁈アラン一人置き何故このような
─ もう、疲れていた。
「ッ──⁈」
ビリッと、まるで頭が雷にでも打たれたかのように痛み、顔を顰める。
なんだ今何故私はそう思った?誰かの声かと思わず周囲を見回したが誰もいない。私一人と、そして窓の向こうの悪夢だけだ。
とうとうアランの眼前で女が剣を振り上げるのが、剣先の動きで理解する。やめろと、気付けばまた自分の耳が痛むほど喉を張る。
何故私はここで、こんな風に何もできていない?何故アランにこのような重責を押し付けた?あの女が約束を守るような人間ではないと私は嫌と言うほど思い知っていた筈だろう⁈
発作的に吐き気を覚え、自分で自分の首を押さえる。込み上げるものが嘆きか嘔吐かも判断できない。ただそれでも、振り落とされる銀色の刃から目が離せない。……そう。私は目を開き、生きるべきだった。
ほんの数秒の筈の時間が、その百倍に感じられる。振り上げられた剣がゆっくりゆっくりとアランの首へと落とされていく。
この一瞬でもアランならば避けてくれないか男達を押しのけられないかと願い凝視する。表情も見えないアランの後頭部が男達に押さえつけられたまま、女を睨むように固められたままだった。アランもまた、もう動こうとしていない。刃がアランの首へ飲み込まれていく一瞬に目を見張ると同時に、…その顎を伝う水滴が床を酷く濡らしていたことにいま気が付い
ザシュッ。
『アッハハハハハハハハハハハハ!!!!!ハッハハハハハハハハハハハハハ‼︎‼︎』
また、この声だ。
撥ねられたままゴトリ、と。鈍い音と共に床へと落ち転がったアランの首を、今度は私の目で見届けながらそう思う。
気付けば、無意味に拳を振るう手が止まっていた。左手は力なく落ち、右手は窓に手をついたまま指関節一つ動かない。
ぽかりと口が開いたまま閉じる余力もなかった。転がった首の顔が見えなくて良かったと、妙に冷静な部分で思う。死に顔など見たら、私の方が死にたくなった。……アランに責に押し付けこんな感情と無念のままに死なせてしまった事実に。
私と同量近い血飛沫を首から溢れさせ続けるアランから、押さえつけていた男達が引いていく。
手足の一つも見えない位置に退いていき、硝子の向こうに遺されたのは私達の骸と女一人だけだった。私の血で赤に染まり切った床に、アランの血が広がり混じっていく。
あれほど焦がれた騎士団長室を、私達が最悪の形で汚していく。
ガクンと、今度の振動は窓の向こうではなく私の膝からだった。
仲間の死など今回が初めてではない。それでも、今は動けない。私の所為で死んだどころではない、私の所為で最も悔いる死を与えてしまったことに全身へ力が入らない。
女の繰り返される笑い声を耳鳴りのように聞きながら、ふと自分の心臓の音で目が覚めた。今まで止まっていたのかと思うほど重く遅い音に押されるように両手が動く。
顔を覆い、さらに前髪を掻きあげ自分でもわからないまま、「すまない」と口から洩れた。
─ 私は、間違えた。
頭に過るそれに、今は違和感がなにもない。埋まっているのに空っぽだ。
ただ悔いるままに、この光景に打ちのめされる。
そうだ、わかっていた。あの時、本当に私は騎士団と、アランと共に動くべきだった。民をこれ以上苦しめない為に、騎士団が最後の刃として立ち上がるべきだった。
私が、憧れ、望み、焦がれた騎士などもう存在しない。いくら王族の命令を守ろうとも、民から畏怖ではなく恐れられ逃げられ恨まれ恐怖の象徴として見られる景色に、私自身が慣れてしまった時にもとっくに在りはしなかった。
ただそれでも、……最期の最後まで捨てきれなかった。
憧れ続け夢にまで見た叙任式で、誓った言葉を違えることができなかった。王族へではなく、騎士の道を選んだ己自身に立てた誓いだ。
王族になど最初から興味もない、騎士隊長にも副団長にも騎士団長にもその地位に固執したことなど一度もない。ただ、誇りも騎士の名も捨てずに共に立ってくれた騎士達を、……そしてあの方々が託してくれた希望が、彼が育ち本隊に上がるまで守り抜きたかった。
王族の命に従い、王族の為に尽くし、引き換えに民の声になろうといくら訴えても全てを上から潰された。
民の血で手を汚す騎士達の痛みに寄り添いながらせめて彼らの盾になろうとしても、結局は王族の人形のように命令をそのまま命じることしかできなかった。彼らの嘆きも、罪咎も、その手を汚させたのも最後はこの私だ。
騎士の誇りを支えに立つ彼らをこれ以上血で汚したくも、騎士の誇りを傷つけるような行いを強要したくもなかった。私が、私達が尊び焦がれた騎士団を革命という名の〝逆賊〟になど落としたくなかった。
民を守るのが騎士の在り方だと理解しながらも、騎士団長となった身で託された騎士団を守るだけでもう限界だった。
民を蔑ろにし、他国へ戦を持ち込み、騎士の誇りを穢し続ける王族を憎みながらも、……その憎む自分も許せなかった。騎士でありながら、王族に忠誠を誓いながら、己の理想一つで揺らぐ自分が。
王族の命令通り忠儀を全うすればするほどに騎士としての誇りは傷を受け血に穢れ過去の理想からかけ離れ、騎士としての誇りを重んじれば騎士としての忠儀そのものを己で否定する。
騎士を守る為に騎士に手を穢させ、騎士の誇りを守る為に誇りを汚させ、こんな役回りを他の騎士達に背負わせまいと騎士団長の椅子に座り続ければ
騎士達に非道を命じる己が、いつの日か誰よりも憎くなった。
─ アーサーへ、もっと話を聞いてやれば良かった。
父親を真似る彼に、ロデリック騎士団長クラーク騎士団長そして私達の一方的な期待に気負い潰れぬようにあくまで〝一兵卒〟として関わると。それは私達が決めたことだった。……あの日、クラーク騎士団長の最期の願いを聞いた私達全員が。
─ いつの日からか、新兵どころか新しい騎士の名と顔もわからなくなってきた。
騎士団長としての職務と、何よりこんな私が新兵や騎士達に顔を向けることもできなくなった。
─ 笑うことを忘れたのは、いつからだ。
望み焦がれた騎士団長の団服も、席も、部屋も立場も、そのどれも喜ぶ暇もなかった。得たものよりも喪失感が遥かに上回った。
─ 結局、守るつもりで何もできていなかった。
騎士の誇りを、先人達の残した騎士団を、いくら民に恐れられ憎まれようと最後には国の為他国の脅威から盾となる騎士団を、最初から守れてなどいなかった。騎士達に憎まれる勇気も、歴史に悪と呼ばれる覚悟も私にはなかった。だから私は
アランに全てを託し〝自害〟した。
身代わりなどそんな響きすら、烏滸がましい。
最期の最後に騎士として死にたかった自己満足だ。せめて罪のない民の、誇り高い騎士の、……友の盾になりたかった、私の。
両方死ぬか、私が死ぬか、アランが死ぬかの先しか見えていなかった。もう女王に立て付く気力など残っていなかった。
騎士として怒りに震え抗おうとするアランの方が、騎士団を統率するのに相応しいとしか思えなかった。
だが結局はそれも無意味だった。こうしてアランまで死なせ、騎士団を守る盾も支えも失わせるくらいならば、私は首を垂らすのではなくアランと共に剣を取るべきだった。結局友の盾になるどころか、騎士として不名誉な死と彼自身を悔やませる結果で終わってしまった。
『ハハハハハハッ…………あぁぁぁ~~たぁのしかったぁ……。…………ねぇ?貴方のお陰よ』
狂う高笑いが止んだと思えば、今度はねっとりと舐めるような声が掛けられる。
まるで首輪を引かれるように顔を硝子の向こうへ再び上げる。歪み濁る視界に、最初は自分の眼球が何を見ているのかもわからなかった。
ぽたり、ぽたりと血の滴りと同じ音が自分の頬から伝い落ちながら、そこで見えた先で女のか細い腕が見えた。足元に転がっていたアランの髪を、まるで雑草でも抜くような手軽さで掴み持ち上げる。完全に持ち上げきる前に「おもっ」と溢すと同時に、粗末にその頭が床へと落ちた。ゴトンと骨の音が床へ響き、ごろごろと無機物のように転がりそして足先で蹴られた。
私の首の元へとそのまま歩み寄り、今度は女の手が私の頭へと伸びる。血に濡れきった私の頭を、まるで動物の毛並みでも確かめるように撫で出す女に正気を疑う。…………嗚呼そうだ、この女もまたとっくに正気ではなかった。
触るな、と。自分の喉を振り絞り、かすかに声が出た。今目の前で触れられていることが、吐き気を覚えるほどに不快で仕方がない。私の、アランの、騎士達の死を穢し続けたその手で、死してもまだ私を穢すのか。
『自慰めいた自己満足の陶酔で死んでくれた貴方のお陰。ご苦労サマ?』
直後、思い出したようにまたあの笑い声が響いた。
撫でる手を引き、直後には後ろ足で私の頭も蹴り転がされた。「じゃあ手筈通りにね」と何者かに指示をする声を最後に女が扉の向こうへ消えていく。私達の死体を片付けることもなく、敢えてそのまま見せしめのように置いて行く。閉ざされた途端、不動の光景の中で扉の向こうから微かに聞き覚えのある声がいくつも聞こえてくる。…………騎士達、だろうか。
何故このようなことが許されるのか。それに疑問を抱けても、怒りを抱けない。ただただ己への怒りの方が積み重なる。
何も守り切れずただ被害を広めるだけだった。あの女にとって結局私もアランも、一時の道楽の一つに過ぎなかった。
頭に、激痛が走る。抱えている手が、自分の力で圧迫しているのかそれとも内側から割れようとしているのかもわからない。頭中の全てがマグマのように熱く、脳ごと溶解している。自分が、生きているのか死んでいるのかもわからない。
手足が重く、頭がこのまま砕けてしまえた方が楽だと思う。割れる頭のまま、本当に指がガリッと頭皮を削った。雫だけでなく血が視界を塞ぎ出す。硝子の向こうの私と同じだ。
息苦しく、突っ伏す勢いで咳き込めばそのまま止まらず吐き出した。見れば赤が口からも信じられない量で溢れ出していた。まるで、硝子の向こうへ追おうとしているようだ。
ゲホッと水音の混じった咳がまた零れれば、急ぎ抑えた手の隙間からも赤が漏れ出て落ちていた。頭の血なのか、口からなのか、目からなのかももうわからない。
もう一度、まるで自分を覚まそうとするように拳が勝手に床を叩いた。硝子と同じく、床も痕すら残らない。……………………のこらない。
私は何の為に騎士になったのか、何故何の為にあれほど、何故何も遺すことも、誰を支えることも守ることすらもできなかったのか。今日この時まで生きていたことすら罪深い業を重ねるばかりだった。大勢の新兵や騎士を死なせ、私だけがのうのうと──
『生きていてくれてっ…本当に良かった…‼︎』
「──ッ⁈…………」
まだ、死ねない。
息を飲み、一瞬で思考が白になる。見開いた視界が急激に開け、何度も瞬きを繰り返す。気付けば床に額が付くほどに突っ伏し、潰れていた。
背中を丸めるどころか地と一体になっていた。まるでずっと息を止めていたかのように急激に呼吸が通る。肺が大きく膨らみ吐き出すを繰り返しながら、口を塞いでいた手を見れば指までびっしりと血の跡が残っていた。
瞬きを繰り返せば今度は目元に残っていた透明の雫が落ち、血の跡を伸ばした。反対の手で口元を拭えば血の跡がつく。床にもびっしりと致死量を疑う量が溢れ零れてる。
頭にも刺すような痛みが走り、摩ればまた真新しい血が指の腹ついた。夢ではない、だが今のは何だ?
心臓を押さえれば尋常ではなく脈打っていた。ドクドクと生々しい血の流れが手の平を通して伝わってくる。
膝を付いたまま茫然と血塗れの自分の両手を見る。何が起こったのか、自分の思考までも断片的で思い出せない。顔を上げれば、まだ首が転がったままの光景がそこにあった。私と、そしてアランの亡骸がそこにあることよりも、…………さっきまでこれを〝現実〟として受け入れていた自分に怖気が走る。
そういう、能力か。
「……………………ふざけている」
ハァァァァ……と、大きく息を吐き出した最後に呟けば思った以上に低い声が出た。
手の甲で口元を一度だけ強く拭い、眉間に力が入る。特殊能力、と現状の可能性が過ったがそんなことは今どうでも良い。自分でも眼差しまで険しくなっていくのがわかる。
膝を立てれば、容易に力も入り立ち上がれた。先ほどまでの死にそうな嘔吐感も嘘のように消えている。
ただ代わりに、倍量の熱量が腹の中で渦巻いた。視線の先では、硝子の向こうに相も変わらず転がる私とアランの亡骸がある。床も、硝子も特殊能力の影響がないならばもう構わない。怒りのままに右足で床を踏みしめれば、穴は当かずとも地が揺れた。
「騎士を愚弄するな」
私の死でも、アランの死でも関係ない。騎士そのものの死を嘲ることは許さない。
もうこの先にはいない、硝子の向こうへと己だけの声を響かせ手を付いた。途端にピシンッと反響と共に窓に亀裂の蜘蛛の巣が、小さく張り出した。
いっそ正気に戻れるならば、私達を殺したらしい奴らの顔を見て言いたかったと今更のことを思う。混濁していた思考で何を考えてしまったかは思い出せない。だが、私が己をどう考えてしまっていたかは生々しく思い出せる。いっそあのような思考に一時でもなってしまったことが今は恥だ。
誰にも見られていないからか、あまりの屈辱を受けた所為か自分でも褒められないと理解しながら爪を立て頭を掻いた。今は爪の痛みも心地良い。
硝子向こうの世界の思考か、それとも何者かの洗脳か。どちらにせよ、この幻の全てがあり得ない。目の前で、無惨に〝殉職〟した騎士達へ否定する。
「自ら死を求めるなど許されない。私達が生きねば救えぬ命があるのだから」
ゴッ、と拳を叩きつければまた鈍痛が返って来た。しかし今はこの痛みにも誘われない。それどころか、またピシピシと硝子に亀裂が大きく広がった。やはりさっきまでは特殊能力が使えていなかっただけなのか。どちらにせよ今はそれどころではない。
何故、この向こうを現実と受け入れようとしてしまったのかはわからない。
私自身、アランの死に少なからず動揺し付け入れられた点はある。しかし今はこのようなところで打ちひしがれる暇も、くだらない座興を真に受ける暇も私には在りはしない。
私がこうして生きている。ならばこれは夢か幻かに決まっている。この私が自己満足の陶酔で死を選ぶだと?あり得ない。騎士の生き方に惚れることはあろうとも、それを他者に押し付けるわけも死に逃げるわけもない。この身を最後の一瞬まで騎士としての誇りに捧げ生きると私は〝二度〟も誓ったのだから。
『我が騎士に任命す』
「嘆きはしない。私の愛した騎士は惑うこそなくここに在る」
胸を叩き、誇り張る。
例えこの硝子の向こうのような惨劇があろうとも、私は一生騎士である自分を恥も後悔もせず嘆きはしない。アランに、あんな悔やませる死など私自身も求めない。どうせ死ぬのならば私らしいと言われる死を全うしてみせる。
まるで私の声に共鳴するように硝子一面全てに亀裂が走り白くなった。私の首もアランの首も亀裂に阻まれ隠される。
剣を取り、今度は鞘から抜かぬまま掴み硝子へと力の限り突き刺した。硝子一枚の向こうへ剣の先が入り込み、そのまま横へと引けばビキビキと硝子を抉りながらも少しずつ割り裂いた。
一センチ、二センチと特殊能力を込めても割りきれない硝子に、しかしこれを壊さずには帰れない。
仮にこれがティアラ様の啓示だったとしても、私が許しはしない。あの方を守らず死ぬなど私が望まない。
騎士として生き、泥を被ろうともあの御方を守り続ける。民を守り、助けを求める声に手を差し伸べ、民の光となる。その為に私はこの団服に袖を通す覚悟を決めた。全ては、騎士として我々を望み賞賛をくださった
「あの御方の為!立ち止まりはしないともう決めているッ‼︎」
ズシャアアアアアアアアアアアアアアッッ‼︎‼︎
喉が裂けてもいいほど声を張り、腕を横に振るいきる。
剣が横一線に破壊するのと、硝子そのものが内側から破裂するように割れるのは殆ど同時だった。
破片を反射的に避けそうと身体が仰け反り足が動いたが、不思議とその必要はないとわかる。致命傷にもなりかねない破片も、目に入れば失明もあり得る破片も、私へ触れる前に全て砂のように解け霧散した。
裂いた先には私の首もアランの亡骸も存在しない。硝子の向こうは血に濡れた騎士団長室も消え、全てが幻だったことを示すように周囲と同じ黒の空間と無の色に輝く破片だけだった。
きらきらと輝く陽の光もなく反射する物体の眩さに一瞬だけ瞬きすれば、…………そのまま、視界全て黒に覆われ消えていた。
急激に遠退く意識の中で自分の身体も背後へ倒れていくのがわかる。今度は両手へ視線を落としても何も見えない本物の闇だった。
あれほど怒りと不満が渦巻いていた筈なのに、今は不思議と心地良い。暗闇に包まれているとは思えないほど、安らぎが強かった。民の、騎士団の、……あの御方の元へ戻れると、そう形もなく確信できた。
〝味方として〟と。
己の選んだその先に、後悔は微塵もなかった。
…………
……
「……申し訳ありません。失礼致しました」
……しまった。
自身からの不意打ちに、口を覆った片手をすぐ下ろし頭を下げる。隣に並ぶアーサーからも珍しいものをみる眼差しがはっきりと感じられた。自分でもじわじわと静かに顔に熱が上がるのがわかる。
アーサーだけではない、近衛の護衛中であるプライド様と休息時間を得たティアラ様も二人揃い硝子玉のような眼差しをこちらに向けておられた。
「珍しいですね、カラム隊長が欠伸だなんて」
「寝不足ですかっ?」
申し訳ありません。そう謝罪しながら口の中を噛み、改めて今朝方まで見てしまった夢を思い出す。どう考えても、王女二人相手に話す内容ではない。私とアランが首を切られる夢など。
早朝演習では気持ちも切り替えられたが、目が覚めた時には思わず首を摩った。窓の向こうで己が死に、アランまで殺されるのを間に当たりにするなど悪夢としか言いようがない。
夢の中で微かにティアラ様の〝啓示〟の影響ではと疑った記憶もあるが、……改めて王族特有の予知能力とは苦労するものだと思う。あのように悪夢をみても、目の前のお二方はそれが夢か未来かを毎回疑わなければならないのだから。
しかしあれは今冷静に考えれば、間違いなく悪質な夢だった。やはり未だに奪還戦での名残りが無意識に残っているのか。
目覚めた時と違い今では曖昧な内容しか覚えていないが……早々に頭から消し去りたい。
まさかお二人に心配をかけさせてしまうとは。自身を思考で叱咤しつつ、口を開く。
「少々夢見が悪く……ですが、大丈夫です。騎士として不眠自体はなれていますから」
寧ろ不眠よりも精神的に疲労したとは言えない。
苦笑気味に言葉を返せば、プライド様もティアラ様も驚いたように大きく瞬きされた。アーサーからも「大丈夫すか?」と少し抑えられた声で尋ねられた。
欠伸一つで大袈裟なとは思うが、こういう些細なことでも気遣ってくれるところは実にアーサーらしい。
前髪を指先で挟み、直しながら言葉を返す。ティアラ様から「悪い夢をお話すると良いんですよっ」と遠回しに尋ねられ、しかし流石に詳しくは言えない。
お気遣いしてくださったことに感謝を伝え、改めてあの夢を振り返る。
「本当にくだらない、現実ではあり得ないような杞憂の夢です。お気になさることはありませんので」
どこを取っても、あり得はしない悪夢。
なんとなくアランが出てきていた気がするが、……つまりはあいつが引っ掻きまわした夢だろうかと適当に考える。
私が首を真っ二つにされて死んでいたことと、アランの名を呼んでいたことくらいしか思い出せない。しかし、思い出せたとしてもティアラ様への答えは変わらなかっただろう。
夢は深層心理の表れとも言う。
あくまで俗説だが、それをここで言えば余計に私の精神状態を心配される。ただでさえ今は学校への極秘視察で忙しない。ここで死ぬ夢を見たなどと言えば、プライド様にまで更に気を遣われてしまう。
敢えて内容を口にせず断る私に、察しの良いプライド様もティアラ様もそれ以上は言及しないで下さった。「そうですか……」「疲れていたら言って下さいね!」と私の願う通り話を流して下さるお二人は本当にお優しい。
「すンませんカラム隊長……もしかして昨日自分と手合わせに深夜まで付き合って貰った所為で疲れが……?」
「そんなのは昨日に始まったことではないだろう。気にしなくて良い」
私も身体を動かしたいと思っていた、と。そう言葉を返しながらアーサーの覚束ない動きをする手に少し笑ってしまう。
手の向きは私の背中へ触れようとしているようにも見えるが、先輩である私に他の後輩や部下と同じように気安く背に叩くのに躊躇ったようだ。アーサーが自ら背を叩いてくれようとしたのは珍しい。それだけ同じ近衛騎士として親しみを感じてくれているのなら喜ばしいことだ。
気遣いの感謝を込め、私の方からアーサーの背を叩く。ポン、と手を軽く当てるように叩けば大袈裟に見えるほど大きくアーサーの背筋が伸びた。
「お前もきちんと睡眠はとるように」と言葉を続ければ、覇気のある声が返って来た。「本当にお疲れ様です」とプライド様も労ってくださ
『ご苦労サマ?』
バッ‼︎
「?どうなさりましたか、カラム隊長」
ぞっと背筋に冷たいものが走ると同時に背後へ首が風を切っていた。
身体ごと振り返ったが、そこには誰もいない、壁際に控える近衛兵のジャック殿がいるだけだ。しかも私からは大分距離も離れている。
お声をかけて下さったプライド様だけでなく、ティアラ様とアーサーまでさっきよりも目が丸い。…………やはり、少々過敏になりすぎているところがあるだろうか。
しかし、どうにも今の違和感が拭えず杞憂とわかりつつも気配を探る。「失礼致します」と断り私と、そしてプライド様、ティアラ様の周辺へ手で空を切る。少なくとも気配では侵入者などいるように感じられなかったが、当時のアーサーやジルベール宰相の報告でもティペットは気配を消すことに長けていた。少なくとも今の二重音のような気味の悪い声は女性のものだったような気がしてならない。
アーサーも私の動きの意図を理解し、剣を身構え周囲に神経を研ぎ澄ますように眼差しが変わった。が、…………結局何もなかった。失礼致しましたと謝罪し、安全確認の旨を改めて伝える。
「いま、不意に触れられたような気がしたもので。空耳も聞こえてしまい、やはり少々疲れているのかもしれません」
「触れる……?ちなみにどこに?」
プライド様の問いに、アーサーが両手のひらを胸の前に上げて見せた。「俺は触れてません‼︎」と訴えているのがよくわかる。
勿論アーサーではないことはわかってる。私の背を叩くのに躊躇したアーサーが、そこに触れるとは考えにくい。
頭に、と。そう言いながら自分でも違和感を拭うように自分の頭を押さえ、撫でおろすのを繰り返す。安全確認を優先したが、違和感からずっと頭の感覚が気持ち悪い。雨漏りの水が落ちてくる百倍は不快で仕方ない感触だった。一度水浴びをしたい程度には、べったりと拭えない。
しかしいつまでも自分の頭を気にしている場合でもなく、一度意識的に両手を背中で結んだ。
今日だけで何度目にかになる謝罪に、気恥ずかしくなる。大丈夫だと言った傍から過敏になっていれば世話がない。結果として、プライド様やアーサーの顔も今は優れない。折角のティアラ様との休息時間にアダムやティペットの陰を連想させる言動をしてしまい、その上きっと私自身のことも心配してくださっているのだろう。
「あのっ、カラム隊長ちょっと前に来て頂けますか?」
申し訳なく思っていると、ティアラが不意に私へと隣に手招きされた。
プライド様と隣合わせに座っておられるティアラ様に呼ばれ、背後に控えていた私は一度傍まで回り込む。何かご命令か耳打ちだろうかと待てば、今度は言葉ではなく手の動きで両手はパタパタと上下に動かされた。先ほどの手招きにも似た動きだが、恐らくはと想定しつつ姿勢を下げ腰を曲げる。しかしティアラ様の目線に合う位置まで下がっても手の動きが止まらない。更に下がれということかと片膝を付いてみせれば、そこで止まった。
まさかティアラ様がそこまでの形の謝罪を求める方とは思えず、全く意図が掴めない。
膝を付いた状態から顔を上げれば、そこでティアラ様と一瞬目が合った。ちょうど私に向けて手を伸ばされておられる動きに、まさかと過る。反射的に避けそうな身体を止めれば、直後にはティアラ様の手がふわりと私の頭へ降ろされた。
「私、お姉様や兄様にこうやって頭を撫でてもらえるとすっごく落ち着くんですっ!」
「…………ありがとうございます……」
まさか。
にこにこと柔らかな笑顔を浮かべられるティアラ様に、この体勢で頭を撫でられるとは想定しなかった。確かに、座っておられるティアラ様では私がこの位置がもっとも撫でやすいのだろうが……。
王族相手に振り払うわけにもいかず、何よりティアラ様なりに私へ気遣って下さっている証と思えば断れない。若干アーサーやプライド様にまで見られているのは恥ずかしいが、今はティアラ様の善意を優先し唇を結び口の中を小さく噛む。
仕方がない、欠伸に続き過敏になりご心配をおかけした私にも責はある。それに、心なしか頭の不快感が薄まっていくのがわかる。しかし、…………てっきり一度二度くらいで終わると思えば、何度も私の髪を撫でおろすティアラ様に、ここは私からお礼を告げて切り上げるべきかと
「お姉様もっ。是非!」
⁈ップライド様にまで⁈‼︎‼︎
肩があまりにも正直に上下した。
先ほどまで伏し目がちに顔を下へ向けていた角度が一気に上がる。にこにことティアラ様が私の頭に触れたまま「カラム隊長の髪すっごいサラサラですよ」とプライド様へと笑いかけておられた。
今すぐにでも身を引きたくなったが、今も触れて下さっているティアラ様の手を振り払うわけにもいかない。怪力の特殊能力者である私が、この上ない細腕に今は完全に押さえつけられる。次の瞬間には、本当にプライド様の手まで頭に伸ばされた。
「し、失礼します……」
さわっ……と指先から振れ、髪の流れに合わされるように降ろされる手の感触に。急激にくすぐったくなり全身が強張った。
入れ替わるようにティアラ様の手が引かれ、プライド様の手だけがゆっくりと頭を撫でる。手の感触がプライド様のものだけだと思うと、それだけで余計に顔に熱った。紅潮を気付かれぬように再び顔を伏せば、まさかのプライド様までもが二度で終わらず三度四度と私の頭を撫でおろされた。
するりするりと髪の間を微かに指先が通り撫でる感覚が心地良く、……そして恥ずかしい。
「…………~~…………」
「本当に、お仕事お疲れ様です。あまりご無理なさらないで下さいね」
奥歯まで噛み締め顎に力を込め、完全に封殺される。
気を遣って下さる優しいお声に、今だけは目が合わせられない。この顔色をみられれば、今度は風邪だと間違われてしまうかもしれない。
撫で梳く指の感覚が言いようもなく愛おしく、そして何も知らない者が部屋に入ってくれば私がプライド様に撫でて頂く為に膝を付いて頭を差し出しているような状況に危機感も抱く。しかし、どうにも声を出せない。
気付けば先ほどまでの不快感が嘘のように上塗られていた。十回以上撫でられた後、最後にちょこちょこと爪の先で細かに髪の乱れを直してくださる間すら手放しがたく、何も言えなかった。
最後に手を引かれ、それからやっと「ありがとうございます」と返した。……それまで切り上げなかったのは間違いなく私の意思だ。
少しでも顔色が戻るように呼吸を深く二度繰り返してから顔を上げ、立ち上がる。まさか夢見程度でここまでをして頂けるとは想像もしなかった。
笑んでくださるお二人に笑みを返し、再び背後のアーサーの隣へと戻る。乱れてもいないむしろ整えられた前髪を意味もなく押さえつけ、もう一度深呼吸した。
熱した頭を覚ますべくもう一度あの悪夢について考えようかとすれば、もうさっきの衝撃で殆ど思い出せない。
『騎士を愚弄するな』
……。
お蔭でいくらか、冷めた。もう誰の言葉かも声すら思い出せなかったが、間違いなく怒りの滲んだものだ。
口調から考えると私のものか、いや別人の可能性もある。しかしどちらにせよ、そんな台詞が出るということはそれだけ不快な何かがあったということだろう。
アランが夢に出たということは、あいつが何かやらかしたか。しかし私がアランに言うにしては少し言い方に棘がありすぎるような気もする。大体アランはああいう奴だが、騎士を愚弄するような奴ではない。他の騎士も、……やはり私の知る限り騎士を愚弄するような者は本隊にも新兵にもいはしない。
皆、本気で騎士の誇りのもと精進を重ねる誇り高き騎士だ。
あのハリソンでも、騎士を愚弄するようなことはしない。むしろ彼も怒りを覚える側だろう。
もし誰かから私に向けての台詞であればそれはそれで悪夢だ。いや、夢なのだから本来する筈のない行為を彼らがする可能性も大いにある。勿論この私が犯した可能性も。…………よし、充分頭が冷えた。
口の中を飲み込み、息を整える。再び顔を上げれば、もうプライド様もティアラ様も二人でのお茶会に戻られていた。
安心し私達に背中を託して下さっている姿に、それだけで胸が落ち着いた。
この平穏な光景を守る為に私達はいるのだから。




