〈書籍4巻発売決定‼︎・感謝話〉金色の王の夢見は。
この度、ラス為書籍4巻の書籍発売と発売日が決定致しました。
感謝を込めて、書き下ろさせて頂きます。
時間軸は「崩壊少女と学校」あたりです。
『…………き……!……ッを……てくれっ……!!』
……ここは、どこだ?
気が付けば、黒の中だった。
異質な空間だ。闇と言うには中途半端な感覚に、ここが現実かもわからない。足元を支えている床がなにかもわからぬというのに、自分の手も足もよく見える。試しに踏み出せばカンカンと固い質感が靴から伝わった。
目の前を漠然と眺めても目を開けているのか閉じているのかもわからぬほど何もない黒一色。瞬きを数度繰り返しても色が変わらない気味の悪さに、もう一度自分の手と足元に視線を落とす。単なる暗闇だったら手足も見えない筈だとは思うが、今はこれが視界に捉えられるだけでも幾分か救われる。……一体、私は何故ここに……?
「ファーガス!ダリオ‼︎誰か居らんのか?!」
ヨアン‼︎と次には隣国にいる筈の友の名も思いつくまま上げてみる。続けて知る者の限り喉を張り、呼びかけるが返事はない。
しんと無音が耳に残り、音も匂いもない感覚に全て黒に飲まれてしまったかのようだった。
まさか何者かに監禁されたかと記憶を巡らせる。確かいつものように夕食を終えてから自室に戻り、……そこからの記憶が途絶えている。確か書類に目を通してから就寝しようと考えていた筈だがとは思うが、それ以上が霧がかかったようにぼやけてわからない。セドリックのような記憶能力があれば良かったがと、無意味なことを悔やむ。
ならば自室に襲われたと考える方が正しいか。しかし縛り付けることもなく、それどころか床に転がされることもなくただ佇んでいただけとなると……
『あにっ……‼︎目を……ッ』
…………今のは。
不意に聞き覚えのある声が耳を霞め、反射的にその名を呼び返す。
聞こえた方向にと背後へ振り返れば、ぽつんと何かが光って見えた。光を放つ、というよりも何かが反射したようなチカチカとした瞬きだ。
光もない空間での輝きに首を捻ったが、この先に出口があるのだろうかと足を動かす。この先にあいつがいるならば、それでも状況が今よりは把握できる。
うっすら届く掠れた声はその全貌を聞き取れない。まさか私よりも急を要する状況に追い込まれているのかと、何度もその名を呼びかけながら足を速めるべく地面を蹴った。「返事をせんか!」と怒鳴ってもみたが、苦し気な声が続くばかりだ。
大した距離がないと思っていたが、駆けてみれば思った倍以上の距離があった。遠近感も狂う空間で、急がねばと息が切れるのに反し次第に血の気が引いていく。変わらぬ声の苦しさがいっそ何かの間違いか罠であってくれと願う。
呼びかけ、急ぎ、やっと反射する輝きの根源をはっきりと輪郭も掴んだ。長方形の長高い枠組みのついたそれはたった一つその場に佇んでいた。部屋の全身鏡に似ているが、窓…だろうか。
反射するそれに正面から向き合えば、硝子一枚向こうには黒ではない見慣れた空間が広がっていた。間違いない見慣れきったその場所に、しかしこんな位置に覗ける場所があっただろうかと首を捻る。記憶が確かであれば鏡どころか窓もなかった。隠し部屋の類も思い返したが、やはりここは関係ない。何より硝子一枚向こうの光景へと目を凝らせば、…………これが現実なわけがないと確信する。
『兄貴っ…………頼む目をっ……開けてくれ……‼︎』
「セドリック…………?」
セドリックと〝私らしき〟存在がそこに居た。
硝子一枚向こうは見間違うわけもない、私の寝室だ。訳も分からぬ部屋の一角から覗かせられた景色では、寝室のベッドに何者かが眠らされている。
その周囲をぐるりと囲むように見慣れた従者達が控え、まるでこの視点では私も参列者の一人かのようだ。左右にも何者かの服裾が端端だけ見える。ベッドに眠る者の顔も、佇む従者の一人の影で見えずただただ細い腕だけがそこにある。しかし、私の寝室で私のベッドで眠る者など私以外あり得ない。
そして目の前には眠る〝私らしき〟手を握り、必死に呼びかけるセドリックが両膝を付き傍らに居た。寛ぐというよりも、膝から落ちたかのような姿に、気付けば眉間が狭まる。私がこうして硝子一枚先に立っていることには周囲の誰も気づいていない。それどころか
「セドリック‼︎ファーガス‼︎ダリオ‼︎お前達!これはどうなっている⁈」
私はここだぞ!と、力の限り叫び割らんばかりに窓を叩いても気付かれない。
硝子一枚程度と渾身の力を両拳に使ったが、ダンダンと響くばかりで傷どころかびくともしない。距離からして大して厚くない硝子に思えたが、いくら叫んでも私の声は誰の耳にも届いていない様子だった。誰もが私には目もくれず、ベッドに眠る私とセドリックにだけ視線を注ぎ時には俯いていた。顔を覆っている者もいる。
セドリック‼︎ともう何回呼んだかもわからん弟の名を呼ぶ。拳を打ち付けたまま、鼻先が当たるほど硝子に顔を近づけ目を凝らした。
あのベッドに眠っているのが私である以上、ここが現実ではないことはわかっている。しかし、どうにも見るに堪えない光景に黙っていられない。目を逸らすこともまたできない。
『兄貴がいなければ俺はどうすれば良い⁈……ッ兄さんはっ……』
セドリックが私達の前以外で涙を見せ姿など、それこそ滅多にない。
人前にも関わらずセドリックは私の明日細い手を両手で包み、赤い目を充血させながら苦痛そのものに顔を歪めている。喉を引き攣らせ、白い歯を顎が震えるほど食い縛り、涙を拭おうともせず口の中まで入っている。嘆く度に丸くなった背中が次第にベッドへと沈み落ちていく。
セドリックの呼びかけに、ベッドの私は全く返さない。……この光景がいつなのか、想像はつく。私がこのような状況に追われたことなど一度しかない。目が覚めた時には大勢の者に心配をかけていたことも知ったが、まさかここまでとは考えもしなかった。
しかし、……当然か。セドリックもこの場に当時はラジヤ帝国の襲来に続きチャイネンシスとの同盟破棄も続いた。そのような国が不安定な状況で、国王であった私の乱心などどれほど大勢を不安の海に落としたことか。今でも当時のことは城の者にも申し訳なさしかない。特にセドリックは、…………まだ私とヨアンにしか心も開けていなかった。
『兄貴っ……起きてくれ、頼むっ…………‼︎』
力なくただ取られるだけの私の腕が、掴むセドリックの震えが伝わる。
喉を詰まらせ、それ以上言葉にならないかのようにまた苦し気に歯を食い縛ったセドリックは一度私の手を握ったまま顔を俯けた。大きく落とした顔から勢いよく大粒が床へと落ちる。
その光景に目を背けることもできず、私も奥歯を食い縛った。いつの間にか硝子からも手を引き腕を組んでいた。交差する自身の腕を掴む指にこれ以上なく力が入る。これが悪夢でなければ、私は何故こんな光景を見せつけられているというのか。
当時のセドリックはまだ全てにおいて未成熟で、精神面でも子どもだった。幼い頃よりは人間らしくなったものだと思うが、当時の大人達からの受けた仕打ちの所為か完全に勉学を嫌うようになってしまった。凡人の私にはわからぬが、ヨアンだけはそのセドリックの理由も理解しているようだったが。
「…………こんなにも、お前は一人だったか……?」
気付けば、届かぬ先へと一人呟く。
同盟破棄したヨアンも居らずそして私もこのような醜態を晒す中、これほど周囲の従者が居てもセドリックは言葉さえ聞かず動かぬ私一人に寄りかかっている。
民に愛され城の者にも愛され、社交界では大勢の妙齢の女性から注目を浴び続け、ダリオとも打ち解けた方だと思ったが、……それでも心を開く相手は私とヨアンにだけだった。少しずつ周囲を円満な関係を築いているように見えたが、結局自分が辛い時には誰にも寄りかからず頼ろうともしていない。
そう考えれば、よくあの短期間でプライド王女に心を傾けるようになったものだ。ティアラ第二王女への想いについても驚かされたが、……あのセドリックが人の言うことを素直に聞いた時の衝撃は今でも忘れない。
─『あとちゃんとお兄様のっ…国王陛下の言う事を聞いて!良いわね⁈』
─『わかった…』
勉学を嫌い、長い付き合いのある教師からも逃げ続け、私とヨアンの言葉すらそれだけは首を縦に振らなかった。
あのセドリックが、プライド王女から学べと言われ命じられるままに頷いた。しかもあの後、本当に戦術書など時間が許す限り城の蔵書を読み漁っていた。あいつがあそこまで真面目に書を読むこと自体、私もヨアンも滅多に目にしなかった。たった数日の間、プライド王女は一体どれだけの影響をセドリックに与えてくれたか。
兄貴、兄貴、兄貴と。目の前の硝子窓の向こうでセドリックは絶えず私を呼ぶ。涙を滲ませ顔を汚し、返事のない私に呼びかける。目が覚めたあの時、まだ意識の定まらん私を見て泣いた時を昨日のことのように思い出す。面倒を見始めた頃は何度も私を呼んでは付いて回っていたセドリックは、この時まで本当に何も変わっていなかったかのように錯覚してしまう。
今ではフリージア王国に根を下ろし、プライド王女とも良好な関係を築けている。セドリックにとっては友人と呼べる初めての存在かもしれない。その上この時が信じられないほどに王族に恥じない言動を身に着けた。もし私が倒れたのが今ならば、きっとセドリックもここまで取り乱すことはなく一人でも王族として気丈に振舞え……
『死ぬ前に一度くらい……俺を罰してくれっ……‼︎』
「…………は……」
兄貴……‼︎と息も掠れ嘆いたセドリックの言葉に、思考が止まる。
先ほどまで思いに耽っていたことが嘘のように、己が目が丸くなるのがわかる。間の抜けた一音しか口から出なかった。組んでいた両腕から指の力まで消える。
耳を疑い、一体何をセドリックは言っているのだと思う。いくら酷い状態だったとはいえこの場でその発言は不謹慎過ぎる。
私が意識を失っていたのもほんの数日だろう、それをまるで死の間際のように言うなど。
これが現実であるならば、戻り次第即刻城の者に問い質し次セドリックへ会った時には一度拳を落とすかと考えたその時。……今まで視界を塞いでいた従者の背が、消えた。
いや正確にはその者が崩れるように膝をつき、位置が低まった。さっきまでその背に隠され見えなかったベッドにいる私の姿が、今ははっきり見える。
あれは、誰だ。
私だと、間違いないとわかっている。私の部屋で、私のベッドで私の従者達や城の者に囲まれセドリックが兄貴と呼ぶのはこの私だけだ。しかし、一枚向こうに見えるその男はまるで別人だった。
頬が削げ落ちたように痩せこけ、顔の輪郭すら頭蓋をそのままなぞったかかのように窶れている。顔つきも酷く老け込んでいるようにも見え、乾いた唇に髪まで金から一目でも目立つほど白が混じっていた。老けたように見える顔は王座を退いた父に面影がなくもないが、それよりも遥かに酷く衰えてみえる。セドリックが握る細腕もよく見れば枯れ枝のように瘦せ細り、喉などこの片手で容易に手折れそうだ。肌など土気色に近い。これでは病人どころか、枯木だ。
瞼は閉じられ、布越しでもそこに呼吸の動きはない。
セドリックが両膝をついたまま腰を上げ、その枯木へと覗かせる頬へ涙を落としたが、反射の動きすら見せなかった。「兄貴」と呼ばれるソレが、私であるなど信じられない。
あまりの光景に思わず片手で口を覆い、息を呑む。自分の顔まで青ざめていく感覚に、ふらりと足元が揺れ半歩後ずさる。一体何が起きればたったの数日でここまでの惨状になるというのだ。
涙を滲ませ、反応のない枯れ木の私にセドリックが唸るように声を張る。
『兄貴っ……聞こえるだろう兄貴っ……せっかく全てが、全てが終わったのにっ……!何故俺を一人遺すんだ……⁈』
何を言っている。
私はちゃんと立ち会った。ハナズオ連合王国の危機を乗り越えたその瞬間に。お前も、そしてヨアンも置いてなどいくものか。
何故。周りの者も誰もそれを指摘しない?何故、まるでそれが〝事実かのように〟目を伏せ涙を浮かべ顔を逸らし口を噤む?
疑問ばかりが止めどない。ただ、セドリックが涙を落とすその男が、乱心などではなく〝つい今さっき〟息を引き取ったばかりなのだと理解する。
手を伸ばすが、透明の一枚が私と泣き伏す弟の間を阻む。硝子の向こうで一人、また一人とまた城の者が崩れ落ちていく。あまりの光景に言葉が出ない。
『兄さん……兄さんが、………兄貴の見舞いにと、この前やっと返事をくれたのにっ……!…………お願いだ起きてくれっ……兄貴がいないと俺も、兄さんもっ……』
やっとどはどういうことだ。
ヨアンから返事など、直接会いに行けばよいではないか。チャイネンシスは守られた、何故それをまるで未だ分断されているかのように言う?
濁ったセドリックの声はまるで赤子のようにギシギシと軋まされていた。
一体どうなっている?何故このようなことになった?私が不在程度で何故ここまで訳の分からぬ事態に陥っている?
ダリオが口を覆い、一歩一歩おもむろにセドリックへと歩み寄る。その背に向け、数秒立ち止まりそれから恐る恐ると躊躇うように肩へと手を伸ばした。セドリック様、と柔らかな声で呼びかけても反応はない。しかしその指先が触れた途端、まるで弾かれたかのようにセドリックが振り返る。
『ッ触るな‼︎‼︎』
激昂、とその言葉が相応しい。
私でも思わず肩を揺らすほど鋭い声で叫んだセドリックは燃える眼光でダリオの手を振り払った。宰相のダリオともこの頃にはもう打ち解けていた方の筈にも関わらず、憎しみにも近い光が放たれた。
『全員出ていけ‼︎今すぐ‼︎‼︎っっ…………。……っ。国王ランス・シルバ・ローウェルは、…永き闘病の末息を引き取った。後継者は〝未定〟だ。……今は、……兄貴と二人だけにしろっ……』
火を吐くように手を振るい、その直後には一人全身を強張らせ下唇を噛んだ。
何かに耐えるように肩を震わせながら、民への公布すべく内容に〝私の〟死を告げたセドリックは最後喉まで震わせ命じた。
深々とダリオも誰もが深く頭を下げ部屋を出ていく中で、足音にも紛れるような微かな声で「すまない」とセドリックが口を動かした。ダリオに、いや己を案じた者全員への謝罪はあまりにも潜め過ぎた声だった。パタンと最小限の音で閉じられた扉音の方が遥かに大きい。
閉じ切られた部屋の中、暫くは抑えるような嗚咽だけが続いた。
時折、産声のような幼い泣き声も混じりしゃくりあげた音もあった。肩をこれ以上なく震わせ、とめどなく大粒を零すセドリックが不意に口を開くまではあまりに長かった。
『…………わかっている……、もう……。……人は、信じられる……彼らも決して俺を裏切ろうなどしないっ…………わかっては、いるんだ……』
ぽつぽつと独白のような声に、落とさぬように私は硝子へまた半歩近づき直す。震える肩に反し、その声は無感情に近い。
手を置き、その声に耳を澄ませた。一体どうなっているのか。荒い息遣いと共に、「わかってる」と数度また聞こえた。
セドリックが元上層部を含めた大人達への不信感が強かったことは知っている。今でこそ我が国のみならずフリージア王国への民へも親しみが強いが、……しかしたった一年前でもこれほどだっただろうか。
プライド王女に出会う前でもあいつはもっと……そうだ、もっとダリオや城の人間にも親しみを持って接していた!なのに、先程のセドリックはあまりにも敵意を滲ませ、心なしか顔つきまで険しさが馴染みきっている。一体私が知らぬ間に何が起、……。………………?…。
『彼女が、気付かせてくれた。…………兄貴。それでも駄目なんだ……。…………こんな俺に国王など、兄貴の跡継ぎなど……』
吐露のように呟くセドリックの声を聞きながら、思考が半分おかしいことに気付く。セドリックではない、私のだ。
硝子に触れていた手も引き、己で己の顔に、頭に触れる。あまりにも現実味の強い感触に一瞬だけ視界が歪む感覚を覚えながら、今の違和感を逃すかと思考を回す。
『…………咎人の俺にそんな資格などありはしないっ……。血に染まり切った両手で民を導くなどー………………』
意味不明の言葉を落とすセドリックに、今はそれ以上は考えられない。
〝私〟へと語り掛ける弟の言葉に今は耳を傾けられない。あいつの覚悟も恐れも嘆きも私の責であるというのに、今は叶わない。
まずい、と反射的に思いながら両手で最後には頭を抱え指先に力を込める。瞼が開けたまま痙攣するのを自覚しながら、己が息の音が煩くなった。おかしい、今私は
─ 何故これを〝現実〟かのように受け入れている⁇
『…………兄貴っ……どうして俺を罰してくれない……?』
目を覚まさせようと、今度は額を強く硝子へと打ち付けた。血が出るような痛みに襲われたが、私の額もそして硝子も割れることはなかった。
ガン、ガンと二度三度と繰り返しまた打ち付けた。己が思考が戻れと目を覚ませと言い聞かす。セドリックの声が今は雑音が紛れているかのように脳に届かない。
この黒い世界の影響か、それともあまりに現実味のある光景の所為か、単なる悪夢か。いつの間にか目の前のこの光景が正しい世界のように感じられて仕方がない。悪夢でも幻でもなくまるで本当にこれが在るべき姿のように、目の前の〝現実〟に飲まれそうになる。
夢の中ならば何故吐き気を覚えるのか、眩暈がするのか、額が痛いのか。ぐるぐると睡魔に屈する直前のような気持ちの悪さに口の中を強く噛みきった。しかしそれでもこの違和感は拭えない、あと一歩でと気を許せば飲み込まれそうになる。
『…………。これが、罰なのか…………』
「ッやめてくれセドリック……‼︎」
遮るように叫ぶ。窓一枚向こうの弟の声に、その言葉を聞くだけで意識が持っていかれそうになる。
これこそが現実だと、そう思考の芯に呼びかけられる。乾いた声と、その低さに窓を見ずともあいつがどんな顔をしているのか嫌でも頭に浮かぶ。聞くまいと思えば思うほど言葉を拾い、受け入れる。両耳を防ぎたくとも、狂いそうな頭を押さえることに手が離せない。
一体ここはどこで、私はどう在るべきだったのか。これではまるで
『……わかった。……それが罰となるならば、この穢れた身で一人でも多くの民へと償おう』
どのような責も罪も背負ってみせる。……そう呟くセドリックへ、安堵と同時に思わず「待て」と叫びそうになる。
一体セドリックが何を言っているのかも、何の覚悟を持ったかもわからぬ筈なのに引き留めなければならないと思う。その決断をすることが私には何より望ましく、……このセドリックには痛みを引きずるばかりの結果になると思う。そのような覚悟で、そのような自虐と自責を理由に頂へと座したところで誰がお前を掬い上げる?またあの日のように、大人達の祭り上げる人形に戻る気かと喉まで出かかった。
民を守り統治し導き守ることは〝罰〟ではない、〝責〟と〝幸福〟だ。
セドリックならば良き王にもなれる。しかし、そのような考えのままではセドリック一人が永久に救われない。王として幸福を感じることを罪に思い、己を苦しめることでしか安寧を得られない。またお前は自分を〝物〟へと落とす気か。頼むから王位を継ぐならばお前はお前のままでいろと
『……大丈夫だ。もう、大事なことは彼女が教えてくれた』
そう、突然穏やかな声で紡がれ、力の入ったままに私は顔を上げる。
打ち付けた額を硝子につけたまま、首の角度だけ変えれば事切れた私へとセドリックが初めて微笑んでいた。瞳の赤が揺れてみえるほど涙を溢れ零し、しかし確かに希望を宿した眼差しで私を見る。涙が頬を伝い顎を伝い首元まで濡らす中、ジャラリと腕の装飾品が私の耳にまで響いた。セドリックの手が枯れ木の私の頭へと伸び、そこでゆるやかに降ろされた。今まで私がそうしてきたように、セドリックが私の頭へと手を置いた。
セドリックのたった一言に酷く安堵してしまった直後、また完全に飲まれていたと気が付く。その光景に、あろうことか安堵してしまった私は一体何故このような事態を安堵したのかと自問する。私が死に、ヨアンと分断されたまま、多くを悲しませセドリックへ王の責務を押し付けたこの世界を何故私はこんなにも
『安心して眠ってくれ。……きっとサーシスを、兄貴が望んでくれたような国にしてみせる』
駄目だこのままでは屈してしまう。
額を何度も何度も、血が出てもおかしくないほど硝子へ落ち着ける。セドリックの言葉に心から安堵しようとする己へ呼びかける。歯を食い縛ればとうとう力を込め過ぎてガチガチと震え出した。まるで毒でも飲んだかのように吐き気が恐ろしく込み上げ、堪えきれず片膝を落とす。摩擦に硝子を擦ったままの額が熱いがそれ以上に全身の汗が止まらない。これを幸福など呼ぶものか。サーシスだけが良き国になってどうする?我々はハナズオ連合王国であることを忘れたか。本当はこんなことにはならない、私は、セドリックは、ヨアンは、我が国は‼︎
……………………?何、だった……??
混濁する。思い出そうにも、何故これを嘆いていたのか自分がわからない。そうか、私はそれをわからずさっきまで頭を抱えていたのだったかと突如抱えていた両手が落ちた。
両膝を突き、さっきまでのセドリックと今度は私が同じ態勢になる。何を嘆く必要がある。セドリックはちゃんと、私の跡を継ぎ国王となるべく意思を固めてくれた。
ただ、国王の椅子で皆が望むように振舞うのではない。ちゃんと、国王として民の幸福を考えてきっと動いてくれると今なら思える。セドリックならばきっと凡人だった私よりも上手くやれる。……これで良い。
ヨアンのことは不安だが、あいつならばきっといつかはまた歩み寄れる。私達の弟なのだから。ヨアンもまた、私達のことをちゃんと理解してくれている。
私へ微笑みかけるセドリックの、決意に染まった眼差しは王の風格も帯びていた。あいつを遺してしまうことは無念だが、私自身には悔いはない。チャイネンシスの危機へ力にはなれなかったことこそ悔やんでも悔やみきれないが、私自身はあまりにも恵まれた人生だった。良き弟と、良き友と良き臣下と民に囲まれたのだから。
呼吸が深く身体の芯を突き抜ける。汗が滴り落ちたのを最後に、硝子の向こうへと自然と笑みが零れた。
弟が王族として立派に成長してくれた今、もうこの国は大丈夫だ。
『……おやすみ。兄貴』
脅威が去った今、セドリックもヨアンも私が居らずとも─………
『ランス国王陛下は、セドリックにとってもヨアン国王に取っても特別な御方です』
「…………ッ⁈」
ハッ‼︎と、突然頭に響いた声と共に目が覚める。
いつの間に両膝をついていたのか、力なく首まで垂らしかかっていた顔を上げ眼前へと目を見開く。私は今一体何を⁈
目の前ではセドリックがゆっくりベッドで眠る人物へ身を引くところだった。立ち上がり、姿勢が伸びる最後の最後までベッドに眠る男の頭への手を離そうとしなかった。さっきまでの安堵が信じられないほど、急激に脈が早まり鼓動が騒ぐ。
両手を硝子へ付け、もう一度硝子を先を睨む。何故私は、今さっきまでこれを現実かのように思っていたのか。
やはりこれは夢か、と思考で結論づけながら穏やかだったその先を睨む。「セドリック‼︎」と力の限り叫んでも、一枚向こうには届かない。しかしそれでも構わず私は声を張る。
「認めはしない……‼︎私の席だ!そこを退け‼︎」
ピシッ、と耳に音が霞めた。
拳を叩きつけたわけにも関わらず、今になって小指の先に小さな亀裂が生まれ出した。しかし今はどれもどうでも良い。
穏やかに笑い涙を拭うセドリックを、このまま置いていけるわけがない。私の弟だ。
『貴方はこんなにも特別で、素晴らしい国王なのですから』
「ッ置いていくものか‼︎よりによってお前達を嘆かせておくわけがないだろう‼︎弟を守るも友と手を取り合うも国を守るも全て私の役目だ‼︎」
私の部屋だ私の責だ私の弟だ。
ベッドで皆を絶望させ嘆かせる男に、私は胸の奥から熱が沸き上がる。私の弟を泣かせ、友を置いたままお前はそこで何をやっている?
まだ私の夢も野望も終わっていない。私にはやるべきことが残っている。
硝子へと押し付ける指を中心に、まが亀裂の音が数個続き出す。さっきまでいくら打ち付けても無駄だったそれが、今は脆い。
窓の向こうで私の場所でのさばった男に言っているのか、目を繰り返し擦るセドリックに言っているのかそれとも私を阻むこの忌々しい硝子に言っているのかもわからない。いやその全てにだ。
「私は死んでなどいない‼︎友と共に国を挙げて立ち上がり!三国を退け‼︎フリージアと共に同盟を広げ国を開いた‼︎」
声高にそう叫べば、突如として硝子の亀裂が大きく広がった。パキパキパキと蜘蛛の巣が連なるように白い跡が透明の中に生まれ出す。
歯を噛み締め、再び拳を作り打ち付ける。やはりビクともせず私の手を痛めつけるだけの硝子が声にだけ反応しヒビ入っていく。
セドリックが部屋を出る前にと急き立てられたが、関係ないと己で首を振る。目の前の光景など何の意味もない。これはただの夢幻だ、まやかしだ。何故ならば
「あの日確かに私はプライド王女に救われたのだから‼︎」
パリィィィィィィィンッッ‼︎
セドリックへ手を差し伸べ、目覚めぬ私へ駆けつけ起こし、騎士団を率いて我が国を勝利に導いた。
プライド王女に救われた私があんなところで寝ているものか。セドリックがあのような荒んだ目をするものか。言い切った瞬間、どちらからともなく硝子が内側から破裂した。
大ぶりの破片も飛び散ったが、不思議と腕で庇う必要はないと思う。もう枠の向こうには私の部屋もセドリックの姿も何もなかった。手のひら大の破片を覗いてみたが、黒以外はきらきらと反射をするだけでもう何も映ってはいなかった。それどころか硝子だったかも怪しいほど砂のように霧散していく。
消えた、と。そう理解した瞬間、視界が途切れ突如として暗がり出した。まるで眠りにでも落ちるような感覚に、夢が覚めるのかと遠く思う。
砕け堕ちていく世界を前に、黒へ落ちる感覚への恐怖はなかった。
選んだのだと。……満足感すらそこにはあった。
……
…
「…………ランス。大丈夫かい?なんだかさっきから眠そうだけど」
やっぱり欠伸が多いよと。そう眉を垂らして笑うヨアンに、私は一人眉間に皺を寄せる。
せっかく多忙な時間を開けてくれたヨアンに一言謝罪を返しながら、隠しようもない睡魔をとうとう認めることになる。今朝から欠伸が多かったことは自覚しているが、ヨアンを前だとつい気が抜けて数が増えた。
目頭を指で押さえ、力を込める。しかしこれでも眠気は収まらない。昨日は大して夜更かしをしたわけではないのだが。
「夢見の所為で眠りが浅くてな……まったく寝た気がしない」
「ああ、セドリックが出たんだっけ?単に心配し過ぎなだけじゃないかい?」
寂しい気持ちはわかるけど。と気遣うように言われ、否定もできず頭を掻く。
セドリックがフリージア王国へと去ってから暫く。確かに心配と言われればそれもある。しかし、今回の夢はなんとも妙で心配という言葉だけでは片づけにくい。
硝子向こうの世界。
しかも私の死後の世界など、不吉でしかない。私が死んで皆が嘆き悲しみセドリックが跡を継ぐ決意をする光景など、流石にヨアンにも言えない。せいせい言えたのは「夢にセドリックが出てきた」というだけだった。
夢にしては妙に現実味が深く、苦痛まで全て生々しく肌に残っていた。しかし、夢は夢だ。目が覚めた時にはもっと詳細に覚えていたが、今は薄まってあの空間で何があったかも詳しくは覚えていない。思い出そうとすればセドリックの泣き顔ばかりが嫌に浮かぶ。あまりに奴の存在感が強すぎる。
「折角来たんだし、少しそこで仮眠を取ると良いよ。客間を貸そうか?」
「……そうだな。ここで貰おう、十五分ほど置いてくれ」
サーシスの城に戻ってからでは私がまた仕事に戻ろうとすることを読んでの助言に、私もここは従う。やはり眠い。
寛いでいた長ソファーに横へ崩れ、仰向く。当時は遠慮もしたが、今では全く抵抗もない。以前はセドリックの方がここで仮眠することが多かったが、今では部屋主のヨアンを除けば私くらいのものだろう。
疲れてるのに足を運んで貰って悪かったね、と気遣ってくれるヨアンに手で断り深く息を吐く。もともと茶を飲みに行くと言ったのは私の方だ。むしろ来ておいて寝る私の方が悪いと思う。
しかし思い返せば思い返すほど、あの夢は疲れるばかりだった。セドリックが泣いていた夢など、やはり国を立ったあいつのことに少なからず不安があるか。他はもう殆ど思い出せないが、うっすらと焦燥感は残ってる。こんなことを言えばヨアンに弟離れできていないと呆れられかねない。
毛布を用意させるか尋ねられ、断る。本格的に寝入れば折角の時間を睡眠だけに全て使いかねない。半分カーテンを閉めてくれる友へ一言礼を言い、目を閉じた。くすりとヨアンの笑う声が聞こえる。
「おやすみランス」
『おやすみ。兄貴』
「…………?」
……不意に、ヨアンだけでなくセドリックの声まで過ったような。
いつのことかも思い出せない。あいつにしては静け切った声は、いつも交わした時の声ともまるで別だ。
違和感に瞑っていた目を開けた私に、本を手に取ったところのヨアンが気付く。「どうしたんだい?」と聞かれても、いまはもう一つの違和感へ探る手が伸びた。
「?枕が欲しいのかい。珍しいね」
「いや、……いま、急にセドリックの頭を撫で返したくなったような……。……?」
「撫で〝返す〟⁇」
私の手の動きに誤解したヨアンへ訂正すれば、つい変な言い回しになった。セドリックの頭に触れたことは何度もあったが、私が置かれたことなどセドリックどころか親にもない。
だが、今確かに頭へ手を置かれる感覚が疼いた。何か頭に触れたのかと実際に確認したがソファーの上には何もない。ただの錯覚か。
「ランス。……君、そんなにセドリックの髪に触れるのが好きだったのかい。確かに綺麗な髪だったけれど、そんなんじゃ弟離れできていないよ」
いや待て違う!と慌てて弁明するが、ヨアンは小さく笑むだけだ。
確かにセドリックの頭に触れることは多かったが、別に毛並みを楽しんでいたわけではない。それでは弟というより犬扱いではないか。
やっぱり疲れてるね、と労い再び仮眠を進めてくるヨアンに眉を寄せながらも仕方なくもう一度目を閉じる。大体、何故私は今〝セドリックに〟頭へ触れられていると感じたのか。
『認めはしない……‼︎私の席だ!そこを退け‼︎』
また、視界が塞がった途端に声が聞こえた。
私に向けて、どこか怒りを滲ませたその言葉を放ったのは一体誰か。もう声すら思い出せない。夢に出てきたのならばセドリックだろうか。
何を認めない?文句があるならばはっきり言え馬鹿者。
簡単に譲るものか。国王の椅子など軽くはない。
思考の先にそう返しながら、中央に寄せられる眉を意識し力を抜く。
次に目が覚めた時には、いっそ夢も全て忘れていれば楽なのだがと思いながら仮眠に努めた。
今度はあいつの泣き顔など夢にみないようにと願いながら。




