〈書籍三巻発売‼︎・感謝話〉貿易王子の夢見は。
本日、無事書籍三巻発売致しました。
感謝を込めて書き下ろしさせて頂きました。
時間軸は「我儘王女と準備」あたりです。
『……ッだ……‼︎……く、ないっ……』
……ここは、何処だろう。
ぼんやりと世界の白を集約させたような空間。ここまで白くて、無に近い感覚は初めてかもしれない。航海中に見た陽の光より白いのに眩しくない。
一体さっきまで何をしていたのだろうと思うのに、どうしてもわからない。
記憶は確かかと、自分で自分を尋ねてみる。名前はレオン・アドニス・コロナリア。アネモネ王国の第一王子でー……
『いっ……だ‼︎……っ、だ、…………じゃ、駄目……だ……』
誰かが呼んでるような声がする。……誰だろう。
聞いた事があって近くて、遠い。首ごと見回してみるけれど、どこも白くてすぐには見つからなかった。
誰かいますかと声を上げても返事はない。耳を澄ませてやっと聞こえるような弱々しい声だ。もしかしてここに閉じ込められて衰弱しているんじゃないかと考えれば、息の音も止めて声の主を探した。
背後まで振り返れば、さっきは全く気付かなかったそこに誰かがいた。何度呼びかけても返事がなくて、まさか気が触れてしまったのかと考えながら歩み寄る。屈み込み、自分で自分を抱き締めるように腕を交差し震えている青年は遠目では小さかったけれど実際は高身らしい。微弱に震えながら僕に背中を向けた青年の肩へ僕は呼びかけながら手を伸ばし、
『ッアネモネからっ…離れるなんて……‼︎』
……止まった。
ぴたりと触れようとした寸前で固まって、そのまま気が付けば手を引いてしまう。
聞き覚えのある彼が、僕のよく知った人に似ていると今思う。ぐしゃぐしゃの声と震えながら丸い背中と蒼い髪を向ける彼に触れるより前に一歩引く。彼よりも僕の正気と現実を同時に疑い、言葉が出ない。
顔を確認するのは簡単だ。肩を掴み振り返らせれば良い。なのに自分を抱き締め俯いた彼に他でもない僕が触れるのをどうしても躊躇った。
『いやだっ……いやだ、いやだっ……っ。離れたくないっ……僕は、この国にっ……』
濁りきった声で吐露する彼は今たった一人だ。
背後に立つ僕にも気付かず、子どものように嫌だと嘆く彼が〝いつ〟なのか考えるまでもなかった。
いつまで経っても「いやだ」「離れたくない」と何度も繰り返し震える彼に、僕の足が動くのもかなり後だった。時計もない世界で体感だけで言えば一時間。いやだと泣き続ける彼に、何度も手が伸ばしたくてもやはり触れられない。どうしてもここで僕が、彼に触れてはいけないと思う。
代わりに一歩ずつ足を引き摺り進めば、正面まで来れた。こんなに近くにいるのにそれでも彼は全く気付かない。同じような言葉を嘆く彼の気持ちを、他の誰よりも僕は知っている。涙と嗚咽で言葉が途切れても意味はない。
『いやだ……どうしてっ……』
「…。〝僕が〟〝アネモネ王国を〟」
『アネモネを離れないといけないんだ……‼︎いやだっ……』
「〝どうせなら〟〝いっそ奴隷でも〟」
『奴隷でも良いっ……‼︎アネモネにいたい……っ。……嗚呼っ…駄目だ!僕は、僕は王族として彼らの、為にっ』
「『フリージアへ』」
……重なった声は、同じ声で違う色だった。
口を閉ざす僕に反し、彼はまた嘆く。いやだと、離れたくないと言いながらそれでもアネモネから離れようとする。涙を止めどなく流しながら繰り返すその姿はいっそ無様にも見えて、服装以外で王族の印は何もない。威厳も覇気も感じられず、誇らしさの欠片もない姿の彼に頼れる民はきっといない。
こんな弱くて情けない王子を、誰が王として望むのだろう。
フリージアの王配としてだって同じだ。王としての何もない。ただただ弱い子どもだ。
『いやだっ……僕は、どうして‼︎‼︎……っっ、〝こんな〟にしか…なれなかったんだろう……‼︎』
最後は噛み締めるような、叫ぶような声だった。
直後には震えが一際大きくなって、また身体が小さくなった。彼を見下ろす僕まで今度は顔に力が入る。この時からずっと、自分の歪さには気付いていた。気付いて、相応しくないとわかっていて、……それでも。どうしても求めずにはいられなかった。
このまま見下ろし続けるのも耐えられなくなって、片膝をついて正面から彼を見る。未だに僕に気付かない彼は下を向いて滴を落とし続けるばかりだ。
『っ……努力はした……ッでも足りなかった……‼︎』
「そんなことないよ」
『離れたくないっ……フリージアじゃ、駄目なんだ……っ』
「そうだね」
いくら言葉を返しても、否定しても肯定しても気付いてくれない。
合わせ鏡の向こうを眺めるような感覚に、目の前の現実に僕まで胸が痛み出す。服越しに掴みながら息が詰まる。彼に触れたい、なのに触れたくない。だってそれは僕じゃない。
目の前の彼に、一番大切な事実は語られない。やっぱり彼は僕だけど、今の僕ではないと確信する。いっそ特殊能力者の仕業かなと考えれば、頭の半分近くが冷えてきた。言葉も通じないというのなら特殊能力でも幻の類かもしれない。なら、先ずはここから逃げ出す方法を考え
『誰かっ……』
「───────っっ‼︎」
掠れた声に、考える余裕もなかった。
気が付けばあれだけ自制していた手を彼の肩へと伸ばし掴んでいた。僕の目が渇いたままに彼を見る。当然のように触れることができてしまった彼はまた当然のように顔を上げ、僕を見た。
見開いた翡翠色の目はきっと僕と同じ大きさに開いている。潤みきり、溢れた目から溢れた大粒が落ちる瞬間を見た。
触れてしまったことに後悔してももう遅い。もう僕には彼を置いていけない。
彼には、誰もいないから。
『君はっ……』
頼れる人も、助けてくれる人どころか呼べる名前も誰一人。
歪んでいた筈の顔が開かれ、僕に向けられる。伝う涙が忘れたように溢れて落ちるだけだ。
きっと今は僕の方が酷い顔をしている。自分でも顔に力が入っているとわかる。
肩を掴んだ手と反対も同じように彼へと触れた。震えが止まった代わりに石のように硬直している。さっきまで反応がなかったことが嘘みたいに今は僕の存在に釘付けられ止まっていた。
まるで双子のように姿だけ同じ彼はいま僕と異なる世界で生きている。たった一人で、信じられる人はいても頼れる人はどこにもいない。
いつの間にか滲んだ視界で、固まる彼を捉え返事の代わりに抱き締めた。触れてしまった彼に、どうか過去ではなく夢であるようにと願いながら捕まえる。
「っ……大丈夫だよっ……」
氷になる彼に、唱えた僕の腕の方が震えた。
喉がさっきまでの彼みたいに濁ってガラついた。瞼にぎゅっと力を込めれば、視界を滲ませていたものが頬を伝う。それでもこの両腕を緩められない。肩から指の先まで力を込め、腕の中に捕まえる。僕の存在に衝撃で声が出ない彼へ、ただ一方的に言葉を注ぐ。
「大丈夫、……大丈夫………っ」
あの日のプライドもこんな気持ちだったのかなと一閃過ぎる。
大丈夫と唱えながら、この彼がどれだけ辛くて身が引き裂かれそうだったのかを僕は知っている。ずっと誰かに縋りたくて堪らなくて、凍えそうな僕に陽を与えてくれたのは彼女だけだった。
寂しくて、哀しくて辛くて辛くて。……こんな風に、言葉にすることすらできなかった。きっとあの時の僕よりも、こうして言葉で嘆ける彼の方が〝人〟らしい。
僕はただただ胸の内で嘆く事しかできなかったから。本当はずっと誰かに縋りたかったことを彼は知っている。
助けを呼ぶ名前どころか、助けを求めることすらできなかった。ただこれが王族としての責務だと受け入れることだけだった。この気持ちも、感情も穢らわしいと思い込んで。……一番大事な気持ちにさえも気づけずに。
『っ……僕はっ……僕は、行かないといけないんだ……‼︎アネモネ王国の、為にっ……』
「うん。……そうだね、行かないと」
プライドに、会わないと。
そう胸で唱えながら僕は頷く。過去かもしれない彼に、万が一にもそれは話せない。どんなに絶望した時間でも、あの時と彼女がいないと僕はそう在れない。
腕の力を込めながら彼の嘆きにもう一度耳を傾ける。
『いやだ……いやだいやだっ……もう会えない……!アネモネの民に、もう今までみたいに会うことがっ…。彼らの話も聞けないっ……顔も、見れない…』
あ、ア、ああ゛……と嗚咽を零し、顎を反らし堪えながら喉を鳴らして飲み込み嚥下する。
『あの子は、商人になれるのか……?作物をっ……ってたのに……‼︎』
その少年なら、つい一週間前に話した。港で初めて商船に乗せて貰えたと笑顔を見せてくれた。船の揺めきも風の匂いも潮の味も全てを体感した感動をきらきらと目を輝かせていた。
数ヶ月前に提供してくれた野菜はとても美味しかった。お返しに城の料理人が提案した調理方法を伝えたらとても喜んでいた。
彼らは今も、僕らの国で笑っている。
『あ、の赤子にはっ……もう、会えないかもしれない……‼︎』
もう、今年で三つになるらしい。
三年ぶりに会えたその子の名を呼んだ時、言いようもなく満たされた。あの時は母親の腕に抱かれた乳飲み子だったのに、今は母親の手を取られずとも自分の足で立っていた。自分の名を心から自慢に思ってくれていると歯を見せて笑ってくれた。……嗚呼、どうして
『アネモネを離れるなんて……っ』
どうして〝僕〟はこんなにも幸せなのだろう。
『いやだっ……』
どうかその気持ちを、この先も決して忘れないでくれとひたすら彼に願う。
彼にとっては絶望でも、僕にとっては狂おしいほどの幸福だ。彼の肩越しに一人目を瞑り、小刻みに上下する肩へ頬を当てる。子どものように泣く彼に、やはり僕なんだと胸が落ちる。
ぶつけようのない感情の行き場を探すように、とうとう僕の背中へ腕を回し指を引っ掛けてきた彼の温度は人の熱だった。
「……大丈夫。だからあと少しだけ耐えるんだ。……そうすれば、きっと」
嘆く彼の声に反し、僕の声は微かで脆い。
彼の耳に口を近づけながら、それでも一音一音言い聞かせる。こんなにも語れないことが歯痒い。
きっと?と、聞き返してくる彼は僅かに期待を孕んでいた。音しか放てず、僕の腕から離れることもできないままの彼から震えが止まりだす。こんな僕の言葉一つにも耳を傾け、受け止めてくれる。きっと顔を覗き込めば翡翠の色が僕を写すだろう。
言いたい。君は幸せになれるのだと。プライドに出会い、救われ、落とす筈だった全てを掬い上げられる。今も僕はアネモネ王国に居て、当たり前のように城下に降りている。この時はもう諦めた筈の第一王位継承権が今はここにある。
あの全てが僕の人生に必要だったかはわからない。最初から僕が人として欠如していなければ、弟達に裏切られるような人間でなければ。……最初からプライドの名に傷をつけることもなかった。
いっそプライドに出会う前の彼をここで引き止めれば彼女の名だけは守れるかもしれない。婚約解消なんて汚名を負わせることもない。……ただ、それでも。
「きっと。哀しくて、嬉しくて…………一番泣けるから」
言えないんだ。
絶対に手放せない。詳しくなんて話せない。君にはこのまま知らないまま帰って欲しい。
あの日、僕を一番泣かせるのも全てを教えてくれるのも、傷を明かすのも全部はこの世界でたった唯一の彼女であって欲しいから。
どうかこのまま知らないままでいて。傷付いたまま、悲しいままでこの心と感情の名前も知らないで。そこに触れるのも、晒すのも僕の初めての全ては彼女にだけ捧げたい。
僕の言葉に、彼の息が止まる。こんなに近くで耳を寄せているのに無音のままだ。きっと表情も僕の思った通りに固まっているだろう。こんな答えじゃわかるわけもない。
彼の後頭部を指で梳き、流してまた背に手を回して撫で下ろす。本当はこんな風に抱き締めるのも、初めてはプライドに触れて欲しかった。だけど同時にあの時のプライドが触れた全てを感じられることに仄かな熱を胸が灯す。
今の僕が幸せだからこそ、彼には何も話せない。たとえ、プライドの名を貶める先があろうとも僕は絶対に手放せない。
─ 二年掛けてやっと美味に育ちました!ぜひとも召し上がってみて下さい!
─ おかえりなさいませレオン様。陛下も航海から帰られるのを待ち侘びておりました。
─ お久しぶりですレオン王子。定期訪問ありがとうございます。姉君もティアラもとても楽しめたと話してくれました。
─ 最近は城下で話題の本に目を通しました。女性向けの恋愛小説でしたが、男性にも楽しめる要素も折り込まれておりました。レオン王子も是非。
─ アァ?味の違いなんざわかるかよ。ンなもん聞きたけりゃあ主と飲むんだな。
─ ようこそレオン。今日も会いに来てくれて嬉しいわ!
それくらいの幸せがここにあるから。
プライドと盟友の未来が欲しい、どうしても僕は彼女に出会いたい。
アネモネ王国の民と離れる未来なんて絶対に選べない。何を引き換えにしても、僕は今の幸せを譲らない。
「……僕らを僕らより知っている人がいる。君はそこで本当の幸せを知るだろう」
大丈夫、君は人形なんかじゃない。
胸の内だけでそう唱えながら、締め付けていた両手を同時に緩める。背中からもう一度撫で下ろし、輪郭を伝いながらその手を取る。それぞれ右手と左手を掴み取り、初めて僕は彼の顔を正面から捉えた。
思った通りに丸い目で、涙が溢れきって止まった彼は眉だけが中央を狭められたままだ。
わかりにくいよね。そう理解しながら苦笑だけを返してしまうと、まるで信じられないものを見るように見開いた目が更に広がった。
手を取り合い、指を絡め地に垂らす。鼻が触れそうなほど近い位置にある顔に、目も鼻も頬も赤い彼の体温が空気一枚隔てても伝わってくる。
絡めた指に僕だけが一方的に力を込め、そしてまた緩める。ぎゅっと肌同士の触れ擦れ合う音が不思議と耳に響いた。
「待ってるよ。僕らの在るべき幸福の置き場で、ずっと」
『一体っ……君に、何があったんだい……?』
右手を自ら解き、彼が僕の頬を指先で撫でた。
手が震え、水晶のように丸い目が揺れている。僕の言葉だけじゃなく、どうやらこの表情も彼には信じられないものらしい。
それだけ人らしくなれたのかなと思ったら、彼の称賛に自然とまた笑みで綻んだ。その途端、また彼が息を呑む音と一緒に表情も驚愕に染まった。きっと今の彼にはできないものだ。
彼の指の腹が頬から落ちたと思えば、僕の手に絡んでいた方の指がぎゅっと拳を作って離れた。追うように僕からもう一度手を重ねてみれば…………ぺたりと、すり抜けた。
「?……」
視線を落とせば、彼の手があった筈の場所が透けている。
白に飲まれるかのように手が指の先から段々と消え始めていた。彼もこれは予想外だったのか、すぐ手を引っ込め顔の前に掲げた。同時に彼もまた僕の手へと丸い翡翠で凝視して、視線を追えば僕の方も同じように消え掛かっていた。
〝時間切れ〟かなと、夢から覚めるような感覚と共に頭に浮かぶ。
じわじわと夕暮れ時の空のように変わる彼は、景色の白に馴染み掠れていく。僕もそうなのかもしれないと思いながら、今は彼から視線を外さない。消える瞬間まできちんと見届けたかった。
突然の終わりに、ぽかんとした表情で座り込んだままの彼は半分以上が色に消える中でもう一度僕に合わせる。震える唇を見下ろしながら最後かもしれない言葉を待つ。
『っ……君は、〝その国で〟本当に幸せなのかい……?』
何も知らない彼の問いかけに、思わず口を結んでしまう。
本当に彼は何も知らないんだと、わかっていた筈の事実に口元が緩む。彼の中では僕はきっとフリージアにいて、そこで幸せを謳歌しているのだろう。
ふっ、と笑みを溢して彼を見返す。本当のことを言ってみたいと、消えゆく彼に今までと違う気持ちでそう思う。きっと驚くし信じられないだろう。いっそ彼が夢か幻だったらプライドだけじゃなく、僕らの友人についても話してみたかった。
だけど勿体ぶるにも彼は今も消え続けていて、白に終わる前にと僕は言葉を選ぶ。
「生まれ育った国〝みたい〟に、……心から愛しているよ」
初めて愛を語る僕に、もうそれ以上の問いはなかった。
最後まで僕の言葉を理解できないまま、完全に白に消え溶けた。見開いた目が最後まで瞬きをしなかった。
少し意地悪だったかなと思ったけれど、やっぱりあの時の喜び全ては僕からではなくプライドに与えて欲しいから。
彼にはまだ知らないままでいて欲しい。全身が中心から打ち震えるようなあの感覚は何物にも変えられない。
僕もまた消えかかる中、焦りは全くなかった。このまま溶けてしまうと思うと同時に、幸福感で消えられることに心音がゆっくり僕の中で轟いた。
目覚めた先に、愛しい世界が待っていると思えたから。
……
…
「レオン、もしかしてお疲れ?」
欠伸を堪える僕に、プライドが上目に覗く。
つい口を大きく開けてしまいそうになるのを隠そうと口を覆ったけれど、少し遅かった。折角定期訪問に訪れてくれた彼女に申し訳ないことをしてしまった。
ごめん、と一言謝りながら笑ってみせる。紅茶の香りに少し晴れた気分になったのだけれど、同時に力も抜けてしまったらしい。……それともプライドの笑みを向けてもらったお陰かな。
彼女の前でまでこうして気を抜いちゃうなんてとも思いながら、それだけ寛げたんだなと思うと自分で少し擽ったい。
「昨夜少し変な夢を見て。大丈夫、体調は良いから」
そう言って肩を竦めて笑う。
苦笑気味になってしまって、カップを一口味わい誤魔化した。プライドの背後では近衛騎士のカラムとアランまで気にするように視線を向けてくれている。本当に体調は悪くないと示すべく小首を傾げて笑ってみせる。
昨日は交渉を終えて国に帰ってきたばかりだからその分の疲れが癒えていないのもあるかもしれない。……それに昨夜は。
「たかだか一晩の夢見だけで疲れなんざこれだから王族サマは」
ケッ、と吐き捨てる音と共に壁際から低い声が上げられる。
顔を向ければ壁に寄りかかったヴァルが変わらず足を組んで座っていた。左右で挟むように座るセフェクとケメトも、それぞれ足を伸ばして彼に寄りかかっている。昨晩と違い、今日は僕とプライドの話だからか二人も興味深そうに耳を傾けている。
「ヴァル。貴方が言えることではないでしょう」
「生憎、明けるまで飲むなんざ珍しくもねぇ。文句があるならレオンにも言うんだな」
プライドがすぐに注意してくれたけれど、ヴァルは機嫌悪そうに舌打ちするだけだ。
別に飲み過ぎたわけでも、お酒が原因でもないんだけれど。彼の言う通り、昨晩だって特別多く飲んだわけでもない。
昨日貿易から帰国した日に、ちょうど我が国へ配達に訪れた彼をそのまま引き止めたのも僕だ。久々に会えたことと、丁度良い再会に折角だからと今日の定期訪問まで滞在を彼に勧めた。相変わらず客室ではなく僕の部屋の床とソファーで彼もケメトとセフェクも眠ってしまったけれど。
プライドに手紙の受け渡しだけ済ませた後も、こうして部屋に滞在してくれているのを見ると居心地が悪いわけでもないのだろう。正直、主用である荷物の配達だけプライドに済ませた後はすぐ帰ると思ったからまだ残っているのは僕も意外だった。
悪態をつく彼は今も、のんびり壁に寄りかかっては欠伸をしている。するとさっきまで口を結んでいたケメトがぴょこりと手を上げた。
「レオンは、どんな夢を見たんですか?怖い夢ですか?」
黒い瞳をぱちくりさせる彼の問いに少し不意を突かれてしまう。
まさかそんなことを今聞かれるとは思わなかった。更には何を言わないセフェクもそれに興味深そうに上体だけを前のめらせた。以前より僕に興味を持ってくれたらしい二人が嬉しい。けれど、あの夢については僕も少し言うのは躊躇った。
今朝から記憶に残った夢だけれど、今ではぼんやりとしか思い出せない。僕がいて、彼がいて。まさかプライドの代わりに自分で自分を慰めた夢だなんて恥ずかしくて言えない。
それに今はもうどちらが僕の視点だったかも自信がない。アネモネを離れたくない僕も、プライドに会えると希望を抱く僕も、間違いなく僕だったのだから。
「怖い……わけじゃないけれど」と溢しながら視線が逸れれば、今度はプライドとぶつかった。紫色の瞳が水面のように僕を写す。どうやら彼女も気になってくれたらしい。ここまで来ると余計真実を話すのが照れるけれど、全て隠すのも難しい。
「……。泣いてる……子どもを、泣き止ませる夢かな。最初は何を言っても泣き止んでくれなくて、大変だったよ」
カップを置き、首を傾げながらそう言って最後は息を吐く。
自分で言っておかしいけれど、一番しっくりくる言い方だ。どちらにせよ、あの時に嘆き続けていた僕は精神的にも子どもというのが相応しい。一体どうやって泣き止ませられたのだろう。
そう考えると、今度はそちらの方が気になってくる。泣いていた僕も、一体どうしてあんなに泣いていたのか。まさか奪還戦前の頃の夢かなとも考える。この場では流石に言えないけれど。
「それは大変だったわね。最後は泣き止んでくれた?」
フフッ、と口元を隠して笑うプライドは合わせるように軽く首を傾けた。
きっと心配した夢よりも呑気な内容だからほっとしてくれたのだろう。背後に佇む近衛騎士達も心なしか表情がさっきより柔らかい。特にカラムは最近では式典の度に本の話に付き合ってくれるから、以前より親しげな眼差しを僕に向けてくれるようになった。こうしてプライドの近衛として会う分は個人的な会話も滅多にしないけれど、それでも彼は本当に話しやすい。
ああ、ちゃんとね。と僕からプライドに笑みで返せば、彼女もカップを手に取り味わった。
心配してくれたのかもしれない少年にも視線を戻せば、またピンと伸ばした手が掲げられる。
「僕より小さい子どもですか⁈レオンの知ってる子ですか⁇」
大きく開いた目で質問を重ねるケメトに、今度は隣のヴァルが煩そうに眉を寄せて睨む。
んなことどうでも良い、と続けた後にセフェクが「ケメトが気になるんだから良いじゃない!」と彼にきゅっと眉を吊り上げた。二人のやり取りにケメトは全く気にしないまま僕の返事を澄んだ瞳で待つ。
小さい……と言われ、思い出そうとしたけれどもう白い霧に隠されたように顔も姿も浮かばない。僕の知ってる子、と言われればそうかもしれないけれど覚えがあり過ぎる。もしかしたらケメトかもしれないし、セフェクかもしれない。社交界で会った子や、交易とかで紹介された子息や城下で出会った子どもだって充分にあり得る。
自分でも〝小さい子ども〟という言葉が出たということはやはり幼い子どもなのだろうけれど。もう、紅茶の湯気と一緒に時間の経過で薄く透けていくばかりだ。
どうかな、と言葉を漏らしながら僕は視線を遠くする。
「知ってる……気はするなぁ。泣きやんでくれた時、すごく嬉しかったから」
「レオンならたとえ知らない子でもそう思ってくれるわよ、優しい人だもの」
君もね、と花のように笑う彼女に僕も心からの笑みを返す。
もう記憶も朧げで、誰で何があったかも思い出せない。目が覚めた時は疲労感もあったけれど、胸も温かかった。頭がぼんやりして暫くは夢見心地で……、……部屋にいたヴァルからの言葉を何度か聞き返したんだと思い出す。
もしかしたらそれをまだ彼は根に持っているのかもしれない。あの時はまだ夢を覚えていたからか、ずっとそのことばかり考えていた。
「泣き止んでくれて良かったわね」
「うん。自分でもどうやったかはもう思い出せないけれどね」
「ガキの相手なんざ面倒なこいつらで慣れたもんだろ」
「じゃあ次に困ったら君に助けて貰うよ。僕よりも慣れているだろうから」
アァ⁈と、直後にヴァルが唸ったけれど、それよりもセフェクが彼の顔面に放水する方が早かった。
「何よ‼︎」と高い声を荒らげた彼女の水に、彼も手で顔面を庇ったけれど指の隙間から目まで届いた。てっきり子ども扱いしたなら僕も怒られるかなと思って身構えたけれどそれはなかった。どうやら「ガキ」よりも「面倒」が腹立たしかったのかなと思う。
慌てたケメトがタオルを探して客間中に視線を泳がせたから、僕の方から侍女にタオルを持ってくるように頼んだ。
ヴァルもセフェクからの叱咤で気が紛れたのか、今は僕の言葉も忘れたようにセフェクを鋭い目で睨みつけている。牙のような歯こそ剥かないけれど、やっぱり彼に二人以外の子どもの世話は難しいかなと考え直す。そういえば以前にもジルベール宰相の令嬢に毎回顔だけで泣かれるか逃げられると聞いた。
ところで貿易の方は、とタオルが届くまで話を変えるようにプライドが笑い掛けてくれれば、それだけで頭の霧も陽の光が差し込む。頷き、カップに指をかけて口へと運んだ。
もう思い出せそうにない夢だけれど僕の言葉で泣き止んでくれたなら、きっとその子も心優しい素直な……
『っ……君は、その国で本当に幸せなのかい……?』
「……………………………………」
「帰国したばかりだもの。疲れが溜まっているでしょう?今日は無理せずゆっくり休んでね」
うん、ありがとう。そう返しながら僕は頭に浮かんだ言葉だけ紅茶と一緒に飲み込んだ。……やっぱり、ちょっと嫌な子かもしれない。
その後もプライドと他愛のない会話を楽しみながら頭の別の部分だけ動かし考える。これ以上夢の記憶が薄れる前に、どうして僕がそんなことを言われたのかが新たに気になった。
夢は深層心理とも呼ぶけれど、そんな問いが僕の中に生まれることの方が疑問だ。なら、やっぱり僕にそんなことを言いそうな人が夢の〝子ども〟の正体なのだろうけれど、……僕の知り合いでそんなことを言う人がそれこそ思い当たらない。僕がアネモネ王国で幸せなのは皆が周知の事実の筈なのに。意地悪を言う人なんて、今の僕の周りではヴァルくらいだろうか。だけど、夢の彼とは似ても似つかない口調だ。何より、意地悪とはいえヴァルもそんなことは僕に言わないと思う。
考えれば考えるほどどんな文脈でそう聞いてきたのかも、相手が誰なのかもモヤモヤしてきて疲労とは別の部分が重くなった。
「……プライド。もし良かったら、この後港に付き合ってくれないかな。今日は貿易船も多いし、珍しい食材を取り寄せる予定もあるから」
「?え、ええ。私は是非。だけど、レオンは良いの?もしかして仕事で何か思い出した?何なら今日はここで失礼するけれど」
いやそうじゃないんだ。返しながら僕は笑んで見せる。
彼女が驚くのも当然だろう。昨日船で帰ったばかりの僕がまた港に行きたいなんて話したらそう思うに決まっている。だけど貿易は順調だし、今日だって他にも彼女を持て成す準備はいくつもできている。ただ今のこのモヤつきを晴らしてくれる特効薬を、僕はよく知っているから。
目の前で花のような笑みを浮かべてくれる愛しい人。僕に全てを返し愛を教えてくれた人。そして
「なんだか無性にアネモネの風を浴びたくなったんだ」
愛しい、愛しい愛しい最愛の僕の国。
これ以上ない幸福な無二の場所。この国に居て、民の笑顔がある限り僕の幸せは永遠に変わりない。
素敵ねと微笑んでくれるプライドと共に、良かったら君もと誘えば「めんどくせぇ」と断りひと足先に去る友人を見送ってから僕は馬車を出すことにした。
プライドの手を取り、外に出る。
迎えてくれたアネモネの微風に、たったそれだけで心の靄がするりと晴れ出した。




