そして傍らに並ぶ。
「ステイル、もう読み終わったの?」
紅茶を片手に首を傾げる少女は、紫色の瞳を丸くして目の前に座る七歳の少年へ顔を上げた。
テーブルを挟んで向かい合う二人の姉弟は、勉強の時間も終えて優雅な休息を楽しんでいた。庭園に設置された丸テーブルには侍女の入れた紅茶のカップ、中央にはクッキーが皿に広げられている。焼きたてから少し時間が置かれて冷めたが、サクッとした食感と甘さは茶請けにはぴったりだった。
ちょうど本を半分まで読み終えたプライドだが、目の前ではステイルがパタリと本の裏表紙を閉じてしまった。一呼吸をいれるように紅茶に指をかける弟にプライドは感心してしまう。ついこの間まで文字を読むことすらできなかった筈の少年が自分よりも先に本を読み終えてしまったのだから。
すごいわ、と素直に褒めるプライドに、ステイルは無表情のまま頬を指先で掻いてしまう。
「……意外と簡単な本だったので。一頁の文字数も大したことがありませんでした」
きらきらの目で褒められたことに嬉しさと気恥ずかしさでつい視線を逸らしてしまう。
本当は彼女にもわかるように満面の笑顔で返して見せたかったが、表情の下にある感情の方が忙しくてそこまで回らなかった。無意識には表情になかなか出せない少年は、謙遜でもなく正直に彼女の読む本との文字数差を自白する。
養子となり、プライドの為に次期摂政として努力することを誓ったステイルは今では読書量が凄まじい。今も一冊だけ分厚い本を持参したプライドと違い、彼の横には本が積み上げられている。様々な系統の本を読む彼の選ぶ本は題目で選ぶことが多い。
気になる題目の本を片っ端から借り最後まで読む。中には今の自分では理解できないような難解な言葉ばかりを使う本もあれば、子どもの自分でも理解しやすい良書もある。そして今回読み終えた本は一応は後者だった。しかも一頁にかける文字数も空白が多く、段落わけや図解が多い。読みやすさという面では良かったが、時には大人が読むような本にすら手を出すようになったステイルには少し物足りなかった。
……プライドは、ずっと難しい本を読んでいるのに。
そう思いながら、ちらりと逸らした目を彼女の手元の本へと向ける。
自分が読んでいた本と分厚さこそ大差はないが、その一枚一枚にはびっしりと細かな文字が敷き詰められている。様々な系統に手を出しているステイルと違い、彼女が読んでいるのは歴史書だ。
時系列からその年に起きた事象が事細かに記録された本は、どれをとっても膨大な記録が書き込まれている。文字数も少なければ大して難解でもない本を読んでいたステイルが先に読み終わるのは当然だった。
「プライドの方が凄いです。まだ八歳なのに、そんな難しい歴史書を読み込まれているのですから」
「あ……ありがとう。けれど、ステイルも充分すごいわよ」
なんだか褒め合い合戦になっちゃうなと思いながら、ステイルに褒めて貰えたことを素直に喜びはにかんだ。
しかし、本音を言えばまだ城に来てひと月も経っていないのに文字を習得して大人向けの本まで読めるようになったステイルの頭脳の方が遥かに凄まじいと思う。さらには彼が読む系統は〝帝王学〟や〝人心掌握術〟などの部類が多い。
今もたった七歳の少年が「簡単」と言い放った本の題目は〝陥れの美学〟という確実に子どもが読む類の題目ではなかった。開いてみれば相手を陥れる為の手段というよりもそういった思考になることは上位に立つ人間に必要な思考だという持論本だった為、ステイルの望む内容は全くなかった。自分はそういった能力と知識を最初から欲しているのだから。しかも将来的には国で最上位である女王になるべきプライドの為に。今更その必要性をつらつらと文字で語られずとも意味はない。
ただし、プライドからすればステイルが無表情で黙々とそんな題目を読んでいると、今からでも自分を陥れるべく策謀中なのかしらと背筋が冷たくなった。それを「簡単」と言い放つステイルを見れば、やはり腹黒策士に近付いていると末恐ろしくも思う。
彼女のそんな危惧も知らず、プライドから褒められたのは嬉しいがそれでも自分がまだ彼女には全くかなわないことを僅かに気落ちするステイルは気持ちを誤魔化すようにカップへと口をつけた。……その時。
ピチチッ。
「!……ステイル見て、ほらあそこ」
頭の上から降ってきた小さな囀りに、プライドは顔を上げて振り返る。
見れば、背後に聳える木の枝から一匹の小鳥が彼女達を見下ろしていた。二人の視線を受けても気にせずピチチと囀る小鳥にプライドは音を立てないようにそっと席から立ち上がる。
歴史書は読んでいても鳥の種類には全く詳しくない彼女だが、こんな近くまで鳥が来るのは珍しいなと思う。ステイルの方を見れば、カップを片手にじっと無表情に鳥を見上げている。独り言のような声で「もうそんな季節になったんですね」と呟けば、この季節には彼もよく見た鳥なのだろうかと考えた。
ついこの間までは庶民として生活していた彼は、その鳥も毎年街でみかけていた。庶民には馴染みのある鳥だったが、こんな城にまで入り込めるのだと思えば半ば感心してしまう。
ステイルが興味を持ったらしいことに、プライドも更に鳥へ注意が向く。だがこれ以上近付いたら逆に逃げられてしまうかもしれない。考えたプライドは、テーブルの中央にあるクッキーを一枚摘まみ取った。
半分では多すぎると、半分だけ囓った彼女は残り半分を手の中でぎゅっと握り粉々に砕く。手の平を汚してしまうほどバラバラになった破片が風に飛ばされないようにと注意しながら、それを手にもう一度枝に止まる小鳥へと向き直った。
第一王女である彼女の行動に一度は大きく瞬きをしたステイルも、すぐに何をするつもりかは理解した。
「チチチ、おいでおいで」
囁くようにそう言いながら、つま先立ちで彼女が差し出す手の平に小鳥が枝の上から前のめったまま首を伸ばした。
チチッ、と小さく鳴いた後に大きく羽ばたいた小鳥は跳ねるようにして飛び立ち、彼女の差し出す腕に着地した。急接近してきた小鳥に思わず小さく声が漏れた彼女だが、そのままぐっと腕から指先を固めてみせる。すると細い腕をまるで一本の枝と間違っているかのように鳥はぴょこぴょこ伝い、彼女の手の平へと辿り突いた。手の平に広がるクッキーの破片をちょこちょこと啄み出す。
作戦が成功したことに、プライドもパッと目が輝いた。自分達に近い位置の枝で着地したのを見た時から、少なからず勝機はあると思っていた。
「ステイル!ほらっ、ほら!」
鳥が逃げないように声を抑えながら反対の手で弟を手招いて呼ぶ。
これにはステイルもカップを置き早足でテーブルの向かいから彼女の横まで駆け寄った。無表情だった顔で目だけが丸くなる。鳥が驚かないようにと足音にも気をつけて近付けば、ステイルが傍に来ても鳥は全く逃げようとしなかった。
彼女の手の平にあるご馳走を摘まみながら、何度も小さな嘴で彼女の手を突く。少しくすぐったくはあったが、それよりも隣に並ぶステイルが夢中で見つめる姿がプライドは嬉しかった。
「人に慣れているんですね。僕ら以外にも餌をあげた人がいるんでしょうか?」
「そうね。それにもしかしたら、城下の〝どこか〟から来たのかもしれないわ」
その〝どこか〟が、何処か。
敢えて言葉にはせず、ふふっと優しく笑い掛けるプライドにステイルも彼女のいわんとして含んだ意味が自然と頭に浮かんだ。
自分の街から来た鳥と同じかな、と。子どもらしくそう思えば不思議と懐かしくすら思えてしまう。自分のことを気遣ってこんな近くにまで鳥を呼んでくれたプライドに、今度こそ彼は意識して笑顔を作ってみせた。
さっきは恥ずかしさでつい返しそびれた、柔らかなその笑顔を向ければプライドもまた花のような笑みでステイルに応えた。
「撫でてあげて」
「えっ、逃げちゃいませんか……?」
「ステイルからなら逃げないわよ」
プライドの言葉が背中を押し、少年の細い指先が小鳥の背を羽根先までそっと撫でる。
柔らかな感触とどこか擽ったい感覚に、もっと幼い頃にも触れたことがあっただろうかと頭の隅で思う。その時に傍に居たのが母親か、それとも他の誰かまでは思い出せない。ただ、のどかな街の庶民として生きていたその時の自分も、そして今本当の親から離れながらも大事な人の傍らにいる今の自分も間違いなく
「ほらね?」
幸せだと。
ステイルは、嬉しそうに微笑む彼女の横で静かにそう思った。




