秋風とメガネ
メガネがあれば完璧なのに、と僕は思った。
放課後の図書室で彼女はいつも本を読んでいる。
机を1つ空けたところに座った僕は、本を読んでいる振りをしながら、俯いた彼女の白いつむじと、滑らかなおでこと、やわらかそうなまつ毛を眺めている。
放課後の図書室で本を読むような物好きは、どうやらこの中学では少数派らしい。静かな図書室で僕と彼女はいつも二人きりだった。
互いのページを捲る音だけが、断続的に響く。
3組の中村さん。
僕は5組だから、彼女がどんな子なのかはよく知らない。長い髪と白い肌、小さな奥二重の目と厚い下唇。決して派手な出立ちではないから、男友達同士の下世話な猥談で名前が上がることは少ない。
でも図書室の窓際の席に座り、ハードカバーの小説を読む彼女の姿は、古の書物を読み解かんとする天女のような、神々しい美しさに満ちている。
ページを捲る指先のしなやかさ、文字を追う視線の流れるような動き、時折小さく首を傾げるその仕草もまた、芸術作品の一つと言っても過言ではない。
図書室という額縁に飾られた彼女は、どんな巨匠が描く美の女神をも凌駕し、究極の美の頂に達しつつある。
ただ、一つ足りない。
それはメガネだ。
彼女が放つ美しさは、この殺風景な図書室においては、些か誇張されすぎるきらいがある。
彼女という存在がこの空間自体を完全に支配してしまい、図書室という知の倉庫が蓄える莫大な情報の紋様を、紙面に水を注ぐかのようにぼんやりと散らしてしまう。
それは、太陽のような辺り一面を白く染め上げる美しさだ。夜空の月のように、背景で煌めく星達と折り合いをつけながら光る均衡がとれた美しさとはちょっと違う。
この静かな空間では、夜空の月の美しさがしっくりくる。
メガネが必要だ。
この絵画のバランスを取るためには、彼女の輝きを適度に抑制する、メガネが必要不可欠なのだ。
クラブ活動で一緒だった3組の奴にさり気なく聞いたところによると、彼女は教室ではメガネをかけているらしかった。きっと彼女の席からは黒板の文字が見えづらいのだろう。
それはつまり、椅子の横に置かれたカバンの中には、愛用のメガネが入っているという事。
しかし当然ながら、近視であろう彼女にとって、本を読む時にメガネは不要だ。カバンからメガネを取り出す様子はない。
歯痒い。
もどかしい。
すぐ近くに美麗なパズルを完成させる二つのピースが並んでいるというのに、僕はそれに手を伸ばす事は出来ない。
僕は意味もなく自分のメガネの位置を神経質に直す。
なぜ彼女は常にメガネをかけていないのだろう。僕のように日常的にメガネをかけ続ければ、やがてそれは体の一部となり、何の違和感もなく日常を送れるようになるのだが。
そもそも、メガネをかけている事がダサいという風潮が僕には理解できない。コンタクトレンズとか、レーシック手術とか、大人達がメガネをかけない方向で技術を発展させたがるのが疑問だ。メガネの進化に全資金と労力を費やせばいいのに。
時計はゆっくりと時を刻む。
西日が差しはじめ、窓から見えるイチョウの葉をオレンジ色に染めていく。
今日もそろそろ、彼女は帰り支度を始めるだろう。案の定、彼女はカバンを机に置いて、借りていた本を仕舞い始める。
その時、唐突に強風が吹いた。
その風は窓を叩き、木々を揺らし、イチョウの葉を大量に空へと舞い上がらせた。
西陽に照らされたイチョウの葉が、火の粉のように赤く燃えながら、空へと浮かび上がり、ゆっくりと舞い降りてくる。
炎の雨だ。
「すげぇ」そう呟いた僕は、彼女の事も忘れてその不思議な風景を暫く眺めていた。
自然が創造する絵画は、瞬きの間に描かれて、少しずつ形を変えながら消えていく。
この芸術作品に気付き、眺めることのできた人が、この学校では一体何人いるのだろうか。
運動部のやつらは相変わらずボールを追いかけていて、文化部の奴らは外の景色になど見向きもせず、帰宅中の奴らは飛び散る砂つぶに目を瞑ることだろう。
僕は何の気無しに彼女へと向き直る。
そこには、メガネのつるに指先をあてて、食い入るように窓の外の絵画を眺める彼女の姿があった。
静かな図書館。
西日が差し込む窓。
左手に本、右手でメガネのつるを支えながら、窓の外を眺める長い髪の少女。
完璧だった。
文句のつけどころがないほど、完璧な美しさがそこにはあった。
自然の生んだ芸術作品さえも凌駕する美の結晶に目を奪われ、僕は本で視線を隠す事も忘れて、じっと彼女の横顔を眺めていた。
やがて、全てのイチョウは地面に吸い込まれていった。
窓の外から視線を戻し、僕と目が合った彼女は、慌てた様子でメガネ外すと、そそくさと図書室を出て行った。
彼女の頬が赤く染まっていたのは、きっと西日の燃え残りだろう。
僕は放心したまま、彼女が座っていた空間、主役のいなくなった額縁をぼんやりと眺めていた。
翌日。
3組の教室の前で彼女とすれ違った。
メガネをかけた彼女は、廊下で友達数人と談笑していた。分厚いレンズのリムレスメガネ。なんだ、授業中以外でもメガネをかけているんじゃないか。
僕の存在に気づくと、彼女はメガネのつるに指をかけて、俯く。
挨拶するのもなんだか気恥ずかしいので、僕はそんな彼女を横っ面で意識しながらすれ違った。
普段からメガネをかけているのなら、図書室でもメガネをかけていればいいのに。なぜわざわざメガネを外すのだろうか。
僕には理解できない。
今日の放課後の図書室、彼女はメガネをかけてくるのだろうか。