4 王太子はアイリスとの婚約破棄を断行する
ついに大河の水を分水する工事が完成した。
文官たちは水門を開き、新しい用水路に水を流し始める際に式典を企画した。
しかし、現在国王は宰相を伴い、長期で周辺諸国外遊中。そのため、王太子に出席を要請する。
王太子ニコラスの答えはこうだった。
「自分は王太子だ。王族貴族の友好関係の確立という大事な仕事に従事している。新しい用水路だか何だか知らないが、そのような下々の者がやるような祭りに出ている暇なぞないわっ!」
文官は次にこう問うた。
「ホールデン伯爵閣下が許されるなら代理出席したいと言われています。お許しいただけますでしょうか?」
「ホールデン? 聞いたことない名前だな。ろくにパーティーに出ていないだろう。ふん。将来、自分が王位に就いた折にはそういう暗い性格の奴に重要な役目を任せるつもりはないからな。今のうちから庶民どもと仲良くしておけばいいだろう。友だちが出来るだろうからな」
文官は内心安堵して退室した。ニコラスに領民の前であの態度で接されたら暴動が起こりかねない。伯爵の出席ならそういう心配は全くない。
用水の開通式の日はその地の輝かしい未来を保証するかのような好天だった。
最初に水門を開く役目は入植希望者と文官たちの中から希望者を募ったが、多くの者が希望し、抽選を行うことになった。
更に驚くべきことにそれらの者に加えて、ホールデン伯爵が自らの手で水門を開けたいと言い出したのだ。
さすがに文官たちは慌てた。最初に水門を開ける仕事は栄誉ではある。しかし、勢い良く流れ出す水流がはね、びしょ濡れになる仕事なのだ。いくら元文官とはいえ、貴族がやるべき仕事ではない。
それに対し、伯爵は笑顔でこう返したのだった。
「いや自分が水を浴びたいんだよ。この水を引く計画を立てて、予算を取るまで何回国王陛下に駄目出しされたと思ってるんだ? そんな水だよ。実際に浴びて実感したいんだ。頼む。やらせてくれ」
そう言われてしまえば、文官たちは苦笑して頷くしかない。
だがしかし、さすがにアイリスが「私も水門を開けて水を浴びたい」と言い出した時は、伯爵を含め、周りの者が全力で止めた。
これから開拓が始まる地域である。入植希望者用に粗末な小屋がいくつかあるだけなのだ。男性である伯爵はその場で自分で着替えても「飾り気のない貴族様だ」と笑い話で済むが、女性で公爵令嬢であるアイリスはそうはいかない。
アイリスは周囲の制止に不服そうな顔をしながらもこう言った。
「ならばせめて私も必ず記念式典に出席させてくださいね」
この申し出に伯爵も文官たちも頷くしかなかった。いくらアイリスが型破りの公爵令嬢と言っても、現場で着替えをする羽目になることのヤバさは承知しており、何としても記念式典に出席したいがための方便だったのではと後で気づいたが、その時は「もう遅かった」。
ともあれ水門開放のイベントは好天の下、盛大に敢行され、伯爵以下水門を開いたメンバーは全員がびしょ濡れになり、お互いに肩をたたき合って、笑顔を見せた。
アイリスはそんな伯爵の姿に目が釘付けになった。婚約者がいる自分に自由恋愛などは出来ない。せめて目に焼き付けておこうと思ったのだ。
◇◇◇
「アイリス・フィンドレイ公爵令嬢っ! 僕はおまえとの婚約を破棄するっ!」
その日の王太子ニコラス主催のパーティーはいつもと色彩が違った。ニコラスによる婚約破棄から開幕したのだ。
アイリスはニコラスとの婚約破棄は全く嫌だと思わなかった。もはやニコラスに対する恋慕の情は全くないのだから。
但し、この婚約は国王陛下と宰相であり、父であるフィンドレイ公爵から「勉強嫌いの王太子を助けてやってほしい」と頼み込まれて成立した婚約なのである。最低限、破棄の経緯は明確な形にしておかねばならないだろう。
「婚約破棄の理由をお聞かせください」
ニコラスは不機嫌な態度を隠さない。そして、その周囲に何人も侍る貴族令嬢たちもアイリスを睨み付けている。
「何をしらじらしい。おまえとホールデン伯爵との不実な関係、この僕が気づかぬとも思ったかっ!」
(不実? 私と伯爵は一緒に事務仕事をし、共に水門の開門に立ち会っただけだ。不実というのはパーティーが終わるごとに貴族令嬢をとっかえひっかえ寝室に連れ込んだ王太子の方ではないのか。まあそれはいい)。
アイリスは冷静さを保ったまま続けた。
「それは誤解です。私とホールデン伯爵は不実な関係などではありません」
「だまれだまれだまれっ!」
ニコラスは自分の用意した舞台装置に酔いしれているようだ。
「ここにいる者全員がおまえとホールデン伯爵の不実な行為を目撃しているのだっ!」
(ああ)。
アイリスは察した。
(もう王太子の取り巻きたちには根回し済みってことですね。ありもしないことを見た見た言い張るのでしょう。国王陛下、お父さま、申し訳ありません。我が力及ばずです)。
「分かりました。不実な関係は存在しませんが、婚約破棄お受けいたします」
「チッ」
ニコラスは広間中に響き渡るような音で舌打ちすると続けた。
「強情者がっ! まあいいっ! 性格の暗い『壁の花』など、我が国の王族貴族にはいらぬっ! 庶民落ちの上、追放だっ! この大馬鹿女がっ!」
(庶民落ちか。それもいいかもしれない。あの開拓地で事務仕事をやらせてもらえたらいいな)。
そこまで考えたアイリスの背後から重厚な声が聞こえた。
「馬鹿はおまえだ。ニコラス」