3 アイリスは王太子の婚約者。しかし……
ざわっ
場はざわめく。
今度は伯爵が一歩前に出る。
「失礼ですがあなた貴族ですよね。このような仕事は本来貴族の方にやっていただくしごとではないのです」
伯爵の言葉にアイリスはまっすぐその目を見返し、淡々と返す。
「確かに私は貴族です。名前はアイリス・フィンドレイ」
ざわっ
場はまたもざわめく。
「アイリス・フィンドレイって」
「公爵令嬢じゃないですか」
「お父上のフィンドレイ公爵は宰相でしょう」
「それに確か王太子殿下の婚約者」
「そんな方にこんな仕事をやっていただくわけにはいきませんよ」
アイリスは今度は文官たちの方を向いて続ける。
「先ほどの言葉訂正させていただきます。私はこの仕事をやりたいのです。そして、父はあなた方文官のことを大変買っています。その方々がやってらっしゃることを学びたいと言えば、悪くは言わないはず。いえ、言わせません。それに伯爵。あなたも貴族なのに、この仕事をやってらっしゃるじゃないですか」
「しっ、しかしですねえ」
伯爵は当惑しながらも返す。
「同じ貴族でもあなたは王太子殿下の婚約者。言わば『パーティーの華』ではありませんか。本来なら今行われているパーティーの中心でダンスをされ、周囲の賞賛を浴びるべき存在では」
「ふふ」
アイリスは自嘲気味に笑う。
「私が王太子主催のパーティーで何と呼ばれているかご存じですか? 『壁の花』です。こうして話している今でも王太子主催のパーティーは行われている。だけど、その場から立ち去った私のことを探そうともしない。それが現実。ならば私も好きにやらせていただきます。あなたたちと一緒にこの仕事をしたい」
「いえ、でも……」
なおも粘る伯爵。
「伯爵。あなたも好きでこの仕事をされているのでしょう。私もそうしたい。大丈夫。あなたたちには一切迷惑をかけません。父には私からよく言っておきます」
伯爵はしばらく下を向いていたが、やがて大きく首を左右に振ってから顔を上げた。
「分かりました。アイリス様がそこまで言ってくださるなら我々も心強い。こちらこそよろしくお願いします」
「「「「「よろしくお願いしますっ!」」」」」
文官たちも唱和する。
アイリスは笑顔を見せる。しかし、内心焦ってもいた。
(私は国王陛下と父から勉強嫌いの王太子を何とかしてくれと頼まれて婚約した身。陛下はともかく父には怒られるだろうなあ。でも、いいんだ。このままじゃ私のメンタルがもたない。私のメンタルが潰れたら、そもそも王太子支えられないし)。
◇◇◇
焦りもしたアイリスだが、すぐに文官たちに混ざって仕事をすることに夢中になった。
王太子ニコラスは「王族貴族の社交がこの世で一番大事」というのが持論で、パーティーは毎週必ず開催された。もちろん多額の費用がかかるが、財務卿たる侯爵の一人娘がニコラスの取り巻きの一人になっている。娘を人質に取られているようなもので、少なくとも国王が外遊で不在のこの半年は財務卿はニコラスに逆らいようがなかった。
今まではただただ苦痛で仕方なかったアイリス。しかし、今は一連のルーティンさえ終わってしまえば、後は楽しい時間が待っている。
むしろルーティンの間にこみあげてくる笑いをかみ殺すのに苦労するようになった。
城の東の塔の事務室の扉を開ければ、文官たちが気ぜわしく書類を持って動き回っているか、口角泡を飛ばし、議論しているかどちらかだ。
アイリスは書類作りを手伝うことも好きだったが、議論をしているところを見ることが大好きだった。
「用水路をこちらにも分流させれば、より多くの開拓が出来る」
「既存の開拓予定地分を含めて水は足りるのか?」
「概ね足りると推算出来るが、再度検算してみる」
「分流予定地の土地の肥沃度は?」
「正直言って痩せた土地だ。牛糞堆肥での土壌改良が必要だ」
「既存の開拓予定地分を含めて牛糞堆肥は足りているのか?」
熱い議論は続く。アイリスが感心したのは文官同士は他者の意見について、疑問は呈し、時には批判もするが、相手の人格攻撃は決してしない。
ニコラスのように「暗い性格」と他者を呼ぶことは絶対にしないのだ。
そして、その議論の中心にいるのはいつも伯爵だった。
高貴な血を引く者が全て優れているとは限らない。ニコラスなどは、典型的な優れていない例だろう。
しかし、伯爵を見ていると国王陛下の言われるように、この人は確かに高貴な血を引いている。周囲に慕われ、担ぎ上げられる何かをいい意味で持っているとアイリスには思えてならないのだ。
そして、ある日、ある議論は行き詰まった。どうしても突破口の見られない袋小路に入り込んでしまったのだ。
「うーん」
伯爵は腕組みをして唸る。
「この問題さえ何とかなれば間違いなく成果が出るんだ。だけど、この問題のクリアは難しい。でもなあ、お蔵入りさせるにはもったいなさ過ぎる」
周囲の文官たちも頭を抱えている。
アイリスは少し逡巡したが、思い切って口を開いた。
「あの……私素人なので見当違いなことを言っているかもしれませんが、以前父から他国ではそういう時にはこういうやり方をしたと聞いたことがあります」
しん
場は静まる。しかし、それは僅かな時間に過ぎなかった。
「その手があったかー」
「うん。それならいけるっ!」
「それなら凄い成果が期待できるぞっ!」
文官たちが次々に歓声を上げる中、しばらく呆然としていた伯爵はやがて我に返るとアイリスに向けて突進した。
「アイリス様っ! あなたはっ! あなたはっ! 最高だっ!」
そう言いながら伯爵はアイリスの腰に手を回すと高々と差し上げた。
(!)。
みるみるうちに赤面するアイリス。伯爵はそれに気づく様子もなく、高々と差し上げ続けている。
アイリスは思った。
(この人。伯爵は私のことどう思ってるんでしょう)。
そして、慌てて首を振る。
(いえっ、いえいえ。私はあくまで王太子の婚約者。伯爵は魅力的な人だけど、それはそこまでのこと)。




