2 アイリスは事務仕事を志願する
東の塔の中の事務室は鉄火場のような騒ぎだった。しかし、それでも青年が入室すると、部屋の中の文官たちの視線が集中した。
「伯爵。あざす」
「そんだけの書類、一人で運んでもらってって、あれ?」
「伯爵、なんすか? その女性?」
「伯爵も隅に置けないなあ」
「伯爵? あなた、貴族だったんですか?」
アイリスは驚く。今夜は若手貴族はみな王太子主催のパーティーに半強制的に出席させられているはずだ。結構な数の者が王太子についていけなくて仮病を使って、欠席もしているというのもあるが。
「いやあ」
伯爵は頭をかく。
「ついこないだまでこいつらと同じ文官だったんですよ」
「文官が貴族に?」
伯爵は淡々と語り始める。
「私は文官の父とその妻である母に育てられました。小さい頃から自分も文官になるものとばかり思っていて、事実十八歳で学校を出て、一度は文官になったのです」
「……」
「ところが二十歳の誕生日に両親から『実は本当の子ではない』と打ち明けられました。ショックではありましたが、両親に恨みはありません。むしろここまで育ててもらって感謝しています」
「……」
「ところが話はそこで終わらなかった。養父に王城へ連れて行かれ、宰相たるフィンドレイ公爵閣下と面会したのです」
「!」(父と面会された?)。
宰相であるフィンドレイ公爵はアイリスの父である。
「宰相様から『国王陛下のお言葉をお伝えしたい。今は詳しくは言えないが、そなたは高貴な血筋を引く者だ。伯爵を授爵する故、これからは貴族として生きるように』と言われまして」
「!」
「もうびっくりですよ。凄い金額の支度金を渡されましたが、身なりを整えたり、作法の速成教育を受けたりしていたら、あっという間になくなりました。そして、パーティーにも出るように言われたんですが……」
伯爵はまた頭をかく。
「それではいけないのでしょうけど、私はどうもあのパーティーの雰囲気に馴染めなくて、正直言うとここで昔からの文官仲間と事務仕事をしていた方が落ち着くもんで」
「ふふ」
思わずアイリスは微笑む。本心からすると「実は私もあのパーティーの雰囲気にはなじめないのです」と言いたかったが、王太子の婚約者という立場から自重した。
「まあ自分たち文官は慢性的に人が足りないから、来てくれるのはありがたいですけどね」
「実際やってもやっても仕事はあるし」
「まあ国を富ますための仕事なんだから新しいことが出てくるのは仕方がない」
「豊かになった実感が伝わってくると楽しいし」
「結局この仕事が好きなんですよね」
あはははは 文官たちと伯爵は大声で笑った。
(はあ)。
アイリスは驚いた。
(父がよく我が国の文官は世界一優秀だと言ってたけど、確かに前向きで明るく意欲的みたい)。
(あれ?)。
アイリスは何の気なしに見た机の上に置かれた奇妙な図面に気づいた。普通の図面はきちんとした線が引かれ、その部分の長さが明記されている。だが、その図面はまるで「絵」のようだった。
「面白いでしょう」
気がつくと背後に伯爵が立っていた。
「あ……」
赤面するアイリス。
「これは『ポンチ絵』と言いましてね。隣国の画家が庶民にも分かりやすい資料を作るのにあみだした手法なんですよ」
「そうなんですか。確かに分かりやすそうですね」
「はい。ここの山がたくさん書かれているところが山脈。ここから我が国を貫く大河が発しています。豊かな水資源をもたらしてくれているのですが、その量が多過ぎ、ここの低湿地では水害が頻繁に起こっています。その反面、ここの平原は水が足りなくて未開拓になっている。だから、ここから分水して、平原に水を持ってきます」
「!」
「するとこの広い平原が開拓できます。人は既存の農家の次男坊三男坊から募る。他国から移民でくる人を入植させてもいい。この国の食糧生産量が跳ね上がれば、人口はまた増える。
増えた人口は商工業に従事させてもいいし、文化活動に携わせてもいい。そうすればこの国は物心両面で豊かになります」
(ほわあっ。何て目を輝かせて話すんだろう)。
アイリスは「ポンチ絵」より熱く語る伯爵の顔に目が釘付けになっていた。
だけど、すぐにそのことに気づき、再度「ポンチ絵」に目を落とす。
(あ、これは……)。
「可愛い。動物の絵も描かれているんですね。何の動物でしょう。馬かな? あ、伝説の冒険大陸エーフリカにいるという伝説の動物カバでしょうか?」
しん
場は一瞬にして静まる。
(あ、何かまずいこと言っちゃったかな)。
内心焦るアイリス。しかし、その後に起こったのは……
ぷっぷっぷっ ぶわっはっはっはっ
部屋中が大爆笑。呆然とするアイリス。
「はっはっはっ、伯爵、馬だってカバだって」
「はっはっはっ、いや、この絵じゃそう思われても仕方ないです」
「はっはっはっ、伯爵、それが何だか教えてあげないと」
「えっ、えーと」
顔を真っ赤にした伯爵が口を開く。
「それは『牛』なんですが……」
「あっ、うっ、牛なんですかっ?」
驚きの顔を見せるアイリス。
「はい……未開拓の平原は水が不足しているばかりでなく、土地も痩せています。そのため、ここ、酪農産地から牛糞堆肥を運んで、土壌改良する計画があるのです。それにしても『牛』に見えませんでしたか……」
がっくりと肩を落とす伯爵。
(あらら)。
そんな伯爵に更に驚くアイリス。
(伯爵。ちょっと可愛いかも。でも、このままでは可哀想よね)。
アイリスは手近の紙にさらさらと絵を描くと周囲に示す。
「あのちょっと描いてみたんですが、こういう『牛』の絵はどうでしょうか?」
しん
またも場は静まる。
おおーっ
今度は歓声が上がった。
「これなら誰が見ても『牛』ですよ」
「絵がお上手ですね。なかなかそういう人がいなくて」
「これからはこういう才能は貴重ですよ」
「こういう人がスタッフにいると助かるんだけどなあ」
アイリスはその言葉にずいと前に出る。
「あっ、あのっ、みなさんがよろしければ、私もこちらのお仕事をお手伝いさせてください」