1 絶望と出逢い
公爵令嬢アイリス・フィンドレイはパーティーの壁の花だった。
醜いわけではない。
ブラウンの髪色と瞳の色はなるほど派手ではない。しかし、しっとりした美しさを持ち得ていた。
公爵令嬢アイリス・フィンドレイはパーティーの壁の花だった。
婚約者がいないわけではない。彼女の婚約者はこの国の王太子ニコラスである。ニコラスはこのパーティーの主催者である。
それでも、公爵令嬢アイリス・フィンドレイはパーティーの壁の花だった。
彼女の婚約者王太子ニコラスはステージの中心にいて、入れ替わり立ち替わり数多くの貴族令嬢とダンスを踊っている。王太子と踊る貴族令嬢はみな、まばゆいばかりの金髪と作り物ではないかと思えるほどの豊かな胸を持つ。
そして、その貴族令嬢たちは意識的にダンスの最中、その豊かな胸をニコラスに押しつける。そればかりではない。ニコラスの股間に自らの太ももを突っ込まさせる者もいる。
(下品だ)。
アイリスは思う。少なくとも他国との「外交」にこのダンスは使えないだろう。我が国の品位が疑われる。
しかし、ここには、このニコラスの行動を咎める者はいない。ニコラスの周りにはダンスの相手の順番を待つ貴族令嬢とニコラスの行為に歓声を上げる貴族令息しかいない。
この「下品」な行動についていけないという意識を持つ者はニコラスから距離を取ってダンスを踊る。胸を押しつけたり、股間に太ももを突っ込んだりはしない。それは義務づけられてはいないからだ。
義務づけられているのは「ニコラスより上手なダンスを踊ってはならないこと」である。
性的アピールを主眼としたダンスより下手くそなダンスを踊るのは逆に大変なことである。かくして「わざと」裾を踏む、足を踏むという行動が要求されることになる。「ニコラスにはついていけない。だが、ニコラスの不興を買うわけにもいかない」。いやかつては王太子に諫言した勇気ある若手貴族も何人もいた。しかし、彼らは数か月前から国王が外遊に出た後、全員、王太子によって謹慎処分及びその後の沙汰待ちとされた。それがこの国の若手貴族の実態なのだ。
(ふうっ)。
アイリスは溜息を吐く。
ニコラスはいつものとおりアイリスと別行動で入場した。アイリスはニコラスより先に入場し、壁の花になる必要がある。そうでないとニコラスは手に負えない癇癪を起こすのである。
そして、ニコラスはアイリスに声をかける。
「はっはっは、アイリスッ! 今日も『壁の花』かっ? 性格が暗い奴はどうしょもねえなっ!」
「はい……」
アイリスは蚊の鳴くような声で答える。ここまでがルーティンだ。
後は主に下級貴族令嬢による「ダンス」という名目の「性的アピール合戦」が始まってしまえば、ニコラスはそっちに夢中だ。アイリスが退室しても全く気にもとめない。
だから、アイリスはダンス会場を後にした。会場は三階にあり、階下に兵舎が見える。寝静まっているようだ。兵士たちにとっては休むことも仕事なのだろう。
けれども、寝ずの番の兵士たちは緊張感をもって従事している。それはアイリスにも伝わってきている。
そして、城の東の塔。ここには文官たちが業務従事している。一晩中煌々と灯りがつき、「不夜の塔」の異名を取る。
アイリスは一度ニコラスに話したことがある。
「私たちが安心してダンスに興じていられるのも、兵士や文官たちが懸命に働いていてくれるからでしょう。そういった人たちへの敬意を持たなければいけないのではないでしょうか」と。
その返事は「アイリス。おまえは馬鹿なのか?」だった。
「あいつらは身分の低い生まれだから、働かねばならんのだ。身分の高い生まれの王族や貴族はそんなことをする必要も理由もないのだ。やることが当たり前のことで『敬意』とか言うんじゃないっ! そんな暗いことを考えている奴には『王太子妃』は務まらんぞっ!」
(王太子としてあのままで良いとはとても思えない。だけど、あの方の説得は難しいとしか言えない)。
アイリスはまた溜息を吐いた。
◇◇◇
ドシーンドサドサドサ
「わーっ。すみませーん」
一瞬、何が起こったか分からなかった。でも次の瞬間にはアイリスは自分が書類の山に埋もれていることに気づいた。
「だっ、だだだ、大丈夫ですかっ?」
ぶつかった相手の青年はアイリスの顔をのぞき込む。
「いえ、大丈夫です。びっくりしただけで、あ……」
相手の青年の顔を見たアイリスに衝撃が走る。
(ニッ、ニコラス様っ!)
しかし、すぐ首を振る。
(いやいやいやそんなはずはない。ニコラス様はフロアでダンスを踊っているのだ。こんなところにいるはずがない)。
呆然としているアイリスを見て、青年は焦る。
「ごめんなさい。まさか、当たり所が悪かったんじゃあ」
改めて青年の顔をまじまじとながめるアイリス。
(ちっ、違う。ニコラス様じゃない。金髪碧眼と背格好はそっくりだけど、ニコラス様はこんなに髪の毛がボサボサで無精ひげを生やしてなんかいない)。
ニコラスは業務とかは大嫌いだが、外見にはもの凄く気を遣う。お気に入りの侍女に気に入るまで整髪させ、ひげも剃らせるのが毎朝の日課だ。
「あの本当に大丈夫です。それより書類の山を崩しちゃって」
「ああ、これは前が見えないほど書類持った自分が悪いんで、あーっ、こうしちゃおれないっ! 早く書類を届けに行かないと」
「あっ、私も手伝います」
アイリスは手早く落ちている書類を拾い集める。
「あっ、あっ、そんな女性に、しかもぶつかった人に手伝ってもらうなんて申し訳ない。自分でやりますから」
「何言ってるんですか」
アイリスは苦笑する。
「お一人でこれだけの書類をお持ちになったら、また誰かとぶつかりますよ。東の塔まで持って行くのでしょう。半分お持ちします」
「いやでも……」
青年はなおも口ごもっていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「ではお言葉に甘えさせてもらいます。ありがとうございます」