コアラ - クラスメイトへの片思い -
ある七月の下校時、高校三年生の友達二人が駅までの道で話をしている。
「暢子はいいなあ。好きになってくれる人がいて」
二人は工藤暢子と親友の原田真理子だ。
「風見くんのこと?真理子も知ってるでしょ。私、彼には気がないの。タイプじゃない」
「そうだけどさあ。風見くんだってそんなに悪くないと思うよ、優しそうだし、顔はジャニーズ系だし」
茶化すように真理子が笑う。
横浜市内の郊外にある神奈川県立の進学校K高校の三年B組。この学校では一年生から二年生になるときにクラス替えが一度あった後、二年生から三年生に上がるときにはクラス替えがなく、二年間同じクラスメイトと過ごす。
風見仁志と工藤暢子が一緒のクラスになったのは二年B組に進級したときだ。中学校も違う二人はまさにそのときに出会う。最初はお互い普通の仲の良いクラスメイトだったが次第に仁志は暢子に惹かれていった。
仁志は、この学校の生徒としては極めて平均的だった。学区トップ校に通うだけあって世間一般からみれば、所謂出来る子の部類に入るが、高校として落ちぶれたとはいえそれでも毎年T大に複数人進学するK高ではごく普通の出来。本人はT大に受かるとも受けようとも端から思っていない。どこか国公立理工系学部に引っ掛かれば良しとするような平均的男子だ。スポーツは如何なる球技も苦手という致命的欠点をもっていたが、ただその欠点を補う程度に容姿には恵まれていた。仮に彼と二人で歩くことになった女の子には最低でも容姿の点で恥をかかすことにはならなかった。
暢子は可愛い才女という雰囲気の女子高生。大人っぽい感じはまったくなかったが落ち着いた雰囲気をもっていた。ショートカットが似合う顔は綺麗というより可愛いという顔立ちだがどこかエキゾチックな表情がちらりと顔を覗かせることもあった。背は低くはないがどちらかと言えば体つきは少し華奢だが儚さを感じさせるほどでもない。優等生的な女の子だが真面目な堅物ではない。高校生らしさを逸脱しない振る舞いには頭のよさを感じさせる。
二年生の終わりには仁志は電話や手紙で暢子に思いを打ち明けたが、暢子はそれに応えられないままでいた。三年生の始めには仁志は暢子が好きらしい、暢子は仁志を振ったらしい、という噂はクラスの公然の秘密となっていた。
「じゃあ真理子が風見くんの彼女になればいいじゃない!」
「うへぇ。でもあたしは暢子さんみたいに彼からラブレターなんか受け取ってませんからねー」
「あーあ。ひとの気も知らないで。三年生になってそんなこと考える余裕なんてもうないわよ」
「そうだよね」
「そうそう。一に勉強、二に勉強、ってね」
諦めたような笑いで終わる。
一学期の期末試験も終わり高校最後の夏休みが始まろうとしていたころ、元町のアービーズで風見仁志と友達の前田正夫が話をしている。
「風見、なんで元町なんだよ。なんでアービーズなんだよ」
「ハンバーガーなんてブクブクのアメリカ人の食べ物だよ。これからはこれだね」
ホースラデッシュの効いたローストビーフサンドは時代を先取りする街ヨコハマの高校生の自尊心を満足させた。
「ハンバーガーはアメリカ人の食べ物ねえ。っていうかマックよりここの方が客層も店内もよっぽどアメリカのファストフードチェーンなんですけど? あと十年したらアービーズが日本から撤退してるって請け負うよ」
「じゃあ、『昔、日本にもアービーズがあってさぁ、高校のとき元町の店によく行ったよ』って田舎から出てきた前田の将来の会社の同僚に自慢できるよ」
「元町のアービーズによく行った、か。今日がはじめてだしもう来ることはないと思うよ。それに将来の俺の同僚はきっとアービーズなんて知らないよ。だいたいさあ、元町、学校から近くないじゃん」
「うん、だからプレゼントは元町で買うのがいいかなって」
「プレゼント? 工藤さんにか?」
一瞬間を置いて仁志が答える。
「彼女の誕生日、夏休みの終わりなんだ」
それから一月ほど経った八月の終わりの昼下がり、仁志は図書館に向かっていた。九月になると高校生活最後の文化祭が待っている。今年はクラスの文化祭実行委員が見事に食品販売の権利を勝ち取ってきた。家庭科室を使って和食レストランを開く計画だ。文化祭なのでダイニングには和食に関する展示も行う。その調べものをグループで行う日だ。
夕方早い時間、調べものも終わりこれからの役割分担も決まり、文化祭に向けての本日のグループ活動は終了。ひとときの息抜きを終えたクラスメイトは受験勉強の現実に戻っていった。しかし、仁志にはもうひとつやることがあった。八月二六日。そう、この日は暢子の十八回目の誕生日だった。
家をでるときに、筆記用具とともにすでにトートバッグに入れてきたプレゼントをもって暢子の家に向かう。この日をグループ活動の日に提案したのは、仁志だった。図書館に行くことより暢子の家に向かうことの方がはるかに重要だった。
『図書館に行くと家を出て 遠い夏のことだっけ』
その夏にリリースされたばかりのRCサクセションのナンバーを心のなかで口ずさみながら仁志は暢子の家に向かって歩いていった。
「ごめんなさいね。暢子は、出掛けていてまだ帰ってないの」
暢子の母親が困ったように対応する。
「そうですか。お誕生日のプレゼントなんですが、これだけ渡していただけますか?」
「あらぁ、私が勝手に受け取ったら暢子が何ていうかしら」
「お願いします。もし暢子さんがいらないと言うなら返していただいても結構ですから」
「困ったわねえ。どうしましょう」
暢子の母親は心底困っていた。
「お願いします……お願い……します」
仁志にはこれしか言えなかった。
「そこまでお願いされたら……わかりました。お預かりするわ」
「あ、ありがとうございます!」
バッグの中から包みをだすと、大事そうに暢子の母親に託す。包みを渡しながら
「よろしくお願いします」
と、深々と頭を下げる。
「はい、わかりました。同じクラスの風見くんね。確かにお預かりしました。もう暗くなってくるから、帰りは気をつけてね」
「ありがとうございます」なんどもお礼を言って仁志は暢子の家を後にした。
汗びっしょりになったのは残暑のせいではなかった。
九月に入り高校生活最後の二学期が始まる。
「どうしたの? 暢子。浮かない顔して」
真理子だ。
「もう最低。お母さん、受け取っちゃうんだもん」
「へえ。……で、何を?」
真理子には察しはついていたが敢えて訊いてみる。
「誕生プレゼント」
「ほう。どなたからでしょうか?」
「もう! 分かってるでしょ! もしかしたら彼、来ると思ったから彼が来たらお母さんに出てもらってプレゼント断ってって頼んでおいたのに」
「居留守を使った上に母君に嫌な役を押し付けると? 工藤屋、お主も悪よのう」
「でも、あんまり一生懸命だからって最後に受け取っちゃったのよ。あれじゃお母さん、強引なセールスマンに何か売り付けられちゃうわよ」
真理子のつっこみを無視して暢子は愚痴を続けた。それを遮るように真理子が言う。
「でもさあ、うちらみたいな進学校で三年生のときの誕生日に男の子からプレゼントもらえる女子がどれだけいると思う? 暢子も風見くん以外からもいっぱいもらったの?」
「……まさか」
「でしょ? 風見くんがいなかったら暢子もプレゼントもらえませんでした組だったのよ。そりゃ暢子はもてるけどさ、実際行動に移す勇気を持ったのは彼一人だったわけ。青春の一ページに華を添えてもらったってこと」
「プレゼントもらえませんでした組でも構わないし、青春の一ページに華なんていらないってば」
「素直じゃないわね。じゃあいっそ返しちゃえば?」
「そんなことできないわよ」
「なんで? プレゼントを突き返す酷い女になりたくないから?」
「ううん。酷い女になってもいい。でも」
「でも?」
「せっかく持ってきてくれたのに、一度受け取ったものを返すのは失礼だしそれに彼に私のことでこれ以上傷付いてほしくないの。私が彼のこと好きになってあげられればいいんだけどそういう気持ちになれる自信がない。彼の気持ちに応えられないけど、もう必要以上に彼に傷付いてほしくないの。だから返すことはしないわ」
「そうね。受け取っておきなさいよ」
持ってきたものを受け取り拒否しようとしながら一度受け取ったものを返すのは失礼って? と苦笑したい気持ちを暢子の名誉のためにさらりと流して真理子は続けた。
「で、何もらったの?」
「……ぬいぐるみ」
「きゃはは。ずいぶん子どもに見られたわね。で、何のぬいぐるみ?」
「コアラ」
「何故にコアラ?」
「わからないわよ。彼、不思議ちゃんなところあるし」
「まあ、でもアクセサリーなんてもらってもそれこそ、それを付けて外を出歩く気なんて起こらないから、コアラのぬいぐるみも初々しい男子高校生から片思いの可愛い可愛い女の子へのプレゼントとしてはありかもね。もらった方もそのコアラくんを居候させとけばいいだけだし」
「はあ……」
暢子は溜め息を漏らす
「そうだ! 『もう私のことは諦めて!もう放っておいて!』ってそのコアラくんに毎日話しかけたら?」
真理子がいたずらっぽく笑う。
「そんなことしません! もう真理子なんか知らない!」
「はいはい、怒らない、怒らない」
このクラスの学級委員、石井智は世で言う進学校の学級委員のイメージから程遠い。まず第一に不良っぽい。学生服の内ポケットには常に煙草とライターが忍ばせてある。そしてエンターテイナーでありプロデューサーであった。智がどう担任と話をつけてきたのか、とんでもない席替えを提案してきた。
「さてみなさん、高校生活も残すところ僅かだけど、ここで素晴らしい席替えを提案したい。まず女子にくじをひいてもらう。そのくじに書かれた番号順に女子に男子を指名してもらい隣に座る。どう?」
「えー?」
クラスがざわつく。仁志は
(石井のやつまたろくでもないこと考えやがって)
と思う。
「趣旨が分かったら女子はくじをひいてくれ。一番はだれだ? さあ時間もないから早く相手を決めて順に座っていってくれよ」
智の指示に従い即席カップルが次々に席に着いていく。
「はい、次は?」
「はい。私」
暢子だ。仁志はこの状況下で暢子が自分を選ぶことは九九.九%あり得ないと思いながらも0.一%の奇跡に期待する。
「だれにする?」
智が促す。
「えぇーどうしよう。……じゃあ、中川くん」
(幹太かよ。なんで幹太なんだよ。よりによって)
仁志の心中、穏やかではない。中川幹太。人懐っこい丸顔にちょっとぽっちゃり体型。人当たりもよく好い人キャラの男だ。癒し系とも言える。気さくな奴で意地悪い言い方をすれば人畜無害。仁志とは一年生のときから同じクラスで仲も悪くなかった。ただ仁志は、幹太も暢子に淡い想いを密かに寄せていることを知っていた。暢子はクラスでももてる方だったが仁志が上手くいっていないことを知った己を心得た男子は怖じ気付き、自ら第二の玉砕候補に名乗りを上げる者はいなかった。ぎくしゃくしている二人を見てこれならクラスメイトとして接して普通に話せる関係の方がはるかに良いという判断だ。
「えへへ。工藤さん、よろしくね!」
幹太が暢子の隣に座る。
(あのバカ鼻の下伸ばしやがって)
隣と言っても小学生のように机を付けているわけではないので、通路を挟んでの隣だ。それでも、狭い通路越しに毎日幹太が気軽に暢子と話せることは面白いことではなかった。そう思うと仁志は居たたまれない気持ちになった。
このクラスは男子の方が女子より多い。従ってあぶれる男子が出てくる。仁志もその一人だった。首謀者の智もそうだった。最後の女子が相手を決めて席に着くと、智は一番後ろの窓側の席に陣取り仁志を呼ぶ。
「風見!お前はここだ!俺の隣」
「なんで俺が石井の隣なんだよ」
「いいから座れ。他の余った男は空いてる席に適当に座っとけ」
智が仁志に小声で話掛ける。
「愛しの暢子ちゃんに選ばれなかったお前には心のケアが必要だからな」
と、いいながらどことなく面白がってる。
「うるさい。こうなることなんて最初から分かってるだろ。お前がこの席替え思い付いたときからな」
「さあな」
「ちっ!……石井さん、石井さん、だいたいこのクラスは男三十人、女の子十五人のダンクラですよ? 十五人もの男が余るってそのオツムでは計算できなかったんですかい?」
「そんなわけないだろ」
「自分が余るのは想定外か?」
「いや。俺は最初からこの窓側の一番後ろに決めてたからな。だいたいこのクラスのしょんべん臭い小娘になんか最初から興味ねぇし。中学生みたいな工藤に熱をあげてるお前のようににお子ちゃまじゃねぇからな」
「うるさいバカ。工藤さんのこと中学生みたいとか言うな」
どうせ、智のA組の友達である片山龍一の彼女でありこのB組のマドンナであった斉藤あずさあたりに洒落で選んでもらおうという魂胆だったのにあてが外れたんだろ、と仁志は思った。
「最近、お前おもしれーし、余り物の冴えないあいつらの隣は御免だからお前を指名してやったよ。有り難く思え」
「ふんっ!」
秋も深まるころ、仁志と正夫が本屋に赤本でも見に行こうと戸塚の街を歩いていた。
「あれ?三橋じゃない?」
三橋絵美はB組のクラスメイトだ。性格がサバサバしていて男子にとっては恋愛対象というよりは話しやすい相談相手といった感じの子だ。若干天然なところもあったが、ただ美人ではあった。
「あら、B組男子のお二人。勉強もしないで街をブラブラとは結構なご身分ね」
「そういう三橋もじゃないか」
そう応える正夫に仁志はブラブラしに来たわけではないとちゃんと説明しろと思う。
「私は駅からバスセンターに向かってるとこ! 家に帰って勉強勉強」
「風見がお茶でも飲んでいかないかって」
そんなこと言ってないよと慌てて仁志が弁解に割り込もうとする。
「あら? 私、二人にナンパされてる?」
「クラスメイトをナンパしてどうする」
一応、冷静に仁志が答えておく。
「うーん。そうね。たまには息抜きも必要ね。三人で行きましょ」
仁志と正夫に下心が全くないにしても見た目が美人なだけに、絵美の方から行くと言ってくれたことで無理やり誘ったことにならず仁志はほっとする。だいたいなまじナンパされてもおかしくない容姿なのだから往来で、ナンパされてる? とか人聞きの悪いことは勘弁してほしいな、もっと自分の容姿を自覚した冗談を言うべきだ、と思った。
再開発の進まない戸塚駅西口の喫茶店でミルクを入れたコーヒーをスプーンでかき回しながら絵美が言う。
「この前の席替え、あれ女子には大、大、だーい不評、大顰蹙だったのよ。知ってる?」
「そんなもんですかね」
「そうよ」
「好きな人が選べるなんていいじゃん。そういえば前田は森さんに選んでもらったね」
「えへへ」
森佳江は超がつくほど素直で真面目な子だ。正夫が冗談だか本気だか気に入ってると公言している。何かその雰囲気に合わせるように、クラスの期待に沿えるように素直な佳江が正夫を選んだようだった。
「本当に好きな子を選んだ子がいるわけ無いでしょ!」
絵美が断言する。正夫は口元まで運んだカップからコーヒーを吹き溢しそうになる。
「勘弁してくれよぉ」
と情けない声を上げて正夫がおどける。正夫が佳江をどこまで本気で気に入っているのかいささか怪しいものだと仁志は思った。
「俺は結局誰にも選ばれなかった」
仁志が吐き捨てるようにつぶやくと、わかってないと言わんばかりに絵美が答える。
「あのさあ、暢子ちゃんに遠慮して風見くんを選べるわけ無いじゃん。彼氏じゃないことぐらい誰でも知ってるわよ、でも風見くんはね、女子の中じゃ暢子ちゃんのもの、触っちゃいけない腫物よ。暢子ちゃんが風見くんを選ぼうが選ぶまいがあそこで他の子が風見くんを選んだらよほど図々しい無神経かよっぽど情報網がないかどちらかね。どっちにしろ女子として軽蔑対象よ。それでも風見くんを選びたがっていた子はいるわよ。あ、言っちゃった。あ、それにそれ私じゃないからね。残念ながら」
「ああそれは残念だ」
と、仁志が白けた口調で無感情に返す。あれ? でもこれも容姿を自覚しない冗談だな、人によっては相当嫌味に聞こえるぞこれ、と思っていると
「もっと残念がりなさい!」
と畳み込まれ苦笑する。
「実はね、風見くんをあずさちゃんに選んでもらってひとまず丸く収めてもらおうって話も一部女子の間で上がったけど、あの短い時間じゃまとまらなかったわ」
絵美が更に裏事情に触れていく。
「ああ、斉藤さんならA組の龍一の彼女ってみんな知ってるから本気じゃないってわかるもんな」
正夫が納得する。
「でも、後からあずさちゃんに聞いたけどやっぱり風見くんと暢子ちゃん、それと、その……風見くんを選びたかった子ね、その子の三人の気持ちを考えると流石に荷が重すぎてそれはできなかったって」
「なんだ、斉藤さんの隣なら嬉しかったのに」
仁志が嘯くと、すかさず
「お前なぁ!」
「みんな心配してたのに馬鹿っ!」
と、二人から同時に突っ込みが入った。
「で、それは良いとして誰? 風見を選びたかった子って」
正夫が興味深々で訊く。
「それは流石に言えないわよ」
「だよな、しょうがないね。でも風見、よかったな」
ニコニコしながら正夫が仁志の肩を叩く。
「別によかないよ。俺、暢子ちゃんしか好きになれないし。それに彼女が選んだの幹太だし」
前言のあずさの隣の下りはただの強がりだったと言わんはかりに急に神妙になる。
「だ、か、ら、本当に好きな子を選んだ子なんていないって言ってるでしょ!」
「そこそんなに強調するなよ」
また正夫が情けなさそうに言う。
「それからねえ」
絵美が続ける
「風見くん、この前の英語の時間教室出ていったでしょ。ああいうのよくない」
「だって英語の大崎が出てけって言うから」
「そりゃあ、教室の後ろであんな授業態度なら大崎先生じゃなくても言いたくなるわよ」
絵美が呆れたように言う。
「石井の隣ってのがまた目立つからな。ところでこいつどこにいたと思う? ほら三階から屋上にあがる階段の踊り場あるじゃん、屋上に出るドアが締め切ってあるから誰も行かないところ。あそこにいたんだよ。俺が迎えに行かなかったらいつまでいるつもりだったんだろうね」
「良い友達を持ったわね」
「ああ。まあそうかもね」
バツが悪そうに仁志が答える。
「とにかく。派手なことしないで。風見くんが出て行ったとき暢子ちゃん唇噛み締めてずっと下向いていたのよ。『私のせいで風見くんがあんなんになっちゃったんじゃないか』って。すごく気にしてる」
「わかった」
「車輪の下気取りとか人間失格気取りとか全然かっこよくないからね」
「文学少女だな」
正夫が感心する
「自暴自棄な態度を学校で見せないで。真面目な風見くんに戻って。暢子ちゃんのためにも普通にしてね。前田くんも石井くんとツーカーの仲なんだから、あんまり風見くんを悪い道に引き込まないように言ってちょうだい」
「え?俺?あ、あぁ、わかったよ。石井も真面目だった風見がああいう一面見せているのが嬉しいんだよ。まあでもほどほどにしとけって石井に言っとくよ」
「よろしくね。で、風見くんはわかったの?」
二人はこの場では完全に絵美に仕切られている。
「わかった、わかったよ」
しぶしぶ仁志が了承する。しぶしぶという態度にでたが、あんな馬鹿な真似をしょっちゅうする気は毛頭なかった。
「反省してる?」
「……してるよ」
「さてわかったなら私は帰ってお勉強。君たち二人もお家に帰って真面目に勉強しなさい」
「はいはい。そうするか。風見も反省してるみたいだし、な?」
言われっぱなしで悔しい仁志は
「うん、もうわかってる。で、三橋はさあ、自分が美人だということをもっと自覚して発言すべきだと思うよ」
と一矢報いる反撃をしたつもりだった。しかし前後の脈絡なくこれだけ聞いても案の定何も伝わるわけはなかった。絵美はきょとんとして口を開く。
「え? ありがとう、でも風見くんの可愛い暢子ちゃんほどでもないわ、それにそんなこと言われてもここのコーヒー代は出ないわよ」
と最後はけらけら笑っていた。思わず仁志が
「いや、だからそういうところだって」
と指摘したが、その言葉を絵美が意に介している様子はなかった。噛み合わない会話を交わす二人をにやにやしながら眺めていた正夫は、はたと何をしに街に来ていたのかを思い出した。
「そうだ、赤本買いに行かなきゃ。ブラブラしに戸塚に来たわけじゃなかったんだ。風見、本屋行こう」
三人の短い息抜きのひとときが終わった。
年末の声も聞かれるようになるといよいよ受験が目の前に迫ってきていることを実感するとともに高校生活の終わりもひしひしと感じてくる。十二月最後の体育の授業は、それまで別々に授業を受けてきた男女が一緒になる。体育館に何面かコートが張られバドミントンを男女混合で好きに行う。言ってみればほぼ遊びだ。学校が用意した粋な図らいでもあった。
真理子が赤羽真由美と一緒に、仁志と正夫を誘いに来た。
「ねえ。ダブルスやらない?」
「いいねえ」
正夫が調子よく答える。
「じゃあ、前田くんは私とペア。風見くんは真由美と一緒ね」
「はーい。よろしくね」
「う、うん」
なんだかわからない展開に仁志も流されていく。
球技も不得意だからバドミントンもそれほど得意ではない。
テニス部の正夫はバドミントンも上手い。圧倒的に相手が強い。
それでも真由美はニコニコしながらバドミントンを楽しんでいる。
「風見くん、そっち!」
「あ? ああ」
シャトルを拾い損なう
「……ごめん」
「ドンマイ!」
ボロ負けで終わる。仁志としては情けないが、相変わらず真由美は楽しそうだ。
(あ、そういうことか。赤羽さん、そうだったんだ。いつからだろう、気付かなかった。でも気持ちには答えられないな。悪いけど)
仁志は真由美の気持ちを汲み取ったが気づかないふりを通した。
「お疲れ様」
「おつかれー」
体育の授業が終わった。
「真理子ありがとう!」
「え? 何が?」
真理子がとぼける。
「高校の体育で今日が一番楽しかった」
「そ、そう。それはよかったね」
「私はこれでいいの。風見くんと一緒にバドミントンできたし」
「……そうね」
「彼、やっぱり時々暢子ちゃんのこと目で追ってた。でもいいのよ。私、楽しかったし。良い思い出ができた」
いつもはどちらかといえば中立な立場で仁志にも頑張れと思っている真理子だが真由美とバドミントンをやっているときにも暢子を目で追う仁志に真理子は少し呆れた。と、同時に暢子が苦しみながら仁志に取っている態度と同じことを仁志は自覚することなく真由美に取っていると思うと仁志に苛立ちを覚えた。
「真理子ありがとうね」
「うん」
「さあ、これで元気百倍。受験に向けてまたがんばらなきゃ」
仁志も真由美みたいに前向きに見切りをつけられれば良いのに。このままじゃ暢子も仁志も二人ともだめになっていってしまうのではないかと真理子は心配になっていた。
自暴自棄な態度に出た時期を経て共通一次を受ける頃には学内の平均を十分下回る位置まできていた仁志はK高生とは思えない一次の結果を出した。この年の数学では後に米騒動と呼ばれるアスタリスクを使う問題が共通一次始まって以来初めて出され受験生を多いに混乱させたが、受験生の心を弄んだ文部省を恨む権利は受験者全員にあるので自分の点数だけが低い言い訳にはならなかった。二次試験に不得意な英語が入っていないことや倍率の低いことも条件に行くことを納得できる最低限のラインまで志望を落とし某地方国立大理学部だけを受験した。だがそれでも惨憺たる一次の結果からすると落ちることはある程度自明であった。端から行く気のない私立大は全く受けていなかった。一方、暢子は私立大の文系を志望していたが所謂難関私大の一つだった第一志望には辛くも受からなかった。男子と違いクラスメイトの女子の殆んどが現役で収まるところに収まるなか、どうしても望みを捨てきれず滑り止めに行くことを良しとしなかった。結局二人とも浪人することになった。それがぎくしゃくした二人の関係が遠因になっていたのか否かはわからない。
三月の終わり暢子はひとりで学校に進路の報告にきていた。受かった大学はあるが、第一志望を目指してもう一年頑張ることを担任に伝えた。それを伝えると担任に挨拶をし職員室を出た。卒業した高校。校舎への入り口は昇降口からではなく職員、来客用の玄関からだった。帰りも当然玄関に向かい、そこで来客用のスリッパを脱ぎ自分の靴を手にとった。ここでふと最後に昇降口から表に出たいと思った。自分の靴を手にしたまま靴下が汚れるのを気にしながら廊下を進み昇降口まで来た。春休みの夕刻、春分の日を過ぎた夕日も西にだいぶ傾いていた。誰もいない昇降口。3Bと書かれた下駄箱を眺める。いまはまだ自分達が使っていた余韻があるが、あと十日もして新三年生が使い始めると自分達が在学していたことは完全に過去となりこの余韻も消し去られてしまうのかとぼんやり考えていた。物思いに耽っていると、誰もいなかった昇降口に誰かが入ってきた気配を感じた。
「あ、工藤さん」
仁志だ。
「風見くん?」
暢子が息を呑む。
「卒業生は玄関から入るのよ」
あまり話をしたくない相手だが、必要最低限の決まりは伝える。
「知ってるよ。そういう工藤さんだって昇降口には用はないはずでしょ?」
暢子は黙っている。
「小谷先生に報告にきただけだよ。一つだけ受けたO大落ちたって。その前にちょっと昇降口に寄りたくなった」
話を続ける仁志に暢子は誰も来ないうちに早くどこかに行ってほしいと願った。
「ごめんね。俺のせいだよね?」
唐突に仁志が謝る。
「何が? 私が大学落ちたこと?」
触れてほしくない話題だ。特に仁志とはこの話はしたくない。きっとした眼で暢子が仁志を見る。
「風見くんに全然関係ない! 私と風見くんとの間に何の関係もないから! もう私に関心を寄せないで! もう放っておいて!」
堰を切ったように冷静さを失った暢子が捲し立てる。
「女の子を好きになって上手くいかないからって自分の大事なことも疎かにして目標を見失ってしまうような人なんて私好きじゃないから! その子が振り向いてくれないからって自暴自棄になるような人、私好きじゃないから! その子だって想いに応えられなくて、受験やいっぱいほかにあるなかで、人を傷つけていることが辛くて、どうしていいかわからないで苦しんでいたことをこれっぽっちもわからない人なんて大っ嫌いだから!」
そこまで喋ると暢子はわっと泣き出した。
「私、わたし、もうどうしていいか、わからない」
「く、工藤さん……」
「なんで? なんで私、風見くんの前で泣いてるの? もうなんにもわからない」
「落ち着いて。悪かったよ。みんな俺が悪かった。工藤さんのことが好きだって自分の気持ちばっかりで工藤さんのことちゃんと考えてあげられなかった。もう工藤さんのことは諦めるよ。だから泣かないで」
そう言って涙を拭くハンカチを暢子に差し出す。一瞬躊躇った暢子はそれを受け取らず自分のハンカチで涙を拭う。仁志が続ける。
「良いんだ。お陰で工藤さんの気持ちがいっぱい聞けたよ。三年生になってから殆ど話もできなかったから俺、工藤さんのこと全然わかってなかった。でも今日は最後に工藤さんの気持ちを言葉で聞けてよかったよ。これで最後で良いんだ。もう連絡もしない」
全てを諦めた表情でしかし心底優しい眼差しを暢子に向ける。
「連絡しない……とかじゃない」
全てを吐露した暢子の心の中に今まで見えていなかったものが見え始めた。
「え?」
「戻って。私を好きになる前の風見くんに戻って。二人で普通に話ができた二年生の頃の風見くんに戻って。私たちまた一年間頑張らなくちゃいけないのよ。もうこんな問題は片付けておかないと今年の二の舞よ。だから好きとか嫌いとか話ができないとか全部なかった二年生の風見くんに戻って」
仁志ははっとして少し考える。そしてこんな関係になる前、二人の仲は悪くなかったということをいつも考えていたことを思い切って切り出す。
「戻れるなら戻りたいよ。ほら、二年生のときの化学の実験覚えてる? 同じ班だったよね。工藤さんがさ、ホールピペットで少し塩酸吸い過ぎて」
「覚えてる。『酸っぱい!』って言ったのよね。そしたら風見くんが『え?バカ、吸っちゃったの?』って心配しながらも笑ってた」
やっと暢子が少し笑う。
「そう。思わず『バカ』なんて言っちゃったなあ、でもあの頃は自然にそういう会話できてたんだなって、クラスで全然口がきけなくなってからも時々思い出して、なのに何でこんなことになっちゃったんだろうって……」
「普通の仲の良い友達だったあの頃に戻りたいの。私ね、勝手な子。好きじゃないとか、気がないとか言いながら心の奥で風見くんを誰かひとりに取られたくないって思ってた。真由美ちゃんのこと、真理子にも言わなかったけれど、真理子にあの風見くんと真由美ちゃんのバドミントンの提案されたとき、『良いんじゃない?』って素っ気なく答えたけど、本当は真由美ちゃんにも取られたくなかった。私、ほんとに勝手よね」
「俺も幹太に取られたくなかった」
「あんな席替え気にしてたの?」
暢子が上目遣いで仁志を見る。仁志がしまった、あんな席替えもう気にするべきではなかったと思った瞬間、更に暢子が続けたことで救われる。
「でも、でもね、私も、風見くんが誰にも選ばれませんようにって思ってた。バカよね、じゃあ自分で選べばいいのに。でもそれはあのとき出来なかった」
「選ばれなくてもよかった。三橋が好きな子を選んだ子なんていないって言ってたから」
「あら? 私、中川くんのこと嫌いじゃないわ。別に好きよ」
と笑う。
「そういう意味じゃなくて」
「わかってるわよ。私、今、好きな人はいない。風見くんのこともまだ二年生のときの友達のままでいたい。仲の良い友達に戻りたいの。その先はまだダメ。あとは来年合格してから考えたいの。明日からまた勉強始めなきゃいけないし」
「優等生の工藤さんらしいね」
「私、優等生なんかじゃないってば。普通の女の子。優等生はこんなところで大泣きしたりしないもん。優等生は大学に落ちたりしないもん。私は大学に落ちた普通の女の子」
「また頑張ろう。そして来年二人で合格しよう。俺、S台に通うことにした。あんまり良いクラス入れなかったけど。来年は工藤さんと遠く離れないようにY大ぐらい受かるように頑張ろうと思う」
「そうね、私と離れないようにはどうかわからないけど、二年生のときの風見くんならきっとY大ぐらい受けていてもおかしくなかったんだよね、私、理系のことはよくわからいけど。私はね、K塾に行く、横浜の。近いから。あ、そうだ。ちゃんとお礼言ってなかった。コアラありがとう。一緒に勉強してるよ」
「あ、うん。なんかちょっと恥ずかしいよ、あのことは」
仁志が少し赤くなる。
「最初は困ったけど、今は部屋でずっと一緒。仲良しになった」
「そう。ならよかったよ」
仁志がはにかむ。
「だから重たい気持ちのない、仲の良い友達からもらったコアラにさせて。私、そう思っているから。そうしたらまだ部屋で一緒にいられるから」
「うん、いいよ、それで」
「ありがとう。じゃあ大事にさせてもらうね」
「ごめんね、無理やり押し付けて。さて、職員室には明日また出直して来ようかな。もう帰ろうか?」
「うん。……あのさあ」
だいぶ落ち着きを取り戻した暢子が少し言いにくそうに話す。
「……今日、小谷先生のところ行ってきて。私は先に帰る。ごめんね」
仁志を焚き付けておきながら暢子の気持ちには迷いがあった。
「え?……う、うん。わかった。真面目な工藤さんに戻ったね。来年、二人とも大学受かったらデートに誘っていい?」
直接それには答えず暢子が濁す。
「それまでは勉強頑張ってね。私も頑張るから」
『それまで』が大学に受かるまでなのか、二人の初デートまでなのか、暢子も答えを持っていなかった。
もうかなり低い角度まで下がってきた春の夕日は西に向かった扉を開け放した昇降口の奥まで照らし二人を優しく包んでいた。母校が二人を見守っていたのはその日が最後であった。四月から別々の予備校に通う二人を見守ってくれる校舎はもうなかった。