最終話
どれほどの時間そうしていたかわからなかった。ふと気がつくと辺りは暗く、日は沈んでいた。重い足取りのまま。何も考えることが出来ないまま、家に戻れば何事もなかったかのように彼女が居るのではないかという矮小な期待に縋って歩いていた。
家に戻ってきた。彼女はもう居ない。それだけははっきりとしていて苦しかった。ソファに腰を下ろし、何も出来ないまま時間だけが過ぎていく。
彼女と出会う前の自分に戻ってしまう。前の自分だったら、きっとそうなっていた。でも今ははっきりと、そうはならないと思えた。
自分は普通でもない、正しいことをちゃんとやれない、しっかりもしていないしまともでもない、おかしくて頼ることもできない、ダメでどうしようもない男だ。本当にどうしようもない。でも、それでも側に居てくれると言ってくれる人が居たんだ。
今までの人生でも、そう思ってくれた人が居たのかもしれない。きっと自分が塞ぎ込んで、知らぬ間に自分も誰かも全て遠ざけて自分を暗いところへ放り込んでしまったんだ。
それは初めて誰かに自分のことをそのまま打ち明けた夜、ここに居させてと、自分の胸に触れ、心に触れてくれた彼女が気付かせてくれたことだ。
これからの人生でまたどうしようもなくなってしまうときはあるのかもしれない。それでも彼女が教えてくれたことは決して自分の中から消えることはないと思った。
そして何より、彼女にもう一度会いたいという願いが自分を導いてくれるような気がした。不安や憂鬱に迷い込まないようにしてくれると信じた。
彼女と別れてから数日後、自分は彼女と訪れた図書館にいた。あるところへ連絡をするためだった。
「――もしもし?テックンか?……久しぶり」
相手はテックンだった。ずっと連絡を取る勇気が無かった。ただ彼女とあの時間を過ごせたのも彼のおかげだった。そのことも含めて話したいことがあった。
当たり障りのない話を少しした後に、テックンに言った。今までこんなことを話したことが、誰かをちゃんと頼ったことが無かった自分にとって恐ろしく勇気が必要なことだった。もし相手の負担や迷惑になったら、自分のことを疎ましく思うようになってしまうのが怖かった。
「実は……助けて欲しいことがあるんだ……」
もっと早く伝えられていれば、あそこまで自分は苦しむことはなかったただろう。けれど、あそこまで苦しんで、悩んで、辛かったからこそ彼女と出会えた。自分は変われたのだと思った。
どんなに不安が募っても、悪い想像ばかりが出てきても、誰かに話すことで何かが変わる。もちろん悪い方向に変わることもあるだろう。でも、良い方向にだって変わることもあると思えた。だから連絡をすることが出来たし、伝えることが出来た。
――本当に彼女はたくさんのことを教えてくれた。
あの日から、彼女と離れ離れになった日から長い時間が過ぎた。あっという間とは言えない時間だ。いくつも冬を超えるうちに、あの日々の記憶もおぼろげなものになってしまった。それでも彼女が変えてくれたどうしようもない男は、今日もどうにか生きていて、なんとか暮らせている。
ままならない日もたくさんある。また彼女と出会う前の自分に戻ってしまいそうなときもある。でも彼女との時間が、彼女の教えが、大樹のように心の隅々にまで根を張って、支えてくれている。
そしてこれからの時間は、あっという間に過ぎてしまうのだろう。
「……さ、食べよ。……どう?少しは上達しただろう?」
「……好きな味だよ。ふふ――ちょっとしょっぱい」
今も。きっとこれからも。
ご覧いただきありがとうございました。
反省点ばかりですが、この作品からは小説を書くという事の困難も含めた喜びを教えて貰えました。
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