第二十二話
外は今日も曇っていた。雪も殆どがそのまま残っていた。
やがて土手へ到着すると、彼女は土手の上から昨日二人ではしゃいでいた辺りを眺めていた。
「――やっぱり寒いね」
そう彼女に声をかけると、彼女は同じ場所を眺めながら小さくうんとだけ返事をした。それからしばらくの間、二人共何も話さなかった。
その間、彼女と出会ってから今日までのことを思い返していた。彼女と過ごした時間は自分が憂鬱に沈みどうしようもなかった時間と比べたら遥かに短いものだった。何度も泣いた。それまでの人生で泣いた数より泣いたのではないかと思えるくらいたくさん泣いた。泣きたいときに泣けた。彼女のおかげだ。自分の人生と比べたら些細な時間の長さだった。それでも、どんな時間よりも愛おしく思える時間だった。
「……もうそろそろなの?」
また彼女に声をかけた。彼女はその時何も言わなかった。小さく頷くと俯いた。ふと彼女の手に視線が行った。彼女の手は固く握られ、かすかに震えていた。まるで初めて会った日の彼女のようだった。
「――レイ?」
出来る限り優しく声をかけた、彼女は自分の方へ身体を向けるとそのまま自分の胸に飛び込んできた。彼女は泣いていた。
「……………」
そのまま声も上げず涙を流し続ける彼女を包み込むように抱く。
「――わたし……怖い……やっぱり怖い…………。いやだ……忘れたくない。いやだよ……消えたりなんて――!帰りたくない……!」
こんなに取り乱している彼女は初めてだった。もう何も怖くないと言っていたことは嘘だったんだろう。自分に心配をかけさせないためか、彼女自身にそう言い聞かせていたのか。そう思った。
何が彼女をそんなに怖がらせているのか分からなかった。そしてそのことを聞くことができなかった。彼女にしてあげられることが浮かばなかった。彼女が辛そうにしている姿が心に刺さり、いつのまにかまた涙を流していた。
「ボロ……わたしもここにいたい――ボロの側に……」
自分も彼女にはここに居て欲しいと心から願っていたし、そう出来る手段があるなら必ず実行していただろう。目を閉じて涙を流しながら考えてみても、何も出来ることが考えつかなかった。
彼女を一度放し、何の解決にならなくても、出来そうなこととして浮かんだことを彼女に伝えた。
「どこか遠くへ行こう、このまま!ここじゃない、どこか全然違う場所……!この街から離れればもしかしたら何か変わるかもしれない。電車に乗ればうんと遠くへ行ける、だから――」
嗚咽が混ざり、僅かに言葉が途切れた。すると彼女が言った。
「……ボロはあったかいね」
不思議な物が視界に入った。ふわりと小さな光の粒が浮かんでいる。最初は涙で視界が滲んでいるだけかとも思えたが、はっきりと見えていた。そしてその光の粒は彼女の足元から空へ昇っていっていた。
この光がどんなものなのか、はっきりしたことは何もわからなかった。けれど、あの日、川の上に彼女が現れたとき、最初に彼女を包んでいた光と同じやわらかさの光だった。そしてそれがどんなことを意味するのかすぐに思い至った。
その時が訪れたんだ。ずっと恐れていた時だった。
彼女が自分から離れると、少しずつ淡い光が彼女を包み込んでいった。彼女も自分自身を包んでいく光には気付いている様子だった。
その光景をただ見ていることしか出来なかった。止めることも出来ず、自分の無力さを感じていた。
「レイ……また会えるよね?その時はもっと遠くに行こう。たくさんいろんな場所に行こう。もっといっぱい見せたいものがあるんだ……料理も練習しておく……」
彼女がどう返してくれるかは、想像は出来ていた。それでも伝えずにはいられなかった。
「君はどうやってかは分からないけど、ここに来られたんだ。またきっと来られると思うから、きっと――」
彼女は笑顔を浮かべた。笑っているのに、見ている自分も悲しくなってしまうような切ない笑顔だった。
「わたしも、また会いたい……。でも、きっとここには戻れない……きっと全部忘れてしまう。無くなっちゃう……。きっと、もう――」
淡い光は彼女を包んでいった。そして次第に濃く、強くなっていた。
今度は自分が彼女の側に寄り、彼女を抱きしめた。身体が勝手に動いていた。離れたくない、離したくない一心だった。
「忘れてもいい。もし全部忘れても、俺のことが分からなくても、また教えるよ。思い出させてあげるから……前にも言ったろう?」
彼女も自分の身体に腕を回し、二人で抱き合っていた。光はどんどんと強くなっていった。
「…………ボロ?」
「――なに?」
「ありがとう――」
彼女が次に言おうとしている言葉が脳裏によぎる。
「――さよ」
その瞬間、彼女が言おうとしていた言葉を遮っていた。
「――レイ、約束だ」
聞いてしまったら本当にお別れになってしまいそうな気がして仕方がなかった。
「俺、君に必ず会いに行く。あの日君が来てくれたんだ……君が俺を変えてくれたんだ。どうしようもない男に、数えられないくらいのことを教えてくれた。次は俺の番だ。迎えに行く。どれだけ時間が掛かっても……異世界だろうとどこだろうと!絶対――」
そう言って彼女を力強く抱きしめた。
「――だから、レイ」
「……うん」
「またね……」
「……うん……」
抱いていたはずの彼女が腕の中で少しずつ小さくなっていくのを感じた。そのことを感じれば感じるほどに切なさは大きくなっていった。彼女の腕の力も少しずつ小さくなっていった。目を閉じるとさらに涙が溢れてきた。
彼女の温もりなのか、彼女を包んだ光の温もりなのかも次第にわからなくなっていった。目を開くのが怖かった。
「ボロ――」
彼女の声が聞こえた。目を開けて腕の中の彼女を見る。もう彼女は光に包まれていた。そして彼女を包んだ光から小さな光の粒たちが離れていっていた。
「――――またね――」
もう一度彼女の声が聞こえた。もう彼女の表情を直接見ることは出来なかった。けれどはっきりと、自分のことを見て微笑む彼女の姿が見えた。
その瞬間、腕の中の彼女の感覚が消えた。
光の粒が溢れて辺りを舞う。やがて全ての光の粒が曇り空へと消えていった。まるで降り積もった雪の時間が巻き戻っていくかのような光景だった。
そして最後の一粒が消えてしまう。腕の中には彼女が羽織っていたコートしか残っていなかった。
その場に膝から崩れ落ち、ただただ泣き続けた。どうすることも出来なかった。嗚咽も混じりながら、声を上げて泣いた。




