第二十話
そして夕飯を食べ終えた。少ししょっぱかったと思ったが、彼女は作ったシチューも全部食べてくれていた。誰かに料理を作るのも良いものだと思えた。
夕飯の片付けを終えて、シャワーを浴びたり、いつでも寝られるように整えていつもと同じようにリビングのソファーに腰を掛けていると彼女が側に来た。彼女が座れるスペースはあったけれど、少しだけ身体を横にずらす。そして彼女は自分のすぐ左隣に腰を下ろした。
しばらく彼女は黙ったままだった。
「シチューどうだった?……言ってなかったけど、自分で作ってみたんだ」
そう自分が言うと、彼女はこちらに顔を向けた。目が合って笑うかと思っていたのに、彼女は突然涙を流した。
「……しょっぱかった……」
そう言いながら彼女の瞳からは涙が溢れ続けていく。その姿に動揺を隠すことができなかった。
「――ごめん!無理させたね……鍋に残ってる分は俺がなんとかするから、その――」
自分が言ったことに続ける言葉を探していたときに、彼女は言った。
「ボロ……わたしここに来られてよかった。最初は全部が怖かった。でももう何も怖くない。……ボロのおかげ」
泣きながら微笑む彼女の姿を見ていると、自分も涙を流していた。彼女が明日居なくなってしまうことが妙に実感できてしまった。
「わたし、元いた場所では、従うことしか出来ることが無かったの……道具みたいなものだった…………でもここに来て、ボロが名前をくれて、好きなようにしていいって言ってくれて、わたしを受け入れてくれて、ここに居させてくれた。優しい料理も作ってくれた。こんなに暖かい気持ちがあるんだって、君が教えてくれた……」
彼女の言葉に、自分はただ涙を流しながら頷くだけだった。何か言葉を言おうとするよりも先に涙が溢れ続けていた。辛いからか、寂しいからか、嬉しいからか、安らいだからか。たぶんその全部だった。
「……ボロがまたボロボロ泣いてる」
そう言って、涙ぐんだままはにかむ彼女にようやく言葉が出た。
「俺……レイに、君にもっとここに居て欲しい……」
初めてだった。誰かに気を遣った訳でもない、自分の願望をそのままに、誰かへ伝えるのは。不安に苛まれることもなくただ素直な気持ちだった。
彼女は返事をしなかった。首を横に振り、俯くと大粒の涙がこぼれ落ちた。自分に何か出来ることはあるのかと考えてみてもまるで分からなかった。
しかし己の無力を嘆いて悲しむよりも先に、また彼女の手を握っていた。彼女はきっと自分以上に辛いのかもしれない。俯く直前に見せた表情が、そう感じさせた。
自分も、彼女も何も言わなかった。そのまま時間だけ流れていった。
お互いにいつのまにか涙は止まっていた。そして彼女の手の温もりをはっきりと感じられていた。その時、ふと彼女がもたれかかってきた。自分も彼女を押し返さないくらい身体を彼女にもたれさせた。
さらにしばらくすると彼女は言った。
「ねぇ、ボロ……もしわたしが本当に時間も場所も、全然違うところから来た何かだとしたらボロは、どう思う?」
「他の誰でもない……こうやって過ごせたのはレイのおかげだ。どこから来た何者であろうと、あの日会えたことを嬉しく思うよ」
「――ありがとう、ボロ」
少し間を開けてから彼女は明るい調子で少しふざけているかのように言った。
「そうだ、わたしここでこのまま寝てもいい?」
「それじゃ風邪ひくよ。ベッドでおやすみ」
うん、と小さな声で彼女は返事をした。そして自分の手を握ったまま立ち上がるとそのまま寝室の方へ向かいはじめた。手が伸び切りそうになっても離す気配はなかった。
「もう少しだけ、このまま」
そう言って彼女は微笑んだ。うなずいて彼女に応えるとそのまま立ち上がって、彼女に連れられて寝室へ入った。彼女は寝室に入ると手を離してベッドの中へ入った。そして立ったままの自分の方へ左手を差し出した。
部屋にあった椅子を彼女のベッドの脇に動かしてそこに座る。そして彼女の手を取り、両手で彼女の手を包んだ。
「……レイ、明日君が戻る前に聞きたいんだけど……」
彼女は、自分が続ける言葉を待っていた。
「――君の本当の名前は?」
自分の言葉を聞いた彼女は僅かな間目を閉じたあとに、首を横に振った。
「ごめんね、それは思い出せてないの……もしかしたら無かったのかもね!」
そうやって彼女は無邪気な笑顔を浮かべていた。そしてころりと表情が変わって、今度は真剣な眼差しになった。
「だからわたしは、レイだよ。ボロがくれた名前……」
そう言ってから彼女は少し間をあけると、話を続けた。
「わたしね、ボロに言ってなかったことがあるの……」
「言ってなかったこと?」
「うん……」
「それは?」
「ここでやらなきゃいけなかったこと……」
思わず息を呑み、彼女が続ける言葉を待った。
「――ボロを見つけること」
「俺?――いや、一体ボロって?」
「分からないの……。人かも、物かも、場所かも……何も分からない。でも――」
そこまで言って彼女は自分の手を強く握り返してきた。
「でも、わたし――ボロがきっと、わたしが見つけなくちゃいけなかったボロなんだって思うの」
そういう彼女はどこか不安げで、まるで彼女自身に言い聞かせているかのようでもあった。それでも、どうしようもなく日々を過ごしていただけの男からすれば、そう言ってくれる彼女に会えたことが、この上なく喜ばしいことだと感じていた。
「ありがとう。そうだと嬉しい……」
そう言って彼女に微笑みかけると、彼女も微笑んでいた。
それからいくつか話をしている間にだんだんと夜も更けて行った。
「わたしが眠るまで……こうしててね」
「――わかった」
彼女に言われた通り、彼女の左手を握ったまま、目を閉じて眠りにつこうとする彼女を眺めていた。穏やかな表情の彼女はやがて寝付いたようだった。
そっと手を離し、寝室をでる。ソファに横になってからすぐに、心地よく眠りに入ることができた。




