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第十六話

 一体なんと返事をすれば良いものか考えることができずに、自分は扉に背を預けて座ったまま何も返すことが出来なかった。


 何度も息を吸って、吐いてを繰り返しながら考えても彼女の言葉への答えは結局は出てこなかった。でも無視してしまおうとも思わなかった。一言ここに居ると伝えれば良いだけなのに、その言葉は出せなかった。出来ることなら何か伝えてあげたいと思った。


 ゆっくりと音を立てず静かに腰を上げ、扉と向かい合うように立ち上がる。そして手を寝室の扉に添える。こうすれば何か伝わるような気がした。さっき聞こえた彼女の声は、この扉一枚隔てたすぐ向こうから聞こえた。彼女はまだ側にいるのかもしれない。


 本当に自分はどうしようもない。彼女に伝える言葉よりも、どうしようもない自分のことばかり考えてしまう。


「ボロ……さっきはごめんなさい。わたし、変なことを聞いてしまったかもしれない」


 そんなことはない。彼女が教えてほしいといったことは変なことでもなんでもない。変と言うなら自分のほうだ。まして彼女が謝る必要なんてなかった。


「今は寝られてるのかな……ボロは何度も夜に眠れずに起きていること、あるよね……。なんとなく思うの。ボロは何かに苦しんでいるんじゃないかって……夜だけじゃない。わたしと居るときもたまにそう感じる」


 きっと自分がちゃんと振る舞えていないからだ。また明日、彼女と話すときにはもっとちゃんとしないと彼女が気疲れしてしまう。そしてだんだんと彼女が離れてしまうかもしれない。もっとしっかりと、普通でいなければいけない。


「何かは分からない……。それでも、ボロがもし苦しいならどうにかしたい。けど……もしわたしが――わたしがボロを苦しめているのなら…………ボロの側には居てはいけないって思う。離れたほうが良いって……。それくらいしか、できることが思いつかないの……」


 扉越しに聞こえる声。ずっとこの薄い扉一枚隔てたすぐ向こうから聞こえている彼女の声。一人つぶやくような声。その声は震えていて、きっと彼女はいま泣いている。何かに押し潰されそうになりながら、それでも負けることなく言葉にされていたように感じた。彼女は不安に負けなかったのだろう。


 そんな優しく、強い意志をもつ彼女の言葉に返すにふさわしい言葉を自分は持ち合わせていなかった。今はこのままソファに戻り、少しでも彼女が居続けてくれる日が続くのを祈りながら、少しでも自分に変化が訪れることを期待しながらまた明日を迎えようと思った。


「……ボロが、今日はこのままゆっくり眠れますように。おやすみなさい……」


「…………――俺は、どうしようもない男なんだ。本当に」


 ソファに戻るどころか、いつのまにか自分の口から言葉が零れ落ちる。自分以外の誰かに伝えてはいけないことだと思っていたことだった。


 困らせてしまう。いけないことだ。そう何度も頭の中では自分の考えが鳴り響いて苦しかった。誰かに心臓を握られてるようにすら感じた。けれど零れ落ちた言葉の流れが止まることはなかった。まるで急にもう一人の自分がどこかから現れてしまったかのようだった。


「こんなことを急に伝えられてもきっと困ってしまうと思う。でも、本当にそうなんだ……。君が教えて欲しいと言ってくれた俺は、そういうやつなんだ……。小さい頃から思っていたんだ。ちゃんとしていて誰かを困らせることなく、誰かの頼りになるようにすることが正しいことで普通のことだって。それが出来るのが当たり前のことで、周りのみんなと同じであるためには必要なことで、そうありたいって――あらなくちゃって」


 彼女が扉越しにどんな表情を浮かべているか、どんなことを考えているかなんて、こんなことを伝えた以上悪い方向にしか想像が出来なかった。これ以上話を続けて自分も彼女も苦しめる前に話を切り上げて、今までみたいに振る舞うんだ、と自分で自分を引き留めても止まらなかった。


「――しばらくの間はそれでも良かったのかもしれない。周りの友人やいろいろな人に認めてもらえた。でも、だんたんと歳を重ねていくうちに気が付かないまま自分はみんなと同じような人とは……そうありたいと思っていた姿とは違っていってしまったんだ。誰かと仲が深まるといつも、思っていた感じと違う、ちょっとおかしいって言われるようになった。働くようになってからはそれがどんどん頻繁に言われるようになって……。冗談だと思っていたし、実際に大半は冗談だったんだと思う。けど少しずつ不安になって悩むようになっていったんだ。でも……自分が誰かに頼りたいときにどうやって頼れば良いのか全くわからなかったんだ。急にそんなことを話したら困らせてしまう、迷惑をかけてしまう。それは正しくないことだって、そんなことばかり考えていた今までの俺自身が……いけなかったんだと思う……駄目だったんだきっと。俺はもうどうしようもないんだと一度思い至ってしまってから、その考えが、どうしようもないって些細な言葉がどんどん膨らんでいった」


 呼吸につまってようやく、自分が涙を流していることに気がついた。情けなく、頼りなく、不甲斐ない自分に思えたからではなかった。ずっと止められていた川の水が堰を切ったようにただ溢れ続けていた。


「俺のことを否定する自分がどんどん大きく強くなっていったんだ。頭の中身のバランスがぐちゃぐちゃで、どうしたらいいかも何も分からないのに、どんどんしんどくなり続けた。どんよりして……何もやる気が起きなくなって、締め付けられるような息苦しさだけはそのまま重たくなっていった…………。今まで楽しいと感じられていたことも全部――何もわからなくなって、身体は何かをしていても気持ちは動かなくなった。考えることも暗くなっていく一方だったんだ。どうしようもできなかった……。もう、とにかく離れたいと思った。どこかに居たいなんて何も考えられなくて、ただどこにも居たくないと感じてた。本当にどうしようもないやつなんだ……病院に行って診てもらったのに助けを求めるどころか、今まで通りに自分はまともだと、おかしくなんかないって振る舞わなきゃって後ろから追い立てられるような感じになってしまった。そうすればそうするほど自分はどうしようもない奴なんだって強く感じるようになってしまったんだ。本当はちゃんと行き続けてしっかり治さないといけなかったのに、却って追い込まれていくような気がして、行けなくなった。俺は――逃げてしまったんだと思う……。そうしてただどうすることも出来ずに過ごし続けていたあの日、あそこで、もう全部から離れて俺はどこからも居なくなることができる、全てから逃げ出せると思ったとき、君が現れたんだ……」


 ずっと涙が止まることはなく、話しながら嗚咽も混じっていた。ちゃんと音に、言葉に出来ていたとは思えなかった。ここまで彼女に一方的に話をして、ずっと止まらなかった言葉が一度止まり、自分の器の中身が空になった気がした。


 それと同時に、こんな話を聞かされてしまっては彼女もきっと困っているだろう。聞くに耐えられず耳を塞いでいるかもしれない。これで今までの時間もすっかり終わりになってしまう。そして彼女が離れてしまういつかを、確実に近付けてしまったんだろうと思った。


 一つ違ったことは、空になった自分の器に、また次々と自分で自分に不安が注がれていく中で、笑ってごまかすでもなく器用な言い回しを考えるでもなく、ただ彼女にお礼が言いたいと思えたことだった。


 どこからともなく現れて、ここに居たいと言った彼女と過ごした時間のおかげで、今日自分のことを知りたいと言ってくれたおかげで、今こうして彼女に自分のことを話せたのだと思う。彼女のおかげで何かが変わった。


 どんな言葉でもいい、ただ一言お礼を言って、この時間は終わる。


 そう思いながら閉じたままだった扉を開けた。


 彼女はうつむいたまま立っていた。そして扉を開けた自分を見上げた。頬には涙が流れていた。一言お礼を言うつもりだったけれど、まず先に謝るべきだろうと一瞬ためらったときだった。


「わたし――ここに来てから、何も分からかった。最初は怖くてどうすれば良いのかも分からなかった。また何か、やるように言われたことをすれば良いって思った。でも、ボロがたくさん教えてくれた……。お気に召すままって……自由にして良いんだって。名前も、この世界のことも、知らないこと、わからないこと。たくさん……。ボロが教えてくれることは全部本当のことで、きっとボロがわたしに伝わるように教えてくれたから納得できた――不安じゃなくなったの。それでね……」


 そこまでいってからさらに大粒の涙を流す彼女、自分もつられてさらに涙がにじみ視界がまばたきのたびにゆれていた。


 彼女はまた俯き、涙を拭いながら話を続けた。


「……ボロが教えてくれたボロのことはきっと、そのまま君のことじゃないって感じるの。ボロが教えてくれたことなら、もしかしたら本当のことなのかもしれない……。でもね、もし君が本当に君の言うとおりだったとしても――」


 彼女はゆっくりと自分を見上げた。


「わたしは君が辛くてもわたしにそのことを話してくれたことが、君のことを教えてくれたことが、うれしくて……やっと君の側に来られたような気がして、そう感じたら涙が止まらなくて…………」


 まだ自分の言葉は出ない、見つからなかった。ただ少し、小さく頷いた。それを見た彼女は涙を浮かべたまま微笑んだ。


 そして彼女は自分の方に近寄り、こちらの方へ手を伸ばした。


「ねぇ…ボロ?わたしボロが本当にそうでもそばに居たい…………気持ちだけでも、そばに居たい。ここに居させて……」


 自分の胸に、彼女の手が触れた。


 何も言葉は浮かばなかったけれど、不意に彼女を抱きしめていた。どこかへ行ってしまいそうな予感がしていた、儚く、何よりも確かな存在なんだと改めて感じた。さっきまで流れていた以上の涙が溢れて止まらなかった。


 どれくらいの間そうしていたか定かではなかったけれど、彼女が鼻をすんとすすった音でふと我に返った。


「……レイ、ありがとう。自分の人生にこんなことが起きるとは思ってなかった」


 そう言って彼女を放す。本当にただの一言だったけれど、こんなに自分の心から素直に出た言葉は今までの人生であっただろうか。


「わたしこそありがとう。明日もよろしくね」


 さっきまでの泣き顔がなかったかのような、見ていて安心させられる朗らかな笑みだった。


「こちらこそ。かなり遅い時間になったし、今度こそおやすみ」


「うん、おやすみさない」


 そして彼女がいる寝室から出て、自分の寝床に戻る。今までの夜とは比べ物にならないくらい澄んでいるような感覚だった。


 すぐにでも離れていってしまうと思っていた彼女が側にいてくれると言ってくれたことが、こんなに暖かく感じるとは想像もしていなかった。不安で澱み続けていた心が晴れたような心地だった。


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