第十五話
迷っている。何かを怖がっている。それでも絞り出したような声だった。
彼女は前にも突然何かを言いかけて、その日は何も言わなかった。きっとその時に自分に尋ねようと考えていたことを今聞こうとしているのだろう。
いつも何か聞いてきてくれるときとは違った雰囲気に戸惑う。彼女が聞こうとしていることは何なのだろう。自分が答えられることなのだろうか。思わず息を飲み込む。彼女が次にどんな言葉を口にするのか聞くのが怖かった。今までの時間が終わってしまうような予感がして怖かった。
覚悟が決まったのか、何も返事をしない自分にしびれを切らしたのか、彼女が口を開いた。
「――教えて欲しいの。……君のこと」
自分のことを彼女に教える、伝える。このことがどれほど今の自分にとって恐ろしいことか想像が及びもつかなかった。なんでも答えると言った。本気じゃなかった。それでも彼女がなんでも答えると言った自分の言葉を信じて聞いたのだと思う。だからこそ、しっかり伝えるべきだと感じていた。
でも、それでもきっと彼女がどうしようもない自分のことを知ってしまったら、彼女と過ごしていたような時間は露と消えて無くなる。拒絶されることはなくても、何も言わない優しさで、見えない間にお互い少しずつ離れていってしまう。他の人たちのように。頭の中のどこからか、そんな考えが湧いて出てきてあっという間に根を張っていった。
「……いつもレイが思う通りのような奴だよ、きっと。はは、でも少なくとも何かの主人公になれるような柄じゃないさ」
そのまま彼女が何かを返すのか待つことも考えることもなく自分の言葉を続けた。
「――まぁそんな奴だってことで、今日はそろそろ寝よう」
そう言って自分は立ち上がり移動する。寝室の扉を開けると彼女を手招きして、もう寝室に入ってしまうように促す。
彼女はまだ何も、一言も口にしていなかった。ゆっくりと自分に近づき、ドアの脇にいる自分のすぐ目の前で一度足を止めた。それでもまだ何も言わなかった。
自分が少しもちゃんと答えてあげられなかったからがっかりさせてしまったのか、彼女なりの信頼を裏切ってしまったことで怒らせてしまったか。楽観的な考えが一つも出てくることはなかった。
こんな自分のことを聞かされて気分が良くなることなどありえないのだ。彼女には申し訳ないと思う。でもこうするくらいしか出来ないと、どうしようもないと諦めに近い気持ちで彼女へ伝える。
「あはは、ごめんごめん……。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
そう言った彼女の優しい微笑みが、胸に刺さる。表情こそは柔らかかったが、どこか切なくなるような声色が彼女の本心に思えて余計に苦しくなる。
そっと寝室の扉を閉める。いつもならソファの辺りから見送り、彼女が扉を閉めるところだが今は自分が扉を閉めた。ドアノブにかけた手をすぐに離すことが出来なかった。
それからソファに寝転がる。目を閉じ、眠ろうと試みた。やはりすぐには眠ることができなかった。浮かんでくる不安や考えはどれも良い方向に進まなかった。彼女に対する罪悪感もそうだったけれど、これから先も今までのような彼女との時間が続くことはないかもしれないと感じた。
そして彼女が居なくなってしまったときのことを考えてしまった。あの日土手に行った自分に戻ってしまうのかもしれない。そう思うとどうしようもなく苦しくなって寝付くことができずにいた。
どんどんと頭の中で不安が大きくうるさくなって、眠らないままに見る悪夢のようだった。いよいよ耐え切れず目を開いた。部屋は当たり前のように静かだった。そのまま深く考えすぎないように目を開けたまま、焦点も合わせず天井を眺めた。
本当に静かな夜だった。風の音一つしない。暖められていた空気が冷えていく音すら聞こえそうなほどだ。
まるで世界に自分だけしか居ないような気がした。こんなことは物語の中に書かれている言葉で、頭の中で意味を知っていて想像はできても、実感することなんてないと思っていた。
きっと以前のように一人で過ごしていたら一度こんな風になってしまえばどうすることも出来ずにただ縮こまって過ごすくらいしか出来なかったと思う。でも今はまだ、彼女が近くに居てくれている。ソファに寝転がっていた身体を起こし、立ち上がる。
彼女が教えてほしいといったことは今の自分では伝えられない。どうなるかと何度考えたとしても、彼女にとっても自分にとっても良いことにつながるとは思えなかったから。
いずれ伝えられる日がくるかもしれない、彼女が離れていく日がくるかもしれない、また自分自身でどうにも出来なくなって以前のように戻ってしまうかもしれない。
でもこの夜は少しだけ、彼女がそばに居てくれたらきっと乗り越えられるような気がした。
そして自分は彼女が眠る寝室の扉の前まで来ると、閉まったままの扉に背中を預けて床に座った。さっきも今も、彼女に何か言うことはできなくてもこうしていれば大丈夫だと思えた。
しばらくして頭の中で膨らんでいた不安も少しずつ収まり始めてきた。いつか彼女が教えてほしいといったことを教えるときに、どうしたらしっかりと伝えられるか考えはじめていた。できる限りおどけた話し方で、あまり深刻な雰囲気になりすぎずにちゃんと普通に伝えれば、なにも自分が考えているような悪い方向へは転ばない。
でも今日寝ようとする前に自分は、彼女からの期待や信頼を裏切ってしまった。些細な程度だったかもしれない。けれどこんなことを繰り返してしまえば、いつか伝える日が来るより先に彼女は離れて行ってしまうのだろう。やはりどう考えても、いずれ彼女が離れて行ってしまうことは変わらない。そう思うと不安とはまた別な、胸の苦しさを感じた。
「ボロ?……おきてる?」
突然彼女の声が扉越しに伝わってきた。




