第十話
一度大きく冷たい空気を取り込んで深呼吸。そして彼女に声を掛けた。
「レイ、おは――」
おはようと言おうとしたところで彼女の反応は少し思っていたものと違った。
「わ!ごめんなさい!勝手に――」
慌てた様子で何か言おうとしていたけれど、彼女が謝るようなことに心当たりもなかった。
「いいよいいよ、おはよう」
我ながらすっきりとした笑顔だったように思う。寝起きの倦怠感もこのときは小さくなってくれていた。
「……おはよう」
「レイは何を見ていたの?」
「外がキレイだったから」
そういって満足そうに微笑む彼女に、寒いところまで出なくても窓から十分見えるだなんて野暮なことは言葉にする気すら起きなかった。
「そっか……冷えたろうし、中においで。温かい物用意するよ」
「うん」
リビングに戻ってから自分は台所へ向かうとお湯を沸かして昨日買った即席スープと自分の飲み物を用意する。彼女の座る場所はすっかり定位置となっていた。先に用意したものを彼女に渡す。
「どうぞ、召し上がれ」
「ボロは?」
「朝は食べないんだ。ついでに飲み物用意したから気にしないで」
自分がそう伝えると彼女は頷いてから、小さくいただきますと言って食べ始めた。そして彼女が食べ始めると同時に台所に置いてある自分の分の飲み物を取りに行く。そのまま飲み物を飲みながら彼女に話しかける。
「レイは何かやりたいことはある?時間もあるし、付き合うよ」
彼女は何か考えているような、迷っているような様子だった。
「無理に作らなくても平気だよ。昨日も言ったけど、お気に召すままさ。何か浮かんだら教えて」
そうして適当に話を終わらせようとしたときだった。
「また、外に行きたい」
外と聞いて昨日電車に乗ったときのことが過り、自分の表情が曇る。それを察したのか彼女がすぐに言葉を続けた。
「――すぐにじゃなくていいの。またそのうち」
彼女に気を使わせてしまった罪悪感が芽生える。
「……大丈夫だよ。また外に行こう」
こう言えば芽を摘むことは出来なくても、埋めることは出来る気がした。すぐにでも行こうとは言えなかったのは自分に勇気がなかったからだ。
しばらくお互いの間に沈黙が続いたあとに彼女が口を開いた。
「……もう一つ、お願いがあるの」
今まで何かこちらから促したら答えてくれていた彼女からのお願いに驚かされた。どんな願いがあるにせよ、これだけはちゃんと叶えてあげなければならないと覚悟を決める。一度頷き、彼女の願いの続きを言うように促す。
「あの子――ライカを私に貸してほしいの」
覚悟を決めた割にそこまで難しい願いではなかった。自分の持ち物ではなくテックンのではあるが、殆ど置物状態だったしこの家の物は自由にしていいと言伝を受けている。彼女に貸して特に問題はないはずだ。それよりも問題はその先にあった。
「構わないけど、写真を撮りたいってこと?あのカメラ、動きはするけど写真を撮るにはフィルムを使わないといけないんだ。でも、それがもう手に入らなくて……」
「ううん、動くなら良いの」
彼女がそう言うのなら貸さない理由はない。
「分かった。持ってくるから少し待っていて」
そう言って飲んでいた飲み物を飲み干し、寝室からライカを取ってリビングに戻る。そして自分も彼女の斜め前、テーブルの椅子に座る時の定位置に腰を下ろす。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。……ねぇ、この子はどうやって使うの?」
「――え?」
てっきり使い方は知っていて、彼女の中でフィルムを使わずに何かしらの使い道があるものかと思っていたので、意表を突かれた。
「あぁ、えっと……」
そのまま一通り巻き上げやピントの合わせ方、シャッタースピードの決め方など使い方を教えていく。
「ざっとこんなものかな。ほんとに良いの?フィルムがないと写真撮れないけど……」
「うん。この子を使いたいの」
「そっか。わかった」
満足そうにしている彼女にそれ以上余計な口を出すわけにはいかないと思えた。
自分が教えた使い方を復習しながらライカをいじる彼女をしばらく眺めていると、唐突にこちらにレンズを向けて来た。驚いてぎょっとしたところで彼女はシャッターを切り、小気味の良い音が短く響いた。
そのまま彼女はクスクスと笑っていた。
「そんなに変な顔してた?」
「ううん。こうすればただ眺めているよりも覚えられそうな気がしたの」
彼女が撮れもしないカメラを使おうとした理由はそういうことだったのか。




