第一話
全てから逃げ出せる。そう思ったとき、彼女が現れた。
いつからこうなってしまったのだろう。ただ正しくあり続けなくてはならないと自分に言い聞かせていた。正しくあることを正しいと信じていた。幼い頃は全てが上手く行っていたはずだ。やがて歳を重ね、道を踏み外すことなく歩み続けてきた。それが出来て当然だと思っていた。
正しく歩んできたはずなのに、それなのにおかしくなってしまった。
自分に価値を見出そうとしてくれていた場所からは多くの人に迷惑を掛けた挙句、裏切るような形で離れ、家族とも多くの友人たちとも距離が出来ていた。
元に戻らなくてはと、最初に診断を出してくれた病院で薬やカウンセリングによる治療を受けるため、何かに追われるように一年ほど通った。しかし一向に快方へ向かう様子は現れなかった。この状態がこのまま一生続いていく。そう過ってしまって以来、元に戻るためにやらなくては行けない殆どのことを止めてしまった。
そして冬のある日、陽が沈み始める頃。固く決心を持っていたわけではかった。珍しく外に出られた。それから現在住んでいる家の近くにある土手を過ぎ、幼いころに幼馴染と遊んだ川のほとりへ来た。今のような状態になって以来、外に出られた時は訪れる場所だ。
ふと心に言葉が浮かんだ。その自分の言葉に何の疑いを持つこともなく、気が付けば前へ歩みだしていた。為すべき事を為さず、何かを行うにも全てに重たく澱んだ心が付き纏い、あるべき姿も、普通である事すら全う出来ず、全てが暗く沈んでいた。苦しかった。しかしこのときは導かれるように一歩が出た。ただ、楽になりたかった。
やがて片足が水に浸かり、もう片方の足も続いていく。どんどんと深くなる。更に少しずつ、前へと進んでいく。川の水は冷たく、痛く思えるほどだったが次第に慣れたのか感覚が麻痺したのか、分からなくなった。
「このまま進めば、もう――楽になれる。全てから逃げ出せる」
浮かんだ言葉が頭の中でもう一度繰り返される。ずっと沈んだままだった自分にとってこれ以上はない希望の光が指したような気さえしていた。
その時だった。
突然辺りがまばゆい光に包まれた。ほんの一瞬に過ぎなかった。驚いて光が来た方を、自分の頭上を見上げる。そして目を疑った。
見上げた辺りの何もないはずの空間が稲妻を帯びて裂けていた。その裂け目はどんどんと小さくなっていき、その中から淡い光を帯びた何かを出すとあっという間に閉じてしまった。
そのまま裂け目から出てきたものの様子を見ていると、最初はただ光っているだけで形もはっきりとしないものだったが、次第に形を変えながらゆっくりと高度を下げていった。
今度はその光がふっと消えると同時に、光に包まれていたものが、突然事切れた鳥のように力なく落ちていき、川の水の中へ消えていった。
目の前で起こっていた出来事をすぐに理解できずに僅かな間呆然としていた。何が起きたかさっぱり分からなかった。ただ川の中へ落ちていったものは人の形をしていたように思えた。
すぐに自分の感じたことの答えを思い知らされる。一見、人の形をした物のように思えたがそれは物ではなく人だった。落ちていった辺りの水面でもがく姿が目に飛び込んできたのだ。
次の瞬間には無意識のうちに身体が動き出していた。この時間は近くに人影は無い。上着を脱ぎ捨てて川の奥へと進んでいく。泳ぎは得意だったし、水深はある川だが濁流だったわけでもなかった。辿りつく頃にはその人はぐったりとしていたがなんとか川岸まで運ぶことができた。
自分より少し年下くらいの女の子だった。




