胸騒ぎ
外科に異動になってからあたしは、もう一度、勉強しなおしている。同じ仕事でも病棟が変わればやることも変わるのだ。
うちの病院の外科はスポーツ外来というものもやっているからマサキのような患者が多い。
過去に学んだはずの知識でも医学の進歩に伴って知識は上塗りして新しいものにしなければならない。だからあたしは本屋に行ってはスポーツ医学の本などを買いあさっては読むようにしているわけ。
自分で言うのもなんだが……こう見えて勉強家なのだ。
スポーツ医学の本を読むと、故障したアスリートが不屈の努力の結果、驚異的なスピードで回復して、また試合に復帰して前と同じような活躍をするという話をよく見る。
しかし、彼らは短いスパンでの試合では活躍できるものの、長期的に見ると、大体が選手生命を短くしてしまっている。場合によっては引退後もなんらかの障害を抱えている場合も少なくない。
やはり怪我は時間をかけてじっくり治していくのが正解なのだ。
そういえば、以前、入院していて律義にも病棟に挨拶にきたマサキと同年代ぐらいの小太りの少年は、やはり野球をやっているとのことだった。彼は交通事故で大けがをして、同じように野球ができるかどうか……という絶望的な状況に陥ったということだったのだが、1年間という長い時間の間にしっかりとトレーニングを続け、ついには先日復帰を果たしたとのことだった。
焦ることもあっただろうけど、じっくりと努力を継続したことは『素晴らしい』の一言に尽きる。
『まだ結果は残せてませんから』
底抜けの明るさで彼は言う。
結果云々よりまずは野球に自分が戻ってこれたことが嬉しいのだろう。
マサキの立場で考えれば、焦る気持ちも理解できないわけでもない。
でも焦りは禁物である。
そんなことをあたしは思いながら彼の様子をうかがっていた。
ところがマサキは焦ってなどいない。
彼から、『焦り』という感情の思考は一切漏れてこないのだ。
外科病棟の看護師として多くの患者を診てきたわけではないが、この病棟の患者は少なからず『早く治したい』という焦りの気持ちがある。そういう思考と感情は入院の時から誰にでも見える。
それはごく自然な思考なのではないかと思う。
早く治りたいにはいろいろ理由があるのだろうけどやはり早く健康になりたい。普通の生活が送りたいというのが主な理由だろう。
いずれにせよ、マサキのような切迫した理由がなくとも、ここの患者には焦りがあるのだ。
にもかかわらず……マサキにはそういったものがまったくない。
焦っても仕方ないと達観しているような感じでもない。
本人の言う通り切り替えているのだろうか。
それならそれでいい。
マサキは真剣にリハビリに取り組み、患部以外の箇所は常にトレーニングを怠らなかった。
真剣にリハビリを励んでいる姿はさすがにアスリートだという顔つきをしていた。
手術から30日程度……
ありえないぐらいの速さでマサキは回復していった。
『もしかしたら奇跡が見れるかもしれないぞ』
外科の医師たちは騒ぎ出した。
そもそも外科医はスポーツをやってきた人間が多い。
手術は体力勝負。
時には丸1日、手術室にこもることもある。
だから外科医は体力勝負なのである。だから彼らは身体を鍛えてきた人が多い。またプロアスリートを目指したものの志半ばで諦めたものも中にはいる。
いずれにせよ……
怪我をした患者が良くなって退院できる姿が見れるというのは嬉しいものなのだ。
手術から1ヶ月とちょっとでマサキは退院した。
病院というところは、手術が終わり、ある程度のリハビリ期間を終えて、経過観察のみになると退院になる。
ここから先のリハビリは、別メニューで通院して行なう。
時間がかかる場合はリハビリ専門の病院に転院したりもするのだけど、マサキの場合は予後が良いので、通院して経過を観察しつつリハビリをする。
マサキが本当に驚異的な早さで回復しているのならいい。
医師も驚異的に良くなったと言っているのだから、マサキが無理をしてとかそういうことではないのだろう……と思う。
でもなんだろう。
胸騒ぎが収まらないのはなぜだろうか……。