水色が見えた日
九月の晴れた土曜日だった。
山沿いにあるその店に着くと、
俺はベーコンサンドを注文した。
窓の外、港の景色を眺めて、
そのサンドを食べていると、
時間通り、Tが入ってきた。
「やっぱり来てくれたのね」
相変わらず、ブランド品に
身を包み、
化粧の匂いを振り撒く女の
ままだった。
Tは、向かいの席じゃなく、
俺の隣に座った。
「…来るさ。おまえとは違う」
さんざん振り回されたことを
皮肉ったが、言った後で
自分が嫌になった。
「ねえ、もう一度、やり直したい」
Tが媚びるように言った。
ベーコンサンドの端から、
レタスがはみ出てきて、
やたらと食べにくい。
俺は、端っこを皿に戻して、
Tに顔を向けずに言った。
「やり直しなんて考えないさ。
俺がここに来たのは、
そういうことじゃない」
声が掠れている。
「じゃあ、どうして?」
Tがマニキュアの指を丸めた。
「おまえに鍵を返すつもりで…
港を眺めるためでもない」
「みなと……?」
「おまえと大学の窓からよく
眺めただろ。
同じ港が、ここからも見えてる。
おまえは、そんなこと、
とうに忘れてるだろうけどな」
Tが窓の外を見ると、
港から船が出て行くところだった。
船は白い航跡を残して、
海原へ、黙々と進んでいく。
「……そうね…あなたと見てた」
Tは取っ手付けたように言った。
「そんな…急に…思い出すもんか。
なあ、何にも頼まないのか?
ベーコンサンドは止めとけよ。
食べにくい」
俺は、港を見たまま動かない
Tに言った。
「ねえ… 私、言ってなかった?」
Tの声が大きくなった。
「だから、注文、まだなんだろ」
「そうじゃなくて…
あなたの側にいたいってこと」
「今更、何を言ってるんだ。
さんざん、俺を馬鹿にしてたくせに。
ろくな仕事にもつけないって、
鼻で笑ったんじゃないか」
「そう…よね… あなたを
馬鹿にした言い方だった
かもしれない…
でもそれは、あなたは頑張れば、
絶対に一流になれると思ったから」
Tは、そう言うと、
俺が食べ残したベーコンサンドを摘んで、
口に入れ始めた。
レタスをこぼさないように
しているのか、
髪をかきあげ、
顔を少し上に向けている。
俺は、Tの仕草を、いつのまにか
見ていた。
わがままで、片付けが下手で、
金遣いの洗い女だが、
ふいに見せるその仕草が、
男の生理をくすぐってくる。
「さてと、鍵を返すよ。
仕事があるし、そろそろ行く」
俺は、鍵を置き、席を立った。
Tは何も言わず、
顔を両方の掌で覆っていた。
泣いているように見えたが、
きっと、泣いてなどいない。
Tの首筋には、
新しいネックレスが掛かり、
皮膚が少し、赤くなっていた。
肌が弱いくせに、
流行りばかり気にしている。
止めろと言ったのにまただ。
ふう…ため息が出た。
どうしたものか、窓の外に目をやる。
Tが何故この店に来てと、
俺を呼んだのか。
思い出の港を見ていて思った。
船が防波堤の辺りを進んでいる。
波の光が、キラキラと舞い上がる。
あの頃の夢が、
ころころ空に転がっているみたいな
鱗雲が見える。
「ねえ…いつだったか…
あなたの作った作品を見て、
私はあなたに言ったわ。
本格的に勉強してみたらって。
でも、あなたは、私の話なんて
まともに聞かずに、
いつの間にか、ただの人になってた。
私は、あなたに、
あなたのままでいてもらいたかったの。
こんな女、あなたは嫌よね…
わかってた。
でも、そうするしかないじゃない。
あなたは、どんどん、
あなたから、遠ざかって
いくんだもの。
私から、離れていくんだもの」
Tの声が店の中に響いた。
カウンターにいた、初老の男が
驚いた顔で、二人の方を見ている。
その向こうにいる、年老いた店主は、
カップを磨いていたが、
手際よくミルクティーを入れて、
Tのもとに置きに来た。
Tは店主の顔を見上げて、
首を傾けた。
すると、店主が言った。
「…落ちつきなさい」
店主は、Tに笑いかけていた。
俺は、ポツンと、
一人きりにされた気がした。
Tから離れようとしているのに、
どうしてだろう。自分に戸惑った。
Tは、俺を見ることもなく、
ゆっくりと店主に頷き、
ミルクティーに口をつけた。
そして、ふう…っと息を吐き出して、
再び、それを飲み始めた。
店主は、何事もなかったように、
レジの前に立っている俺に、
会釈だけして、
カウンターの中へ戻って行った。
勘定はしないつもりらしい。
「あのさぁ… 勘定、ここ置くよ」
俺は、店主に言った。
「……はい…でも、もう少し、
ゆっくり、して行ってください。
余計なことでしょうけど、
何か、二人で作られては……。
女性に大きな声を出させたままでは、
男が廃りますよ。
ベーコンサンド、食べ易く、
お切りしますから。
もちろん、サービスですから」
店主は、俺の身内のように、
しんみりと言った。
窓の外、港から出た船は
小さくなっていた。
そして、鱗雲は、連なり、
飛行機雲がそこに、突き刺さっていた。
港の船より、飛行機雲か…
そんな気になった。
俺は、しょうがないな…と、
Tの隣に座った。
Tの首筋が、舐めらかに見えている。
新しい、ネックレスなのに…
少しも赤くなっていない。
ネックレス、大丈夫なんだ。
「……私、もう、いい格好しないし、
あなたに、あなたのままでいてなんて、
言わないわ。言わないから」
Tの、微かな声が聞こえた。
「そうか……」
Tは急にしおらしくなっていた。
店主が、さっきより小さく切られた、
ベーコンサンドを運んできて、
俺の前に置こうとしている。
「どうぞ…
ゆっくり、していただけそうですか…
実は、この子は、
父親が早くに亡くなったせいか、
我が儘で……でも、根は
優しいんですよ」
店主は、言った。
「そう……あなたは、Tの… 」
「あっ、申し遅れました。
祖父、です」
店主は、俺にも笑いかけて、
何事もなかったように、
店の奥に入っていった。
俺は、その店が、Tの祖父さんの
店だとは知らずに、
ベーコンサンドは食べにくいと、
言っていたと知った。
Tは、ミルクティーを飲みながら、
しばらく、黙っていたが、
落ち着かない俺の様子を見て、
話しはじめた。
「祖父ちゃんの店にいるとね…
落ち着いて、話せる気がしたの。
だけど、やっぱり、性格が、出たみたい。
大声なんか出して、ごめん」
「それはいいけどさ、
だけど、どうして先に言わないんだ。
お祖父さんの店だって。
お前の家族の話なんて、
一度も聞いたことがないのに」
俺は、しおらしくなったTにも、
振り回されている気がした。
「だって、家族の話は嫌いだって、
前にそう言ってたでしょ。
私も、あなたのこと、知らない」
Tの言う通りだった。
俺は、家族から離れたくて、
今の仕事についたのだ。
まだまだ、駆け出しだが、
Tと過ごしているうちに、
そうなったようなものだ。
「なあ、お前のお祖父さん、
なんか、いい感じだな……」
俺は、目の前にある、
さっきよりは食べやすそうな、
ベーコンサンドを、一つ口に入れた。
Tも、髪をかきあげて、
私もと、一つ口に入れた。
「これ…美味しい……」
Tが、笑った。
俺は、ふと、笑えなきゃ…
いいものは、出来ないんだと思った。
二人で食べているとき、俺はまた、
窓の外を見た。
窓からは、飛行機がうっすらと残る
水色の空と港が見えていたが、
船はもう、見えなくなっていた。