空は涙を零し続けた
昨日から降り出した雨が、まだ続いている。
止む気配は微塵もない。人間という種族とその痕跡の一切を地球から洗い流すまで、この雨が止むことは無いのだろう。
偉い人が話しているのを盗み聞いたところ、既に大陸の9割が水の中に沈んだそうだ。たった1日でこの有様である。僕は溜息をついた。
遥か昔にも、人類はこのような水害に襲われたという。その際には、巨大な舟に動物と人間の雌雄のペアを乗せて難を逃れたのだと。いつかゴミ箱から漁った本にそんな歴史が書かれていた、気がする。
ただ、今回僕らは生き残れないだろう。僕らが身を寄せ合うこのシェルターは、かつての巨船に多分なれない。2時間前に北の20番シェルターからの連絡が途絶えた。あのシェルターは、ここよりずっと設備が整っていた。
ふと鼻先が濡れ、その冷たさで思わず僕は盛大にくしゃみをした。
上を見上げ、僕ははたと気づく。天井が割れ、そこから水滴が落ちてきていた。シェルターの限界が訪れたのだ。
人々は駆け出した。
水から逃げる為、地下に向かって。
僕はその場から動かなかった。誰かの肘が顔に勢いよく当たり、僕はその場に蹲る。痛みが引く頃には、周りには誰も居なくなっていた。鼻血を腕で拭いながら顔を上げる。
――――そこに美しい生き物がいた。
貧困な語彙で、何とか彼女の美しさを表現しようとするも、僕は途中でそれを止めた。
諦めたのではない。
人の生み出した言葉程度で彼女を型取りたくはないと思ったのだ。
――――彼女は、綺麗だ。
それだけが重要で、それ以外は、僕にとって全部蛇足だ。
目の前に佇む彼女は、多分本物ではないだろう。その姿は、どこか平面的で一定間隔でノイズが奔っていた。僕らの文明で言う、ホログラムに近かった。
………神さま。外宇宙からの使者。エイリアン。根源的生物。侵略者。モルモット。
彼女の呼び名は幾つもあるが、その全てが僕には無意味だ。
彼女は捕らえられていた。僕はその施設の警備員だった。僕は彼女を逃した。そして人は滅ぼうとしてる。
それが一昨日のこと。
僕は彼女に恋をした。
そして世界は、空から流れる涙に満たされた。
怒りの涙か、悲しみの涙か、そこまでは知らない。
「コチラに来イ」
彼女は僕に話しかけた。
心を感じさせない抑揚のない言葉だった。しかし、彼女が人間の言語で話しかけている。その事実こそが、彼女の心情を何よりも雄弁に語ってくれた。
僕はいっそ穏やかと言えるような表情で語り出した。
「……こんな卑しい身分の、食糧候補の僕にもね。家族がいたんだ。妹が2人。ここより少し上等な20番シェルターに避難してたんだけど、助けてくれてたりしてないよね?」
彼女は目を伏せた。それが答えだった。
「だよねぇ」
僕は苦笑した。
元から期待はしていない。
「恨んで、イるのか」
「まさか。恨んでないし、後悔もしてない。これはケジメの問題だよ。僕は何を犠牲にしても、君を助けるつもりだった。比喩抜きに」
「オマエはワタシの恩人だ。共に来て、欲しイ。生きて、欲しイ」
彼女は掌を僕に差し出した。
その手を掴めば、僕は生き残る、生き残れるのだろう。僕は迷わなかった。
僕はその手をとらなかった。
「さよなら。綺麗な君。出会えてよかった」
天井が砕けた。
真っ暗な空が落ちて来た。僕の身体はあっけなく濁流に飲み込まれる。
僕は彼女を見た。
最期の一瞬まで彼女を見た。
雫を湛えた姿は、ただひたすらに美しかった。