年賀状について思うこと
さて。作者はここ十年くらい年賀状のやりとりをしていない。
過去は清算しているし、今の付き合いのある相手には、こちらの住所を教えていないものだから、そもそも送ること自体ができはしない。
ああ、すがすがしいほどに、ぼっち属性である。
しかし、自由だ。
けれども学生時代は一応それなりに年賀状は作る物だ、という話だったので、書いたりしたこともあった。
とても苦痛だった。
ただ、当時は手書きが主流であったから、内容はそれなりにその相手向けの手紙だったように思う。
さて。最近だとどうだろうか。
年賀状のプリントされたはがきが販売され、さらにはパソコンがあれば簡単にいろいろな絵柄がプリントできてしまう。
宛名だって、プリントできてしまう。
住所録があれば、ボタン一つで年賀状のおもて面が印刷できるし、裏面だってデジタルでいくらでも簡単に済ませることができる。
それこそ、一筆直筆のメッセージを入れて終了だ。
一枚あたり作るのに一分もかからないのではないだろうか。
そのような年賀状の「意味」とはなんだろうかと、ふと思ってしまう。
生存確認のようなものといえば、まあそれはいいだろう。
昔を懐かしく思い浮かべるため、というのも、まあいいと思う。
ただ、そういう年賀状をもらって嬉しいものなのか、というのが私にはよくわからない。
仲がいい人とのつながりなら、年賀状はありだと思うけど、もはや記憶の奥底にしまわれてしまっている、「ほぼ他人」と年賀状のやりとりをするのはどうなのだろうか。
たとえばそれが「おひさー! 元気してるー? ねえねえ、今度会おうよ!」とかなら、年賀状の意味はあると思うのです。久しぶりに会いたいな、とか思って、でも電話連絡する勇気もないなんて時には、手紙はうってつけだから。
でも。その……「全部が機械で書かれただけの年賀状」に意味はあるのかなと思うのです。
しかも、全部できあい。オリジナリティなしで、直筆のメッセージもない年賀状ってどうなんだろう。
仕方なく送ってます感がひしひしではないだろうか。
ビジネスなら、そういうマナーだ、悪習だといえばそれまでなのだけれどね。
常識という名前の同調圧力が、「やらないお前は、ひとでなしだ!」と攻め寄るわけです。
まったく。郵政事業の救世主だと思う。あとは学生の健全なアルバイト的な意味もあるのかな!
年賀状の仕分けアルバイトとかは、健全ですね!
もちろん、デジタルだろうが「それが自分で作った作品といえる年賀状」であれば、いいとは思うのです。
相手の事を思いつつ、「あー、あいつイノシシの絵柄とか、ごつまっちょのほうがいいよね! じゃあ、この絵つかって、メッセージはこんなんでいこう!」とか、しっかり選んでみたり。
「去年一緒に山に入って山菜採りやったよな。故郷の山の写真プリントしてやろ」とかの思い出系も、ありですよ。
あとは、家族で写真撮って印刷するってのもあるのかな。
そういうのであるのなら、年賀状の意味はあるとは思うのだけど。
送らなければならない義務があるから、「プリントだけしたのをとりあえず送っておく」ことに対して、すごく抵抗があります。
年賀状だって「手紙」やん? だったら相手に対してなにかしら思うことがあって送るべきじゃん。
お礼の気持ちだったり、新年の健康を祈ってみたり。
それがない年賀状というのは、年賀状というよりは、折り込み広告みたいなものじゃないかと思うのです。
いいえ。広告の方がまだ「伝えたいこと」があるからマシかも知れない。
そこに、なにかがあるのだろうか。
送れないのならば、送らないでいいのではないだろうか。
無理して送る必要はないと思う。
さて、おつぎは「気合いをいれてデジタル加工した」ものについて。
最近話題になっているのは、「子供の写真」を年賀状に使うことの是非について。
私としては、「知人本人も写っているもの」を使うべきだと思っている。
子供の写真を使われても「だれやねん」となるに決まっているし、親子でちゃんと写っておけと思うのだ。
しかも結婚して名字が変わってたりすると、さらにイミフじゃなかろうか。鈴木さんが田中さんになってたらわからんかもよ?
え。お嬢様学校だから下の名前にさん付けがベースだとっ! くっ。
子供が生まれましたって、赤子の写真だけプリントして送ってくるとか、「そうか、ならば戦争だ」などとうっかり言ってしまいかねないわけだけれども。一般家庭の一般人同士であればそこらへんはもうちょっとリベラルなのかもしれない。
どのみち、年賀状のやりとりをすぱっとしてない身からすれば、どうでもいい話なのだが。
年賀状とは、相手への手紙であるのか、それとも自慢を垂れ流す場所なのか。
どっちなのだろうと、こっちはこっちで思ってしまう。
ちなみに、子供の写真を年賀状に使う場合は、細心の注意を払うべきだろうと思う。
子供の写真を大多数の人に「住所付きで送る」ことは、危険であると最近は言われるようになった。
もちろん、送り先の相手からの流出というのは、さほど気にしないでいいと思う。そういう仲だからそういうの送るのだろうしね。
信頼は大切です。でもね。
たとえば、配送中にちらっと年賀状みるやろ? 仕分けとかのときでもいいけど。
かわいいこやなぁ、こら、住所写メっとこか! みたいなケースがないとも言い切れない。
送った先の相手は信頼できたとしても、はがきというものは封蝋されていない誰しも見放題の伝達方法だ。
だったら、封書にするのかといわれると、それはそれでまた別だろう。
年賀状っぽくない。
例えば、送り主のところに個人情報保護のシールかなんか貼っておくとかはどうだろうか。
それであれば、届け先の人の「知り合いの娘さん」という程度の認識になり、いくらか安全なようにも思う。
それはそれで、うちの娘は世界一美しい! って思ってやがる、ぷぎゃーなんて話にもなるのだろうか。
そもそも論として、「年賀状に個人情報保護シールは不敬」という話もあるのだそうだ。
だとしたら、写真の可愛らしい子が誰なのかを暴露する覚悟を持って、むしろドヤ顔で送るくらいの気概が必要になるのだろうか。
どのみち、これも私には関係の無い話なので、当事者さんたちでそれぞれ判断して、お互い楽しくやってくれればそれでいいのだけど。
否定的な事ばかり書いてきたけれども。
年賀状のやりとりを心地よく楽しくやっていらっしゃる方々も多いと思う。
それ自体は、とても良いことだと思うし、季節を感じる風物詩であることは確かなのだから、やりとりに苦痛を感じないのであれば、是非とも続けて欲しいとも思う。
私は別に年賀状すべてを根絶したいと願っているわけではない。
楽しくやれる人は楽しくやればいい。
ただ。義務で仕方なく年賀状を出す、というのが許せないだけなのだ。
年賀状は新年の挨拶だ。だから簡単に済ませていいのだ、むしろ挨拶をしないとは何事か、という考えの方もいらっしゃるだろうが。
それはもうスタンスの違いとしか言いようがなく。
相手のスタンスによっては、「あっさりした年賀状で不快」だったり、「子供の写真ばっかりで不快」だったり、「年賀状が来なくて不快」だったり、「年賀状がきてしまって返事を出さなきゃいけない義務感にとらわれて不快」だったりするかもしれない。
できることならば、自分の思いをぶつけるのではなく、相手がそれをみて「ほっこりできる」ような物であって欲しいと思う。
「したいこと」は楽しいけれど「しなければならない」ことは一気に苦痛をはらむものだ。
無理をしないで済む一年となりますように。私は謹んで願うばかりです。