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【超短編】ある特定の休日の朝。

作者: 髙木建之介




僕にピアノを教えてくれたのは、僕の母だった。




ジャズ・シンガーだった彼女は、自分が歌の練習をするために僕をピアノ奏者に育て上げる算段だったらしい。しかし彼女がいなくなってしまった今では、その真意を知る(すべ)は僕に残されていない。




ちなみに僕は父からはビールを教わり、祖父からは煙草(たばこ)を教わった。そして祖母からは、避妊の方法を教わった。




それだけ書くとなんだか僕がとてもおかしな人間のように思える。でも本当の話だ。




ピアノとビールと煙草と避妊――つまりセックス。




そう書いてしまうとずいぶん僕が荒くれ者のようにあなたは思うかもしれない。




実際、そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。僕個人としてはそう思う。




だから少し僕のディテールを聴いてほしい。そして僕がおかしい人間なのかそうでないのか、それについてあなたが判断すればいい。そう思う。







僕はその地域有数の進学校に入った。(ほとん)どトップの成績で。高校の話だ。




そこは全国の高校の中でも学力の高い学校のひとつだった。全国統一の高校生の模試の結果が、我々のレベルの高さを数値化してくれていた。




模試の結果のランキングを5つのグループに分けるのなら、その一番上のグループにその高校は位置していた。なんの疑いの余地もなく。




しかし、入学してから我々の全国的な順位が上がることは皆無で、高校1年生の夏の模試で、その順位は全国で半分あたりのところまで落ちることになる。




なぜなら学年の半数がセックスを覚え、酒を飲むようになり、煙草の味も知るようになるからだ。




そこからの凋落(ちょうらく)っぷりときたら、まるで1929年のアメリカの株価のようだった。




高校2年の夏の模試で我々の高校は最下位のグループに入ることになる。この頃には学年の大半は()()()になっている。




僕について話すなら、僕は彼らより少し早めに酒と煙草を始め、彼らよりも少し遅くガール・フレンドと交わった。




我々の成績は結局一度も上がることなく高校3年を迎えることなる。




高校2年が終りに近づく頃に勉強をはじめ、もがく者もいた。しかし大半は欲に溺れたままだった。




それは一度薬物に手を出してしまったジャズ奏者に似ていた。一度そのゾーンに入ってしまうと、多くの場合、もうこちら側には戻ってこられないのだ。







母は家でよく白人のジャズ・ヴォーカルを流した。




母はとくにアニタ・オデイをよく聴いた――そしてもちろんよく歌った。端的に言えばアニタのファンだったのだ。




しかし、いくらファンだからと言って薬物に手を出すところまで真似ることはなかったと思う。




アニタは薬物から足を洗おうとしてその反動で今度はアル中になったという。うちの母は幸いアル中にはならなかった。なぜならその前に死んでしまったからだ。




僕は母の葬儀に来ていた女の子と仲良くなった。彼女は『シドニー』と名乗った。




マティーニを飲みながら彼女と話していると、なんだかすごく懐かしい感じがした。




お互いに2杯目のマティーニを飲み終わり、入っていたオリーブを食べ終わったころ、僕とシドニーのDNAは半分が同じことがわかった。




僕らはそれぞれに父親は違ったが、()()()()()から生まれし者たちだったのだ。




つまりこういうことだ。母は僕には言わなかったが、父と出会う前にジャズのライブで出会ったドラマーと一夜を共にして、シドニーを身ごもった。




シドニーからその話を聞いたとき僕がまず思ったことは「なぜ()()()()()()()ドラマーと恋に落ちたんだ」ということだった。




せめてサックスフォンかトランペットにしろよ、と僕は思った。ピアノ以外に僕は管楽器も好きだったから。チェットとかマイルズとかオーネットとか。そのあたりだ。




ちなみに僕の父はベース奏者で、そのドラマーとも何度かセッションをしたことがあるという話だった。




この一件から父が生前(せいぜん)よくビールを飲みながら「みんな母さんに夢中だった」と語ってくれたことに、僕は合点(がてん)がいった。「母さんが歌うとみんな母さんに恋をしちまうんだ」。




父は心優しい男だった。彼はヤク中の妻の面倒を最期まできちんと看た。母が脱ぎっぱなしにしたネグリジェを畳むのは父の仕事だったし、彼女が挿しっぱなしにしたドライヤーのコードを抜いて束ねるのも、いつも彼だった。




料理や洗濯もほとんど父がやったし、掃除もほとんど父がやった――残りは僕と妹がした。ときどき母がキッチンに立つこともあったが、それはある休日のある特定の朝に限られた。




母はその朝いつもどこか満足そうに煙草を吸いながらパンケーキミックスと卵と牛乳を混ぜ合わせ、フライパンに流しこんでいた。




コーヒーを淹れにキッチンにやってきた父に対して「昨日はとっても良かったわ、ダーリン」と言って父の胸の毛を撫でるような仕草をしていた。




そういう()()()()()()()が僕は嫌いではなかった。




何しろパンケーキは僕の母が唯一作ってくれる食べ物であったし、僕は母と父がそうやって二人とも満たされたようにじゃれ合っている姿がとても好きだったのだ。




「複数の女性を愛した男は孤独ではないが、本当の幸せには出会えない。ひとりの女だけ愛した男は幸せだが、残されたあとひどく孤独になる」




母が死んだあと父がビールを飲みながらそう言った。「お前はどっちがいい?」




僕は少し考えてから「どっちも嫌だな」と言った。父は笑ってビールの小瓶を僕に向かって傾けた。




(おわり)

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