「いただきます」をいただきます
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
よお、お兄さん。食事中も手帳とにらめっことは、刑事さんか記者さんかい?
――なに? 文筆家? 物書き仕事ってか。
こりゃまた、大変なことをされているもんだ。俺の中での文筆家っていうのは、締め切りなんて、あってないようなもの。悠々自適な自由人というイメージでなあ。
気が向いて、原稿書く時以外は、マイペースでのんびりという印象が強いんだわ。
――マイペースは、「自分にあったペース」なんだから、必ずしものんびりとイコールではない?
ふふ、こいつは失礼した。寸暇を惜しむのも、自分にあっていれば、またマイペースか。確かに、速筆の作家さんもいらっしゃるもんな。そうなると兄さんみたいに、食いながら作業というのも、おかしい話じゃないか。
ところで、お兄さんはそれを食べる時に、「いただきます」は言ったかい?
別に言っていなくても、とがめはしないよ。親じゃねえし、そもそもいただきますにどれだけの意味があるか、というのを考えると、俺は口に出さなくても構わないと思っている。
ただ、ご飯と同じく、「いただきます」も奪われないようにすることが大事だ。それを教えてくれた話がある。
おっ、手が止まったかい。興味があるってか。
なら、もう動かす準備をしてな。メモをしっかりとるためにな。
「いただきます」の起源。これはけっこう新しくて、一説によると、戦時の集団疎開の時に、学童の襟元を正すための、一つの儀式として定着した、お祈りなんだと。
作ってくれた人、命をいただくもの、全てに感謝するというのは、聞けばもっともな理由付けに思えるな。
けど、いまや飽食かつ駆け足の時代がやってきている。
もらう命に感謝している暇があるなら、とっとと食べて、一秒でも早くその命を有効に使え。そんな考えが、一部でまかり通っているのだとか。作った人に本当に感謝しているなら、冷める前に食べろ、ともな。
これらの賛否については、感情と効率のぶつかり合い。容易に納得のいく結論は出まい。
そして、「お祈り」というニュアンスさえ、信教の自由が許された現代日本では、多くの人にとって、ふわふわ宙を漂う概念だ。
いただきますは、もはや形骸化したあいさつに過ぎない。そう考える人も多いのではないか?
俺の母は学童疎開を経験している。朝早くに起きて、お坊さんとお経を読んだり、畑仕事や魚釣りをさせられたりしたのは確かなようだ。
反戦目的の創作などでは、これらのきつさが、強調されて書かれているのはお兄さんも知っての通りだろう。
実のところ、温泉に行ったり、おもちゃ作りをしたり、季節に応じたスポーツをしたりと楽しい思い出も多かったらしい。だが人間、辛くて暗いことの方が、語りやすくて、力が入ってしまう性質があるのかもねえ。
母親たちは毎日の仕事と、育ち盛りには物足りない食事量に、日々空腹を感じていたそうだ。
大人たちは密かにいいものを食べている、という話だったが、下手に勘ぐれば指導と虐待の的。今あるもので我慢するしかなかったのだとか。
そして、就寝時間が迫る夜のこと。みんなは、大きな部屋に雑魚寝をしながら、ご飯で出された梅干しのタネを、大事に大事にしゃぶっていた。あふれ出る唾液が、自分のお腹をいっぱいにしてくれると信じて。
コン、と小さな音がする。一人の女の子が吐き出した梅干しの種が、ガタが来ている木の床の上に、転がった音だった。
「あたし、我慢できない。あたし、もっと『いただきます』をする!」
高らかに宣言する彼女を、母親たちはぽかんと見つめるばかり。
「いただきますは食事の合図。たくさんすれば、たくさん食べられるってことでしょう? もっともっと、たくさん食べたい。誰よりも真剣に、『いただきます』をたくさんする」
言うや彼女は、部屋の隅に正座をして、朝にお坊さんと一緒に読み上げるお経を、ぶつぶつとつぶやきだす。
それがひと段落すると、見えない箸とお椀を持ち、ごはんをかきこむ仕草をしながら、「おいしい、おいしい」と、涙を浮かべて笑うんだ。
かわいそうに。彼女を見て、そう思う子は多かった。
理解はできても、それに気をやってしまうほど、母親たちは、分別がつかない状態ではなかったから。
その子は本来の「いただきます」に加えて、仕事や授業の合間でも、大人たちの目を盗んでは「食事」を続けていた。
お経を唱えながら、空気をほおばり、かきこんでいく様は、ますます不憫に見えたらしい。
心配してくれる子はいたものの、彼女は「これからもっといいものを食べられるんだから、邪魔しないで」と、冷たくあしらうことが多かった。
心配する子たちも、口や態度であわれむだけで、決して自分のものを分け与えようとはしなかった。
この食糧難。自分が飢えてまで、他人に施すなど、愚の骨頂だったから。
そのうちやめるに違いない。居合わせたみんなは、そう思っていた。
仕事に加えて、お経を読み続けるなんて、余計にお腹が減る。いつまでも耐えられるものじゃない。
彼女の顔も体つきも、ここに来た時よりも、ずっと青ざめ、やせぎすになってきているのだから。
終戦まで数週間。
配給はいよいよ少なくなり、子供たちは近くの川でどうにか、カエルやうなぎをとろうと試みたらしい。中には、近くの農家の畑に忍び込んで、野菜を盗むようなこともあったが、もれなくバレて、こっぴどい制裁を受けたのだとか。
皆の頭にしらみが絶えず、ガキ大将が力にものを言わせて、米も居場所もぶんどることがしばしばだった、その横で。
彼女は変わらず、空気飯をかきこみ続けていた。あまりの熱心さに、真似をしてみる子もいたが、やはりお腹が減るばかりで、いずれも三日と持たなかった。
「『いただきます』の邪魔をしないでよ」
彼女は気を散らすものが現れるたび、いらいらしながら、そう吐き捨てたらしい。
もう授業などなく、昼間のすべてが畑仕事となったその日。
彼女と隣り合った母親は、いつものように、彼女の読経を聞きながら、空腹を耐えていた。そうしてふと、飢えた頭が、にょろにょろ伸びている、いものつるをかじりたい、と思ったんだ。
大人たちの目が辺りにないかを確認しようとした時、肩にポンと手が置かれた。
ぞっとするほど、冷たい感覚。ばっと、そちらを見た時には、隣にいたはずの彼女がいない。気づけば読経の音も止んでいる。
「『いただきます』を極めたの。もう、食べ物では困らない。だから」
彼女の声は、足元から。すっと落とした視線の先で。
彼女は土に埋もれてた。手と顔だけを外に出し。
「これからは、私がみんなを『いただきます』」
彼女は地面に吸い込まれ、土も元に戻っている。
母親は悲鳴をあげて、駆けつけた大人たちに伝えたけれど、掘っても掘っても、彼女は出てこず、脱走したものとして、近隣へ大人たちが捜索に繰り出したらしい。
その日の夜。皆が寝静まり、母親は昼の出来事から、なかなか寝付けなかった頃。
大きな地震が、疎開先の寝所を襲った。
建物は倒壊。生き残っていたのは、母を含めて、起きていた僅かな人のみ。残りは生き埋めになってしまい、何日もかけて遺体が掘り起こされた。
この被害は、大人たちによって覆い隠され、知らされたのは何十日もあと。
終戦を迎え、我が子との再会を楽しみにしていた家族を、悲しみのどん底に叩き落したとか。