31 蜜玉採取は楽じゃない
花から剥がれた蜜玉は隣の葉っぱに触れプチッと爆ぜて、中から琥珀色のとろりとした蜜が葉っぱにかかる。
「あ〜〜」
二人そろって肩を落とした。
それから何度やっても、なかなか上手に蜜玉を花から剥がす事ができなくて、もともと少なかった蜜玉がさらに減っちゃった。
失敗して爆ぜた蜜玉の蜜が、枝や幹を濡らし辺りに甘い良い匂いが漂い始めた。
お休み三秒の蜜は匂いだけで眠らせる効果はないみたい。
ライグルは相変わらず木の上にいる生き物が気になっているみたいで、木の前をうろうろしてる。
時々威嚇とパンチを繰り返しては、空振りに終わってるよ。
なんだか間抜けに見えるなぁ。エミリアは猛獣だって言っていたのにね。
木の上にいる生き物も負けてない。
「クワックワッ」と鳴きながら短い足で枝を踏みつけたり、短い尻尾をライグルに向けてふりふり振っている。
その姿が酔っ払ってふらふらなライグルを挑発してるのかな、って思えてきた。
「蜜玉だけを採取する事に専念する方が良さそうですわね」
「それはダメだよ。あの生き物も助けてあげないと」
「どっちもだなんて、欲張ることは良くなくってよ。あの生き物をあなたに助ける事ができまして?」
うっ、エミリアに痛いところをつかれちゃった。
このままだとどっちも失敗に終わっちゃう。
わたしは首を振った。
ダメダメ、弱気になってどうするの!
難しくたってやらなきゃいけないのよ。
だってあの生き物をどうしても助けたい。助けないといけないような気がするんだもの。
「今度こそは蜜玉を上手に採るね」
「これ以上の失敗は禁物でしてよ。クレーメンス様に差し上げる蜜玉が減ってしまいますもの。もっと慎重にやってちょうだい」
うっ、プレッシャーを感じるよ。
「うん、わかってる」
ここからだとちょっと距離が遠くてやり辛い。
「もう少しライグルに近づいてやってみるね」
ライグルとの距離を縮めようと、中腰のまま草むらから出ようとしたわたしは、エミリアに肩を掴まれ戻された。
「お待ちなさいな。むやみに近づいてライグルに気づかれたらどうなるかわかっていますの?」
「大丈夫だよ。ライグルは酔っててこっちに気づいてないし、木の上にいる生き物の事で頭がいっぱいみたいだから。エミリアはそこで待ってて」
「あなたに何かあったらわたくし一人で逃げますわよ。よろしくて?」
薄情だなぁ。二人ともライグルの餌食になるよりは良いと思うけど。そんな事が起きないように気をつけてやるつもりだよ。
「わかった。その時はエミリアは逃げて助けを呼んできて」
「あなたの事など知りませんわよ」
「ひっどいなぁ。優しいエミリアだからきっと助けを呼んできてくれるって信じてるよ」
わたしがにっこり笑うとエミリアはほっぺたを赤く染めた。
「わ、わたくしあなたに優しくなんかしなくってよ!」
不機嫌そうにそっぽを向いちゃった。照れなくても良いのにね。
とにかく襲ってきたら全力で逃げよう。
相手は酔っ払いライグルだから逃げるのは簡単そうだよ。
わたしはライグルの背後にゆっくり近づくと、数歩先で立ち止まる。
そして目は蜜玉に、右手は杖に意識を集中させた。
杖の振り方を小さくしてさっきよりもゆっくりと……花にくっついている蜜玉がふるふる揺れてきた。
そうそうその調子。蜜玉を摘むように花から剥がして宙に浮かせたら、ここからはさらに集中しないと。
杖の振り方には慎重に。とがった葉にあたらないように慌てずそうっと。
杖を握る手にも額にも汗が張り付くけど気にしていられない。
蜜玉をふわふわ宙に浮かせたまま移動させて、葉を避けていく。
幹に爪を立てようとしていたライグルの頭の上まで持っていくと、そのまま杖をスッと下に振った。
ライグルの頭に落ちた蜜玉はぷちっと弾け蜜がライグルのおでこに流れる。
やった、成功!
気づかれないように、声を出さずにガッツポーズする。
蜜が目に入ったのかライグルは前足で拭うように目をこすると、前足に付いた蜜を舌でペロリと舐めた。
目をこすっては舐めこすっては舐めを繰り返して、顔についた蜜を取り払おうとしている。
あといくつかライグルの頭に落とせば完璧!
わたしは花を適当に選んで蜜玉を摘むと、ライグルの頭上に落としていった。
一回コツを掴むと案外次からは簡単に出来ちゃった。
ライグルは頭がべたついて鬱陶しそうに、前足を動かして蜜と格闘中。
グナットの花って睡眠効果があるってエミリアが言っていたけど、蜜を舐めたライグルは一向に眠る気配がないよ。
なんだか焦れったいなぁ。そうだ!
こうなったらいくつかまとめて一気に下に落としちゃおう!
花から剥がした蜜玉をライグルの頭の上で浮かせたまま、いくつか同じよう運んでいく。そしてわたしはまとめて下に落とした。
プチップチップチッ。
蜜玉のシャワーを浴びたライグルのたて髪や顔はべったりと蜜まみれ。
「これですぐに眠るはず」
なんたってグナットの木はお休み三秒らしいから。いっぱい舐めたらバタンと寝ちゃうはずだもの。
あとはライグルが眠るのを待つだけだね。
プレッシャーからの解放感と成功への達成感で、緊張が和らいで安心しちゃった。
その一瞬の気のゆるみがいけなかった。
ライグルがふいにこっちを振り返り……そして目があう。
その瞬間やばいと思った。
獲物を視界にとらえ大きく見開かれギラギラとした目。低い姿勢で喉から唸り声を発している。
安心感が一瞬で緊張に変わり全身には恐怖が駆け巡った。
ゆっくりと距離を縮めてくるライグル。
ダメ、このままここにいたらダメ。足をすくませてる場合じゃないよ。わたしの足、しっかり動いて!
こんなところで立ち止まっちゃダメ。逃げなきゃ!
わたしは全身に力を入れて逃げるためにライグルに背中を向けた。
背後からバサバサッと何かが羽ばたく音。そして頭上に影ができて見上げると、目の端に風を切るように黒いものが飛んできた。
「!?」
「ミリィ、逃げるのですわ!」
エミリアの叫び声が耳に届くのと同時だった。
バサッ!
「うわっぷ!」
避ける間もなくライグルの翼が横顔に直撃し、足が地面から離れ数歩先まで身体が飛び地面に横倒しにされた。
「いたたっ」
さっきまで飛ぶ気配を見せなかったのに、急に翼を使うなんて予想外だよ。
ライグルの翼になぎ払われた時に、地面にぶつけた頭や肘や膝がズキズキヒリヒリと痛む。
イノシカに追いかけられた時に言われたユーリの言葉が頭に浮かんだ。
『逃げれば追うのが本能です。野生動物相手に背中を向けてはいけませんよ』
ああ、そうだ。わたしのバカ。あれほどユーリから言われていたじゃない。大事な事が頭から抜けちゃうなんて。
起き上がろうと体を起こして、わたしは目を大きく見開いた。
足元に翼を広げたままのライグルがいたから。
充血した目に灰色の顔がどことなく赤く見える。
うっ、甘い蜜の香りの中からお酒の匂いがしてきて変な匂い。相当飲んだに違いない。
おやすみ三秒の蜜玉効果はどこにいったの!?
グルルッと低い声を上げながらライグルがゆっくり近づいて来る。
今度こそピンチだ。
ああ、どうしよう。体が金縛りにあったみたいに動かなくなっちゃった。
ライグルが太い前足を振り上げると、鋭い爪がギラリと光った。
あの爪に引き裂かれたら、わたしなんてあっと言う間に食べられちゃう。
こんなところでライグルのエサになって死んじゃうなんてイヤだ。でも身体が言うことを聞いてくれない。今のわたしにはどうする事もできないなんて。
ライグルが真っ黒な翼を大きく羽ばたかせる。またあの翼で叩かれるに違いない。
わたしはギュッと目をつぶった。
「クワーーッ! クワックワッ!!」
聴いたことのある鳴き声に目を開けると、茶色の丸い生き物が短い手を上下させながら、猛スピードでこっちに向かって来る。
そして広げていたライグルの翼にタックルした。
「ガウッ」
背後からの不意打ちに振り返ったライグルは弱々しく翼をばたつかせた。
ライグルの顔の周りを飛び回る丸い生き物。それを鬱陶しそうに前足で振り払おうとするライグル。
あの丸い生き物、空を飛べたんだ。鳥の仲間だったんだね。
なんてのんきな事を言っている場合じゃない。
わたしは腕に力を入れ起き上がると、地面に踏ん張るようにして立ち上がった。
こんなところで死んじゃうなんて納得がいかないよ!
ライグルが丸い生き物に気を取られているこの隙に早く逃げよう。
逃げるチャンスだったのに遅かった。
「ミリィ!」
首だけ後ろに向ける。
え、ちょっと。嘘でしょう!
まん丸な生き物を捕まえようと、わたしに背中を向け後ろ足で立っていたライグル。
足下がふらついてバランスを崩し、巨体がわたしの方に背中から倒れてくる。
ドサッ。
倒れてきたライグルの巻き添えにわたしは地面にうつ伏せに押し倒された。
「いっ、痛ーーい!」
地面に顔面ダイブしたから顔が痛い。肘に膝も擦りむいた。それに背中がすごく重い!
間近で感じる獣の匂いとお酒の匂い。もう最悪だよ!
首をなんとか後ろに回す。グォ〜グォ〜と大きないびきをかくライグル。
その頭を、丸い生き物がくちばしで突っついているのが見えた。
ライグルは突っつかれても起きない。
こんな形で、蜜玉効果が今発揮されたなんて。それもわたしを巻き添えにして。ついてなーーい!
這いずってライグルの巨体からの脱出を試みる。
「んぅぅぅうう〜〜!」
ゼェゼェ、ダメだ抜け出せない。
わたしの上にのしかかっているライグルが、大きすぎて重すぎるからビクともしない。どうにか下敷きから脱出したいのにこれじゃ身動き取れないよ。
ライグルの巨体の下で必死にもがいていると、草むらに隠れていたエミリアがライグルを警戒しているのか、離れたところから小声で話しかけてきた。
「ちょっと、大丈夫ですの!?」
「ライグルは寝てるよ」
「ライグルじゃなくてあなたの事ですわ。いつまで下敷きになっているおつもり?」
そんなに警戒しなくても、ライグルは熟睡中だから大丈夫なのに。
「好きでライグルの下にいるわけじゃないよ。あちこち痛いし、重くて自力で抜け出せないの。ねえエミリア、ライグルをどかしてくれない?」
エミリアが思いっきり顔をしかめて首を振った。
「い、嫌ですわ。こんな獣に触るの!」
近寄っても大丈夫だと判断したのか、ライグルを間近で見たエミリアが顔を引きつらせながら腕をさすっている。
もしかして鳥肌が立つほど嫌なのかな。
「じゃあエミリアがわたしを引っ張りだして」
一人じゃ抜け出せないなら、エミリアに協力をしてもらったらどうにかなるかも。
「わかりましたわ。それくらいなら協力しますわ」
そして数分後…………。
エミリアがわたしの腕を引っ張ってライグルの下から出そうとしてくれたけど、ライグルが重すぎてエミリアの力では抜け出せなかった。
「なんて重いんですの、この獣!」
ライグルに怒りをぶつけるエミリア。子供の力じゃダメみたい。
「東屋に戻って大人を呼んできてくれる?」
エミリアがため息をついた。
「仕方ありませんわね。一つ忠告をしてさしあげてよ」
「忠告?」
「わたくしが行っている間、あなたはライグルを刺激して起こさない事ですわ。じっとしているのがよろしくってよ」
「了解。動きたくても動けないからじっとしてるよ」
エミリアは踵を返すと来た道を走って戻っていった。




