器用なクジラと静かな朝
人生とは書きかけのノートのようなものだ。
それは、鉛筆やボールペンなんてもので書かれた優しげな文字ではなく、太くて真っ黒なマジックで思いついたまま書きなぐられている。
消そうにも消せず、裏面にまで浸みこみ、一ページ先二ページ先にまでその跡を残す。
まるで詩人じゃないか、と少年は自分を笑い頭をかいた。
このところ、自分の感受性のアンテナが常にピリピリビリビリと色々なものを受信する。
風が吹けば「大地の息吹か」、雨が降れば「空が泣いている」など、文字にすればとても稚拙で滑稽フレーズが頭を駆け抜ける。いっそ一冊の本にしてやろう。
「おまえ、最近元気がないじゃないか。俺が書いたこの本を読めよ。そんな悩みはちっぽけなもんだってきっと気づけるぜ。」
言えるわけないじゃないか。お前の方が酷い悩みがありそうだな、とこっちが心配されるに違いない。
少年が布団の中でそんな何の脈絡もない未来を想像していると、突然、鼓膜を劈くような大きな音がすぐそばから鳴った。
「朝だ。」
信じられないことに俺は朝まで妄想していたのか。
自分が今まさに経験していることなのに信じられないとは、これいかに。
自分の体温で絶妙な温度になった布団が、まるで大蛇になって自分の体に巻きついて離れないような錯覚にとらわれながら、意を決して外に飛びでる。サナギからチョウへと変わった直後というのはこういう感覚なんだろうか。
少年は欠伸をしながら扉を開け階段を降りた。
バターの匂いがするわけでも、犬が足元まで走って寄ってくることもない退屈なリビング。
そこにはテレビを見ながら新聞を読む父の姿があった。彼のせいで静かな朝というものを未だかつて味わったことがないのだ。新聞を読みながらテレビ、というのもなかなかアクロバティックな気がするが、それに加えてラジオを聴きお茶を飲みタバコを吸う。その類まれな器用すぎるスキルは仕事に役立っているのだろうか。たっていないだろうな。
ところで、先ほど言った「静かな朝」を体験するために、一度だけ父が朝早くからいない日に目覚まし時計をかけずに寝たことがある。寝る前は鳥のさえずりで目が覚める朝を期待していたが、翌日俺を起こしたのは学校の先生からの電話だった。
「リョータ、この記事を読め。あ、テレビでも同じこと言ってるな。」
父は新聞記事に太い指を置き、視線の先にはテレビがあった。
「トゥーリッヒ海の沖でクジラが死んでんだってよ。それも一頭や二頭じゃないぜ。一千頭はいるんじゃないかって。数えらんねぇって。ほら!テレビ!真っ黒だな。なんも知らなきゃ真っ黒い島かと思うんじゃないか!」
こうして静かな朝を待ち焦がれる俺にやってくるのはいつもいつも暴走族のような朝だ。
目の前に広げられたトーストのカスだらけの新聞紙を見下ろしてリョータは思った。