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第四章

 降りやまぬ豪雨が、見る間に湖の水位を上げていくかのように見える。常ならば青く美しく澄んだルーゼ湖の湖水は、暗い色をしており、雨が激しい水紋を描いている。

そんな中を、一艘の小さな舟が三人を乗せて北へ進む。飛び込んでくる雨水のために、目を細めながら、ラウルとオルヴィズは必死で櫓を漕いだ。

「止みそうにないな」

 空を見上げながら、オルヴィズが叫ぶように呟いた。雨音が激しく、会話をするのも困難なほどである。ラウルとオルヴィズは憲兵隊から支給された若草色のマント、アリスティアは相変わらず青みのかかった魔道師のマントを身に纏い、雨をしのいでいた。雨水に濡れることはないが、大粒の雨は身体をじんわりと冷やし、少しずつ体力を奪っていく。

 二人の男が懸命に舟を進める中、アリスティアはひとり、手に何かを握り締めながら、小さな声で言葉を唱え続けている。激しく叩くように降る雨も、彼女の集中を妨げることはないようだった。

「赤い屋根が見えてきました。船着場はすぐそこです」

 土砂降りの雨に遮られ、視界は悪かったが、船着場のそばにある小さな小屋の赤い屋根がぼんやりと見えてきた。船着場は、既に水に洗われ始めており、舟をつなぐ杭だけが、水面から突き出ていた。

「岸に引き上げておいたほうが良さそうだ」

 三人はひざ下を濡らしながら、舟を降り、湖岸に舟を引き上げ、立ち木にロープを結んだ。舟底に見る間に雨水が溜まっていく。轟々と降り続く雨は、対岸よりさらに強くなっているように感じられる。

「この道をいきます」

 ラウルは、森の中に伸びてゆく、緩やかな上り坂を示した。

 道は、すでに小さな川のようになっていた。水位こそくるぶしほどしかないが、かなりの水流で湖へと流れ込んでいく。小石の多い足元は、かなり滑りやすく、道の判別もつきにくい状態になっていた。

「足元、滑ります。気をつけてください」

ラウルは、慎重に周りを見渡した。視界も悪く、何度も来た場所なのに、まるで別の場所のような錯覚を受ける。

「これは、酷いな」

 オルヴィズの提案で三人はお互いをロープで結び、アリスティアをはさむようにして、一列に並んだ。

 先頭に立つラウルは、拾い上げた木の棒で体を支えるようにして、慎重に歩みを進める。降り続ける雨が、木々の葉をたたく音と、地表を流れる水音で、何も聞こえなくなるほどだ。平坦でないその道は、ほんの少し雨水の流れが速くなると、とたんに、歩くのが困難になる。流れの激しさを受け止めるラウルを、他の二人が後ろから支えながら、亀のような速度であるくのがやっとであった。

 やがて、日が落ちてくると、既に暗かった森の中は、あっというまに闇に呑まれてしまった。

「あと、どれくらいかしら」

 ランタンに灯りを入れるために立ち止まると、アリスティアが訊いた。女性の身でこの道のりはかなり辛かったと思われるが、彼女はそんなそぶりを見せようとはしない。ただ、声にいつもの張りはなく、どことなく疲れを感じさせた。

「もうこの丘を登りきれば、すぐです」

 闇の中でぼんやりと丘の頂点が遠くに見える。あと一息、と思うには、まだまだ遠いが、あきらめてウンザリするほどではない。ラウルは、無理に笑顔を作ってみせた。

「いつもなら、ひとっ走りって距離ですよ」

 疲労は極限に達しようとしていた。強い雨に叩かれ続け、体は冷えきっており、悪路を進むために必要以上の体力を要している。天を仰いでも雲は厚く、雨のやむ気配は全くなかった。

「竜だわ」

不意に、静かにアリスティアが天の一点を指差した。

暗闇の中を青白い光を放ちながら、舞うように飛ぶものがそこに存在していた。それがたのしげに体をひねるたびに、雲は黒く引き寄せられ、大粒の雨を落としていく。

「あれが……竜」

 ラウルにとって、初めて見るものであった。

 それは、災いをもたらしているにもかかわらず、禍々しさは感じられなかった。むしろ、青白く発光するその銀色の肢体は神々しさに満ちている。

 魔のことわりに生きるものであり、そして、神の御使いでもあるそれは、歓喜に踊っているかのように、天を舞っていた。

「間違いないわね。メイサよ。彼女が、どういう方法を使ったかはわからないけれども、あの竜を呼んだのよ」

 アリスティアの言葉を聞きながら、ラウルは魅入られたように竜を見つめた。

 ロキス神が、それ自体、善でも悪でもないように。竜もまた、どちらでもないのだ。

 人知を超えた力を持って、そこに存在しているだけで。吉事も凶事も、あくまでひとの心の形から生まれるのだと思えた。

 三人が再び、悪路を進み始めた。小さなランタンの灯火に照らし出され、大地を這うように流れる水が鈍く反射する。

 永遠とも思える闇の中を進み、丘の上に近づくと、視界の先に小さな明かりを認めて、ラウルは歩みを止めた。

「神殿の入り口に、誰かいるようです」

 三人は、持っていた灯火を消した。息を潜めるように、慎重に明かりのほうへ向かうと、洞穴の入り口に、篝火が焚かれていた。

 目に見える位置に、二人の兵士の姿が確認できる。そして、もっと多くの人間の気配が感じられた。

「どうします? 他に出入り口はありません」

 ラウルは、木の陰に身を隠しながら、振り返った。

「中に入れば、分かれ道も多く、身を隠すこともできますが……。」

 天然窟を使用しているだけに、使われていない場所も多い。何人の兵が詰めているかわからないが、洞窟の全てを埋め尽くしているとは思えなかった。

「時間がない。突入するしかあるまい。怪我をせぬように、タイミングを見計らって、二人は走ってください」

オルヴィズはそういうと、背負っていた荷物をラウルに渡した。

「アリス様、場合によっては援護をお願いします」

「わかったわ」

 闇に身を潜めながら、オルヴィズがゆっくりと篝火に向かって進むのにあわせ、ラウルとアリスティアは間をあけながら、後を追った。

 

 世の中に、神業とも言うべき体術が存在することを、ラウルは初めて目にした。

 木陰を飛び出して、あっという間に、間合いを詰めたオルヴィズは相手が声を出す暇を与えず、ひとりの腹に一発入れると、次の瞬間にはもうひとりの首の後ろに手刀を入れ、繰り出された別の刃をひらりとかわして、抜刀した。

「一対一なら、この国でオルヴィズに勝てる人間は数人しかいないわ」

 アリスティアは、そう言って、にこりと笑った。

「行きましょう」

 雨の中を、全速で二人は走った。

 洞窟の前にたどり着いたころには、勝負はついていた。既に、四人の男が地べたに転がっている。

「とりあえず、片付けましたが、これだけではないでしょうね」

 僅かに息を弾ませながら、オルヴィズはそういうと、素早く倒れている男たちを縛り上げた。

「この人たち、どうするのですか?」

ラウルは、言われるままに、男たちに猿轡を噛ませながら、聞いた。

「大切な証人だ。殺しはしないが、逃がすわけにはいかない 暫くここで寝ていてもらう」

 男たちをその場に転がしたまま、オルヴィズは先へ行こう、と言った。

「この先は、どんな風になっているの?」

 洞窟の中は、しん、と静まり返って、水の流れる音だけが聞こえてくる。

「少し行くと、下り坂になっていて、滝があります。大きなホールのようになっているんですが、そこを抜けると、神殿のある大広間に出ます」

 滝までは、道が狭く、ひとが二人並んで歩けるかどうかという感じだが、そこから先は

かなり道幅が広くなる。ところどころに、小さなわき道はあるものの、基本的にはどんづまりの袋小路になっていることが多く、身は隠せるが、抜け道には使えない。子供の頃から、父に連れられて何度もここには来ている。恐れを知らぬ子供の無邪気さで、そこらじゅうを探検したが、この洞窟は基本的に一本道だ。唯一、滝のそばのホールには、人の視線より一段高い位置に、別の道が通っており、神殿へのショートカットコースになっているが、ホールのそばで視線は完全に通るため、滝のそばにひとがいれば、発見されることは間違いなかった。

「ホールに、見張りがいたら、私が引き受けます。通路側で迎え撃てば、一人で何とかなると思います」

 暗い洞窟である。狭い位置で迎え撃てば、弓矢が飛んでくることもない。先ほどの神業的な体術を見たあとであるから、オルヴィズが大口を叩いているわけではないことがわかっている。

「いざとなったら、これでアリス様を守ってくれ」

 使い方など知らない、というラウルの手に無理やり、オルヴィズは短剣を握らせた。確かに、オルヴィズがおとりになるのなら、アリスティアを守れるのはラウルだけだ。ラウルは託された責任の重さで、手に汗が滲む気がした。

 三人は、声をひそめ、足音を忍ばせながら、ランタンの明かりを頼りに洞窟を進んでいった。足元が、わずかに濡れて滑る。青いヒカリゴケが、にぶい光を放っていた。

 ゆるゆるとした下り坂を下り始めたとき、下方から灯りがもれているのが見えた。

 流れ落ちる水音とともに、ひそひそと人の話し声が流れてくる。鎧が立てる小さな音も含めて、ひとり、ふたりではない、人の気配がしていた。

 ラウルは人の頭の位置より高い位置にある、横穴を指差した。おとながひとり、やっと進めるくらいの小さな穴だ。

 息を潜めながら、ラウルは岩壁を這うように登っていった。下から鈍く照らすランタンの光だけが頼りだけに、ほとんど手探りの登攀で、しかも息を潜めるように進まなければならない。身の軽いラウルでも、困難を極めた。ようやく横穴にたどり着くと、ラウルはロープを自分の体に巻きつけ、下に垂らし、アリスティアを引き上げた。

 最後に、オルヴィズがランタンから松明に火を移してから、ランタンを引き上げた。

 オルヴィズが松明を片手に、降りていくのを確認し、ふたりはゆっくりと横穴を進んでいった。

 暗闇の中から、人を誰何する声と、剣げきの音がこだましはじめる。走るように狭い道を行くと、広い空間に出た。ひと一人がやっと通れるその通路は、まるでキャット・ウォークのように、ホールの周囲を一段高い位置を巡るように通り、奥へと続いていた。

眼下には篝火に照らし出された滝つぼのそばに、十人ばかりの人間が見え、奥のほうに獅子奮迅と戦うオルヴィズの姿が見えた。

 ことさら派手に立ち回る彼のおかげで、頭上のラウルたちに気がついた者はいないようだった。

二人は、足音をしのばせながら、ひといきに狭いその道を通り抜けると、こんどは腰をかがめなければ進めないような四方の壁や天井がせまってくるような道に入った。剣戟の音と水音が遠くなり、朗々たる女性の呪文を唱える声と、強い香のかおりが流れてきた。

「思ったとおりだわ。メイサの声よ。彼女は巫女としてじゃなく、魔道師として、水竜を召喚して、操っている」

 巫女として竜に願っているのなら、呪文は不要である。封じられた力を取り戻した今、魔道師としてのメイサの力は竜を御すまで高まっているのだ。

「これを」言いながら、小さな袋をラウルは渡された。船に乗っている間、ずっと彼女が握り締めていたものだと気がつく。重みは感じられない。

「中に、私の髪の毛が入っているわ。それを、ロキス神像の右腕に巻きつけて欲しいの」

「髪の毛、ですか?」

 袋を開いてみると、長い銀色の髪の束が入っている。フードを被っていたせいで気がつかなかったが、よく見れば、アリスティアの肩よりも長かった髪の毛はぐんと短くなっている。

「メイサと竜との交信を妨害するの。本当ならもっとキチンとした魔法具を使うんだけど、応急処置ね」

 前方に光が差し込み始め、二人はそっと灯りを消すと身を隠すように前進した。

 光の先は広い空間になっていた。

 他の場所とは違い、人工的な加工がそこかしこに見られる。

 出口の一段低い場所にある床は、もともとあった岩盤を使用してはいるものの、しっかり磨きぬいてつややかだった。ほぼ円形であるその部屋の壁面には四方八方に燭台がおかれ、幻想的に周りを照らし出している。

 そして黒々とした岩肌に、六貴神の中でも、古くからの信仰を持つ、ロキス、大地の神リーズ、森の神レターニャの神像が大きく浮き上がるように彫られていた。

 ロキスの神像の祭壇の前に、床に魔方陣が描かれており、その上で女性が呪文を唱え続けていた。

 祭壇に焚かれた香の甘かったるい香りが部屋中を包んでいる。見たところ、その女性以外に人影はなかった。

「危ないっ!」ラウルは、アリスティアに引っ張られるように神殿の床に転がり込むと同時に、先ほどまで立っていた場所に、小さな火球が破裂するのを見た。

「いきなりの、ご挨拶ね、メイサ」

 気がつくと、女の呪文が止んでいた。長いこげ茶色の癖のある髪。美人といえなくもないが、鋭すぎる眼光。まさしく、烈火のような激しい気性を感じさせる。

「あなたが来るとは思わなかったわ。アリスティア姫」

 唇にだけ、笑みを浮かべてメイサはそう言った。

「私が来る、というのは、どういうことかわかっているでしょ。投降しなさい」

 くすくすと、メイサは笑った。

「あなたのそういう甘いトコ、嫌いじゃないわ」

 ふわりと、メイサの手のひらが返ると同時に、青白い人の大きさほどもある蛇が出現した。

「ルーネだわ。水竜の眷属の中では下っ端だけど、毒を持ってる!」

 叫ぶアリスティアを庇うように抱え、ラウルは後方へ跳んだ。獲物を紙一重で逃がしたルーネは、鎌首をもたげ、悔しげに赤い舌をチロチロと見せる。

ラウルは、オルヴィズから渡された短剣を抜刀した。剣の使い方など知らないが、引くことは即、死を意味する。ただ、天性のカンのようなもので、ルーネから絶対に視線をそらしてはいけないことを、ラウルは知っていた。

 感情を感じさせない蛇の眸に自分が映っているのを感じながら、息をするのも忘れるにらみ合いが続く。

 そのラウルの後方で、アリスティアが呪文の詠唱を始めた。

「斬ッ!」

 叫び声とともに小さなカマイタチがルーネの鎌首を切り裂いた。傷は小さな取るに足らないものであったが、ルーネの張りつめた何かが揺らいだ。その瞬間、ラウルは床を蹴って、ルーネの頭に短剣をつきたてた。蒼い鮮血が飛び散り、神殿の床を汚した。ほどなく、どうっという音とともに、ルーネが床に倒れ落ちた。

「やるわね。でも、邪魔はさせない」

メイサは、悔しそうに叫ぶと、再び呪文を唱えた。

メイサと、アリスティアの声が重なり、ラウルの目の前で、ふたつの火球がぶつかって消滅した。

「メイサ、私は負けないわ。ラウル、神像を!」

 ラウルの反応を見る前に、アリスティアとメイサが、同時に長い詠唱に入る。ふたりの口から発せられる言葉で、大気が大きく歪んでいくのが感じられた。小さな火柱がアリスティアの前で弾けているが、彼女の集中は途切れない。

 ラウルは、ねっとりと重い空気の中を泳ぐように、祭壇に駆け寄った。一瞬、メイサに直接飛び掛った方が早いのではないか、と思ったが、彼女の周りに近づけば、近づくほど空気が重く感じられた。

 祭壇のそばは、酔うほどに甘い香りが漂っていた。見上げたロキス神の右腕には、本来あるはずの竜の姿が消えている。神像は、ラウルの十倍くらいの大きさがあり、下からでは右腕をどうこうすることは不可能だ。

 ラウルは思い切って、神像をよじ登った。磨き上げられた神像はつるつると滑り、神への畏怖もあって、足をかけるのは難儀であったが、ようやく右腕にたどり着くと、渡された銀色の髪の毛を巻きつけるように縛り付けた。

「アリス様っ!」

 ラウルの叫びと同時に、アリスティアが大きく両手を振り上げると、神殿は轟音に包まれた。

 神殿内に、洪水が起こったように水があふれ、大きな「力」が渦を巻いた。外よりも激しい雨がラウルの体を撃つ。滑り落ちそうになる体を支えながら、ラウルは巻きつけた髪の毛が目を焼くほどの光を放っているのを見た。

 やがて。

 静寂が訪れた。雨はやみ、暗闇が辺りを包む。

不意に、アリスティアが呪文を唱える声がして、ぼうーと部屋全体が明るくなった。

「大丈夫?」

びしょぬれのアリスティアが心配げにラウルを見上げていた。

「なんとか。アリス様もご無事ですか?」

「ええ。生きているわ」

アリスティアは僅かに微笑した。疲労が、顔に表れていた。

ラウルは、ゆっくりと神像から降りた。見上げると、銀の髪の毛のあった場所に、竜の姿が戻ってきて、結んだはずの髪の毛はどこにもなかった。

「メイサ、しっかりして」

 床に描かれていた魔方陣は水に洗われてしまったかのように、消えていた。濡れた床に、青い顔の女性が横たわっている。

 ラウルは、駆け寄ると、女を抱き起こした。

「完全に、負けたわ。」

 弱々しい声で、メイサは微笑した。

「どうして、こんなことを……」

「イルクートさまの、お役に立ちたかったの」

 夢を見るように、小さな声でメイサは言った。先ほどまでの激しすぎる眼光は消え、静かでおだやかな眸をしていた。

「あなた、あの男の野心に利用されたのよ」

「そんなの……知っているわ」

 満足そうに、メイサは笑う。

「私が勝手にあのひとを愛したの。そばにいたくて、ただそのためだけに、大恩あるラバナスさまを死においやってしまったわ……。もう、私の居場所は、地上にはどこにもないのよ」

「イルクートは、ラバナス様に危険が及ぶことは知っていたはずよ。それに、ラバナス様だって、ご承知の上でのこと。あなたが、ラバナス様のことで責任を感じる必要はないはずでしょ」

 アリスティアの瞳がうるんでいた。

「正論ね。私、あなたのそういうトコ、苦手なのよ」

 苦しそうに、それでも笑いながらメイサはそっとアリスティアに手を伸ばした。

「知らなかったとはいえ、封じの技の解除を願ったのは私。それに意識はなかったとはいえ、エレクーンを焼いたのも私。あのひとのために、水竜を呼んだのも私よ」

 ラウルは、支えている女のからだが、徐々に重みを増してきているのに気がついた。体のぬくもりを感じないのは、水に濡れているせいだけではなかった。メイサの目の焦点が結ばれなくなってきていた。

「しっかりして、メイサ」

 メイサの手を握りながら、アリスティアが叫ぶ。 

「あなたが私のために泣いてくれるなんて思わなかった。私、酷いことばかり言っていたのにね。あなたと組んだ研究、楽しかったわ。私、もっと素直にそう言えば良かったのかな」メイサの唇が弱々しく動く。「竜を呼んだときから、こうなることはわかってた。あなたが来たということは、あのひとも無事ではすまないってことよね……。」

 メイサは、青白い顔で、柔らかく微笑んだ。

「生は共に歩めなかったけど、共に逝くことはできそう……。」

 激しくあらがうように生きた女性が静かに、生を終えた。

 しん、とした神殿の中で、アリスティアの嗚咽がかすかに響いていた。


「ラウル、客が来ているぜ」 

 大工仲間の声に、杭を打つ手をやめて、ラウルは振り返った。

 初夏の日差しが眩しい。雨の季節は去り、既に季節は夏になろうとしている。

「オルヴィズ様、それから、アリス様も」

 いかにも憲兵スタイルなオルヴィズと、いつもの魔道師のマントを来たアリスティアが微笑んでいた。

「アリス様が、是非見学したいって言うんでね。無理やり押し切られたわけ」

 苦笑を浮かべながら、オルヴィズはそう言った。

「あら、この建物は、父上が発注しているのよ。私、関係者だもの」

 アリスティアの髪が、伸び始めていた。キラキラと光るその銀の髪の長さのぶんだけ、あれから時が流れたことをラウルは感じた。

「良い仕事をありがとうございます。みんな、ご期待に沿えるようにはりきってます」

 憲兵隊の詰め所をかねた、広い道場つきの訓練所を新たに建設するコトが決まり、ラウルはギルドを通してその仕事を請けた。仕事の条件にラウルが参加することが入っていて、周囲のものは、棟梁でもないラウルの名指しの指名に意味がわからず首をひねったのだが。

「イルクートが自害したわ」

 アリスティアは、声をひそめて、そう言った。

「遺書には、メイサと共に、逝く、と書いてあったそうよ」

 あのあと。大雨の中、王宮に私兵を引き連れてやってきたイルクートは、レキサス公の手配りによって、玉座の前で逮捕された。初動が良かったことと、メイサを止めたこともあって、街の被害も最低限で済んだ。

 全ては、大事に到らず、ほぼ数日で街は日常を取り戻すことが出来た。

 イルクートの取り調べは、すんなりと行なわれた。皇族より、古き血筋でありながら単なる名家の位置に甘んじていたくなかった、と彼は語った。

 ただ、メイサとの関係について、終始無言であった。

 彼は、牢の中で、自分の魔法によって果てた。懐の中に、たった一枚の遺書を残して。

 イルクートがメイサに抱いていたのはうす汚れた野心ではなく、彼なりの愛だったのかもしれない。

「今となっては、わからないけれど」

 遠くを見るように、アリスティアが微笑んだ。

 埋葬は、墓標は立てられないけれど、二人を近くに葬ることになった、とオルヴィズが呟くように言った。

 あの日。共に逝ける、と笑んで死んでいったメイサの顔が忘れられない。

「なあ、また、仕事を手伝ってもらえるかな」

 笑いながら、オルヴィズがラウルを見た。

「君は、才能がある」

 困ったラウルをけしかけるように、アリスティアも微笑む。

「仕事が、暇なときなら」

 二人の笑顔に押し切られるように、ラウルはそう言った。

 頭上には、青い澄み渡った空が広がっていた。



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