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顔に書いてある一つのこと

作者: ひさまた病

「もう、なんで分かったのー?」

「顔に書いてあるからだよ」

 といって、爽やかな笑顔を見せた青年は指先で少女の額を小突いてみせた。

 淡い桜色に、その透き通るような白い肌が染まりつつ、また「どうして?」と訊きながらすぼんでいた唇が徐々に緩んで、口角がつりあがる。太陽のような眩く暖かい笑顔を見せた少女に、青年は満足そうに笑みを浮かべた。

 ――俺が反応するのは、そんな耳障りなファッキンカップルなどではなく、なぜか男の言葉に過剰反応するように肩を弾ませた、目の前の少女にだった。

 静まり返る図書室。背の高い本棚が立ち並ぶのを視界の隅に収めるそこは、無数の長机が整列する空間だ。まばらに残るだけの彼らは、黙々と中間テストに向けて勉強に励んでいた。

「ごめんね、今日は付きあわせちゃって」

 その一角を陣取って、俺たちは『図書委員』としての作業を続けている。

 片手で貸出カードの山を確認しながらより分け、もう片手で机の上に置いたタブレット型の端末で書架の管理状況を確認する女生徒は、顔を上げて俺を一瞥……したのだろう。目にかかり、さらに鼻先まで伸びる前髪に、加えてマスクを装着するせいで表情は完全に伺えなかった。

 小さく頷く彼女に、俺は人知れずため息をつく。

 俺は手元の、彼女の倍近くある貸出カードと、まだ三分の一も確認し終わっていない管理データとを人睨みしてから、小さく肩を落とした。


 初夏から流行り始めた風邪を、目の前の女の子はもれなく患っていた。

 多くは一週間やそこいらで完治したのだが――彼女は、もう十月になるというのにも関わらず、マスクを外さず、またその夏休み前から今まで、俺は素顔を見る機会はなかった。

 襟元のホックをつけたり外したりしながら、俺は彼女の背景にある一面の窓ガラスの、その向こうの自然で溢れかえる中庭を眺めるフリをして彼女をちらっと見ては、作業に没頭した。

 この作業は実に単純だった。

 だが単純作業こそ、この圧倒的な物量が最大の関門となっていた。

 貸出中の書籍。図書館で眠っている書籍。それらを調べ、しっかり書籍が管理されているかを確認して――貸出中なのにも関わらずカードが無い本、あるいはカードごと存在していない本、本は返してもらってあるのに、カードが貸出ボックスの中にあったり、貸出した記録がないのに図書館に無い本などを、しっかりと分別する。

 多くは無事で、後者の複雑な問題ごとは抱えていないのだが、なにせ量が多い。

 この学園の学生が勤勉なのは良いことだが、どうせなら全てPCでのデータ管理でどうにかならないものかと、つくづく思う。

 胸の奥から大きく息を吐いて、背もたれに寄りかかる。

 恨めしそうに後ろを振り返れば、入口付近の受付デスクで本を読み耽る司書さんが頬杖をついていた。視線に気づく様子はなく、退室する先ほどのカップルが立てた扉の音に肩を弾ませるように驚いて、本を机から落っことす姿は、なにやら可愛らしいことこの上ない。

 彼が五十路の男性であるのを除けば、だが。

「あの、茅ヶちがさきさん――」

 無意識に声を掛けて、ハッとする。

 用事が無いのだ。

 さらに時刻は既に六時に近い。窓の外から斜陽が差し込むこの時間、ラストスパートをかけても終わらない仕事を諦めるのはいいが、だからといってそろそろ終わりそうな彼女の仕事を邪魔するのはいただけない。

「なんですか」

 硬直する俺に、蚊の羽音のような声がぶっきらぼうに問い返す。

 ああ、どうする俺。何を言えばいいんだ。そもそもコミュニケーションは得意な方だと自負しているんだが、どうにも相手が悪い――。

「あ、ああ……っと、今日は、これから用事とかあるの?」

「いえ、特には」

「ああ、そう。なら、良かったら一緒に帰らない?」

「別に、良いですけど……それに」

「え?」

 彼女は指先で前髪を払うようにして、片目をのぞかせる。大きく開いた目はくりっと可愛らしい瞳をあらわにさせる。目は一度薄く狭まって、微笑んだ、ように見えた。

「いつもだから、いちいち言わなくても構いませんよ」

「あ、ああ……そうだね、ごめん」

 口先でそうは言っても、俺は表情を綻ばさずには居られなかった。



 高校二年。所属する部活は特に無く、率先して何かの責任を負うタチではないけど――入学したその時、俺は一目ボレをした。

 この、それなりに似合わなそうな図書委員に立候補したのもそれが原因で、

「やっぱ、最近は日が暮れるのが早いよなあ」

 こっくりと頷くばかりの彼女が隣にいるのは、それが因果だった。

 無口で、影が薄く、いつも自席で本を読んでいるような――よく言えばクールな女の子。本の虫とは対照的なボーイッシュなショートヘアが良く似合う、可愛らしい少女。図書委員を接点にして彼女のことと一緒に知り始めた本の世界にも、俺は足をずぼりと勢い良く突っ込んでいる。

 一年の時に話すようになり、夏休みを経て同級生として、また同じ委員としての親近感が湧いて親しくなった。二年に上がって、一緒に帰るようになって――初夏。彼女が初めて出会った時よりもそっけなくなりだしたのは、そこからだった。

 暗がりの中。他に生徒の姿もない午後六時三○分。

 学園から駅までの十五分の道のりは今まで随分と短く感じて恨んだが、ここ最近ではちょっとだけ、否定したいのだが、長く感じてしまう。

「そういえばさ、さっき図書館でカップルが話してたけど、顔に書いてある――とか、久しぶりに聞く言葉だよね」

 沈黙に耐え切れずに、俺が口走った台詞は、

「……っ!」

 彼女の足を止めさせてしまった。

 ああ、またやってしまった。

 なんてこった。パンナコッタ……なんて言ってる場合じゃなく。

 何かを言わなくちゃ。何かを。

「ひ、人前であんなにイチャつかれたら、こっちが恥ずかしいよねー」

 俺の言葉に、彼女はややあって、勢い良くこくこくと頭を縦に振り乱した。髪が乱れ、その病的な……と言えば少し聴こえの悪い、だけど彼女の特徴を表すならば的確だろう白い肌が垣間見え。

 額に、鼻筋に、そして目の下に、赤く染まるミミズ腫れのような筋が、よく目立っていた。

 彼女は、ペコちゃん人形のように狂ったような首肯を終えた後、足早に俺の元へと歩み――過ぎていく。

 今度動きを止めたのは、俺の方だった。

 鼻先を掠める寒気。すれ違う際に生じた風に乗る衣類の洗剤の薫りが、俺を――脳内で――慟哭させた。

 これまで距離を置いている様子がない事から、彼女に男が出来たとしてもそれは他校の生徒となる。ちくしょう、くそったれな事にまったくもって嫌なことしか思いつかない。

 その男が出来たと仮定し、想像できるのはドメスティックなバイオレンス一択。思わず守りたくなるほどに口数が少なく意思も薄弱そうな外見の彼女は、それを受け入れてしまいそうなきらいにありそうだ。

 ファック、ふざけやがって。

 アメリカンでもメリケンでもヤンキーでもない俺は胸の中で吐き捨てながら、振り返った。

 彼女がまごうことなき独り身でも家庭内暴力が考えられる。

 自傷行為さえも視野に入れられるが、そこだけはあまり考えたくはなかった。

「茅ヶ崎さん!」

 手を伸ばす。

 俺が掴んだのは虚空だった。

 腕が薙ぎ払った空間ににわかな風が巻き起こり、数歩先へ進んだ線の薄い女の子は、驚いたように肩を弾ませて足を止める。恐る恐る振り返る様子は――くそったれ、超かわいい!

 呼び止めて。

 彼女が振り返って。

 揺れる、柔らかな黒髪から見える瞳が、視線が交差して。

 俺の思考が停止した。

 チキンで小心者で常識人な俺は、彼女が好む小説の主人公のように突飛でイケメンで鋭く核心をつく、たった数日でヒロインとの距離を縮めてしまうような男ではない。

 だからここで、たった一度だけ、見間違いかもしれないソレについて深く訊くことはできなかった。

 俺個人が踏み入って良い領域ではないように思えた。

 触れられたくないからこそ、俺にまでそれを隠していたんじゃないのか。

 そう、だからもう少しだけ、時間を置こう。

 今日こうして不自然な態度を見せたことで、彼女は俺が勘付いたかもしれないと察するかもしれない。

 察した結果、隠しきれぬと自分から打ち明けてくれるかもしれない。

 相談してくれるかもしれない。

 それがきっかけで、同級生という窮屈な、いつか脱皮したい枠からもっと特別な関係へと昇華できるかもしれない。

 だから、俺は少し黙して、

「そ、その顔……、どうしたの?」

 だけどそんなくそったれな、能動的な俺という殻こそ破りたかったのだと、思わず口走った後に付け加えて自分を納得させる。もっとも、出来るわけもないんだけど。

 その直後、突如として俺にだけ襲いかかった寒波が、シベリアに吹く北風のような激しい雪風を俺に浴びせる。周囲の大気ごと氷結させて相手は死にそうな、俺にだけしか感じられない寒気を覚えたのにも関わらず、俺の額からは脂汗がどばっと溢れていた。

 冷えた肌の表面を包むように汗が吹き出る。

 やっちまったという後悔の念と、もうどうにでもなれファックどうせ俺は空気も読めない男だちくしょうという開き直りに挟まれた理性が、俺の精神から現実感だけを削ぎとっていた。


「見たの、ですか?」


 彼女の言葉が返されたのはそれから五秒ほどの事だったが、体感的にはすでに数日が経過していた。

 風が汗を拭い去り、肌がにわかに塩をふく。それと共に身体の水分が乾いてしまったのか、からからの口から飲み下せるツバがなくなった俺は、ただ息を呑んだ。

 こっくりと頷く。首がバネで出来たように、顔はまた前を向いた。

 見えてしまったというのが正しいが、もはや言い訳はすまい。少しでも己を貫いたという事実が、今後の俺を慰めてくれることを祈ろう。

「わたしの、顔に……、何が、書いてありました?」

「……何が、って?」

「え? あの、か、顔、に……顔を、見たんですよね?」

 誰がどう見ても狼狽している彼女は、言葉を選びなおすように咳払いをして、うー、と小さく唸る。

 顔が真っ赤に染まっているだろう彼女を思い浮かべて頬が緩む俺には、圧倒的に緊張感が足りなかった。

 彼女も彼女で、良くわからないが落ち着きが足りなさそうだった。

「顔に、何がありました?」

「だから、その――ミミズ腫れが……。痛そうだったから……触れちゃいけないと思ってたんだけど、何か悪い事とか、困ったことがあったら、その、話して欲しいと思って、さ」

 頬が熱くなる。蒸気が噴出するような熱を覚えながら、俺は短く息を吐く。

 出すぎた真似だ。

 俺が第三者なら横っ腹にドロップキックをかまして、気にするなと彼女に告げてからクールに去るぜ。

 しかし、なんにしろ。

 彼女は安堵したように胸をなでおろし、大きく息を吐いていた。

「ごめんなさい」

 と、彼女は始めにそう言って、

「ずっと黙ってて、ごめんなさい」

 うつむいた顔は、上肢ごと深く下げられた。

 俺は呆然と彼女を見つめながら、襟元のホックの開閉作業に没頭していた。


 彼女に異変があったのは、インフルエンザにも似た症状の風邪に冒されてから三日目のことだったらしい。

 持ち上げられた前髪。朱に染まる顔がどこか色っぽい、まだ幼さの抜けない少女の額に『恥ずかしい』の文字が”浮かんでいた”。

 ミミズ腫れの筋が、文字を構成していた。

 ――訳がわからない。いじめか何かか。だとしたら、『メ○豚』とか『肉○器』だとか書きかけの”正”の字だとかを書くものだと、ちょっと大人な書物で覚えた俺は不審に思った。しかしあれは行き過ぎなため、現実ではこうなのだろうか。

 ふつふつと怒りが湧いてくる。

 こんな事をしてくれた野郎か女の子に詰め寄って構わず血の惨劇を実行したい衝動に駆られながらも、俺は鼻息を荒くすることしか出来なかった。

 『興奮してる』と。

 俺が一瞬だけ目を離した隙に、額の文字が変わる。継いで、『変態だ』と左の頬から鼻筋を通って右頬へと文字が”浮かび上がって”きた。

「なっ……?」

 心臓が殴り飛ばされたかのように跳ね上がる。

「変な病気に、かかっちゃったみたいで」

 と彼女が言った。

「顔に、気持ちが浮かび上がるように、なっちゃったんです」

 熟したリンゴのように顔を真赤にした彼女は、それからまた前髪を下ろした。最後に見えた大きな瞳は、まぶたに溢れんばかりに大粒の涙を浮かばせていた。

 『嫌われちゃったかな』と文字が変異したのを、俺はその最後を見逃さなかった。

 馬鹿野郎と言ってやりたかった。

「ばかやろう!」

 言ってしまった。

 でも女の子に野郎というのは語弊だろう。咄嗟に他の言葉がわからないから、勢いで乗り切ろう。

「そんな――」

 事、と言い切ってしまうのは、この子との重大性を理解できていない俺が言うにはあまりにも無神経過ぎる。

 言葉を選べ俺、ファッキンなノリでここを台無しにする訳にはいかない。だが結局、勢いで呼び止めた事で状況が好転したんだ。

 アホったれ、当り障りのない言葉でどうする。

 彼女が意を決して告げてくれた事実に、シールドのかかった言葉で返してどうするつもりだ。

「俺は気にしない。茅ヶ崎さんがあの時二週間も学校を休むほど困ってたことで、俺はその悩みを共有することをしても、君を嫌いになったりなんかしない」

 だから、というのもおかしいが。

 好きだ、付き合ってくれ。

 初めて出会ってから三桁以上、シチュエーション込みでイメトレした言葉を、俺はまた飲み込んだ。

 ややあって、彼女は大きく歩を進める。

 五歩の距離が三歩ほどになり、やがて二歩、一歩。

 髪の隙から赤く血走った瞳が見える。涙は既に、頬を伝っていた。

 彼女のしなやかな指がゆっくりと、眼前で長い髪をかき分ける。赤く滲むミミズ腫れが、『ありがとう』と言葉を紡いでいた。

 『ありがとう』から『嬉しい』。

 『嬉しい』から『あなたに言えて良かった』

 『もうダメ、これ以上は――』

 その下は、マスクによって隠されて読む事が出来なかった。

 『あなたのことが、ずっと――』

 『なんて、言えてれば私は――』

 俺を試しているのか、次々に現れる言葉の数々はどうにも現実味を削ぎ落したものだった。

 だけど、臨場感だけはあって、この息がかかる程の距離で目の当たりにする告白に、俺は全身の血流を一箇所に集中させてしまう。

 頬が赤くなる。

 蒸気どころか、一帯を真夏日にさせる程の熱が顔を襲っていた。

 そんな俺を見て、自分の失態に気づいたのだろう。彼女は驚いたように目を見開いてから手を離し、再び挑発で顔を隠す。


 ――卑怯だと思った。

 こんな事を不覚にも見せてしまう彼女もそうだが、なによりも俺が今正に口走ろうとしていることのタイミングも、最低に違いない。

 相手の気持ちがわかっていて、だからこそ確実にソレが成功するような状況。

 それを利用とする、そして普段では当たり障りのない一学生である俺のどこに惹かれる要素があるのか知れない。正直俺が彼女だったら、良い友人ではあろうと自負しても決して男と女として恋愛したくはない。


「茅ヶ崎さん」


 また顔を隠す彼女は、ようやくまた隣で歩き出したその足を、再び止める。

 顔を向ければ髪が乱れ、その隙間から『元通りなのかな』と見えた。もう隠すつもりもないのだろう、無防備なその顔に、俺は首を振る。

「もっと、先に進んでみよう」

 俺はちょっと悪戯に、正確に言えばちょっといやらしく笑ってみせた。

「……どういうことですか?」

「好きだ、付き合ってくれ」

 その瞬間、俺は三桁に及ぶイメトレに呪縛から解放され。

 彼女はまた、驚いたように肩を弾ませた。

 また肌を撫でる冷気は、されど俺の火照る顔から熱を拭い去ってはくれないし、にじみ出る汗はそのままそっとしておいてくれる。

 茅ヶ崎さんはそれから、ゆっくりと髪を掻きあげて、またマスクを脱ぎ捨てた。

 額には『はい』という返事が浮かび、

「こちらこそ、よろしくおねがいします」

 ややあって、彼女はまぶたから一筋の涙の軌跡を見せた。

 二つの返答が重なったその時、俺は心臓が爆発したかのような錯覚を覚えた。

 思わず抱きしめたくなった。

 唇を重ねたいとも思った。

 もう一回、成功したからこそ自信のついた言葉を繰り返したいとも思った。

 脳みそが沸騰する。

 間抜けなまでに半開きになった口から、興奮のせいで溢れだしたよだれが零れそうになった。

「わたしも、ずっとあなたの事が好きでした」

 間を開けてから、彼女からの告白が開始する。これまでの思いがあったのだろう、ゆっくりと、感情を込めるような言葉のひとつひとつが、俺の身体に染み入ってくる。

 しかし、それとは対照的に――。

 『わたしは卑怯者だ』と額に続く言葉は、読み終える暇もなく入れ替わる。

 『自分でわざと気持ちを見せて、彼の背中を押すなんて』

 口では言えぬ本心を顔に書いて見せる彼女は、どう否定的に見ても卑怯なんかじゃなかった。

 ファッキン、どうしようかこの気持ち。

 どうにかして否定して、またそれより、今よりもっと上の、楽しく嬉しく喜ばしい感情にしてやりたい。

「ずっと、ずっと……好き、でした。今は、もっと好きに、なりました」

 『キスしたいって、言ったら』

 『えっちだと思われるかな』『軽い女だと、思われるかな』

「そんなこと無いよ」

「え?」

 彼女はまた驚いたように俺を見て、その顔が近づいてくるのを見て、目を見開いた。

 熱が頬で感じられる距離から、さらに頬と頬が触れ合う距離に。

 ふっからで、やわらかな唇がかぴかぴに乾いた唇にぶつかった。口唇に、マシュマロのような柔さが触れる。ただそれだけで、俺の理性が吹っ飛んで――。

 本能が、彼女から顔を引き剥がしていた。

 くそったれ、何をしやがるコンチクショウと思う一方で、理性は手放しでよくやったと褒めている。まるで多重人格さながらだが、俺の理性と本能は紙一重であるのを、俺はよく知っていた。

 『嬉しい……すごく、嬉しい。わたしの初めてを……』そんな文字が浮かび、

「あ、あの……」

 『なんで、どうして?』と額の文字が訊く。

 口が開き、それが言葉になるよりも早く、俺は答えを口にした。

「顔に書いてあるからだよ」

 俺は爽やかな笑顔を見せて、彼女の額を小突いてみせた。


 二人の帰路は駅前で終える。

 俺は電車通学で、彼女はここから十分の徒歩通学。

 ちらちらと俺の顔を伺っていた彼女は、駅前で対面してから、さっきよりもずっともじもじ、トイレを我慢している子供のように困った顔で、『言うまいか、言うべきか』と額で告げていた。 

「なに? 言ってよ」

 俺が促せば、彼女はまた、うー、と唸ってから、『実は』と浮かべる。

「わたし、”見せる”だけじゃなくて――”見える”ん、ですよね……」

「……どういうこと?」

 『簡単に言えば』と、浮かぶと同時に真っ赤な顔は、緩んで笑んだ。

「あの……”A”が済んだから”C”っていうのは、ちょっと早いかなって、思うんですけど……」

 見せるだけではなく、見える。

 つまり、俺の考えていることも、今までずっと彼女には浮かんで見えていたという事なのだろう。

 初夏から九月末の今まで、およそ四ヶ月ほどの期間。

 えっちなことも、スケベなことも、いやらしいこともその全部が。

 三桁の一部である、あのイメトレ込みの言葉が。

「あの」

 呆然とする俺の顔を覗き込むようにして、上目遣いで実にあざといアングルから彼女が言う。

「わたしのウィッグ、貸しましょうか?」

 ファッキン。

 どうやら俺は、彼女の奇病を治すよりも、彼女と一秒でも長く同じ時間を過ごすよりもまず、髪を伸ばさなければならなくなったようだ。

「もう、口が悪いですよ」

 ちくしょう、泣きたくなってきた。

「どうして分かるんだ?」

 一応訊いてみる。

 彼女は軽く背伸びをしてから、そのしなやかな指で俺の額を小突いてみせた。

「顔に書いてありますから」

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