2─3 sideラジア
ありえないことをしたとベッドの上で後悔をしていた。
朝日がやたらと眩しい。
隣を見やれば、見事な銀髪が煌めいている。
閉じた瞼は長い睫毛に縁取られ、それは精巧な人形のように美しかった。
穢してしまった気になって、すぐに視線を逸らす。
そんな自分にまた、嫌になった。
起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
スプリングが軋み、小さく音を立てた。
「あ」
小さく声を漏らし、何も着ていないことが、何とも情けなく思えた。
バスローブを羽織って、無駄に大きな窓際へと足を運ぶ。
カーテンを締め忘れた窓を開け、椅子に腰掛け煙草に火を点けた。
「……はあ」
溜め息が出る。
白い煙はゆらゆらと、行く先もなく消えて行った。
ああ、あたしみたいだ。
そんなことを思った。
行く先もなく、ただ、ゆらゆらと。
永い時を彷徨って。
「くだらない」
あの時、あたしも消えてしまえばよかったのに。
あの、朱い月の夜に。
「……くだらないな」
そんな思考自体、くだらない。
どうせ死ねはしない。
他人に殺られるなんて、あたしは御免だ。
あたしの人生はあたしで幕を引く。
あの時から、そう決めているのだから。
「……んー……」
「起きたか」
後ろのベッドでリザが軽く唸る。
振り向くことなくあたしは呟きを零して、一吐きした煙に、少しだけ目を細めた。
「……おはよう、ラジアちゃん……」
のそのそとリザが起き上がる。
眠そうに瞼をこすりながら隣まで来ると、床に座ってあたしの膝に頭を乗せた。
煙草をふかしながら、その銀髪を軽く撫でてやる。
「昨日は、ごめんな」
リザはにこっと笑っただけだった。
多分、わかっているのだ。
「俺、優しく出来てた?」
「……優しかったよ」
優しかった。
痛いくらいに、優しかった。
だから切なかった。
あたしに向ける瞳が。
あたしに触れる手が。
あたしに触れる唇が。
応えられない、その想いが。
痛いくらいに優しくて、様々な感覚に溺れては、ふとした一瞬に、泣きたくなるほどに。
「……ごめんな」
あたしは謝るしか出来ない。
どんなにそれが狡いことでも、それがまたリザを傷つけるだけであろうと。
感傷を紛らわすために、リザの気持ちを利用したのはあたしなのだから。
「ううん、いいよ。わかってるから」
気持ちよさそうに目を閉じて、リザはあたしの腰に手を回した。
「……いつか、」
「うん?」
聞こえなかった。
顔を寄せて、その端正な顔を見つめる。
「……何でもない」
「……そう」
聞かない方がいいのかもしれない。
そんな気が、した。
窓の外を眺めれば、微かな風が煙を攫う。
あたしの頬を掠めて行く。
少しだけ、
「……リザに救われたんだよ」
そう、少しだけ。
軽く額に口づけて、あたしはリザに微笑んだ。
ルシアの家で出された朝飯も早々に済ませ、あたし達は街に出た。
気を遣って出してくれたというより、あの朝食の場はあたしに対する嫌がらせとしか思えなかったから……というのが大いにあるが。
あいつの気に食わない顔を見てられなかったし、何はともあれ、情報が必要だった。
「何で気づかなかったかなーあたし」
溜め息混じりに呟いて、辺りを見回した。
――ラグト国中央都市ハシルス。
東にジラート荒野、南にメメンテ砂漠、北にエンデ山脈を持つこの国は、中央から北に掛けて発展しており、その地域に王族や貴族が密集して住んでいる。
ルシアがいる街だとわかっていたら、絶対来なかった。
しかしながら、あたしは地名を覚えることが苦手だ。
この国のことでさえ、たった今思い出したばかりで、いつか滅びるだろう国をわざわざ覚えようという気がない。
「何年ぶりくらいなの?」
「んー……百五十年くらい?」
リザがあからさまに驚くので、何とも言えない気持ちになった。
「……聞いたことなかったけど、ラジアちゃんて何年生きてるの?」
『何歳なの』と聞かなかったのは、リザなりの配慮だろうか。
結局は同じなのだが。
「……忘れた」
忘れたよ。
百五十年前のことも、ようやく思い出したのに。
少なくとも、その頃ルシアは、この国の王都専属魔術師だったことは確かだが。
「そっかー。まあ、それだけ経ってたらわかんないよ。街並み、変わったんじゃないのかな」
リザの言葉に、あたしは納得した。
そうか、変わったのか。
ルシアも、街並みでさえ、変わって行くのか。
あたしを置いて。
あたしだけが変われないような。
「俺は変わらないよ」
「え?」
「変わらないから」
にこっと笑って、そのままリザは前を向いた。
リザは時々、ものすごく鋭い。
見透かされたようで、ぎくりとした。
変わらないはずない。
変わらないものなんてない。
リザは歳を取って行く。
その内誰かと結ばれて、子を残して、老い、土に還って行く。
それはあたしより早く、あたしより確実に。
「リザはもう一人前?」
「ラジアちゃんは、何て答えて欲しい?」
「……何て、か」
自分で聞いたくせに曖昧な返答をして、あたしは苦笑する。
リザはただ、笑っていた。
ふいに一陣、風が吹く。
ほんの数センチにも満たないあたしとリザの間を、掠めて、通り過ぎた。
そうか。
そうだった。
これが、あたし達の距離だった。
曖昧に濁したその先なんて、最初から、わかっていたのに。
賑やかな街の喧騒が、あたしの気持ちを攫っていった。
「ねえ、どこ行くの?」
はっと我に返って、勢い良くリザを見る。
何を今さらなことに感傷的になっていたのだろう。
「どうしたの?」
「……いや、何でもないよ」
何て聞かれたっけ……まるで聞いていなかった。
「どこ、行くの?」
そう、それだった。
「昔からの馴染みに」
「男?」
リザが嫌そうな顔をしたので、ルシアの時を思い浮かべて苦笑する。
相当あいつはお気に召さなかったらしい。
それはそうだ。
あたしだって、あいつは気に入らない。
「女だよ」
目に見えて安堵したリザに、あたしはまた、笑った。
少しばかり遠いので、魔術の短縮詠唱をしてぱちんと指を鳴らす。
次の瞬間、目の前の景色はがらりと変わった。
「すごい、転移術?」
「そう。あんたと二人なら大したことないしね」
これが詠唱なしで大人数なら、あたしは間違いなく倒れているだろうが。
「どれくらい離れてたの?」
「だいたい街三つ四つくらいじゃない?ここはラグトの東端、ワーカー街だった……かな」
ハシルスの如何にも中央都市的な小綺麗豪奢な屋敷達は見当たらず、大通りには色とりどりなテントが市場を彩り賑やかだ。
ジラート荒野とメメンテ砂漠に隣接する街だけあって、乾いた空気の中、土気色のレンガ造りの家が目立つ。
あたしの記憶が確かなら、目的地は裏通り。
朝だというのにそこは、やたらと薄暗かった。
くたびれた赤茶の看板に寂れた扉は、勢い良く開けたらそのまま外れそうだ。
扉にはまた呪が掛けてある。
この国は意外と物騒なのだろうか。
バチバチッと音を立てて、あたしは扉を開けた。
「無理矢理はお止しよ」
真夜中かと思わせる深い闇の奥から、声がした。
あたしは掌に灯りを出現させ、気にせず奥へと向かう。
その後を目を細めながらリザが付いて来た。
「久しぶりね、ビーチェ」
声の主の元まで行き、あたしは笑顔で、そう言う。
「……老けた?」
首を傾げ、ビーチェを覗き込む。
暫く見なかった彼女の目尻には、だいぶ皺が増えたように思えた。
「失礼な。あたしはあんた程 魔力がないんだよ」
「……お婆さん?」
暗がりに目が慣れたのか、リザはあたしの横に立ちビーチェを眺めた。
その顔はきょとんとしている。
「ふうん、これが噂のあんたの連れかい」
だから何なの、その噂。
あからさまに顔をしかめたあたしを気にせず、ビーチェはリザに問い掛ける。
「名前は?」
「あ、リザです。リザ・レストル。ラジアちゃんが付けてくれたの」
「そうかい、いい名前だ。あたしはビーチェ・カザリ。よろしくね、リザ」
名前を誉められたのが嬉しかったのか、リザはすこぶるいい笑顔で応えた。
「じゃ、必要事項をぱぱっと教えて。あ、簡潔にね」
ビーチェの前の小さな椅子に腰掛け、あたしは煙草をくわえる。
「用件も言わないのかい」
「あたしが来ることも、用件も、貴女はわかっていたはずよ」
「まあねえ」
にやりと笑んだビーチェを横目で見やり、火を点ける。
引き出しからやたら大きな水晶を出すと、ビーチェは卓上の布の上にゆっくりとそれを置いた。
リザは黙って、興味深そうにそれを見ている。
随分ゆっくりと時間が流れた気がする。
あたしは煙草をふかしながら、リザはわくわくと水晶を見つめながら。
ビーチェの伏せられたその目が開くのを、ただ、待っていた。
何度目かの煙を吐いた時、その目が静かに開かるのを見留めた。
「灰を落とすんじゃないよ」
「綺麗にしてくわ」
ぱちんと指を鳴らせば、煙草も灰も一瞬で消え失せる。
多分、近くの灰皿へとでも移動しただろう。
「詠唱もなしかい」
「当たり前でしょ。あたしを誰だと思ってんの」
「流石はラジア・ゼルダ。その名を伝説にするだけあるよ」
「で?」
さっさと先を促す。
あたしが聞きたいのは、どうでもいい伝説云々じゃない。
「見てみな」
ビーチェが水晶を指差す。
そこには、金髪紫瞳の女の子が映っていた。
年の頃は十七、八。
その顔立ちに、あたしは何となく見覚えがあった。
「んー?」
眉根をひそめて、ぐぐっと水晶に寄る。
何だったろう。
誰だったろう。
あたしは、知っている。
「……あ」
あたしと同じく考えていたらしいリザが、先に声を上げた。
あたしはまだわからず、首を捻ったまま、リザを見ている。
「……この人って、例のお姫様?」
「そうだよ、ルシアの目的さ」
そんなことはわかっている。
リザとビーチェのやりとりを眺めながら、舌打ちをした。
そうじゃなくて。
苛々と眉根を寄せたあたしを、リザがじっと見つめる。
何故か、複雑な表情を浮かべて。
「ラジアちゃん……わからないの?」
「え?」
わかりそうでわからない。
少なくとも、この姫君と面識はないはずだ。
なのに、知っている気がするのは何故だろうか。
喉まで出掛かって、ひっついてしまった感じに似ている。
やっぱり考えてもわからなくて、早く言えと、視線で訴えた。
「……このお姫様、ラジアちゃんに似てるんだよ……」
目を伏せて、リザは一言、そう呟いた。
その意味を計り兼ねて、水晶に視線を戻す。
「名前をアリア・リタリナ・ラグトリア。ラグト国第一姫君だ。目的は……言わなくてもわかるね」
アリア・リタリナ・ラグトリア。
この子がルシアの欲しがる『玩具』。
言わなくてもわかる……?
ビーチェの言葉が、暗闇に静かに響いた。