Witch of Gloden.5 sideディディウス
──いつからだったか……そう、記憶にないほど遥か昔から、私は存在していた。
老いていく体、惨めになっていく容姿、醜くなっていく精神……全てが私を蝕んでいくのを日に日に実感していたことさえ昔のことのように思う。
今はただ、研究に没頭するのみだった。
私には援助者が付き、同時、それは次なる『私』となる者でもあった。
心が踊るとはこのことだと、彼の者と出会った時をそう記憶している。
私が生きてきた全ては彼を手に入れるためなのだと、実感し涙した瞬間でもあった。
そんなある日、私の館に誰ぞ訪ねる者がいた。
「わたし、あの……ブライト・ワルゲルツと言います」
気紛れにもてなし茶を勧めたなら、おどおどとしながらも少女はそう名乗った。
研究の完成は目前で、私は浮かれていたのかもしれない。
客を招き入れること自体、彼の者以外は始めてのことだった。
「何のご用で?」
嗄れた声が耳障りだなと、そんなことを思った。
少女は裏魔術師なのだと語った。
そして、どこをどう聞きつけたのか、私がしていた研究のことも大まかに知っていた。
「ディディウス様の名は一部の『裏』では有名なんです。……前の大戦の際、あ、ある国に合成獣を譲ったとか、聞いて……」
合成獣など研究の副産物に過ぎなかったのでどこぞにくれてやったことがあったが、戦に使われていたとは知らなかった。
それより、私の名が少なからず知れていることの方がタチが悪い。
ブライトと名乗った少女にはいくつかの傷痕が見受けられた。
前の大戦──そうか、その国から参加したのだな。
そこで噂を聞きつけたのだろう。
探るような視線に気づいたのか、ブライトは慌てて訂正した。
「い、一部って言っても本当に一部って言うか!あ、あの、ああもう、そうじゃなくてっ、……その、上官はもう、戦死してるので、大丈夫って言うか……」
「そのことを知っているのは貴女だけだと」
「そ、そう!です!た、たぶん……」
どれほど生きているのかは知らないが、見掛け通り、大した頭は持っていないようだった。
本来の問題はそんなことではなく、現在、私がここにいることを知っているという事実だ。
現にブライトは『私』を訪ねて来ており、ここで茶を啜っている。
殺すのは簡単だが、理由を知りたいと思った。
「何故私がその『ディディウス』であると?」
そう、私はここまで一度として名乗ってはいない。
思い違いだとブライトが帰って行けばそれでよし。
正直、ブライトは優秀な裏魔術師には見えなかった。
正式にどこぞで専属として雇ってもらえずに裏稼業を営んでいると言った風情がある。
宙を彷徨った視線が一回りして、伺うように私に戻った。
このとき初めて、彼女の瞳が光の加減で虹彩を浮かべる珍しい紫色なのだと知った。
「じ、実はわたし……いわゆる脱走兵?みたいな奴で、して……逃げてる途中に、結界を見つけたんです……あっ、たまたまですよ!?」
「たまたま?」
「あっ、はい。あの、エンデ山脈側の西の……綻び?みたいなとこを……見つけて」
しどろもどろに落ち着かない虹彩に、なるほどとようやく得心する。
ブライトは私の視線など気にも留めず、つらつらと喋り続けていた。
「何でこんなとこに結界?って……思ってたら、その、ディディウス様が……結界に入ってくのが、み、見え、て……」
ついて来た、と。
あまりに行き当たりばったりなブライトに、久しぶりの溜め息が口を突いていた。
「『ディディウス』自身を見たことは?」
「え?な、ないです」
「……では、それは私が『彼』である理由にはならないですね」
全くもって問い掛けと懸け離れた話をする。
ことりとカップを置いた私に、焦るようにブライトは畳み掛けた。
「で、でもっ、あの、貴方にはあの時の合成獣の魔力の欠片がついていた!……あ、ま、した……」
虹彩が鮮やかに輝く。
私の左肩を射抜くように。
「──『邪眼』持ちですか」
「あの……よくそれ言われるんですが……何のこと、ですか……?」
ブライト・ワルゲルツは、本当の無知であった。
何故か、と問われたなら気紛れとしか言いようがない。
あれから、まるで当然のようにブライトは我が館に住み始めた。
何も言わなかった私にも非はある。
しかしながら、あり得ないほどの図太い神経をした彼女にも間違いなく非はあろう。
年の頃十七歳程度の容姿をしたブライトの癖のある猫毛の黒髪が、ちょこまかとした身動きに合わせてふわふわと揺れる。
女は長髪を好むと聞いていたが、彼女のそれは潔いほどの短髪であった。
一度尋ねてみたなら、金に困って売ったのだと言う。
「何でも取っておくもんですねえ……もしかしたら、爪も、伸ばせば売れる……とか……?」
何を馬鹿なと、思わず笑ってしまった。
そうして何度かこんなやりとりが日常に溶け込みつつあったとき、ふと気づいたのだ。
私が笑うたび、ブライトの虹彩が、光を帯びて鮮やかになることを。
──何年ほど経ったか。
私とブライトの奇妙な共同生活は、至極当然のものになっていた。
彼女が何を思考していたかは図りかねるが、私の研究の助手などもするまでになっていた。
一度、援助者が訪ねて来た際、ちらとその朱い瞳が彼女を捉えたが、特に何を言うでもなく帰宅して行った。
大方、用済みとなれば斬って捨てるとでも思ったのだろう。
斬って捨てる、か。
ふと、何故今まで、それを思考しなかったのかと不思議になる。
最初は確かに考えていたはずだ。
何故、当然のように傍にいる?
何故、当然のように傍に置いている?
何故、当然のように助手をしている?
させている?
「ディディウス様あ、お茶が入りましたあ」
研究室のドアを当然のように開け、忌まわしいもので埋め尽くされた歪な空間をものともせず、ただ無邪気に、無知なままで真っ直ぐ私を捉える虹彩がにこやかに弧を描く。
「……今行きます」
邪眼に囚われてしまったか。
そんなはずは私に限ってもちろんなく、ただ、ここ数年無意識に感じていた何かに気づいてしまったのだと、ただ、困惑していた。
彼女は無知だった。
それは天性の魔性であり、故に、邪眼という特殊能力を与えられたのか。
この時点では、答えは出なかった。
ある日、食料調達にブライトをパピロの町に行かせた。
特別足りていないわけではなかったが、何となく、年相応のことをさせてやりたいと思った。
彼女が言うに、容姿年齢と実年齢はそう違わないらしい。
エンデ山脈方面から回るには遠かろうと、彼女のために、わざわざ町の外れの方に結界の歪みまで作ってやったのだ。
「私としたことが、本当に珍しいこともあるものです」
一人呟いて、ふとフラスコに映った老人の顔は、確かに笑みを浮かべていた。
それからというもの、ブライトはやたらと町に行きたがった。
まともに買い物も町中見物もしたことのない彼女にとって、それはさも楽しいことだったのだろう。
あんな寂れた辺境の町に私が思うのは、その程度のことだった。
小遣いまで渡し、ただ、自己満足に浸っていた。
「ディディウス様……わ、わたし、す……」
「す?」
さらに数ヶ月経ったある晩、二人で食卓を囲っていれば、ブライトが指を擦り合わせながらもじもじと口を開いた。
「……すきな人が……出来まし、たっ!」
耳まで真っ赤に染め上げた彼女に、時が止まったのは、何故だったのか。
何をどう話したのか覚えていない。
それでも概要はしっかり理解しているのだから、もうろくしてはいないらしい。
ブライトはパピロの町でヘンゼリーと言う青年と仲良くなったらしく、顔を合わせている内に恋慕に発展したらしい。
何だったか……ああ、確か食料品店の息子だったと言っていた。
優しいだの格好いいだのと言っていた気もするが、盲目となった彼女の戯れ言だ、真偽は定かではない。
「……そうですか」
「ディ……ディディウス……様……?」
果たして彼女の邪眼には何が映っていたのか。
グラスに映った私は、ただ、昔のような笑みを浮かべていた。